第32回 久秀離反
松永久秀が織田家より離反した。
実は今回がはじめてではなく、五月に一度、反旗を翻していたが、あっというまに織田に和議をもちかけ、その時のことはそれで終結したのだった。
しかしその一年後、再び久秀が多聞城に拠ってたった。
その原因は将軍、足利義昭に触発されたためだ。
義昭はこの年の二月、二条城に拠って信長との対立を鮮明にしていた。
義昭もまた久秀と同じく織田軍に包囲され、朝廷のとりなしで和議を結んでいるが、久秀が再び挙兵したことで、和議を結んだことなどなんとも思っていないらしい。
類は友を呼ぶという言葉を順慶はまざまざと思い知らされた。
しかし、信長が将軍である義昭を叱責したことからも久秀ほど、義昭の存在は彼の中で大きくないことは明らか。
「松永は遊んでいるように思えますな」
めまぐるしい動きに、順慶の私室を訪れた左近はため息を漏らした。
筒井軍の武の一画をになう左近としては今の状況は頭が痛いはずだ。
もし、織田が負けることになれば筒井は孤立する。
織田の傘下に入ったことで光秀を通して情報が矢継ぎ早にもたらされることになった。
足利義昭は武田や本願寺を抱きこみ、織田の包囲に躍起になっているという。
武田は織田の同盟である三河の松平を打ち破り、織田の背後を突く動きをみせているという。
一方の信長も朝倉の家臣を寝返らせ、切り崩し工作をおこなってはいるが、現在、決定的な勝利はない。
奈良にいたるまで妨害らしいものはなく筒井軍が三条口に陣を敷くと、松永方が対するように多聞城より兵をだしてくるが、緊張感こそあるものの鬼気迫る闘気はない。
ぶつかることなく、長対陣になる気配だ。
「殿。松永の陣より馬がっ」
兵が本陣にかけこんでくる。
「来たか」
左近が表情を険しくした。
「いえ。それが一騎だけなのです」
順慶たちが本陣よりでると、たしかに両軍の間に騎馬がいた。
その場にいる重臣が「あれは、久秀では」と呟けば、周囲はざわめく。
使者のやりとりはないが、久秀が順慶と話したがっているのは明らかだ。
「……久秀を本陣に」
「殿、織田に知られたらなんとしますか」重臣の一人が声をあげる。
「信長様は久秀の力量を買われている。敵対したくはないのだ。相手が話したいというなら無理に追い返す必要はないだろう」
順慶はそれ以上、誰にもなにも言わせず、「本陣から出ろ。二人きりで話す」と言った。
「人払いまで。手が行き届いておりますなァ」
はじめて会った時と同じように久秀は飄々としている。一つ間違えれば、命をおとしていたかもしれないなどということはおくびにもださない。
「久秀殿、恥知らずですな、織田の軍門に降られたというのに」
「威勢がいい。信長と会って、心まで家臣になられたか」
「傘下に入るというのはそういうことだと思っています。それよりも久秀殿、あなたは信長殿に命を救われたのだ。それを……」
「信長はどうでしたかな」
そんなことはどうでもいいと吐き捨てたいはずなのに、口は違うことをつむぐ。
「怖ろしいと思いました」
「儂のこともそう言ってたはずじゃの」
「確かに。しかし、信長様とあなたとは別々のものです。信長様は目の前に刀の切っ先をつきつけられるようで、あなたの場合は得体のしれないけものを間近にしているようなものです」
「言い得て妙ではないか。あの男が天下をとれば、天下そのものに切っ先をあてられる。それでも信長と手を結ぶのかのう」
「それが大和が生き延びる道であると私は信じております」
「大和は無事であると?」
「私の印象が正しければ、無事ではすまされない。それどころか大和という国などただの名称にすぎなくなるかもしれない」
いぬらことまで喋りすぎているという自覚はあった。しかし上辺の言葉では久秀は納得しないだろう。
「ならば儂わしと共に立とう。儂は秩序を破壊しようとは思わん」
「しかし戦をなくす気はない。あなたの歪んだ理想のためにあなたは御自分を頼っている人々を戦の世という無間地獄に押しこめようとしているのですよ。あなたの歪んだ願望を御子息や家臣の方々は知っているの
ですか」
「さァ、どうかのう。息子や家臣に対しては何かを強いたことはない。儂の気持ちを汲むか、それとも己の道をいくか。すべてはその者に任せておりまする。儂は誰も縛るつもりはない。縛れば、人から愛おしさが消えてしまう。信長はそれをしようとしている。儂のほうが人を愛することを知っている」
そうかもしれない、と思うことを否定できない。
信長の人のつかいかたはものを使っているようだと思うこともしばしばだ。
「あなたが織田の世をどう思われようと私は織田につきます」
「民を守る自信がおありかな」
「自信のあるなしではなく、決めねばなりません。久秀殿とてそうして決めてきたのでしょう」
久秀は嗄れた笑い声をあげた。その時ばかりは皺は深くなり、年相応に顔がくしゃくしゃになる。
「残念じゃのう。共に戦場を駆けたかったものを」
「なら降伏されよ」
久秀はにやりと笑って陣を出て行くと、入れ替わりに家臣たちが駆けこんでくる。
順慶は会話の内容を告げず、陣を堅守するように命じるだけにとどめた。
大きな衝突は多聞城を力攻めしないかぎりないだろう。
本陣にやってきた久秀のまとう雰囲気には険しいものはなかったからだ。
本陣には左近だけが残る。
と、その目が鋭くなったかと思うと刀を抜き、順慶を庇う。 いつの間にか人影が眼前にいた。
「何やつッ」
「左近、光秀よりの遣いだ。青狗という」
左近は青狗と順慶の顔を交互に見る。
「理由は未だ定かではありませんが武田が兵を引いた模様」
「たしかに受け取った」青狗はうなずいたが去ろうとしないのを、訝しく思う。「どうした。まだ他にあるのか」
「筒井様の傍にと主より申しつかっています。松永の下には暗殺に長けた者も多い、と」
「そんなことは分かっている。我々は織田よりも長く松永と戦っているのだ」
左近が言うと、青狗は小さく顎を引いた。
「左近、やめよ。人は多いに越したことはないし、お前も常々、松永の飼っているものたちは腕がいいと悩んでいただろ」
「しかし、いくら明智殿の手のものといえども、他家のものに殿を守らせるなど」
「光秀からの好意を無碍にはしたくない」
青狗は一迅の風とともにに音もなく去る。
「……なかなかの腕のもののようですな。ぎりぎりまで気づけませんでした。あれは我が家中の遣っている者よりもずっと腕がありそうですな。敵意をもって近づかれていたならば、ただではすみませんでした」
「お前がそこまで言うとはな」
「私はあくまで兵を指揮する者です。暗殺任務などしたことはありませんから。ああいうものには武術や剣術とはまた違う素質が必要なのです」
「期待しよう。この睨み合いは長くかかりそうだからな」
奈良で睨み合っている間、近江では織田の動きが頻繁にもたらされる。
七月に南山城の巨椋池のただなかに築かれた槇島城で義昭が再び兵を挙げたのだ。
しかしこれは翌日には降伏に追いこんでいる。
七月には本願寺と和睦し、八月には朝倉が、九月には浅井、十一月には三好義継をつづけて滅亡させた。
めまぐるしい情勢の中で奈良は凪ないでいた。
松永勢とは小競り合いはあってもぶつかりあいにまで発展しない。
それでも両家の忍びによる暗闘はあるようだが、順慶がそれを直接的に感じることはなかった。
数日に一度は陣内では雑兵の何人かが死体で発見される。
順慶は陣営内を回り、左近なども調練と称して奈良近郊の野辺にでて多聞城への示威行為と同時に、陣営が倦まないよう気を配った。
(久秀、どうするつもりだ。お前の頼みとするものは次々と消えていくぞ)
それは久秀の理想が崩れていくことに他ならない。戦乱の芽は一つ一つ潰され、織田信長という男へ収束する気配をみせる。
十一月も下旬になると織田方の武将である佐久間信盛が多聞城の包囲にくわわる。順慶はすぐに挨拶と共に陣へ向かう。信盛は仏頂面で順慶を迎える。順慶など、織田の末席としか思っていない、そんな風だ。
「順慶殿か」
「信長様はなんと。もうすでに半年以上も包囲をつづけておりますが」
「このまま包囲を続けよとの命である」
「ということは信長殿は松永を攻めないと」
「くどい。包囲を続けよ」
信盛は忌々しそうに言った。
蟻の這い出る隙もないほど十重二十重に包囲はつづけられた。
結局、十二月二十六日、久秀は多聞城を信長に奉じるという形で和議を結ぶことを求め、信長はそれを許した。
佐久間信盛が城を受け取る責任者になり、順慶もその場に同席した。
城内の手勢とともに城外に出てきた久秀に憔悴の色はなく、久通のほうがよっぽど疲れ果ててみえた。久秀たちはこれから信貴山城へ移る。
久秀と目が合う。彼は目を細め、微笑をのぞかせる。
「悠長なものですな」
左近が吐き捨てるように言った。
「俺たちの理解を超えた存在だ。理解しようとすると馬鹿を見るぞ」
久秀は有能なのかもしれない。
しかし、うちに抱えておくにはあまりにも危険だ。
これだけ厚顔無恥なふるまいができるのだ。
状況次第ではまた同じことをするだろう。
大和が松永に悩まされる時はまだまだつづくかもしれない。
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