第15回 看病
目を覚ました時、順慶は久しぶりに深く眠れたと思った。
「水を」
目を閉じたまま廊下にいる宿直に呼びかけたつもりだったが、かすれた声しかでない。
「……失礼いたします」
背中を支えられる感触。痛みを覚え、顔の筋肉が震える。
「大丈夫にござりますか」
「大事ない」
口元に布をもっていかれ、そこに染みこませるように水がゆっくりと注がれた。
喉を冷たい水が通っていく。
身体に染みこんでいくのが分かる。
「すまぬ。うまかった」
声から多少濁りが聞こえた。再び横になる。
「ようござりました」
そこではじめて目をあけた。
「……あ、朝菊……?」
朝菊は控え、頭を下げた。
「どうして、ここに」
「島様が」
「目が醒めましたか」左近がまるで見計らったように部屋に入ってきた。
「左近」上体を起こす。だいぶ楽になったがそれでも深いところで筋肉が引き攣るように痛んで思わず、眉をよせてしまう。
朝菊が介助しようとするが制した。
「大丈夫だ」
「はい」
朝菊は緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「左近、どうして朝菊が、ここにいる……?」
「殿が抱えられて興福寺に帰った姿をみたようで、寺の周りを歩きまわっていたところを私が見つけ、介助を頼めぬかと」
「今は戦の最中だぞ」
「であるからこそ常に寄り添い、看てくれる者が必要かと思ったのです。宿直はあくまで宿直でござりますから」
「……朝菊、迷惑をかけたな」
「いえ。私のほうこそお坊様のそばに女人が」
順慶と左近は顔を見合わせ笑う。それが身体に障り、唇を噛んだ。それでも口元は笑みの形のままだ。
「構わん。剃髪得度したとはいえ僧になったわけではない。俗世の垢を落とす修業をしなければほんとうの坊主ではない」
「は、はい」
「まあ形ばかりの僧と思ってくれ」
「あの、そのしゃべり方は」
「普段はこう話している。違和感はあるだろうが許せ」
「いえ、私が許すもなにもござりませんっ」
朝菊は慌てたように平伏する。
「そんなにしゃちほこばるな。朝菊、礼を言う。助かった」
「は、はい」
「しかし……すまないな。お前にああ言っておきながら我々は結局、松永の横暴を防ぎきれなかった。恨まれこそすれ、このようなことをしてもらえる義理などないのに……」
「そんなことはありません。あの時、大仏殿を仰ぐ順慶様はとても悲しそうな目をしていました。三好の兵はただ自分たちの安全ばかりを考え、誰一人、大仏殿のことを考えるような人はいなかったのに。順慶様だけがあの場に駆けつけて。それに、こうして身を挺して松永の兵と戦ってくださいました」
「戦うのが我ら筒井の務めなのだ」
それしかできないのにそれすらおぼつかなかった。自責の念は深い。
「たとえそうであったとしてもです。奈良の街は私たちの街なんです。本来であれば私たちも立ち上がらなければいけないのに。誰もが筒井様たちに任せて、頼り切るばかりで」
「朝菊。誰も間違っていない。町人は我らを受け入れてくれている。それで十分だ」
「……そうなんでしょうか」
「そうだ。朝菊の家に被害はなかったか」
「大丈夫です」
「そうか。左近、朝菊に礼金をもたせて送り届けよ」
「お金のためにしたわけではありませんっ」
「遠慮するな。こちらからのほんの心遣いだ」
「殿。しばらくいてもらおうではありませんか。まだ完治したわけではないのですから」
左近は緊張感のないことを言う。
「なにを言う。戦の真っ最中だぞ」
「重ね重ね申しますが、真っ最中だからこそ完治してもらわねば、男などなにかと力の加減など難しいでしょうし。もちろん、朝菊殿が良ければ、ですが」
「ぜひ。私にできることがあればっ」
朝菊の表情が明るくなる。
「では殿のことは頼んだぞ。なにか入り用なものがあれば、外にいるものに申しつけるように」
「左近、勝手に……」
「では、殿、とくとお休みくださいませ」
左近は順慶の制止をきかずに出て行く。
「……朝菊、世話をかけるな」
順慶は朝菊とあらためて二人きりになったことでなんとなくばつの悪さを覚えつつも言った。
松永方は奇襲の成功を維持できなかった分、筒井・三好方の勢力に封じこめられたという格好だ。
三好方は大規模な来襲こそなかったものの一月ずつ交代制で絶えず奈良には軍勢をおき、警戒を厳にしていた。
「陣が明るくなったようでござりましたな」
左近が暢気に言った。
朝菊のことだ。奇襲を成功させてから一月ばかりが経ち、順慶の傷はすっかり癒えた。
それでも朝菊はたびたび興福寺の筒井の陣に姿を見せる。
すでに役割は終えたはずだが朝菊には市街地での人の様子を聞く、という名目で左近がたびたび呼んでいた。
兵たちもいつの間にか朝菊を自然に受け入れていた。たしかに緊張感を維持しつつも、朝菊がくると場が明るくなる気がした。
「左近。兵たちにはしかと申しつけよ。今は戦の時であるとな。一瞬の気の緩みが大仏殿の惨状をひきおこす」
「殿、それはもう何度も聞き、気をつけておりまする。実際、朝菊の存在は兵たちにとっては気晴らしといいますか、一服の清涼剤でござりますぞ。細かいところにも気がききますし。必要以上にこだわるのは意識をしている証拠にござりますぞ」
「意識だと」
「思えば、すでに殿も二十歳でござります。幼いころより戦ばかりでござりましたからそのような暇もありませんでしたが、女人をしるのも大切なことと存じます」
順慶は目をそらした。
「他の重臣方は直接的には仰りませんが、子を儲けることも当主としての立派な責務の一つでござります」
左近の目にはからかうような色ではない。
「殿は朝菊のことを憎からず思っているではござりませぬか」
「俺がか」順慶は眉をひそめ、腕を組んだ。
ふりではない。強がりでもなく、順慶は自分の心が分からなかった。
女人に恋をすることを経験したことがない。作法として女の身体は知っている。
しかしそれに熱をいれあげるということはなかった。
身近な女といえば母であり、母といえば傾きかけた筒井の家をもり立てるのはそなたですぞと尻をたたく存在であり、父・順昭の名を汚すなと発破をかける存在であった。
順慶のこれまでの人生は戦づけの日々で、それは今も変わらない。
順慶自身、久秀の存在が大和にありつづけるかぎり、いつ窒息してもおかしくないほどの重圧にさらされつづけ、色恋などというものは頭の片隅に浮くこともないだろうと漠然と思っていた。
たしかに朝菊の姿を気づけば追っている自分がいるような気がしないでもない。
気さくな朝菊と話したがる若い兵が多い。その場にを偶然出くわすと朝菊と兵の話す様をじっと見ている自分に気づき、いつの間にか若い兵たちが逃げるように散っていくほど睨んでしまっている。そうすると朝菊は恐縮する。
あとから左近が笑いながら、しきりに朝菊が順慶の機嫌が悪いようでなにか気に障るようなことを心配そうに尋ねてきたといらぬ報告をする。
「正室というわけには参りませぬが……」
「もういい。分かった」
順慶は左近を追い払うように手を振った。
「朝菊も殿を慕っておりますぞ、きっと」
「しつこい」
「順慶様」
「うるさい。もういい、黙れ」
「も、もうしわけござりません」
朝菊の声だと気づく。
「違う、お前に言ったのではない」
障子にうつった影が去りかけて止まる。
「殿、それでは私はこれで」
「おいっ」
左近は目だけで笑い、「朝菊、構わんぞ」と呼びかけ、入れ替わりに出て行ってしまう。
よびとめる暇もなかった。
重くはないが、気まずい空気が流れる。
「……それで、何のようだ」
ついぶっきらぼうな口調になってしまう。
「あの、綺麗な花を見つけましたので。その、もし、よろしければと思いまして」
なんの花かは分からない。白い花弁はちょっとした風で煽られただけですぐに散ってしまいそうに頼りなげ。
それが竹でつくられた花生けに入れられている。
「可愛い花だな。飾っておこう」
「ありがとうございます」
にっこりと笑う。順慶はやっぱり頬が緩むのを感じた。
「朝菊、いつもすまないな。なにか不便なことはないか」
「大丈夫です。島様がなにくれと気遣いをしていただけますから」
左近という名前に反応してしまう。
「……左近が、か」
「はい」
「これからはなにかあれば俺に言え。結局、裁可を下すのは俺なんだからな。俺とこうして話せる機会があるのに、いちいち左近を通すのは二度手間だろう」
「あ、はい、分かりました」
朝菊は少し戸惑ったようにうなずく。
真冬だというのに頭皮にしっとりと汗が浮く。無意識のうちに頭に手をやっていて、手の平に触れる冷たさで気づいた。
「気づきませんで申し訳ありません。今、布とお湯を」
「気にするほどのことではない。これくらい放っておけばじきに乾く。それより……」
「はい」
朝菊は真摯な眼差しを注いでくる。順慶はなんどか喉を鳴らし、唇を舐めた。
「茶をもってきてくれないか。の、喉が渇いた」
「かしこまりました」
朝菊が部屋を出て行くと順慶はなぜかひどい疲労感と息の詰まるような感じを覚えた。
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