第34回 天国と地獄

 空気は暖かく、風をうけとめるとまるで絹に包まれているように柔らかい。


 草原には鮮やかな緑と鳥の声。


 大地には春の息吹がみちていた。


 順慶は輿入れしてきた多加姫たかひめと共に桜を見に来ていた。


「姫、大丈夫ですか」


 順慶が手をとり多加をおろした途端、彼女はその場にへたりこんでしまう。


 できるかぎり馬の速度を落としたつもりだったが、乗り慣れないせいか少し顔が青い。


 最初は輿こしで移動することを提案したが、多加本人の希望で、順慶が後ろで支えながら馬にのったのだった。


 供のものは遠くから見守っているが少人数だ。


 去年、輿入れしてきて以来、順慶は京と大和の往復と、多聞城の包囲とで多加姫と一緒にいる時間をなかなかつくれないでいた。


 それをみかねた朝菊に尻を叩かれたのだった。


「申し訳ありません。私がわがままを言ったばかりに?」


 順慶は片膝をつくと、多加に背を向ける。


「……じゅ、順慶様?」


「つかまってください」


「ですが……」


「さあ、姫」


 順慶は顎をしゃくる。


 目的地ではないが、そこにも満開の桜の古木があった。


 しばらく同じ姿勢でじっとしていると肩に手をかけられ、身体を預けられた。


 ほんとうにおぶさっているのか分からなくなるほどささいさで、思わず振り返る。


「重い、でしょうか」


 多加は消え入るように呟く。


「いえ。軽すぎて驚いてしまったほどです」


 順慶はそう口早に言うと、「しっかり捕まっていてください」と木の下に向かった。


「きれい」


 風が吹き、古木の枝を揺らした。


 桜の小さな花弁が舞い散る。


「都の桜も見事でしょう」


「そういえば順慶様も行かれたのですよね」


「ええ。洛中や洛外に桜の花が咲き乱れていました。まあ、あれにくらべればここの桜はいかにも見劣りするかもしれませんが……」


「いいえ、そんなことは。見劣りどころか。伸び伸びとした枝振りなど見ほれてしまいます。それに都の空はこれほどに広くはありませんから」


「空?」


「都ではこれほど広い空をみることはできません。建物が多すぎます」


「そう言っていただけると」


「順慶様。私は筒井の家に嫁ぎました」


 いきなりどうしたのだと、順慶は戸惑う。


「いつまでも客人に対するような物言いはおやめください。それから姫といのも。私は好きではありません」


「し、しかし」


「私は筒井の女になりたいのです。あ、朝菊殿にはもっと親しげに声をかけるではありませんか」


 真摯に求める眼差しに、順慶は胸が熱くなるのを感じた。


 朝菊以外の女性にこんなに動揺するような気持ちにかられるとは夢にも思わなかった。


「……分かった。これでいいか」


「はい」


 多加のみせる満面の笑みにつられるように順慶は口元をほころばせる。


「ほんとうに、素敵な国です」ため息まじりに多加が呟く。


「多加にはこの国を好きになってほしい」


 多加はふふっと微笑む。


「はじめから好きです。だって、順慶様が懸命に守ろうとしているのですから」


 多加の手に力がこもるのを感じ、順慶は顔がむずがゆくなるほど火照りを覚えた。


(いつまでもこの穏やかな時がつづけばいい)


                     ■■■■


 しかし温もりの中でいつまでもまどろんでいたいと願う順慶を尻目に、季節が巡るようにいまだやまぬ戦の気配は否応なく大和を震わせる。


 前年に高天神城を落とした武田軍が五月に再び動いたのだ。


 信長は徳川軍と共に長篠にて迎え撃った。畿内の情勢の不安定なために順慶は鉄砲隊を派遣するにとどまった。


 戦場を覆い尽くすほどの黒煙をはきだす一千丁もの鉄砲を前に、武田勢は大きく足並みを崩され、倍する数を有する織田・徳川軍に押し包まれ、歴戦の将を幾人も失いながら撤退していったという。


 八月には順慶は五千の手勢を引き連れて越前へ向かった。敵は本願寺の門徒衆。


 この戦にも光秀は参戦し、順慶はその傘下だった。本願寺の門徒たちを追い詰め、ほとんど皆殺しの有り様だった。


 それをむごいとは思わない。


 相手は死をも恐れず、雲霞のごとくどこからともなく湧いてでてくるのだ。打ち倒さなければ明日、首を打たれるのは自分かもしれない、それほどの相手だ。


 信長はそれを身内や側近たちの屍を見ながら痛切に思い知ったに違いない。


(とはいえ、さすがに……)


 順慶はすべてが終わり、本願寺勢の立て籠もった杉津城の周辺を警戒にあたっていた。


 顔は焼け、男か女が判別できるだけでもましであった。身体の大きさや、焦げた遺体に張りついた衣の燃えかすで女や子どもが交じっているのが分かった。


 海岸にちかいせいか風が吹きつけると、潮のにおいがした。


 順慶は鼻を動かす。順慶はこの越前で白波をたててうねる日本海の荒々しさに目を瞠ったものだ。


 ただ鉛色のぶ厚い雲が空を覆っているせいか海は黒々として陰鬱で、長く見ていたいとは思えなかった。


 今は潮のにおいにまざり、焦げ臭さとかすかになまぐさい臭気が漂う。

「光秀」


 馬を横に着けた。


「順慶、ご苦労」


 光秀は周りに目をはしらせ答えた。その横顔は硬く、顔色はいつもより白さが際立って見えた。


「少しは休んだらどうだ。眠ってもいないようだが」


「そういうわけにはいかない。自分たちのやった結果は直視すべきだ」


 光秀は燃える筵旗を見やる。そこには念仏が書かれている。


「信心は怖ろしいものだ。人をどのようにも変えてしまう」


 光秀は遠い眼差しになる。


 比叡山の焼き打ちのことを思い出しているのかもしれない。


 あの時も僧侶だけでなく比叡山に逃げ込んだ民もろとも焼いたのだった。


「こんなことを言うのはおかしいかもしれないが、一向一揆は彼らにとって希望のようなもの、だったのかもしれない……そう考えてしまうことがある」


 大和の民も一つ間違えれば、一向一揆のようなものに変わっていたかもしれない。


 しかし大和には興福寺の僧兵の棟梁たるべき筒井家があった。


 人々の心は興福寺や筒井家に集まり、筒井家も人々を守ることを使命として力をつけた。


 しかし越前では核となるものがなかったのだろう。


 日々旗色を変える国人にふりまわされ、他国からの無法者に蹂躙される。


 誰もがけだもののように欲望を剥き出しにし、人を、土地を、もののごとく扱った。


 そこに命が息づいていることも忘れて。


 本願寺があらわれ、自分たちを救う言葉をかけられればすがりつくだろう。


 誰も守ってくれないのであれば自分たちで戦うという手段しかなかったのだろう。本願寺は団結する心を教え、戦う術を学ばせた。


 あとは国人たちの生存本能もくわわって戦の世の大きな流れの一つとなって台頭した。


「血煙をともなうといえども希望か……私たちはその希望を壊したのだな」


「俺たちもまた、俺たちの希望のために戦っている」


「同じだな。希望をすくおうとしている我らの手も血に濡れている」


 光秀は「順慶、難しいな」とぽつりと呟いた。

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