第41話「形式的な臨死体験だね」

 家に戻ると、カンナの家中が騒然とした。カンナがいなくなったと思って探し回っていたら、そのカンナが血塗れで帰宅したのだから。自称言い訳上手の光介のおかげですぐに騒ぎは収拾したのだが、問題はそこからである。光介の胸に残る傷跡の謎が、千房の家の者にも分からなかったのである。カンナの祖父母も、カンナと光介の様子を見て驚き、慌て、最後には首を傾げるだけであった。

 

 祖父母は親戚にかけあい、健司は光介と向き合った。その間にカンナは風呂場で体を拭いていた。傷は既に治っていたが、頭を切っていたため血が思った以上に出てしまい、体中が乾いた血でカサカサして気持ち悪かったのだ。


「この度は、息子がご迷惑を……」


巨木を輪切りにしたような古く光沢のある机を挟んで、健司は頭を下げた。


「いえ! やめて下さい。事故を起こしたのは、こちらです」

「あ、ああ。そうでした」


健司は柄にもなく照れ笑いを浮かべて座り、光介に茶を勧めた。光介は一礼しただけで、茶を飲むことはなかった。拒絶したわけではない。むしろ光介にはここが何だか無性に懐かしく思えて仕方なかったのだ。まるで、ここが自分の家でもあるような感覚さえある。古い家のためにそう思うのか、それともそれ以上の何かがここにあるのか、光介にはつかめなかった。


「カンナは天邪鬼と言いますか、素直じゃないと言いますか、いつも人を見下げたような態度をとります。それで、こちらとしましては、謝り癖がついてしまったんで しょう。いや、カンナが不安定な時に、目をはなしたこちらも悪かったのでしょう が……」


そう言いながら、健司は大学ノートを何冊か本棚から取り出した。ノートと言っても百枚つづりの分厚いもので、そこに細かい字でびっしりと書き込みがある。健司がカンナにも誰にも知られずに、一人で調査した記録であった。

 

 一冊目、二冊目、と分かるように番号と記した年代が書いてある。若い番号のついた物は、すでに紙が黄ばんでボロボロになっていた。


 健司は光介に、この家に伝わるカンナサマ信仰とカンナの関わり、血華と地獄蝶などについて一通り説明した。光介の方も、曾祖母のことや自分の胸にある傷について健司に明かした。二人はそれぞれ考え込んでしまったため、気まずい沈黙が降りた。その沈黙を破って先に口を開いたのは、健司だった。


「人の力が、及ばないものだということは、重々承知していたんですが、私もまがりなりにも父親です。カンナのためにできることはないかと、ずっと思ってきましたし、今でもこれからも変わりません。しかしどんな文献にも、大学の研究室にも、カンナサマのことを記した物はありませんでした。聞き取りも、できる限り行ったのですが、カンナサマのこととなると難しくてね」


健司は自嘲気味に笑ったが、光介はその表情に好感を持った。良き父親をカンナが持っていたことに、わずかながら安堵したせいかもしれない。


「それ、全部ですか?」


光介が健司の手にしたノートを見ながら感嘆の声をもらした。


「いえ、カンナが小学校に入ってからすぐに調べ始めたので、押し入れにもっと古いのがあります。初めは番号もつけていなくて」


健司はあの時のカンナの泣きそうな顔を、今でも忘れられずにいた。カンナがクラスメイトの「痛み」が分からないと言ってきた日のことだ。この日から、健司は自分なりに蝶に戦いを挑むことにしたのだ。健司はノートを棚に戻して膝をすすめた。


「ひょっとしてその方は、臨死体験などの経験がおありなのではないでしょうか?」


何の脈絡もなく、健司はそう切り出した。「その方」とは光介の曾祖母のことだろう。何故曾祖母と臨死体験が突然結び付けられたのか。あまりの唐突さに光介は戸惑ったが、健司の真摯で真剣なまなざしに、光介も本気で考え、必死で記憶の糸を手繰る。健司のノートや頭の中には、何か曾祖母について勘が働くに値する情報が詰まっているのだろう。


「一回死んで、また生き返るってやつですか?」

「類似でも構いません」


妙に神妙な面持ちで健司がそう言うので、光介も再び必死に記憶を探った。北国育ちの光介には、慣れられそうにないこの土地の暑さが、頭の中で長い間固まっていた何かを溶かしていくようである。その暑さに重なって響く蝉の声が、ふと記憶の綻びから、幼き日の母の言葉を思い起こさせた。それはたった一回、母がポツリとこぼした一言だった。




『まだ生きているのに、自分の葬儀をした変わり者だったから』




「生きているうちに葬式をした変わり者。そう母が言っていたのを聞いたことがあります」


カンナは風呂から上がると、布団に横になったままで光介と健司の会話を聞いていた。体の具合が悪かったとしても、カンナは口だけはいつも通り達者であった。すかさず「血華は死ねないから、死んだことにでもしたかったんじゃない?」と軽口を叩いて笑った。しかしその直後、カンナは自分の軽口を真面目な顔で反芻することになった。


(血華に残る傷。血華が自らを死んだことにする……)


「擬似的な、死?」


(まさか、光介の曾祖母の葬式は特別な意味を持つというのか? いや、その血華自体が、特別な存在になる、ということなのか?)


「つまり、血華としての寿命を一度終わらせる?」

「カンナ、どうした?」


健司は一人でぶつぶつつぶやくカンナに問いかけるが、カンナは反応しない。そして、しばらくしてカンナは不敵な笑みを浮かべながら、叫んだ。まるで、鬼の首でも取ったかのように。


「形式的な臨死体験か!」


血華が不死身の体を持つのは、蝶との契約があるからであって蝶そのものの力によるものではない。問題なのは、この蝶が本来地獄にいなければならない存在だということである。つまりは蝶の性質である。この性質は「穢れ」と言い換えることも出来よう。そんな蝶に血を与える血華は、この世にありながらあの世と通じている、片足ずつこの世とあの世に置き、その境界線を跨いで立っているような存在である。つまり血華はこの世のものであると同時にあの世のものでもある。そのため血華にはこの世の何人も、いかなる武器も、害を与えることは出来ないが、同じ血華だけが同類の体に害をなすことが出来る。そしてその血華の血は、蝶の性質を抑制するためのフィルターのようなものだ。血華は地獄に蝶がいたときと同じ行動をさせることで、地獄蝶の「穢れ」を緩和しているのだ。しかし、蝶は華を見失ってしまった。人である華はフィルターの役目を疎んじ、蝶の手の届かない世界、つまりは異教の世界へと行ってしまったのだ。そこで蝶は自分が地獄にいるモノで、そこで魂が流す血を吸っていたことを忘れ、この世にただの虫となって取り残されたり、存在を否定されることで消滅したりした。しかし、蝶が自分の性質を忘れたとしても地獄にいる蝶がこの世にいる限り、契約相手の血華は生まれてくる。そして、血華が再び蝶の手の届くところに帰ってくるのを待っているのだ。光介の曾祖母もこの仕組みに気付いた。だから光介を守るためにロザリオに代わる傷を付けて蝶から隠したのだ。しかし、血華の体に傷跡を残すことは同族であっても出来ない。そこで、寿に、生きている間に自分の葬式を行ったのだ。


「寿命前に死んだ血華は血華ではない。けれどその人の血華であるという性質が消えるわけでもないから、傷が残せたのか」

「僕も今葬式やったら同じことになるだろうね。でも、いい気分しないな。光介はその人との思い出ないんだよね?」


光介が頷くのを見てカンナは「やっぱりね」と笑った。


「感謝しなよ、そのばあさんに。必死だったんだよ、きっと。光介が生まれたときには寿命が近かったんだ」


光介は自分の胸の十字架に手を当てた。もし、これがなかったらと思うとぞっとした。自分にこんなことをするくらいの人だから、きっと自分は曾祖母によっぽど嫌われていたのだろうと小さいころの光介は思っていた。だが曾祖母と赤ん坊の自分が並んで写る写真や、その写真の中でやさしそうに微笑む曾祖母を見ていると、曾祖母が自分を嫌っていたというのは違っていたのかもしれないと思うようになっていった。自分の手で一生消えない傷を曾孫に残した、優しい笑顔の曾祖母。何故曾祖母は自分に火箸を当てなければならなかったのか。曾祖母はどんな人だったのか。そして、曾祖母の故郷とはどんな所だったのか。一生消えない十字の火傷は、光介に曾祖母に対する興味をわかせた。曾祖母の生まれ育った長崎に来れば何かわかるかもしれないと思って北海道から来ていた。それは本当に淡い期待でしかなかった。だが、自分はやはり曾祖母に嫌われていなかったのだという確信を得ることができた。嫌われるどころか、大事な曾孫を蝶の手から守ろうと必死になっていたのである。ほんのわずかでもその曾祖母の心に近づきたくて長崎に来ていたが、まさかこんなことまで明らかになるとは思ってもみなかった。ちょっとした旅行のつもりが、自分や曾祖母の正体を知る旅になろうとは……。

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