第20話 今風や斬新さ

 どこかでなろう作品馬鹿にしてるんじゃないの?ってなるかもしれません。敢えて言うならSAOに較べるとイマイチだと思っています。結局SAOもイマイチだと思っています。漫画物語の作家としては次作のアクセルワールドの方が技量の高さを感じます。


 私が書いてますけど、話の作り方として、自分が面白いと思う物語と客を意識した物語の作り方があります。SAOは前者で、アクセルワールドは後者だと見ています。デビューで私小説みたいな作品で成功しても2作目から駄目ってのはこれが大きいです。客を意識した訓練が全くされてないのでプロとしてはやっていけないんですよ。1作だけなら小説家には誰でもなれるが、2作目からプロと言えると言えると思います。結局最後まで私小説みたいな作品で押し切ってしまうような作家も居ると思いますけど。SAO明らかに自身のMMORPG体験から書かれてるなとピント来ます。全然MMORPGらしくないと書きましたが、仮想世界の肯定がSAOってすごく強いんですよ。90年代までの作り手は仮想=アニメの中にどっぷりはまって現実逃避する生活を否定します。仮想=現実だとしてSAOの作者は全面的に肯定します。この態度は過去の文学と同じレベルの新時代を代表するようなメッセージ性があります。


 私はSAOを高く買ってるように見えますけど、稚拙さゆえに不当な嘲笑にさらされてるのが不愉快だというのがあります。漫画物語の作り手としてはアクセルワールドの方が上だと思っています。じゃリアリズムを土台としたヘビー系としてみたら?ですが、やっぱそれは苦しい…。ただ作者としては背一杯文学的なメッセージ性を強く入れてるのは確かで一応伝わります。ただそれが面白さになってるか?と言うと微妙…。


 一番の問題は、現実問題ネトゲはバーチャルリアリティじゃない。おそらくマトリックスを経た攻殻機動隊の後継者だと思いますけど仮想と現実の境界線の曖昧さって押井の思索の域にも達していません。なおかつMMORPG廃れてしまったしなって…。まあVRが発達してきたらもしかしたらSAOが新しい時代を切り開くメッセージ性の高い文学として注目される時代が来るのかもしれません。


 そんな話はどうでも良いのですけどね。世界観の斬新さが素晴らしかった。まあマトリックスのパクリなのですが、それをMMORPGに落とし込んだ上手さが凄い。現実とゲームを行ったりきたりする作品ならそれまでもちょくちょくありました。ただゲームの中でずっと生活するアニメは斬新だったと思います。SAOの本質はマトリックスにあってMMORPGに無いです。ただ作品としてマトリックスの様な昇華が出来なかった。VRMMORPG作品として金字塔になってしまいました。


 何故なろうが新しいのか?の一つに異世界転生がゲームとして現実の生活に対して遊ぶ場所じゃなくて、ゲームの中で暮らして現実を捨てるって点でSAOと瓜二つです。この発想が斬新です。要するに昨今の異世界物は実はSF的VRMMORPGをファンタジー論法で解釈しただけじゃないの?って見てるんですよ。僕だけがいない街って作品が顕著ですけど、タイムリープって現象が過去タイムマシンと言う科学の機械を使っていたSFの世界観をそっくりそういう不思議能力としてファンタジーに置き換えたものです。正確にはタイムリープは自分自身の身体は移動できません。意識の時間軸がずれるだけです。ただそれでもSFの問題点をさらけ出した部分があります。大半のSFって世界観を個性を出すだけの無駄な装飾が多いんですよ。SF設定を使ってストーリーを展開する場合ファンタジーでやってしまえるものが大半です。


 じゃそれが新しさだろ?違うんですよね。これだけじゃないんですよね。SAOほど視覚的内容的に強く刺激するゲーム世界っぽさ無いですからね。後SAOゲームっぽさ出すために編が変わったら過去からある現実の生活があってゲームにもぐるって形に古典回帰しています。アクセルワールドでもです。長く展開するための苦肉の策だと思います。SAOって作品はアインクラッド編で終る映画が向いてると思います。面白いから長期展開しても良いですけど。その面白さはファン向けのラノベの枠内のレベルだなとは感じます。なろう独特の過去からある異世界召喚転生ものとの違いって何でしょうね。ライトな作風と言うのもありますけど。それならゼロ魔もなろう系に入ってしまいます。案外似てるのかな…。良く分からないです。


 なろう作品が実際は2重構造になってるんじゃないか?と見てるんですよ。アニメを見て好きになった若年層となろう時代からのファンのコア層。彼らはどうも20世紀オタクの卑屈な臭いを感じてしまうんですよね…。私は小説としては見る事に対してうっとしいから読みたくないと思ってるのは私はなろう作品の表層を支えるライト層じゃないか?と思うわけです。


 話が広がってしまいますけど、個性と新しさって刺激として似ています。新しさは無いものと認識できます。個性は際立った特徴。新しさは個性ですが、個性は新しさじゃないです。ただライト層における新しさは感じる事が重要で、考えて導き出される起源的なものじゃないです。なろう作品には独特の個性=作風があります。ただ何故私が一過性だと見てるかといえば、進化の過程で有利とは言えない形質というものがあって必ずしも生物の機能がすべて淘汰の結果ではないと言う事です。競争の中でも確率的に残ってしまう事はちょくちょくあります。なろうは新しいと言うより個性的だと感じる面が強いです。それをなろうらしさと言えば聞こえが良いですが、悪く受け取る人はなろう臭さになります。ただし所詮は印象だから区別はつかないです。理性的な部分で有利な武器として個性や新しさがあまり役に立ってないと感じるわけです。それが一過性=確率的なもので所詮また時間の経過で確率的に消えてしまうって意味です。

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