第23話「少しだけ、悔しい」
「物足りないわね」
かんなは溜息をついて自分の着物の中を覗き込んだ。かんなの白い肌を汚すのは生まれつきあるこの痣だけである。傷一つないこの体が異常なのはよく知っている。そしてこれが蝶に血を与える代償だということは予想できていた。しかしこの奇妙な特質が、かんなに生きることへの張り合いを失わせていることは確かであった。体が傷つくことを知らないから、本当に自分が現実に生きているのかすら疑問に思う。血を流すこともないから、自分が本当に血の通った人間なのかすら分からなくなる。だから、かんなはこの無味乾燥な人生から脱け出す時を待っているのだ。海を臨む彼岸花が咲くこの丘で。かんなは自分を助け出してくれる誰かに会えるような気がして、いつも海を見にここに来た。それが誰なのかは分からないが、蝶が言うには自分と同じ血華らしい。
―――あの蝶は、華を失った。
着物の図柄に擬態する蝶はそう語った。
「それは私の先祖の血華のことね?」
蝶は頷く。蝶はある程度の会話ができたが、その答えはいつもそっけない。それは蝶がかんな本人には全く興味を持っておらず、そこに流れる血が欲しいだけでかんなの傍らにいるからだ。
「いつかの私の魂はその血華を愛していたのね。少しだけ、悔しい」
かんなは自嘲の笑みを浮かべて髪を掻き揚げた。海の風は力強く奔放である。海鳥が空高く舞い、島々は雄々しく浮かび、漕ぎ出す船など蟻のようだ。人間など小さいものだ。そんな人間を世界は包み込んでいる。ただそれだけで、かんなは満たされる気分になれた。
しかし、かんなはふと一つの人影に目が釘付けとなった。蟻ほどに小さい船の上に、貧しそうな身なりの男が乗っていた。もう日が傾きかけた夕暮れ時、逆光で人の顔など、否、そうでなくとも丘の上から船の上の人の顔を見ることなど出来ようはずもない。しかしかんなには分かった。着ている服こそみすぼらしいが、それが年若い端正な顔のつくりをした健康そうな日に焼けた肌を持った男であることが。凛々しいその顔つきが、男の正義感の強さを物語っているようである。
かんなは駆け出していた。あの男に会わなければならない、そんな焦燥に掻き立てられ、来た道を必死になって戻っていた。あの男の顔は今日初めて見る顔であった。しかし、かんなはあの男にどこかでいつか会っているような気がしてならなかった。どこでだろう、と焦燥と共に込み上げてくる切なさの中でかんなは考えていた。頭の中で、何かが明滅していた。
黒い蝶が二匹。
赤い花。
女の子の影。
赤い液体。
それらの映像はかんなが足を進めるたびに乾いた土やかんな自身は知ろうはずのない血の感触、何を言っているのかまでは分からないが子供の声、そして今と変わらぬ潮騒、そして一段と濃くなった潮の香りへと変わった。もう後半の海の感覚は、現実のものなのか頭の中で駆け巡ったものなのか、それともその両方なのか区別はつかなかった。
砂に足をとられながらも、かんなは男のもとへ近づいた。あれだけ会いたいと思ったにもかかわらず、いざ声をかけるとなると何を言えばよいか分からない。何よりも、鍛え上げられた男の後姿に近づくたびに伝わってくる、男の清潔さと強さに圧倒されてしまっていた。初めてかんなは自己嫌悪と羞恥の念を覚えた。自分とこの男は違いすぎる。自ら労苦を味わいながら貧しいながらも生活するこの男と、裕福な主人の性的従属者に甘んじることできれいな着物を着て、作ってもらった料理を食べる自分。体一つで、処女というつまらない女の意地一つ捨てるだけで楽に暮らせるというならそれに越したことはないという考えが、かんなの中になかったわけではないのだ。その汚い思想を家族思いの薄幸の娘という偽善に隠して見て見ぬ振りをしてきたことに、かんなは気付いたのだ。このまま、男の横を何食わぬ顔で通り過ぎてしまおうかとかんなは弱気になっていた。
しかし、わずかに離れて戸惑うかんなの気配に気付いたのか男は網の手入れをしていた手を止めて振り返った。息を呑んだのはお互い様だった。沈黙のまま、互いに互いから目を離せずに、しばしの時が流れた。男の色の薄い髪が、夕日に透けて金色に輝く。丹精で凛々しいと見えた顔は、正面で間近に見ると思ったより童顔だった。男の大きな目がさらに大きく見開かれて自分を映している。ただそれだけでかんなの胸は詰まり、体が熱を帯びた。まるで体の中を巡る血液自体が沸き立っているようだ。これは羞恥ではない。喜びでもない。全ての感情を超越した懐かしさが、波のように優しく、力強く押し寄せ、かんなを満たしていく。
かんなはこの男に出会うために自分はいつも海の見える所にいたのだと確信していた。海が好きなのは、いつかこの男に会えると自分の中の何かが知っていたからだ。そう強く思った。
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