第29回 和解
順慶は光秀と共に遠乗りにでた。
最初は二人きりのつもりだったが、左近はもちろん、光秀と共にやってきた副使がそれを許さず、それぞれが距離をおいてあとをついてきていた。
光秀は筒井家から貸し出された馬をあっという間に心服させた。
従順でよく調教した馬をあてがったつもりではあるが、もともと光秀が乗馬の腕がかなりのものであることがそれでよくわかる。
いくつかの村を見、田畑をみてまわった。
どれも光秀の要望だ。
畦道を走る童や、順慶に手をあわせる村人を光秀は微笑ましそうに眺める。
水田が日の光をあび、きらきらときらめく。まだよちよちと歩きはじめたばかりの子がその光をつかもうとするように身をのりだす。
順慶が動くよりも先に光秀がそっと子どもを抱き寄せた。
子どもは自分の身になにがおきたのかわからないように光秀の腕の中で様々な表情をみせる水田のきらめきをじっと見つめながら手足を動かしている。光秀はなにかを呟きながら抱き直すとやがて大人しくなった。
子どもの母と思しき女性がかけてくると、光秀は子どもをそっと返す。子どもは光秀に手をふるように手を動かす。光秀はそれに笑顔で答えた。
「子どもの扱いに馴れておられる様子ですね」
「男が一人、女が四人です」
「私は女ばかり。まあそれはいいのですが、なかなか会えないせいか、どう接していいか。むしろ時々、父親らしいことをしようとすれば女たちがはらはらとした顔で」
「女親にしてみれば里親なんてものは気が向いた時にふらりとやってきて子どもにかまおうとする、厄介なものなのかもしれませんな」
「確かに」
順慶は苦笑する。
「……のどかですな」
呟くように光秀は言い、それから順慶を見て、頭をさげる。
「申し訳ござりませぬ。数ヶ月前に激しい戦をしたばかりだというのに」
「いえ。そう思っていただいて私は大和の民のひとりとして嬉しく思います。そのために我々は戦っているのですから」
順慶たちは馬を引き、草原に出た。
ゆっくりとたゆたう雲がどこまで緑の茂る平野に影を落とす。
順慶たちは馬から下り、草場にごろりと寝転がった。
「光秀殿、九条の姫君のことではござりますがお受けいたします。しかしながら、側室としてです」
「筒井殿にはたしか正室は」
「おりませぬ」
「朝菊殿のことを慮って、でございますか」
「いえ。大和のためでございます。私は自分がこの時代に生を受けたのは麻のごとく乱れた大和の秩序を再び戻すため、と思い定めております。そのために正室という特定の誰かと強い結びつきをうむものを受け入れるわけにはいかないと考えているのです」
「強い結びつきは大和における筒井殿の地位を安定させるのではありませんか」
「良くも悪くも、です。正室ならばみなは、そのつながりの強さを意識するでしょうが、それと同時に外からの影響を肯んじる必要がでてきます。側室ならば最小限ですませられる、と思っております。筒井は大和のいち国人としてこれからも他の者たちとともにありたいと、あらねばならぬと思っているのです」
「側室としてでも娶ることは特別にはなりませんか」
「大和を平穏にするためと。そこに上様の意向があれば無碍にすることはできません。信長殿も認めたことであれば尚更です」
光秀は微笑んだ。
「筒井殿がそこまで仰られるならば分かりました。信長様にはそう報告いたします」
「信長殿のお気持ち、心配するのはその点だけです」
「陪臣の身でこのようなことを申すのは不遜ではありますが、大丈夫でしょう。上様があるのは信長様の力添えがあればこそ。不満に思っても口にはだせますまい」
「織田は我々が考えるよりもずっと大きく力があるようだ」
「織田でなければ天下静謐はのぞめぬと私は思っております」
「信長という方はやはりそれだけの器量が」
「おそろしい方だと思う時もありますが。……私は以前、上様にお仕えしたことがありました」
「幕臣でいらしたのですか」
「上様を庇護する信長様から直々に声をかけてくださり、奉公することを決意しました」
「今は危機といえますが、明智殿がそれほど仰られる方ならば、乗り越えられそうですね」
「信長様の力がなければ今の上様はなかったでしょう。そのための松永との和解であるとお考えいただきたい。三好だけならばそれほど恐れる相手ではありません」
強い風が草原を渡った。雲の流れが早くなり、日が翳った。
「明智殿は幕府と織田、どちらが天下を采配すると思われますか」
順慶は腹を割るつもりで言った。ここでどう光秀が答えるのかを知りたくなってしまったのだ。両者の関係は良好なのだろうが、今の話を聞く限り、信長という男が大人しく義昭の下にいられる男とは思えなかった。
「ご安心ください。織田についている以上、大和が以前より乱れることはございませぬ」
光秀は落ち着き払って言った。
しばし見合い、順慶は笑う。
「申し訳ござりませぬ。たわむれがすぎました。明智殿にこんなことを聞くなんて。どうであれ、天下静謐は誰もが望むもの。我らも微力ながらお手伝いいたしましょう」
「心強うございまする。それではまた駆けるといたしましょうか」
光秀は笑った。
久秀との和解の地として選ばれたのは筒井城と信貴山城のほぼ中間にある龍田城そばの龍田神社だ。ここは法隆寺の鎮守社でもある。
織田方に光秀の姿はないことに、順慶は少しがっかりしたが、仕方がない。
こうしている間でも京周辺では三好の蠢動はつづいているのだ。
(思えば、久秀憎しで戦ってきたが、こうしてじかに会うのははじめてのことか)
順慶は境内に張られた陣幕の中にいる。幕の内にいるのは織田家からの使いと、順慶のみ。久秀はまだきていない。
(それにしても、追い詰められた人間が堂々と遅れるとはな。剛胆というか、人を舐めているというか。奸智に長けた老人らしい)
空の床机を見ながら順慶は思う。もう半刻は過ぎたろうか。織田の使者の表情もかなり渋い。そんなところへ、
「遅れて申し訳ないのう。松永久秀にござる」
まるでなんでもないという風に、薄ら笑いを浮かべた白髪の老人が現れる。
しかし織田の使者はぎろりと目を向けただけで、叱責するそぶりはみせない。
(これが松永……)
年齢としてはとうに老年に達しているはずだが、背筋は伸び、皺は目立つほど深くはなかったが、その肌の妙な艶、そして細い目のなかに穿たれた童子のように無邪気な光を浮かべたまなこは妙につくりものめいて不気味に思えた。
「お初にお目にかかる。筒井順慶でござる」
順慶はたちあがり、形ばかりに頭を下げる。
「お若い。おいくつかな」
「二十三になります」
「倅とそう変わらない歳だなァ。まあそれにしても、僧形のせいかな、お父上によう似ておられる。まあ父子ならば当然といえば当然であるが」
「なにを」
順慶は仰け反る。久秀がいきなり首を伸ばして食い入るように見つめてきたのだ。
「いい面構えをしている。面白き人間じゃァ」
「……どういう意味でしょうか」
その不躾さに胸中の不愉快さを抑えつつ言った。
「いや、失敬。怒らせるつもりはない。今のは儂なりの褒め言葉でのう。筒井殿は人の顔を見るのが好きではないかな」
「好きでも嫌いでもござらん。そもそもそのようなこと考えたことも」
「考えるのではない。見るだけでいいんじゃよ。人の顔にはその者の人生が見える。どんな人間であれ、笑い、泣き、喜び、怒る。しかしそのときにみせる表情は千差万別。二つと同じという顔は存在しない」
久秀は足を組んで、床机に腰を落とした。
織田の使者はやや眉をひそめただけで、特に口だしはしない。
信長がその才を惜しんでいるほどの人物ゆえか。
織田の使者が和議について口を開くが、順慶はほとんど聞き流し、久秀を観察する。
飄々としたたたずまいは演技ではないか。
先の戦で久秀は一族を多く失った。そこに何も思うところがないはずがない。そんな達観しきった者にあれだけ精強な兵がつくはずがないし、命をなげうって守ろうと思う将が集うはずもない。
無意識のうちに腰の拵えをさぐるような動きになり、それは境内に入る時にすべて預けてしまっていることに気づき、拳を握った。
「佐久間殿、よいよい。和解であろう。そんな使い古された文言など、いちいち告げなくてもよろしい。のう、筒井殿」
順慶はなにも言えず口ごもると久秀は破顔した。
「順慶殿がこのように面白い御仁だと知っていればもう少し早う和解でもなんでもしておけばよかったかもしれん」
順慶は相手のみせる反応に戸惑うばかりだ。とはいえ、さすがに織田家の人間を無視することもできず、神酒を口にして和議を天地神明に誓う。
順慶が陣幕からでようとすると久秀から声をかけられる。
「筒井殿。せっかく和議をしたのですから、時をつくり、酒宴などはいかがかな」
「そうですね」
「今のは社交辞令ではないぞ」
「私もですよ」
久秀は目を細めた。
「順昭殿は真面目な男だったが、その息子はただ真面目、というものではないのかのう」
「さあ、どうでしょう。私は父がどんな人だったかを知りませんから」
「真面目で隙のない男であった。早すぎる死が惜しまれてならん」
こちらの心を逆撫でしているとは思わなかった。
化生のように正体が分からない。一方、織田信長に認められるだけの底なしをもっと覗きこみたい、そんな危うい欲求が順慶の中でふくれあがりつつあった。
社から出ると両陣営の間は静かに火花を散らしている。
「殿、いかがでござりましたか」
左近が早速とばかりに尋ねてくる。おそらく向こうも、同じような調子で久秀に問いかけているだろう。
「和議は無事に結べた」
「松永久秀という人間はいかがでしたか」
「とんでもない怪物と、俺たちは対峙していたのかも知れない。そんな気分になった。しかし信長殿が興味をもつのもなんとなくわかった」
「では殿も興味を?」
「良くも悪くも」
順慶たちは松永勢が去るのを見届け、帰城の途についた。
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