第13回 大仏殿炎上

そうこうするうちに季節がまたひとつ過ぎた。まだ朝日の上らぬ芯から冷えるような夜中のことだ。

「殿ッ」

 宿直の兵の声で順慶は目覚めた。

「東大寺のほうより火の手が」

 寝ぼけていた頭もそれで靄が晴れた。

 寝所として借り受けている建物の外にとびだした。吐き出す息は握りしめられるほどの白い塊となって風に流れた。

 境内にいる兵たちの動きが慌ただしい。

 供回りが具足を運んでくる。

 順慶は今すぐにでも馬を駆りたい気持ちをこらえ、具足をつけられていく。

「左近だ。左近を呼べッ。あと馬もまだ。すぐに出立できる準備を!」

 すぐに左近が駆けてきた。

「東大寺より火の手と聞いたが。状況は」

「申し訳ござりませぬ。未だ状況が掴めず」

「状況が掴めぬなら向かうまでだ。全軍に出動を命じよ」

 順慶は具足をつけられている途中だったがいてもたってもたまらず立ち上がった。供回りが引きずられて床を転がった。

 左近は立ちはだかる。

「なりませぬ。今、不用意に動けば久秀に虚を突かれるおそれがござります」

「であればどうせよというのか」

「情報を今、集めておりまする。三好殿の本陣にも遣いをやっておりまする」

「連中が俺たちに素直に情報を渡すとでも思ったのか。ええい、まだつけられぬのか、早くしろッ」

 最後に見た大仏殿の様子が頭を流れる。

 回廊におかれた弾薬、それに大仏殿の周囲に置かれた兵の休むための掘っ立て小屋。

「左近、お前は久秀の策が破れていけば、それは自分の首が絞まっていくのと同じ、弾けると申したな。先月、久秀の手引きで裏切った飯盛山城が降伏した。これは策が破れたというのだろう。我らのほうが数が多い。攻めようと思えばいつでも攻めることができた。何ヶ月も前にな」

「はっ」

 左近はただただ平服したまま同じ返答をくりかえす。

 扇子を苛立ち紛れに叩きつけようとして奥歯を噛みしめ、振り上げた腕を下ろす。

 左近はただ怒りを自分にぶつけさせることで、少しでも発散させようとしているのだ。

 具足をつけおわり、供回りが離れる。

 馬が引かれ、馬廻りたちが駆けつけてきた。

 夜闇にも厚い雲がたれこめていて、星もない。篝火の光の強さに目を何度も瞬きしなければならない。

 順慶は濡れ縁に座った。

「ともかく状況を調べよ。それまでは待機する。出立の準備は解くな」

 左近は駆け去る。使番も散っていく。

 身体が強張る。運ばれた白湯を一気に飲み干す。喉が焼けるように熱くなり、頭の中まで滾ってくる。

 とにかく手を動かす。

 気づくと、貧乏揺すりをしていた。

 報告は半刻ほどで入った。大仏殿のほか、多くの建物が火に飲まれていたらしい。

 それで十分だった。

「馬を。三好の本陣へ向かう」

 順慶は油坂の三好の本陣へ駆けた。

「順慶殿」

 制止する三好の兵をおしのけるようにして順慶を迎える長逸の顔は篝火に照らされながらもどこか青白く、強張っていた。

「大仏殿が焼けたと聞きました。何がおきたのでごりましょうか」

 長逸の引き結ばれた唇が震えている。

 すでに度量の深い大将を繕う余裕はなく、そうかといってあしらう気力もない。

「どうやら久秀めの奇襲をうけたようだ」

「備えておられなかったのですか」

「この長対陣だ。そうそう毎日、備えてもおられまい」

「私が東大寺に向かった時、回廊のほうに弾薬がおかれていました。それをそのままにして、火が移ったということは」

「詳しいことは我らもまだよく分からぬ。それに、前線には思わぬことが起きることは、順慶殿も承知のはず」

 なにをのんきなと怒鳴りそうになるのを必死に押し殺そうとするが、はらわたはにえくりかえる気持ちは深まるばかり。

「……長逸殿、それは松永と直接的には対陣してはおられぬ我らを責めておられるのか」

「そ、そういうわけでは」

 一歩、踏みこんできた順慶に長逸の目が泳いだ。

「ともかく今は事態を収拾することが急務。今、奇襲を受けた部隊をまとめている途中なのだ」

「攻め返さぬのですか。久秀が討って出たということはそれだけ向こうも切迫しているからではないのですか」

「これはもう決まったこと。そことまで申すなら筒井殿だけで動かれよ。三好には三好の戦のやり方がござるッ」

 長逸は突如、開き直ったように声をあげた。

「あいわかった。とにかく、我らも守りを固めます故、今後は連絡が滞らぬようお願いいたす」

 三好に引かれては困るという気持ちはわずかも起きなかった。何とか感情を抑えられたのは怒りよりも、自分たちが頼ったのはこんな者なのかという虚しさのほうが大きかったからだ。

 翌日、驟雨が奈良の街にふりそそいだ。寒さに手足の感覚が鈍くなるような冬の朝。

 順慶は兵を引き連れ、東大寺へ向かった。

 東大寺に近づくにつれ、焦げ臭い嫌なにおいが鼻をついた。すでに両陣営は東大寺を離れていた。奈良の町人たちは手を合わせる者、嘆く者、跪いて震える者、さまざまだったが、順慶たちの姿を見るなり皆、一様に非難の声をあげた。

 その中を順慶たちは大仏殿にむけて駆けた。寺の者たちが何人も雨に打たれながら大仏殿の周りにいた。

「筒井殿」

 僧侶の一人が気づく。他の僧侶たちは力なく顔をあげた。

「これは拙僧どもの浅慮を天がお怒りに……」

「馬鹿なことを言うものではありません。これは人がなしたことにござりまする。松永が、三好が、そして我ら筒井の力の足りなさ故に起きたこと」

 順慶は大仏殿を見上げた。

 大仏殿は骨組みすら残さず全焼し、盧舎那仏が曇天の下に露出しているばかりか、その首が落ち、雨粒と泥、煤にまみれてしまっている。

 肌が粟立ち、次いで血が燃えるように身体が熱くなった。

 力がないゆえに起きてしまった、起きてはならなかった罪だ。

 町人たちが重い足取りで敷地の中に入ってくる。

 ひどい有り様の大仏殿、盧舎那仏を仰ぐ。

 その中に朝菊がいた。

 雨に濡れるのも構わず、呆然と目をやっている。そして朝菊は順慶に気づく。

 かけられる声はなにもなく、俯いてしまう。

 目の端で朝菊がこちらに身体を向けるのが分かった。

「戻るぞっ」

 なんの面目があってまみえることができるのか、順慶は恐れるように声をあげた。

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