第35回 不穏
翌年、順慶は近江の安土へ向かう。
去年の十月に再び本願寺と和睦できたことで、余裕ができたせいなのか信長はそこに城を築こうとしているらしかった。
工事の途中らしいが琵琶湖につきだす格好の安土山に築かれる城の大きさはかなりのものになることは動員された人夫の数だけで明らかだ。
現場のあちこちに切り出された石が並べられている。安土山は頂きにいくにつれて急峻で、石をあそこまで運ぶだけで一日がかりだろう。
この城塞の建築には順慶も人をやっていた。完成には二、三年はかかるだろう。
順慶は、安土山のそばにある寺に向かう。そこに信長は逗留していた。
「順慶、越前ではご苦労であった」
「はっ」
ずっとひれ伏したままの順慶に信長は苦笑し、「顔をあげよ」と言った。
「安土山の現場は見たか」
「かなりの縄張りになるようで。あれほどの城郭が完成した暁には全国の大名が恐れおののくことかと思います」
「順慶、くだらんおもねりを言うな。ひれ伏させるのは俺がやればいいことだ。あれを築くのは外の人間にこの国の力を示すためにしているのだ」
「外の人間?」
「南蛮人と会ったことはあるか」
「いえ」
「耳覚えのない発音の言葉を操り、目が青く、髪は赤みがかって、肌が白く、大きななりをしている。天竺の向こうから来たらしい。連中はこの国ではみたことのない技術を多くもっている。みるものすべてが新鮮だ。説明されるたびに昂奮で身体が熱くなってくる。俺はな、この国の向こうに広がる世界とつながりたい」
信長はかたわらにあったものを引き寄せる。それは球体とそれを支える台とで構成されている。
信長に手招きされて膝を進めた。
「これは南蛮人がもってきたものだ。これが日本だ」
「これほどに小さいものが……」
「そして南蛮人どもが来たのは……」
球体は手で回せる。
信長が示したのは天竺てんじくよりもずっと遠い。
その距離よりも日本の外にはこれだけの広い大地が延々とあるのかということに順慶は瞠目を禁じ得なかった。
「俺の配下に弥助という色が黒く、八尺近い身の丈もある男がいるが、そいつははさらに遠いところから来たらしい」
「そのものたちにみせるために安土に城を?」
「俺はな、南蛮人どもがこの国へ来るまでの話を聞いた時、これまで久しく感じてこなかった血の昂ぶりを覚えた。人は俺が坊主嫌いだという。異人どもの奉じる異なる教えを優遇しているせいだ。
だがな、それは違う。命にかえてでも伝えたいという意志を連中から感じたから、俺はそれに報いているのだ。我らの国が決して一筋縄ではいかないことを連中にみせつけることも必要だ。安土の城はこの国の力の象徴になる」
信長の思いはこの国にすらなかったことを知り、順慶は驚いてしまう。
「外に飛び出したいとは思わないか。この国は飛び回るにはあまりに狭い。外には無限に近い世界が広がっている。俺はただの信長……いや、名前など。一人の男として生きたい。織田の家が大きくなり、やがて俺という存在が織田の一部になりつつあるのを感じはじめた時から、いつもそう考えてきた」
信長はたんたんと語り続ける。
「若い頃、唯一、慕うべき男と会った。が、その男は討たれた。はじめて仇をとってやりたいと思った。そのために俺は織田信長として兵を率いた。美濃を獲り、義昭を奉じると全国の大名の目が自分に向くのが分かった。
俺は俺なりに出せるだけの力を絞りつづけた。が、あの最初の戦ほど、俺の血をたぎらせてくれるものはなくなっていた。ただ駆け引きばかりの毎日なのだ。
他人に命令することにも飽いている。自分という存在が織田家というものの一部であるとしか思えなくなってきている。どれほど危険な目に遭っても肌がひりつくようなことはない。
だからこそ切望するのだ。自分の存在を誰も知らない、広い世界にでたいと。そのために天下を統一する。それまでが俺の織田信長としての仕事と思い定めた」
「民のことは」
「統一さえなればあとは他の者が勝手にする。そもそも民はどこでも生き続けることができる。考えてもみよ。今よりひどい状況がそうあるか? 戦の世よりは平和な世のほうが生きやすい、そういう違いにすぎん。俺はその時にようやくただの信長になれる。南蛮人どものように海を渡り、知らぬ世界へ踏み出せる」
「しかし信長様がいなくなれば世は再び乱れかねません」
信長の目にかすかな失望の色が差す。
「順慶、そんなくだらんことを言うな。もしそうだとすればどのみち俺が死ねば天下は乱れるのだ。お前は大和の民を守ると言っていたな。ほんとうにそれだけで生を終えるつもりか。もっと広い世界を感じたいとは思わないか」
「……私は百年、二百年先も民が平穏であることを望んでおります。そのためにどうするべきかを考えています。答えはでてはおりませんが……」
「俺とは方向が違うだけでお前も未来というものを見据えているか」
「未来などと。そんな大それたことではありません。現状に手一杯で、今の私にしてみれば夢のようなことですから」
「俺の家臣など目の前の戦をどうするか、長くともこの年のことしか考えてはおらん。まあそれが人に仕えるものの限界かもしれん」
順慶はなんといっていいか分からない。
すると信長はにやりと笑う。
「お前が久秀より長じている部分を見つけたぞ。お前は未来を見る。が、久秀は今しかみていない。やつが求めているのは停滞だ。やつは口癖のように人が好きだとぬかすが、やつの求める世界、停滞する世にいれば人は死ぬ。死のうが生きようが進むからこそ人は生きられ、俺とお前はある意味では似ているのかもしれんな」
「私と、信長様が? そのようなことはあろうはずが」
「まあいい。何人かに語ったが、お前にはもっとも気持ちよく言えたような気がした。そもそもこんな話をするつもりではなかったのだがな」
順慶は寺を辞去する。
うっすらと肌が汗ばんでいることに気づいた。初めて会った時とは違う。
良い気分だった。
信長との交流に鼓動が弾み、昂奮しているのだと少し経ってから気づいた。
その一方で信長の求めることと友の願いの間に大きなへだたりがあることを考えないわけにはいかない。
(光秀、お前はどうするつもりだ)
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