第37回 梟雄の死

 八月、天王寺砦の城番を務めていた松永父子が突如として城を引き払い、信貴山城に立て籠もり、信長に叛いた。


 信長はそれでも許そうと説得の使者を差し向けたらしいがあえなく決裂し、人質が殺された。


 光秀にも陣触れがだされ、その下にいる順慶にも出陣が命ぜられる。


 緑が少なくなり、白く息も白くなりはじめる十月。


 信貴山城の支城、片岡城を一揉みに押しつぶす。


 織田軍は四万を数え、籠城する軍勢は一千ほど。


 しかし城兵の抵抗は凄まじく、全体からみれば微々たるものだが、強攻したこともあって小城を相手にしながら百余の犠牲を出してしまう。


 もちろん行軍に支障はでず、織田軍は早々と信貴山城を囲う。


 籠城軍は七、八千ほどだ。


 圧倒的な兵数を誇りながらも織田軍の空気は重かった。


 これまで恥も外聞もなく反乱を起こしては降ることをくりかえしていた久秀が人質を見殺しにして立った。


 それも堅牢けんろうを誇る信貴山城に精鋭とともにたてこもっている。容易に落とせないだろうことは明らかだ。


「……本願寺に動きはないようです」


 去年の天王寺の戦のあと、信長は海戦で石山本願寺に物資搬入をおこなっていた毛利水軍を壊滅させ、その際に本願寺とは講和していたが、これで何度目になるかもわからないことだ。また本願寺側がいつ約束を破ってもおかしくない。


 第一、久秀ほどの男が孤立無援なまま立つとも考えられない。なにかあるのだろう、その疑心暗鬼が味方の陣の空気を一層、重くしていた。


 夜半。


 不意に陣のほうぼうが騒がしくなる。


 敵襲かと身構えると、使番が駆けてきた。


「陣内に怪しいものが何人か入ったようにござります」


 すぐに本陣の回りが固められたが、その空気の違和感に眉をひそめる。


「青狗」


 そう呼びかけると、


「彼の忍びは儂の忍びとどこぞで戦っているであろう」


 久秀が本陣に現れる。


「すまんのう、邪魔させてもらうぞ」


 身構えたが、久秀の表情は静かなまま。


「無駄なことをせぬほうがよいぞ。今、この回りを固めている兵たちは、筒井の侍に身をやつした儂の忍びだ」


 順慶は刀の柄にかけた手を外した。


「話が早くて助かる」


 久秀は好々爺然として笑う。


「よくこられましたな。お味方であれば酒でも差し上げたものを」


「冗談が言えるようになったようじゃのう」


「私を殺すのですね」


「まさか。それなら儂わしがいちいち顔をだす必要もない」


「ではなぜ」


「殺されるのを覚悟で来たのですね」


「順慶殿はそんなことをするのかのう」


「私がしなくとも家臣がくれば」


「今生の別れに、話でもと思ってのう。今こうしている間にも儂の我が儘ままでなんにんもの忍びが命を削っておる」


「我が儘ですか。あなたは人質にだした幼子を殺した。あなたの子どもではないから構わないと思ったのですか」


 久秀は一瞬、泣き出しそうなほど顔をくしゃりとさせる。


「叛そむくことは事前に伝えた。儂の自己満足のために兵をむざむざ殺すことなどさせるものか。誰もが愛おしいのじゃ。しかし儂が伝えた時、みなは従うと言ってくれた。幼子を殺させ、儂は地獄におちるであろうが、すべて覚悟の上」


「あなたが立ったのは私が大和守護に任じられたからですか」


 塙直政はなわ なおまさのあと、順慶が任じられていた。


「そんな男とお思いかな」


 愚問だと思い、そんなことを考えた自分が恥ずかしくなった。久秀の頭には常に、天下があり、大和は自らの思いを遂げるための足がかりのひとつにすぎない。


 しかしそれを素直に認めたくもなかった。


「……私はそこまであなたのことを知らない」


「つれないのう。長年、鉾を交えた仲だというのに」


「あなたがしたい話というのはこんな下らないことなんですか」


 久秀は不意に口元を硬くする。


「儂は本願寺に援軍を求めるつもりである。その使者に森好久もり よしひさをたてる」


 好久はかつて筒井の陣営にいたものだ。


「やつはまっすぐお前の陣に駆けこむであろう。筒井殿が自分の兵を援軍と称して城内に入ることができれば内より破れる。お前さんはこの難攻不落の城を落とした功績者として信長に認められることじゃろう」


「兵士を見殺しにするつもりですか」


「力攻めをくりかえされればそのうち落ちるのは目に見えている。慌てて死にたくないだけじゃよ。信長に叛いたのも儂の意志なら、死ぬ時も儂の意志じゃ」


「久秀殿、降伏されるべきです」


「儂は儂として死にたいのじゃ。この年であらたな人生など御免被りたい」


「久秀殿は常に自由ではあったではありませんか」


「儂もそう思っていた。じゃが、そうではなかった。知らずしらずのうちに儂は信長に惹きつけられはじめていた。あの男が天下を獲れた世……それを儂は夢に見るようになっておった。筒井殿もそうではないかな」


 久秀は順慶の心の底まで見通すような深い色の眼差しを注ぐ。


「私は」


 順慶は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。


「儂は儂でなくなっていくのが怖かった」


「久秀殿が久秀殿で、なくなる……?」


 まるで禅問答のようだったが理解できる気もしていた。


 順慶自身も自分の中の変化に戸惑っていた。


 久秀ほどに固く己をもっている者であれば誰かに感化されることは恐怖を覚えてもおかしくはない。


 久秀は去って行った。


(あれほどの人物まで、自分が変わっていくのを感じていくのか)


 信長の持つ底知れないものを魅力と単純には呼べない。


 魔力。


 そう呼ぶべきなのかもしれない。


 久秀は惹きつけられたが故に苦しみ、最終的に破滅を望むに至った。


 動きがあったのは翌日。数人の兵を従えた左近が本陣にかけこむ。昨夜の襲撃以降、本陣は手練れで固められていた。


 左近は白い息を大きくはきだし、頬を上気させ、目が昂奮に燃えている。


「松永方に降っていた森好久が我らの陣にかけこんでまいりました。どうやら本願寺へ援軍の使者として向かおうとしたらしく」


「左近、兵に本願寺の援兵に擬装させよ。俺は本陣へ行き、この情報を伝え、内より扉を開くと申し伝える」


「殿、このことをご存じございましたか」


「そんなわけない。お前からはじめて聞いた」


 ものといたげな左近に「早く準備を」と命じて本陣から追い払う。


 数刻後、信貴山城の一画より火の手があがったと兵が伝えてきた。


 順慶は左近に確かめに行くよう命じる。


 十日あまりの籠城戦の末の結末だ。


 いや、順慶にとって二十九年のほとんどを敵とした相手の死。


 そうであるのに勝利を祝う気持ちにはなれず、どうしようもないほどの虚しさばかりか心を吹き抜けていく。


(あの奇っ怪な老人は死んでもなお、俺を振り回すのか)


 順慶は兵を率いて焼け落ちた城跡をみると小雨が降り、あたりには霧がたちこめる。


(……大仏殿が燃えた時にも降っていたな)


 皮肉なことに城が落ちたのは十日、東大寺の大仏殿が焼け落ちたのと同じ日付。


 そしてこの雨だ。


 天罰ということはちらりと脳裏を過ぎるも、久秀はみずから死ぬ日を決めた。


 あの老人は老人なりに大仏殿を焼き、人々を不安にさせたことへの悔いがあったのかもしれない。


 ひときわ、燃えかたがひどい場所へと向かう。


 そこには小屋があったであろう、今は炭になった残骸の山があるばかりだった。


 生き残った城兵の証言によればここから火の手があがったらしく、そしてその直前には久秀が籠もっていたらしい。


 全員総出で火を消そうとはしたらしかったが事前に油が撒かれていたのかその火勢はどうにもできないほどらしかった。


 籠もる前、城兵を集め、無用な争いはせずに降伏しろと全員に触れ回ったらしい。


 一人でも多く生き残れ、と。


 残骸から黒焦げの遺骸が発見された。


 久秀であろう。


 しかし相手が久秀ということもあったのか黒焦げで面体めんていが分からないということで織田方は山狩りをおこなうほどの念の入れようだ。


 遺骸は順慶に下げ渡されることになった。信長からの命らしい。


 好きなようにしろということだろうか。


 そのとき、足軽の一人が駆け寄ってきた。


「筒井様」


 声でそれが青狗であると分かった。


 しかし顔はこれまで目にしてきた青狗とは違うような気がした。どこにでもいるような、記憶にも残らないような顔だ。


「こちらへ」


 怪訝に思いながらもそのあとについていくと、小さな集落に行き着いた。


「青狗、ここはなんだ」


 しかし青狗はもくもくと歩き続ける。


 集落の奧のほうだ。


 厄介事を避けようという村人たちはいきなり現れた鎧に身を固めた僧侶の姿など目に入っていないように無視する。


 連れて行かれたのはあばら屋だ。青狗が目だけで中に入るよう促し、順慶は扉に手をかけた。


 囲炉裏が切られた一間に若い男がいて身構える。


 にわかに感じた殺気に刀に手をかける。


 なりは農民という風だがその腕や物腰、目の光は手練れのそれだ。


「弥六やろく、客人じゃぞ、やめよ」


 奧の部屋から嗄れた声がすると共に、何者かが現れた。


 弥六と呼ばれた男はその場に控える。


 布が全身にまかれ、辛うじて目だけがのぞいているが、声からして男なのだろう。


 それもかなり齢よわいは重ねているらしかった。


「あなたが青狗を使って……?」


「筒井殿、そう警戒されずとも良い。酒などはいかがかな。儂はこの怪我でお相手はできぬが」


「用件を。あまり長居はできませぬ」


 順慶は目の前の老人の目に覚えがあったが、そんなわけないと何度も打ち消すことをくりかえしていた。


「ふむ、筒井殿、もしや儂が誰か分からりませぬかな」


「さて」


「誤魔化すのが下手な御仁じゃ。……ふむ、寂しいのう。数日前には言葉を重ねたというのに」


 気づくと、順慶の手は腰の刀に伸びていた。


「……そこまで生に貪欲とはな」


 胸に落ちた冷たいもの正体は明らかだ。軽蔑だ。


「人はみな、誰かに生かされておるのじゃよ。儂もまた、その例外ではないということじゃのう」


 老人が、いや、久秀は笑う。布地の下でその声はひどくくぐもって聞こえた。


「陣に来た時、本心を言われたと感じたが」


「そうじゃ。儂は間違いなく死ぬつもりであった」


「それが生きている」


「全身を灼やけ爛ただれながらも、な」


 久秀は間違いなく死ぬつもりで小屋に火を放ったのだという。


 油をまいており、久秀の身体は炎に巻かれた。


 しかしそこへ男が飛びこんできだのという。


「男は……金次きんじ。儂を抱えてな、外へ追い出し、結果的に焼け落ちた小屋の下敷きになった。が、これは周りの者から聞いたことじゃ。男がとびこんできた時、儂は意識朦朧としてな。ただ、かすかにだが、声が聞こえた。人を愛するならばまず自分を大切にしなくてどうするのです、とな。あとから男と親しかった者に聞いたが、日頃からこんな儂へ尊敬の念を持ってくれていたらしい」


「それで、あなたは拾った命をどう使うのですか」


「ただ生きようと思う。今の儂にできることはそれしかない」


「今の世でそれができることは十二分に貴いことです」


「……そうじゃのう。そして身体は爛れようとも心はある。心があれば儂は愛する心をもって生きられる……」


 久秀は笑おうとしたが、傷に障ったのか、くぐもった呻きとなって消えた。


「それで、どうしてわざわざ青狗を使ってまで私に知らせたのですか。いや、そもそも青狗をご存じだったのですか」


「闇に生きる者は闇に生きるものを知る。忍び家業というものは存外に狭いらしい」


 配下の忍びの伝手を辿ったということか。


「儂の代わりにあれを埋葬してやって欲しい。松永久秀という名で……経も上げてほしい」


「私には信仰心がありません。空虚な経しかよめない」


「筒井殿の経には血肉が通っていると、儂は思う」


「……分かりました。そういたしましょう」


「素直じゃのう」


「あなたはすでに信長様に負けた。自害を選ぼうという人間が再び拠って立てるほど大和の地は乱れてはおりませぬ」


「筒井殿は優しいのう」


 順慶は答えずに家を出た。


 寺に遺体を収めさせ、供養することを決めた。


 主立った家臣たちは反対したが押し切った。松永久秀という奸智(かんち)に長けた男は信貴山(しぎざん)で死んだのだ。

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