第31回 織田信長
順慶は織田信長と対面するために上洛の途についた。
供回りは数人。
左近たちは領国の守りを固め、三好の動きに警戒を払っている。
公にはしてはいないが少なからず松永勢への備えもしている。
戦がなくなったからといって一朝一夕に溝が埋まることはない。
さすがは都だ。
立錐りっすいの余地のない人の多さに目を瞠らずにはいられない。
奈良の人の多さにも驚かされたが、それ以上だ。
大路の両脇に商店が軒を連ね、声を張って客引きをし、圧倒されてしまう。
他にも振り売りや、板売りなども道を歩きながら商いをする者もいる。
そして大路を行く女性の小袖が目を惹く。赤や緑と鮮やかに染め抜かれ、自然と朝菊の姿が思い浮かんだ。
辻つじには芸人がいて通りかかる客を前に猿回しや、身の丈六尺はあろう大男が小柄といえども人を腕一本で支え、支えられる小男は男の手の上で身体を支えて逆立ちをしてみせては拍手喝采を受けていた。
(洛外に出れば戦の不穏な雰囲気があるというのにここではそんな空気は微塵も感じない)
京は織田の庇護下にある。
この活気は支配が隅々までいきわたっているからだけでなく、京への物流が保障されているということのあらわれなのだろう。
順慶たちは織田より届けられた書状を頼りに洛中の屋敷を尋ねた。
一室に案内され、待たされた。しばらくすると光秀が姿をみせる。
「筒井殿。ご無沙汰しております」
「これは明智殿」
光秀ははじめて会った時と同じようにやわらかな笑みをうかべるが、そこに疲れの色を見て取れた。
「お疲れでしょう。用意をさせておりますゆえ、まずは湯浴みでも」
「ありがとうございます」
「京はどうですか」
「見るものすべてが新鮮で面白いです。人にも活気がある」
「これも織田の力でございまする」
「もちろんそうなのでしょうが、それ以上に明智殿のように細かいところまで目をむけられる奉行がいてこ
その発展でしょう」
「もちあげられましても、なにもでませんよ」
「本心です」
光秀と順慶は声をあげて笑った。
「信長様の逗留されている寺へは明日、案内いたします。明智殿、都での仕事はかなり激しいようですね。疲れが顔にでているように見えます」
「人が多く、また朝廷々や幕府とのやりとりに骨がおれます。天下のため、仕方がないと思うのですが」
「領地領民の差配だけでいっぱいいっぱいの私にはとても創造ができません」
「筒井殿は守るために全身全霊をつくされています。それはこの乱世において貴重だと思っています。松永
殿との和議も結ばれ、民政に力を注ぐことができるのではないですか」
「久秀を招いて酒宴をもよおしました。わだかまりが和議と一緒に流れていったとは思えませんが、これもまた静謐せいひつへの道と割り切りました」
「松永殿をどう見ますか」
「どこまでも底が知れないと。明智殿、久秀とは」
「筒井殿とするようにちゃんと話したことはありませんが、心はまるで子どもの時のまま、そんな気がします。ただ、身勝手に動き回ることは目に余りますが」
「信長殿はそれを許されている」
「そうです。周囲をどきりとさせることを松永殿は平然と口にしますが、信長殿は笑っています。松永殿と話をするのが好きだと一目で分かります」
光秀は部屋を出て行く。
翌日、順慶は光秀の先導で逗留先へ向かう。ものものしい雰囲気はない。
光秀が従ったのは境内までで、そこからは取り次ぎの小姓に案内される。
広間に通される。
待っていると、にわかに騒がしくなる。
順慶が平伏して待っていると、上座に人の気配を覚えた。
「……面をあげよ」
視線の先に小柄な男がいた。
眉は細く、目は切れ長。鼻筋はとおり、唇は薄い。生やした口髭は薄い。顔は小さく、全体的に端正な顔立ちだ。
順慶は自分が動揺していることに気づく。
この男がほんとうに織田信長なのかと。
地方を流れていた義昭を奉戴して上洛し、たちまち近畿に秩序をうちたて、比叡山をためらいなく焼き、そして今、四方に敵をかかえる。
果断であり、冷血、魔王という誹りさえ畏怖の念がそう呼ばせるのだろうと思わざるをえないようなことを次々となす男。
そんな織田信長象と、目の前の男がどうしても噛み合わなかったのだ。
「信長である」
声は低くもなく、高くもない。
通りがいいというわけでもなかった。
信長らしさを血眼になって探していた。
ほんとうに目の前の男が信長なのか。
目の前の男に、筒井家、いや、大和の未来を預けることになるのか。
「……筒井順慶に、ございます」
「お前のことは光秀より聞いている」
「ははっ……」
かすかに声が上擦った。
「さっきから人の顔をじろじろと見おって。このツラがそれほど珍しいか」
信長はにやりと笑う。
「いえ、そのようなことは……」
「これが本当に信長か……ち思ったか」
禿頭とくとうにおびただしい汗を噴いた。
「正直に申せ」
笑っている。
しかし言葉には有無を言わせぬ圧力があった。
「……は、はい」
「お前が疑うのは勝手だ。それともここで斬り合い、俺の首をとってみるか。首をひっさげて、ほうぼうの者にこれは信長かと聞いて回ればいい」
「お、お戯れを」
口の中が乾く。
「戯れではない。戦国の世だ。そういうことは珍しくあるまい」
冗談ではないとすぐに分かった。鷹を思わせる鋭い眼差しのなかにある光は真剣だ。
「我らは織田家の庇護を受ける身なれば……」
「お前は天下を望まないのか。今、天下を御するに近いのは俺だぞ」
臆面もない言葉だ。
「おそれおお、ございます。私は大和の平穏のみを求めております」
「ならば余計、気に入らないのではないか。俺は久秀と和議を結べと命じた。大和は侵されたままであろう」
「信長様がそれを求められたと聞きました」
「確かに。しかし納得したか否かについては話は別であろう」
「一度、織田家に従うと決めました。私の意見など無用と思っております」
「お前は納得しても、他の者はどうだ」
「私さえ納得すればいいことです」
「なら、家臣が反抗したらどうする」
「私が責任をもって処断いたします」
順慶はじっと信長を見た。信長もまた揺るがぬ視線を注いでくる。
気づくと頭皮だけでなく、背中まで湿っていた。
と、信長は硬く締まっていた口元を弛める。
「戯れが過ぎたか。許せ。俺は坊主が嫌いでな。その汗に濡れた頭を見ていると無性に苛立ってくる。比叡山に本願寺……けだものどもを思い出す。順慶、なぜ頭を丸めている」
「我々、筒井家は代々、興福寺との仏縁があり、当主は一様に僧形でございます」
「織田に従うと言った。ならば、還俗せよと命じればするか」
ごくりと唾をのみこんだ。
「答えよ」
「申し訳ござりませぬ。それは……」
「ほう。できぬと申すか。俺の命令といえどもか」
「はっ」
「なぜだ」
「私が還俗すれば、民が戸惑います。民は大和をまもる筒井家に期待しております。そして筒井家の当主は興福寺の衆徒であり、僧形であることが民たちを無条件に安心させているのです。今、私が還俗すれば民は不安がります。私は筒井の当主としてそれだけはするわけにはいかないのです」
「……信心、ではないのか」
「それはもう考えぬことにいたしました。私は大和を守る人間の象徴でさえあればよいと思い定めております。筒井家の当主がすべきこと、考えるべきことをやればいい。それは筒井順慶という人間の考えよりも優先されるのだと」
「つまり、仏はお前にとって民を信じ込ませるための演出、そういうことか」
「不遜であるとは重々承知しておりますが」
「道具なのか、と聞いている」
「……はい」
笑いが弾ける。ぎょっとすると、信長が笑っていた。
「貴様のような坊主が増えれば愉快であろうなァ。少しは俺も仏というものを考えてもいいと思ったぞ。ところで順慶、お前、さっきから大和のためと言っているな。俺は尾張は奪われたくはないと思うが、そのために死のうと思ったことはない。国など所詮、昔の人間が引いた区画にすぎないからだ。この国があり、海を隔てて朝鮮、中国、天竺、さらには南蛮、そういうものが国と思っている」
「私は国を守るためなら命を賭す覚悟でござります」
「ならばここで死ね」
「できませぬ」
「なぜだ。国を守るためなら死ねるのだろう」
「私が死んで本当に国が守られるのかわかりません」
「俺が信用できんか」
「あくまで私が棟梁を務める間は織田の傘下につき、生き延びると決めたので。私が死ねば状況は一変いたします」
「お前なら俺と渡り合えるか」
「そうあらねばならない、と思っています。その覚悟をもって参りました」
「そうか。お前は守るために死ねるか。ならば俺から大和を守ってみせよ。俺のために働け。俺は見ている。お前が役に立たぬと判断すれば領地領民は召し上げるぞ」
「はっ」
信長が立ち上がると共に、再び面を伏せる。
足音が遠ざかるのを待ち、顔をあげた。
一人残った室内で手を開いたり、閉じたりする。
手の平にはじっとりと汗をかいて、それはすでにひんやりと冷たい。
順慶は光秀の用意した宿所へ戻る。
■■■■■
人を遠ざけ、一人きりになった。
椀をもつ手が小刻みに震えていた。
傍から分からなかったようだが、信長との対面を終えてからずっと震え、供回りの者たちは押し黙った順慶を前に、怪訝な表情をしていた。
初陣の時に似ていたが、あの時はどこか戦場の空気にあてられたように身体の芯に火照りを覚えていた。
しかし今、それはない。
ただ、怖い、そしてなんとか虎口を脱したという思いがあるばかりだった。
織田信長。
その姿をあらためて思い返す。
特別これといって目につくなにかがあるわけではない。
しかし順慶は怖気をふるわずにはいられない。
大和を召し上げられる可能性に言及されたことは面食らったが、傘下に入るというのはつまりそういうことだ。
三好ほど甘くはない。
いや、そういうことではない。
あの場で交わされた言葉とは別のところ、なにかに順慶の本能が絡めとられたのだ。
息苦しさと緊張感。反論を許さないなにかが、真正面から襲いかかってきた。
光秀には包みこむように優しく、そして順慶という人間を受けとめようというものがある。
信長は眼差しや口調、その全てが刺し貫くようだった。
光秀があの信長を慕うようなことを口にしたのが不思議だった。
順慶は全身の力がつきたように空の椀を投げ出し、大の字に転がる。
光秀は天下を治められるのは信長だと言った。たしかにそうかもしれない。
しかしと順慶の思考は止まる。果たして天下は静謐になるのか。
考えても答えなどでない。
天下を静謐にできるのが信長ならば、それに従うことが大和を平和にする早道だ。
夜、光秀が部屋を訪ねてきた。すぐに酒と塩漬けにされた魚がだされた。
「信長様は筒井殿を気に入られたようだった」
「そうですか」
「あまり喜ばれないのですね」
「終始圧倒されてばかりで。頼りないと思われたかもしれないと」
「信長様は興味を失えば問答無用に話を打ち切られる方だ。話を無事に終えられたということは気に入られた証拠だ」
順慶は魚をほぐし、口にいれる。口に入れた瞬間は味つけが濃いと思ったが、咀嚼すると、ほろほろとくずれた魚の身からは甘みがでて、酒の肴のはずが箸ばかりが伸びた。
「筒井殿、これからは私が織田との仲介役をするよう言われました。これから長いおつきあいになるかと思います。ひきつづきよろしく願いたい」
「本当ですか。それは良かった」
「そう言っていただけるとうれしいです」
順慶は光秀に酒をつぐ。
「光秀……そう呼んでも?」
「構いません。いや、構わない、といったほうが?」
「もし良ければ。明智殿とは織田家中の人間である前に、友として接したいと思っている」
「そんなことを言われたのははじめてです」光秀は破顔した。
「私もこんなことを言うのははじめてだ。友などというものからは縁遠い日々を送ってきたから。でも、こんな世だからこそ自分の直感を大切にしたい。実ははじめて会った時から明智殿……光秀に親しみをもっていた。いや、これは私の勝手な気持ちだが」
光秀が今度から酒を注がれる。順慶は一息に飲んだ。
「そう思っていただけることは今の世では幸せです」
「やはりはじめての出会いが強烈だったせいかな。捕らえられた使者と会うのははじめてだったから」
「たしかに。よく考えてみれば、私も無茶をした」
「光秀は冷静に見えるが、かなり無茶なことをする」
「乱世を渡っていくにはそれくらいのことをしなければ。まあ、大和に入ってから雰囲気が良かったからまさか殺されることはないだろうと高をくくっていたこともある」
光秀は苦笑する。
「くれぐれも他の場所ではしないよう気をつけたほうがいい」
「心配はない。他のところはああも暢気に構えられるほど安らかでない。どこかしらに殺伐としたものがある。若い時分、放浪していたことがあってそれは痛いほど感じている」
「放浪? 上様に仕えていたのでは?」
「放浪の末に朝倉に仕官していたのだ。そこを都から離れていた上様に目をとめていただいたんだ」
それからしばしば酒を酌み交わし、深厚を深めた。
「実は順慶に紹介したい者がいる」
光秀は障子を開ける。
その先には夜闇に沈んだ庭がある。
と、闇が不意に盛り上がり、そこからなにかが湧き出す、そんな風に見えた。
目をこらすと影は人の形をしていた。
「忍びで、青狗あおいぬと申します。もともとは孤児だったものを育てあげました」
庭に片膝をついて控えているが男だというのも分かった。
若いように見えるが目だけしかまともには見えず、よくは分からない。
「書簡では時間がかかることもある。その時には青狗をやります」
「青狗、これから頼む」
青狗は小さく顎を引いた。
「もうよいぞ」
光秀の声に、あっという間に闇へ溶けこんで見えなくなる。
「驚いた。まるで仙術だ」
「眩惑げんわくするのが彼らの仕事。溶けるように消えるのもその一つ。仕事はできるから安心して遣える」
「もしや、正使としてきたときにも身辺警護につかっていたのでは?」
「私自身は大丈夫だったのだが家の者が心配してね」
「しかし、育てようというところまでははなかなか頭がいかない」
「それは立場の違いだと思う。私の家は零落していた。これはと思ったものを召し抱えなければ、どうにもならなかった」
穏やかに見えてもそういうところにもしっかりと目がいき届く。
そうでなければ幕臣であるのを信長も引き抜かないか。
「順慶、どうかしたか。なにかおかしい」
「いや、今日この場で光秀の人となりが分かったと思うと嬉しくなった」
「照れるな。是非、順慶のことも知りたい」
光秀と杯さかずきを交わす。
夜はまだまだ長い。
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