第8話 受動的な読者達

 ネタが思いつくと盛り上がりますね。実際こんなポンポン出ません。以前考えた居たことを掘り起こしてるだけです。ただその記憶すら思い出さないといけないレベルになっています。特定の物語に関する事だけにしようとしてるため中々フィルターをかけての記憶の発掘が困難になってきます。本当にもうネタキレだからって書いてますけど、ネタが切れたか?どうか?すら記憶に無いです…。ネタが実際切れてるのか?どうかチェックしてる作業になっています。


 以前から思ってたのですけど、何故文学って言われる奴って読みにくいの?って疑問です。プロの人達だから文章が悪いとかじゃ無いです。あんまり読みたくならないんですよね。私が読みたくなるものは大体漫画の方が多いわけです。絵なのか?となりますよね。漫画の中で絵の占める部分はかなり大きいです。それは脱線となるからこのエッセイの中ではやりにくいと思っています。自分で縛りを入れています。別に絵を含めた漫画論でも良いわけです。でも私は敢えて小説と重なる部分に重点を置いています。多くの人は経験してると思いますが、昨今の漫画家ってやたらと絵のレベルが上がってないか?って点です。デザインの流行すたりがあるのでそう単純じゃないですが、昔はもっと絵より中身で勝負って漫画家さん多かったです。自分が表現したい事の手段として漫画を使ってるだけの漫画家さん多かったです。今は絵の上手さがあって当たり前ぐらいになってると感じます。ラノベの発達も大きいかな?と思っています。でも私はそうじゃなくて漫画家としての要求のハードルが上がってんじゃないか?と思っています。絵描きとして漫画家のオチこぼれの部分がラノベ作家さんの中にはいると思います。最初から絵を描こうとせずに漫画的物語を創ろうとした人が多いと思いますけど。断念した人の話もちらほらみます。そうやって絵の上手い漫画家さんが増えてくると今度はハードルが上がって別の部分で見られてしまいます。なんでもそうですが、刺激的だったものが溢れてしまうとそれが当たり前になってしまって刺激じゃなくなってしまいます。今そういう時代で絵が上手いだけで中身がつまらない漫画家増えたなと感じています。絵以外の部分が以前より強く気になってきました。漫画は今の時代絵じゃなくて中身だと強く感じるようになりました。


 何故物語と書かないか?と言うと笑いなどを軸として展開する物語性が弱い作品も膨大に存在するためです。その中で物語性の強い作品だけが対象になります。


 そういった意識から物語に対してより深く接するように変化してきました。そこで比較論として文学作品って奴は書き手が感じてる内容を書いてると感じます。それに対してラノベは(漫画物語)読者が感じるように書き手が書いてるという印象を強く受けます。読み手が感情を書き手によってコントロールされてると感じる部分が後者は強いです。書き手と読者の関係は過保護な親と言うイメージです。どっちかと言えば前者は子供の自立心を育てるよな接し方に思えます。ちょっと突き放したところがある接し方です。前者は感じる部分を能動的に発見するって感じで読むことが多いです。後者は受け手がスムーズに感じれるように書き手にお任せしてる感じです。読者の慣れって部分で、ずっと後者になれた人間が前者の作品を楽しめるか?私はそれが文学の衰退にあると思っています。作家の努力が足りないのか?または読者の読む力が衰えてしまったのか?なんとも言えないです。ただ言えるのは面白さは読者と作家の両者の関係性がかなり重要になってきてそれらを切り離したシンプルな面白い要素のような語り方は無理だと思っています。


 それゆえに私は前回ヘビーとライトと言う話を書いたわけです。

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