第28回 明智光秀
「織田からの返信はまだないのか」
順慶は私室にて左近と向かい合っている。
辰市城での戦いから二十日あまり。
「……まさか、黙殺されたわけではないか」
「それはさすがに。届けられた首は京でさらされたという話ですからな」
書状は興福寺の伝手を頼り、京都にいる織田の者に渡っていることは使者から確認している。そこから岐阜に届けられるにしろ、そろそろ返信がきてもおかしくはない。
(思えば、織田が我らと結ぶことは現状を考えれば前提になっていたが……)
織田と三好らとの睨み合いの情勢分析には力を入れている。両者が和解したという様子はない。
「久秀のほうはどうだ」
「興福寺からすれば別段、どうということなかった、と聞きましたが」
興福寺は久秀に討ち死にした一族の弔いとして銭を届けさせていた。興福寺としては奈良へ影響力を保持している久秀とも誼を通事ねばならぬのだ。
「まったく肝が太いな」
「まあ、たとえ憔悴していようとも繕いはするでしょうが」
「しかしすぐに再起しないのはそれだけ打撃を受けたということでもあるだろう。久秀が憔悴していようが、いまいが、兵を起こすだけの体力がなければ意味がない」
そんなところに福住城より急使がやってきいた。不審な者を捕らえたとのことだ。
そしてその者は、自分は織田の遣いあると言っているらしい。
順弘はその者の落ち着き払っている様子もあって自分では判断しかねるということで順慶に使いを送ってきたということだった。
「松永の罠、というのもおかしな話ではありますが」
左近もこれは判断しがたいらしい。
疑おうと思えばいくらでも疑える。しかし万が一ということもある。
順慶は左近を連れ、福住城へ向かった。
「で、どういう素性の者なのですか」
出迎えにでた順弘との挨拶もそこそこに早速、話を切り出した。
「山を彷徨っていたらしい。それを猟師が報告しにきたので捕縛した。松永の間者かもしれんとな」
「ともかく会ってみましょう」
順慶は背後に順弘と、左近を連れ、男の留め置かれた部屋に入る。不審者といえども織田の使者を名乗る以上、粗末な部屋にはおけず、代わりに番卒がおかれていた。
男は順弘を見ると深くこうべを垂れ、それから順慶へ誰何の眼差しを向けた。
順慶の左右に順弘と左近が控える。
「筒井順慶だ」
男は別段、驚くこともなく順弘へしたのと同じように深く一礼した。
「織田家から参りました明智光秀と申します」
明智光秀。口のうちで呟くが、聞き覚えはなかった。
やや面長な男だが目元は涼やかで鼻筋は通り、唇は薄い。黒目がちな瞳は澄み、武将然とした様相を微塵も感じさせない。
文官なのかもしれない。
旅装束で刀は捕らえられた時にとりあげられている。
あくまで自然体だ。
「返信まで時がかかったようですな」
光秀はうっすらと笑みを浮かべる。
「そのことはご容赦ねがいたく。信長様は上様の檄に答えた諸大名の攻勢にさらされ、ひとところにいる、ということがなかなかできなかったのでござります。筒井様からの書状を受け取ったという知らせをするのにも苦労するほどで。信長様には、よく筒井を見て参れ、そう言われ申した」
上様というのは織田にかつがれた義昭のことだろう。信長によって三好と義栄が四国へ逐われた後、征夷大将軍を継いでいた。
「そうか。それを聞いて安心いたした」
順慶は気づくと、自分が表情をゆるませていることに気づいた。
無事織田と誼を通じることができたこともそうだが一番の理由は眼前の男の引きこまれるような瞳にうかんだ柔らかな光のためだ。それは理知的でありながら決して冷めてはいない。温もりをたたえているように見えた。
「しかし明智殿。どうして山中をさまようなどという真似をなさっておりましたか。それに織田からの使者がたった一人とは」
「信長様はただ行って帰ってくることだけに満足するお方ではござりませぬ。ですから、大和の様子などを見て回っていたのでござりまする。そのためには一人で歩いたほうがなにかと都合が良いとおもいまして」
理知的なのか剛胆なのか判断に困る。
「それでどうでござりましたか。明智殿の目に、この国はどううつられましたかな」
左近が聞く。
「山は深く道は多く、ほうぼうに目がある。この地を治められる筒井様に民が服しているのがひしひしと伝わって参りました」
順慶は面はゆさを隠そうと、禿頭(はげあたま)を撫でた。
「失礼いたしまする」
外に控えていた従者が顔を出す。
順弘が立ち上がり、話を聞くや、困惑の色をみせながら順慶たちを見た。
「……ただいま筒井城に織田からの使者が参られたとか。到着した使者は、副使のみで正使の方はしばし到着が遅れると」
順慶と光秀は顔を見合わせて、笑い声を弾かせる。
「明智殿、詳しい話は筒井城でいたそうか」
順慶たちは筒井城へ戻る道中、馬上で言葉を交わす。
「明智殿は京の生まれでござりまするか」
「いえ。美濃でございます」
「そうでしたか。いや、明智殿はどこか品があるというか」
「そう言っていただくと、少し調子にのってしまいそうですな。たしかに、京には長くおりまして。田舎者として必死に貴族の猿真似をしておりましたから。興福寺との縁浅からぬ筒井様にそう思っていただけたとすると、多少なりともうまく染まれていたのかもしれませぬな」
「明智殿はわざわざそのようなことをなさる必要はないと思います。はじめて見た時から、なにか静かなものを感じました。それは品などというもの以上に人を惹きつけるのではありませぬか」
「もうおやめてください、筒井様。これ以上、褒められると身体がむずがゆくなりすぎてしまいます」
順慶は光秀の人柄に好感を持った。光秀が完全に本心をさらけだしてはいないことは分かっていながらも、そもそもこの人は裏表など存在するはずがないと、根拠のない、漠然としたものを持ってしまう。それと共に、この光秀という人物を心服させるだけの織田信長に対する印象もわずかに変わる。もしかしたら風に聞く、戦の火種をばらまくだけではない大器ではないか、と。
筒井城に到着すると、すぐに光秀を私室へ通す。
「失礼いたします」
朝菊が茶を運んでくる。
「かたじけない」
「明智殿、我が妻、朝菊にござりまする」
順慶が紹介をすると朝菊は深く頭を下げた。光秀もそれに応じる。
「織田家より参りました明智光秀にござりまする」
朝菊は礼を返すと静かに下がった。
「落ち着いた、よき奥方にござりまするな」
「あれでなかなか気が強いので困っております」
「それは女性全般にいえることでござりまするぞ、筒井様」
「なるほど。ところで明智殿、奥方は」
「おります。不器用な者ゆえ、奧は一人でござるが」
「明智殿らしゅうござりまする」
言って、自分が光秀のことをほとんど知らないことに気づいた。
「これは失礼いたした。今日、会ったばかりだというのに」
光秀は柔らかく微笑むと、そのたちこめる雰囲気が不意に硬くなるように思えた。
「明智殿、いかがされましたか」
順慶は思わず問うてしまう。
「筒井様、こたび、私が参りましたのは信長様との仲介をなすためのほかにあるのでござりまする」
「もちろん、我が筒井は織田殿と共に三好と松永どもを平らげる所存」
「そのことでござりますが」
光秀の言葉にまざるかすかな淀みに、順慶は眉をひそめた。
「どうされた」
「松永と和議を結んでいただきたいのです」
「なん、とッ……」
順慶は思わず鋭い声を放っていた。
「明智殿、それは……」
「信長様は松永殿の才を惜しんでおられるのです。おそらく交誼を結ぶ際にそれは絶対的な条件になるのではないかと思われまする」
「信長殿は我々と松永の関係は」
「承知してござる」
「松永は三好と結んで織田に反抗したのですぞ」
「すべてを戦乱の世の処世術と信長様は考えておりまする。才ある者を愛する方なのです」
順慶は白湯をぐっと呷った。熱いものが喉を流れ、ひりつく。松永家は不倶戴天の敵だ。
「もし、その要求を拒否した場合には」
「松永殿をとるだけでしょう」
それほどに久秀は才あるものか。いや、久秀の能力があることはわかっている。しかし、それを感情として認められないのだ。奸智と思い、忌み嫌うのもそのせいなのだ。
「ご心中、お察しいたします。しかしながら近畿の平定は愁眉の急。四方に敵を持つ織田家としては少しでも敵方を切り崩しておきたいのでござります。もちろん、すぐに決められぬこととは存じます。重臣の方々と協議した上で」
「いや」
順慶は言っていた。
ここで断れば、すなわち三好陣営につくほかない。少なくとも松永は再び、織田家の力を背景に大和の制覇にのりだそうとするだろう。そうなれば順清たちの犠牲が無駄になる。そんなことになるくらいなら松永方を押さえこんだ現状を維持していくほうが賢明だ。
そもそも熟考の末に、織田と共闘、いや、その大樹の陰によるほかないと決めたのだ。
それは松永が節操なく三好から離反しようが変わらない。
「織田殿がそれを望むのであれば従いましょう。承服しない者はおりましょうが、それは私が責任をもって説き伏せまする。大和の安寧はなにより我ら筒井が望むものでござりまする」
「そう言っていただき感謝いたす。私も信長様にいい報告をすることができます」
「織田とは末永いつきあいがしたい、我ら筒井の願いのあらわれと思ってくだされ」
「もう一つ、筒井殿にお伝えしたいことがござりまする」
「なんでござろうか」
「朝菊殿を見た上で、このようなことは切り出しにくいのですが……」
「松永のこと以上ではありますまい」
「それは、そうかもしれませんが」
光秀はやや口ごもる。
「妻帯のことにござる」
「私に……?」
光秀はうなずいた。
「お相手は」
「九条の姫君でござる」
「九条とは……あの、九条にござるか。摂関家の」
順慶は驚きに目を瞠る。
摂関家は藤原道長の血を引く、貴族の中でもさらに位を極め、貴族の頂点にたつ一族だ。
「実子ではなく、養女ではございますが」
光秀は言うが、順慶にとって養女でも十分すぎるほど眩しい存在だ。
「それも、信長殿が望んでいる、と?」
「いえ。これは上様が音頭をとっておられます」
「義昭公が」
「京でさらされた首のことは上様の耳にも入っております。もちろん、信長様も今度の婚礼については前向きでござる」
たしかに久秀との和議にくらべればなんでもないことだ。しかし、即答はできない。
「明智殿はこちらにどれほど滞在する予定でしょうか」
「二、三日の予定でおります」
「分かりました。それまでに返答できるよういたします」
順慶は人を呼び、逗留する場所へ案内するように申しつけた。
光秀が去ってから間もなく左近がやってくる。
「明智殿はいかがでござりましたか」
「優秀だ。腹も据わっている。まあ、京にいるということだけで信長が目をかけているのが分かる。織田との交渉だが、それほど難しくはないが、明智殿に二つの提案をいただいた。一つは久秀との和解。これはするつもりだ」
「仕方ありませんな」
左近はやや渋い顔をしたがうなずいた。
「しかし他の者たちについていかがなさりますか」
「事実を伝える。文句があるものには織田なしでどうするべきか、代案をもって来るようにと言っておけ。もし使えるならば聞こう」
「果断でござりますな」
左近は口元をほころばせる。
「迷っていれば天下の趨勢を見失う。それは織田が上洛してくるときのことで痛いほど思い知った。……二つ目に九条の姫君を妻にとのことだ。これは織田というよりも上様からの思し召し、らしい」
「九条……」
「養女ではあるが、と光秀は仰られていたが、身に余る光栄だ」
「なるほど。しかし上様が、なぜ」
「京へ首を贈ったことをお知りになり、我らを評価してのこと、とは明智殿が申されたが……左近、どうかしたのか」
左近は何かを考えるような目をしていた。
「なぜと思いまして。上様とは面識もないというのに」
「我々が織田と通じようとしているから、上様も目をつけられたのではないか」
「しかし我々は一時とはいえ三好と結ぶことで間接的にも義栄様を支える立場であったのですぞ」
順慶が口を開くまえに、いえ、考えすぎなのでしょ、と左近は話を変える。
「正室として招く、ということになりますな。重臣の方々は大喜びでしょう」
順慶は正室を設けていなかった。九条の血筋を引く姫ならばまたとない正室だ。
「……だろうな」
「朝菊様を慮っているのですか」
「見損なうな。朝菊はたしか大切だが、家の将来を左右することなのだぞ」
これまで何人かの側室をもっている時にもほとんど事後承諾のように告げるだけだった。朝菊はそれに対してなにも言わなかった。
「こんな言い方は姫君には申し訳がないが必要であればどんな女でも娶ろう。しかし正室として受け入れるつもりはない」
「九条家の姫君ですぞ。正室がいるならばまだしも……」
「正室をいずれもうけるならば、そうなろう。しかし俺にそのつもりはない」
「それはどういうことにござるか」
左近はさすがに訝しそうだった。
「大和のために必要だと思っている」
「側室をもうけぬことが、ですか」
「そうだ。大和はこれまで国人同士が争い、時に大和を二分してきた。そのままこの戦国の世にもつれこんだようなものだ。俺の代で、この不毛な戦に終止符をうちたい。そう思い、織田と結ぶことを決めた。争いはいずれ終わろう。今の代では俺が大和を差配していくことになる。その時、国内の誰かの娘を正室に迎えていれば、自然、筒井家とのつながりが深まり、他の国人たちとの間に格が生まれる。たとえ、今の代で生まれずとも、いずれ生まれる」
左近は静かに順慶の言葉に耳をすませる。
「正室は京の者だから大和と関係ないと思う者もいるだろうが、それは違う。正室をもらいうけることで筒井という者そのものが大和の国人衆より上、と見るものがでてくるだろうし、筒井家の当主の中にそんなものがでないともかぎらない。筒井家がこうも表にでているのはこの騒乱の世を切り抜けるためにまとめねばならないからだ。平和な世に格は必要はない。筒井家そのものも大和を守るいち国人として、時に他の国人の下につくことが必要なのだ。外とのつながりをもつことは外からの介入を呼ぶことになる。これからくるであろう平和な世ではすべての国人は等しくなければならない」
順慶は視線をやると、左近は口を開く。
「綺麗事と思います。たとえ殿がそう思われても他の者たちは筒井家を棟梁と仰ぎ、また領地についても筒井家が一頭地を抜いていることは変わりませぬ。形ばかりの平等など意味はありませぬ」
「殿の気持ちは分かりました。いくらか綺麗事とは思えますが殿が熟考した末に選ばれたのであれば私はそれを支持いたします」
「朝菊には事後承諾という形になるが……」
「それをなだめることこそ殿の腕の見せ所かと」
順慶は憎らしげな重臣の言葉に、ふんと鼻を鳴らした。
夜、白い着物をまとった寝所に入ってくる朝菊を前にしながら、唇を引き結んだままだった。どう切り出すのが自然なのか、最初の一言が問題だと考えるあまりなかなか口をひらけず、朝菊がうちわでおくってくれる風を受けるままになっていた。
「話がある」
朝菊は団扇を動かす手をとめた。
順慶の常とは違う様子を感じたのか、朝菊は背筋を伸ばす。
「九条の姫君を娶ることになる。ついては、私の元に置くことになる。それを了解してほしい……」
「了解もなにも。順慶様が決めたことに申すことはありません」
肩すかしを覚えるほどにあっさりと朝菊は言った。
「良い、のか」
「どうしたのですか。そんな不思議そうに」
「いや……もっと……いろいろと聞かれると思った」
反論されても順慶には承知してくれとしか言えなかったであろうが。
「私は武家の当主の室です」
女は強い、と順慶は思い知らされた。同じ立場でもそんな都合よく飲み込めるかどうかわからない。
「しかしながら」
やっぱりきたかと順慶は身構える。
「なにも、この場で別の女性の話をするものではないと思いますけれど」
「……ま、まずかったか」
「あまりいいとは言えません」
「そんなもの、か」
順慶は困惑し頭を撫でた。
「はい」
「くれぐれも左近になにかを聞かれても、余計なことを言うなよ。またあいつが、女の扱いに関して偉そうな講釈を垂れるかもしれないからな」
「分かりました。その代わり、貴族の姫君がいらっしゃるならば粗相がないよう気をつけてください」
「粗相など。俺は、女性にひどい扱いなどしたことはない」
「閨の場で他の女性の話をする人を信用はできません」
順慶は思わず歯を見せて笑う。
「なんですか」
「なんだかんだ言いながら妬いているのではないか」
朝菊が順慶の膝を軽くたたく。
「女心をあらためてお教えいたします。武家に嫁ぐとなればすべてが不慣れで困惑するはずですから。その時、その心を慰めてあげられるのは私ではなく、順慶様だけなのですよ」
正室、側室うんぬん以上の難問をつきつけられるようだった。
「……うん、頼む」
朝菊が微笑む。
順慶は朝菊をそっと抱き寄せる。花のような甘いかおりがふわりとかおった。
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