第46話「ねえ、覚えてる?」

「……ケッ、カ」


青函トンネルを抜けようとした頃、咲は小さく呟いた。車内の喧騒の中、それを聞き取ることは出来そうもないほど、その声は小さく擦れていた。しかし良広が久しぶりに聞く妹の声を聞き逃すはずはなかった。発狂してからというもの、咲が発する言葉は理解不能な叫び声か笑い声だった。良広は目を見開いて思わず咲のほうを振り向いたが、そこには「老婆」がいるだけであった。


「咲?」


すっかり痩せこけ、厚手のコートの上から出なければ骨が浮き出て分かるまでになった咲の肩に手を置いて、良広は咲の体を揺すった。しかし咲の体には相変わらず力が入っておらず、それっきり言葉を発することもなかった。気のせいだったのかと肩を落とした良広だったが、しばらくして咲の中の地獄蝶がカンナサマに近づくことに反応したのかもしれないと思い、咲の顔をしげしげと見つめた。


 目的の駅に着くと、良広は咲を背負って待合室に入った。ホームから駅の建物に入るまでそれほど距離はなかったものの、さすがに北海道の寒さは身に滲みた。咲の体が滑らないように手袋をしていなかった良広であったが、予想以上の寒風にさらされて指先がかじかみ、逆効果に思われたほどである。暖を求めて入った駅の待合室は、同じ目的の人でごった返していた。それにも関わらず席の一番前の席に、高校生くらいの女の子が荷物を置いて座っている。少女はまるで眠っているように瞳を閉ざし、背もたれに体を預けていた。奇病が流行りだしてからは駅でこんな風景を目にするのは初めてのことだった。良広がその少女が荷物を置いている席に近づくと、少女は艶やかな流し目で良広を見やって目を細めた。化粧も何もしていないようだが人目を引く美しさである。肩に掛かる不揃いな髪とコートで見えにくかったが、マフラーをしていなかったその少女の首筋には何か赤い物が見えた。見れば見るほど浮世離れした品があるその少女に、良広は目を奪われた。


「何か用?」


少女は自分を見つめる良広に首を傾げて囁いた。大きくはない声だが、よく通るその声は良広が予想していたよりもわずかに低かった。首から何か提げているのか、小さく金属と布が擦れる音がした。


「荷物を退けてもらえますか?」

「いいけど、僕の顔に何か付いてる?」


僕、と言われて、良広は目の前にいたのは少年であると気付いた。少年はショルダーバッグを手繰り寄せて自分の膝の上に乗せた。相手が少年と分かって、良広は安心して咲をひとりで座らせておくことが出来た。


「すみません、ちょっとの間、この子を看ててもらっていいですか?」

「いいよ、でもすぐ帰ってきてね。お兄さんと違って、僕は暇じゃないんだ」


少年は人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。一言一言に厭味を含めずにいられないようだ。人を不快にさせるこの笑みに不安になりながらも、良広はバッグを手に席を外した。その姿を笑みを浮かべたまま見送った少年は、咲の耳元に口を寄せた。


「ねえ、覚えてる?」


少年が小さく尋ねると、咲の唇がそれに合わせてわずかに動いた。少年は、小さな声で長崎に伝わる歌を歌った。歌い終えた少年は満足気に微笑んで、ゆったりと座席に腕を組んでもたれ掛かった。だがすぐにその表情は険しくなり、咲の腹部を恐ろしい双眸で睨んだ。まるで親の仇でも見るかのような憎々しい目で、少年は咲の下腹部を睨みつけたのである。その強いまなざしには、決意も含まれていた。今まで逃げてきた相手に、正面から立ち向かうことを少年は心に決めていた。 


 後ろ髪を引かれる思いで、良広は人気のない隅で携帯電話を手にした。良広の両親は、咲をカンナサマに会わせに行かせる旨をしたためた手紙を、健司に送っていた。すると健司は、中村光介という人物の携帯番号を教えてきた。どうやら今はその中村という人の家に厄介になっているから、駅に着いたら電話しろということらしい。


「もしもし、初めまして。大森良広です」

「ああ、どうも。どうしたんですか? カンナが見つからないわけじゃないでしょ う?」


一通目の手紙の返事では非協力的だった健司が、一体どういう風の吹き回しで光介という男の電話番号を教えてきたのか分からない。何か裏があるのではないか。そう清美は不安を口にしていたが、電話に出た光介の声は良広が肩透かしに感じるほど朴訥としたものだった。まるで今回の奇病とは無縁に思えるほど、光介の声はのんきで、穏やかな口調だった。


「カンナ? カンナサマ、のことですか?」


光介は良広がどうしてカンナに会えなかったのか、釈然としない。待合室の一番前の席に座って待っているようにカンナには言ってあったし、あの風貌なら人目を否が応でも引き、かつ浮世離れした雰囲気は気付かれないほうがおかしいようにも思われた。そんな光介の話を聞いて、良広は「すぐ行きます」と言って電話を切って走り出した。何故気付かなかったのだろうと、良広は自分を責めた。良広は少年の前で、老婆にしか見えない咲を「」と呼んだ。しかし少年は怪訝な顔一つしなかった。それは少年が、咲と自分が同い年であると知っていたからである。得体のしれない少年に、妹を預けてしまった。もしかしたら、カンナサマは自分の蝶が憎いあまりに、咲に危害を加えるかもしれない。そんな思いが、良広を急がせた。

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