第36話 評価者とランキング

 ランキングが不味いのは私にも分かる。ただ最大の問題は全部読むの?って話し。まずこれを不可能とする事からスタートだと思う。すべて見た評価ではないってのが評価者の前提となる。幾つかピックアップして複数で話し合ってそれをなんとかつじつま合わせるのが良いかと思う。例えばABCDって作品を序列化したとして、ある人はDAEOになったとして自分が良いと思ったDが最低ランク?こういうのを話していけば良いかと。もうEとかOではごちゃごちゃ言わない。最終的に削りに削った候補で話し合いでまとまらない時仕方なく多数決って結論になる。出来る限り多数決は避ける。結局多数決はランキングの少人数版でランキングの問題って点で本質的に違いが無いから。私がランキングの問題で劣った評価者が混じるって話しだけど。あれは絶対的な問題であってあれですべて解決じゃない。そもそも多数決って論理的じゃない。ランキングってのは根本にそれがある。ただ結論と言うのはどこかで論理を超えた部分があってもよい。決断と論理的判断は違うから。


 ランキングの根本って民主主義じゃないかな?と考えてます。これを評価として当たり前に受け入れるって問題だと思っています。一番の目的は良い作品じゃなくて面白い作品を求める指標だと思います。例え芸術的観点があるアカデミー賞でもそうでしょう。これも最近アカデミー賞の興行成績の乖離ってのが言われています。文芸、映像芸術のきわみの様な部分。っていっても映画オタク向けカンヌよりは一般性高いのですけど。というか何故今更って思います。昔からアカデミー賞は意識高い映画エリートの選んだ作品なのは確かです。最近の若者は??分からないですけどね。世界って事もあるから日本だけの話じゃないから。そもそもアメリカは小説文化が庶民レベルで浸透してないと聞いています。私はこれもあるんですよ。世界のスタンダートに日本が近づいてる。それを止めていたのが漫画物語だった可能性があると見てるわけです。欧州では浸透する漫画もアメリカでは全然成功しない。それはアニメのヒットと漫画のヒットが比例し無いから。物語の読書習慣がアメリカ人には少ない。漫画も見るものじゃなくて読むものと分類されるからです。日本人が漫画とアニメをそうやって極端に分けることは無いでしょう。それは慣れなんですよ。


 読む事を文化として維持するのがどれほど大変か?これで少しはと思って書いています。普通に生活していたら先進国レベルの生活でも、先進国ゆえの映像作品が豊富だというのがあると思いますけど、本なんて読みたがらない。当たり前だと思ってる事が実際は日本がおかしい。漫画の話しで良く聞く欧州は具体的な数字とかは知りませんけどね。国ごとに漫画の浸透も違うと思うから。クールジャパンの関係でアニメが以前ほどじゃないのを調べていて漫画はそもそも売れてないって話です。


 本読みからしたら、びっくりするほどハードルを下げないと多分読まない。


 私が若者を重視してるのは客観的視点だけじゃないです。なろうと差別化するのに中年が形成したなろうと若者が作るカクヨムなら当然システムが同じでも全く変わると見てるからです。電子書籍の漫画の圧倒的割合の高さから導いてますが、その割合で若者か?は数字は知らないです。何かの記事で若者って言葉があったのでそれを信用しただけです。ネットで漫画を読む慣れがあるならその延長でいけるんじゃないか?って憶測です。読書習慣を文化として定着させる困難さを知って、若者に合わせてるわけじゃなくて、若者に面倒なのがすげー分かるけど一緒に付き合ってよってお願いしてる立場で思っています。


 ランキングの話しに戻します。多数決の常識。これ科学的知識がこれで決められたらどう思いますか?例え3人まで絞って2,1でもそれはもうランキングの本質と同じです。決めるための方法であって何か真偽を問うための方法じゃ無いです。根本的にずれてるんですよ。面白さの指標として目の肥えた評価者の評価が一般人は当てにならないから自分達の多数決であるランキングにすがってるだけだと思います。それがいつのまにかまるで一般人代表の様な評価として権威を持ってしまったと。根本的にはランキングは作品評価として不味いと思っています。ただ私は自称でも他称でも目の肥えた評価者集団の評価の問題を知ってるので。作品の審美眼が上がれば到達できる面白さであって、その訓練素養の無いものが同じ面白さになるわけが無い。もちろんこれ大げさ。ただ言いたいのは、そういった評価を今自分の稚拙な状態を水準にした面白さの参考にしたら駄目って話し。


 この2つは互いに良い面があるので分離して作れないか?と思っています。個人個人の評価者じゃ駄目です。個人の好みの評価にしかならないから。ならそれはランキングに近くなるのではないか?だからすり合わせの方法がランキングはあかんと書いています。多数決は決断のための方法論で、真偽を決めるものじゃないにつきます。だから最後に決を採るのは仕方ない。最初から決を取る目的でやるランキングは話になら無いです。知的な結論ではない。今カドカワが考えてるのは個人の評価者にたよる方法ですが、多分好みのばらつきでうんざりしてつまらん結果にしかならないと思います。私はアカデミー賞方式が良いと思っています。アカデミー賞の問題はその決定過程が秘密裏にされてる点で映画関係者の出来レースなどのインチキがあるのじゃないか?とかの疑いです。そこを公然とやる場を設けてとなります。後大事なのは間違ってもこういった評価がランキングより上って考えを創らない事。根本的に目的が違うから。


 本当に素晴らしいと思うものは素晴らしいと思ったものを超えた作品が現れた時だから。それが目が肥えると言う事に繋がっていくから。その深い感動をランキングから得られると思えない。もちろんすべての作品をライト層向けにするって意図ならこんなもの邪魔なだけです。もしかしたらカドカワの戦略的失敗があったのかもしれません。多くの失敗するケースであれもこれも詰め込んでそのすべてが打ち消しあって潰しあって駄目になるケースです。おそらく主軸であるライト向け一本にしてそれを上手く伝えればよかったと思います。ジャンルはなろうでもあるので特に問題じゃないです。問題はそのジャンルわけの作者の判断がカクヨムはゴミ過ぎる…。


 私は文芸を守りたいって思いよりも優れた評価者による作品の選出って流れを守りたいんだと思う。その点書き手じゃなくて受け手の方かな?と。多分それが良く分かってなかったらあっちいったりこっちいったりな軸のブレがあったんだと思う。後は、漫画物語の芸術性の追及と娯楽性の狭間でどっちが良いのか?娯楽性と結論を出してるのにグダグダと芸術性について言い訳してしまってる点だと思う。リアリズムってのは世界のルールであって、なんでもありは逆に作りにくい。これかなり難しい問題でそもそも物語の根幹に位置して、そこからリアリズムの話が出てくる。だからリアリズムより土台の話になってくる。基本ラノベってそういうの手抜きが多い。漫画が絵でやってるのを絵無しで物語にしてしまうからおかしな所がわんさかある。絵の説得力を無視してる。その辺り限界に来てるのがラノベバトルがつまらん点。


 よりによってつまらんのにラノベバトルって発展してしまって何故か皆使いたがる。あげくのはてに文字のためのバトルに特化した部分が出てくる。アニメ化して誤魔化せるか?と言うと、まず第一に監督による。次に土台が腐ってるからアニメでごまかしようが無い。私の絵によらない物語の部分の話が崩壊するんだけど。これだけは看過できないって点で。グリムガルがまた出てくるけど、あれは成立してるのは特に難しいことしてないから。監督の技量ですべて決まると思う。現実的戦いをかなりスピーディにそしてやたらと器用に動くからだで、かつ肝心な部分はスローにして都合よくしてある。後の問題はゴブリンって仮想の敵ってだけで、これも基本動きの早い小さな人間程度だと思う。本当にすべて監督の技量次第だと思う。私がバトルでラノベのアニメ化で感心したのってとあるぐらいだと思う。設定をかなり上手く使ってある。刀語もラノベとずれるのかもしれないけど良い。どっちも文字に特化した部分で作ってある。でもとあるは特に監督の技量もあると思うけど、漫画のレールガンの方が圧倒的に上。これは漫画の絵も見たけど漫画家がかなり上手く絵にしてる。同じとあるって作品と思えない。そもそもラノベの中では文字とバトルを上手く組み合わせてあるのに漫画はそれを絵的にも昇華してる。ただそれで逆にラノベの限界を感じた部分。


 ラノベアニメのバトルは監督の技量が出るけど、問題は土台がいくらでも邪魔する場合。無視すれば良いじゃん?ってそんな簡単じゃない。他の部分が壊れてしまうから。逆に縛りが出て技量と原作との絡み合いの偶然性の産物。それでもとあると言うたった一つの作品で否定できない。バトルとしてはそれほど面白くないけど全体の中でしめるバトルの組み込み方とかでシャナとかもしっかり創られてるし。何よりフルメタが良かった。というか古いラノベはバトルまだマシ。それがまた問題だった。そのせいで定着したのもあると思う。


 元々漫画もアニメと違って静止画なので絵より文字に頼ったバトルが多い。だからラノベのバトルが絶対駄目と否定はできない。ただなとあると言う作品一つでラノベはバトルを発展させたと言いたくないな。ヒットは運不運があるからラノベは何を生み出したか?やっぱそこで評価されると思うから。それと文字で漫画物語を発展させることの強引さ。ラノベがおかしい原因はすべて絵がないせいだと思う。絵を取り除いた時に見える漫画物語の奇妙さって点。ラノベは漫画物語の問題点を先鋭化させて見せてしまう部分がある。


 ただ何故私がここまでランキングとライト層に拘るか?と言うと、SAOは一般小説で果たして出せたか?って点。一般小説って別にそんなにリアリズム凝った作品ばかりじゃないけど妙に固い。SFがあったころは違ったと思うし、ラノベの前身となるようなファンタジー小説もちらほらありました。しかし、ラノベと言う場がSAOを出版しやすくなったと。ネット小説発ですが、根本はラノベの場のネットの延長ですからね。もっとアングラな形で。ラノベの場に一般小説は混じりやすいけど、一般小説の場にラノベは混じりにくい。この事からもどちらかを主軸にすれば良いか?がわかり易いです。どうしてああ一般小説は自由さが無いんだろうなと思います。私がえり好みしなさすぎるのかもしれません。


 後データの罠って事でランキングはしゃべりませんって話し。アンケートとか多数決の結果からまるで一人の人格が話すようにでっちあげる人がいるけど。あれすごく胡散臭い。単発でばらばらな思いとかなら探れ無い事が無いけど。概念が論理的に繋がった思索とかそんなもの分かるはずねーだろって話になる。ランキングは対話できないから。


 ここ最近異世界が元気だけど、じゃ何故チャイカや六花ってアニメや原作の売り上げ悪いの?ネットランキングや評判はこの2作そこそこ良い。特にBD売り上げはイマイチでも原作は馬鹿売れっていくらでもある。Wでイマイチなのが致命的。他にも基本異世界ってゼロ年代からBD売り上げがイマイチ。ずっと悪い流行が来たとかじゃない。今一部の異世界がヒットし始めたって話になる。なのにランキングやデータから今オタクに異世界が人気って勝手な心理が代弁されてしまう。ランキングは一人の人格としてしゃべらないから…。


 えらいランキング批判的だなという事だけど。私は認めてるからこそ誤った権威付けに使われるのが不快で仕方ない。これじゃ神様だよって思う。ただの数字が突然思考を持って話し始めました。笑うわこれ…。好みとか探れると思うし否定しないし私もやる。ただ一人の人格を作り上げて代弁者みたいにやるレトリックと言うか手法に不快感を覚えるだけで。思考の断片を探ることは出来るけど、思考そのものはランキングはしないから。あたかも人格があるように記事とか書く人インタビューみたいに書くなって話。


 私自身そういうのと勘違いされるから書いてるのもある。


 私の中で異世界ファンタジーで困ったのがグリムガルになる。ただあれも昨今の異世界転生系の亜流だと思う。どう違うか?と言うと異世界って服を現代人が着るって形になる。微妙に違う。ならそれもエスカフローネとか私知らないけど12国記がそんなものらしい。ちょくちょく昔からあって新しくも何とも無い。でも何故か異世界に現代人がってケースは当たりやすいけど、異世界ですべて固めるのはあんまり好成績とは言えない。語ろうと思えばシンパシーだと語れるけど、そこまで言ってしまって良いのか?となる。ランキングは人格じゃない。対話できるように安直に考えたら駄目。なろう系のヒットの前にすでにゼロ年代にゼロ魔って作品が他の異世界ファンタジーとアニメの売り上げに関して差をつけてる。ただまだこの頃は原作の差はそれほどついてなかった。


 ただカドカワの社長さんがロードス島に関して、さすがに古いねこれって答えていて。カドカワは社長レベルでもそういうの敏感に見てる。カクヨムって結果はおいておいて危機感感じるなって思う面が強い。


 理性的に考えるとすっきり出ない答えをランキングは出してくれる面がある。何かしらの違いを受け手は感じ取っている。ただその違いをランキングが人格を持って答えてしまったら不味いと思う。誰かが腹話術でそれっぽく話してるのが原因だけどね…。ランキングが飛躍した意味を持たされ、権威付けされて一人歩きしてしまうことになりやすい。これただの石ころで神様じゃないからって言っても、そう信じてしまってる人はそう思い込んでしまうから。


 ランキングの問題は書けたと思う。代わりとなる私としてはアカデミー賞とした評価システムだけど。これブラックボックスにした過程と人選。過程はまだ良い人選の人が決めれば良いから。問題はやっぱ人選。今カドカワがやってるシステムじゃ多分これ選び出すの無理。人選のための人選がいるかなと思う。まず読んでない作品のレビューや星の評価は出来ない。これ読んでるか?の確認無しに推薦したら多分評価者としてじゃなくてHNに対する人気投票になってしまう。人格を評価するわけじゃないから。後自分の作品を評価してくれたレビューや星で気に入ったから推薦だとなんか相互っぽい。これは無効化すれば出来るけど。人選が本当に問題だわ。


 正直過去の様にランキングなくして平等な場所、これはつまらんから絶対止めた方が良い。やっぱ場所だけじゃなくて付加価値が必要だと思う。これそもそも作者が採点者になるって発想だから作品で決めても良いかも。そこからちょっと多めに候補を作って、そこから次に他者HNによって人選に対して選挙的に上位で選べば良いかも。作者ならある程度信用できる。そもそも面白い作品を選ぶコントストじゃない。それはカドカワに任せれば良いから。作り手が選ぶ質作品。面白いから自薦もOK。皆見てるからできるものならやってみれば良い。多分もめるだろうな…。カドカワのコンテストは最初にランキングでやってしまうからランキングそのまま見るのとあんまり変わらないから。カドカワがどういうもの選んでるのか?の対比にもなるから。


 ランキングとは違う評価基準が必要だと思うな。


 ライト層とランキングを全面的に肯定しながら何故その問題点を列挙するのか?それは零れ落ちる作品に価値が無いのか?と言う問いへの答えだと思います。折衝案をやりたいとは思っていません。全く別の基準を用意できないか?って話です。それにはランキングと正反対の基準が望ましいからです。


 理想を言えば一人の評価者で良いです。それを進めると今一人感想評価でお勧め掘り起こしの様なことをしてると思います。この話の流れからはそれで終わりで良いです。じゃあ何故私は違う提言をしてるのか?と言うと多分ランキングよりそういったものってつまらないんですよ…。やってる人は多分ムカッとするかもしれません。ただねなんて言うのかな、コミュニュティ?その場を盛り上げる何か?がランキングにはあるんですよ。ただ小説を投稿して評価するだけ。これを超える付加価値がつきます。その付加価値に較べて個人の掘り起こしっては多分人を引き付ける刺激として負けるだろ?と見てるんですよ。だからそういう人が集まって議論したほうが面白いんじゃないの?って話です。一人ひとりは弱いけどそういう人が皆集まって意見交換したらそれを楽しみにする人はいるんじゃないの?って話です。


 ただね、私はそこに参加する気が無いんですよ。だから熱心に考える事が出来ない。ランキングがいまいち機能してないと思うからそこが不満だけどランキングによる作品評価自体は不満が無いんですよ。単純にこういうサイトで全く別の評価基準があるってのが面白いってのが動機です。それはランキングを否定するものじゃないんですよ。むしろランキングを補足するものだと思っています。機械的な集計処理ですからね。そこに人間の直接的な評価で補足するって方が良いと思うからです。対立するような考えではないと思っています。根本的に発想が違うのが面白いんですよね。


 私は一人の評価者の偏りを平均化するって発想は好きじゃ無いです。そういうのじゃないんですよ。あまりに個人的理由で高く評価してしまうのは評価する人間としても面白くないって気持ちからです。私自分のお話がシンプルに面白くてそれが他人にどう思われていても結構どうでも良いんですよ。自分のために書いてるから。目的にはあってるから。以前公開し無いとしてて、気まぐれで1つだけ公開しただけでこれからも自分のために書いたものはする気は無いです。それを絶賛されたりしても別に良いですけど、問題は数多くの人にならない事です。作品の面白さとは数じゃないと思っています。でも自分一人かせいぜい2,3人程度の作品と他の数多くの人に評価される作品を同列に扱うのはあかんです。個人の評価はこういう危険性を秘めてるのは確かです。作品の評価は数の支持じゃない。それは前提としながらも限度がさすがにあるぞって話です。ある程度複数の人間は必要だと思っています。ただその事が平均化に繋がってしまうのが不味いとは思っています。最終的にランキングを是としてしまう繋がりが出来てしまって別個に分ける評価基準として切れが悪いんですよ。


 あくまで私はあんまし頭も使わないセンスも凡庸なライト層(特に雑な漫画物語)向けの作品を評価するには適してるってだけでランキングを推してるだけですから。サイトの方向性からライト層が読みたいものをすぐ探せるようになら多分こっちの方が適しています。ランキングがまともに機能していればですけどね…。

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