第24話「私は待っていたのです」

「マリア、様?」


男は呆然と呟いた。目の前に突然現れた少女は、黒髪ではあるが人間離れした美しさと神聖さを兼ね備えていたのだ。男は背に十字架に似せた後光を背負う阿弥陀像を思った。一方、かんなは半ば愕然として唇をかみ締めた。自分は何を期待していたのだろうと恥ずかしかった。俯いたまま、かんなは言葉を探していた。今の一言で男が隠れ切支丹であることが分かってしまった以上、迂闊に自分が切支丹でないといえばどうなるか分からない。もし隠れ切支丹を見つけたときは役所に報告しなければならない。役所に見つけられればこの男が拷問されて棄教を誓うことになる。だから切支丹は背に十字架を秘めた仏像に祈り、仏教徒を装って隠れているのだ。自分が男の信仰を、ひいては男の生活を壊す存在であることを否定しなければならない。しかし、隠れ切支丹の密告に金が動くと知っていながら、自分が男を役人に売らないと言っても信じてはもらえないだろう。だからといって、かんなには切支丹になるつもりもこのまま聖母マリアを騙る勇気もなかった。


「畏れ多いことです」


これをご覧くださいと、かんなは蝶に自分の血を吸わせて見せた。男は小さく目を見開いてその有様を凝視していた。可憐な華奢な少女の白い肌に針のような口を差し込む黒い蝶の禍々しさは、まさに悪魔と言ってよかった。しかし男はその光景が何故か一抹の懐かしさを自分にもたらしていることに気付いた。そしてそのことによって少なくともこの少女は自分の失態を役人に告げるような人間ではないことが分かった。男は自分自身どういうわけでそのように思ったのか分からなかったが、少女にとって蝶に自らの血を吸わせるという行為は、隠れ切支丹だと名乗り出るに等しいのだと感じていたのだ。


「何故、こんな所に?」


男は優しげにかんなに語り掛けた。少女の風体はどう見ても漁をするという格好ではない。どちらかと言えば遊女の職だといわれたほうがよっぽど納得がいく。


「私は、待っていたのです。それが誰かは忘れてしまったのですが、今日お会いすることができました。私は、貴方にお会いしたかったのです」


かんなは涙を薄く湛えた瞳を輝かせて笑んだ。それは今までかんなが見せたことのない至上の笑みだった。男はそのかんなの顔を何よりも美しいと思った。「それは良かった」と男も笑った。そして男もまた、自分もそんな気がしていたのだと告げたのだった。


 これ以来、二人はよくこうして浜辺や彼岸花の咲く丘で逢瀬を重ねるようになった。かんなの蝶はこの男をひどく嫌い、男と会うなと五月蠅く言ってくる。まるでお目付け役だとかんなは笑ったが、この蝶は性質の悪いことに必要以上に血を吸ってかんなを歩けなくしてしまうという強引な手を使った。




「どうして、彼をそんなに嫌うの?」


今日も蝶の忠告を無視しようとしたため、血を吸われすぎたかんなはひどい貧血であった。顔は青ざめ、吐き気がした。柱にもたれて座り込むのがやっとのかんなは、自分が切支丹になるわけではないと、何度も蝶に言って聞かせたが蝶は信用していない。蝶にとって信仰の違いは死活問題なのである。


―――あの血華は、還る世を違えた。血華と蝶の世が否定されたから、消えた。


蝶の言葉は、男がかつて血華であったとことを暗示していた。そして、男がキリシタンになったため、蝶が華を失って消滅したことも。


 虫に感情というものがあるのかは分からなかったが、かんなの蝶は自分がその二の舞になるのをひどく恐れているようである。しかし、自分がキリスト教に帰依することはないだろうとかんなは考えていた。


 この地域には正月に絵踏みを行う習慣があった。キリストや聖母子像が浮き彫りにされた金属板を人々に踏ませることにより、隠れ切支丹を焙り出すのである。従順なキリシタンはこれが踏めないと言うが、ただの板が踏めないなど、かんなには正気沙汰とは思えなかった。かんなの主人は、この板を踏むとその一年が幸せになるのだとまで言ったことがあった。かんなはこの言葉を無感情に聞き入れた。そういう迷信も無きにしも非ずだと考えて、ただ冷たい金属製の板を踏み付けたのだ。さすがに男に出会ってからは、板を踏んできた自分の行為が後ろめたく、男には悪いと思った。しかしそれは板の上に描かれた絵にではなく、男に対しての感情でしかない。


 かんなは柱にすがるようにしてようやく立ち上がると、そのまま外に出た。ひどい眩暈のせいで視界がはっきりせず、坂の多い道が行く手を阻む。それでもかんなは折れた木の枝を杖代わりにして海へと急いだ。

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