第19話「良かった。僕の血も皆と同じだ」

 地面に残されたチハナという少女の残像を丹念に消した少年は、代わりに摘んできた花のうち一本を地面に手向けて、その場を後にした。もう日が暮れかかった頃であった。

 

 一言も発することなく、重たいものでも引き摺るような足取りで、少年は諦めたように家路に就いた。もうその頃には月が頭上高く輝き、星が瞬いていた。波音は荒々しく打ち寄せてきているようだったが少年には自分の背の遠くで聞こえる音なのか、それとも耳の中の雑音なのか分からなかった。少年は今日一日で四つのことを学んだ。一つに、血華は彼岸花に似ているということ。二つに、自分のような人間は自分独りではないこと。そして三つに、そんな同類であっても仲良くなれるわけではないこと。最後に、これからも同類のいるこの世で孤独の内に生きなければならないこと。


 少女の姿が見えなくなって、もう足元の文字がなければ少女の存在すら幻と思えた。そのときには少年は自分が生きることにも死ぬことにも、絶望していることに気付いた。しかし、歩を進める中で幾分頭が冷えたのか少年は少女の言葉を反芻する余裕が出てきた。少女は自分を蝶に選ばれた尊い存在だと言っていたが、それはどういうことなのだろうか。他人に冷たく当たられる中で自尊心や自分の人間性を肯定するのは至極難しいということを少年は経験から学んでいた。だとするとあの少女は孤独の中でそう思い込むしかなかったのではないだろうか。恐怖と畏怖、神性と邪悪は紙一重だ。自分を崇高な存在として孤独を紛らわせることをずっとしてきたから、自分以外に蝶を連れた血華の存在を認めるわけにはいかなかったのではないだろうか。それを認めることは、少女は自分が無力で蝶に憑かれてしか生きていけない穢れた存在だと認めることに等しい。だから、少女以外の血華が少女の世界にいてはならない。それは少女がせっかく作り上げてきた自身を守る空想を滅ぼす存在だからである。少年はこの波打ち際の砂城のような少女の防衛手段に、胸が締め付けられるような思いがした。孤独から我が身を守るために身に着けたはずの鎧は、同類の排除という新たな孤独を生んでいるのだ。

 

 少女のことで頭がいっぱいになり、しばし蝶のことを忘れた少年はいつものように月明かりだけを頼りに自分の家に上がろうとした、その時だった。伸びきった髪の毛を後ろから誰かに強く引っ張られたかと思うと、そのまま土間に引き戻されて羽交い絞めにされたあげくに首筋に何かを押し当てられた。それは冷たいような硬いような、それでいてざらついていて脆いような奇妙な感覚を伝えていた。時折、それから小さい欠片のような、粉のような何かが落ちてきていた。少年はこの肌触りにおぼろげながら記憶があった。まだ、歩くことに慣れない時分、一度経験しているのだ。足取りが覚束ず、足を踏み外して土間に頭から落ちたときのことだ。天井が目に入るのと同時に、母親の金切り声を耳にした。そこには父親が置きっ放しにした鍬があったのだ。そうだ、と少年は確信した。今自分の首に押し当てられているのは農作業用の草刈鎌だ。乾ききった土が砂となって零れ落ち、錆び付いた刃がざらついているのだ。


「こいつの蝶、出て来い!」


耳元で怒鳴り声を上げられて思わず顔をしかめた少年は、やはりこの声の持ち主も知っていた。


「殺してやる! お前の蝶も、お前も偽物だ!」


そう叫んだ少女は闇の中からまるで挑発するように姿を現した蝶を認めるや否や、手にしていた鎌を蝶めがけて振り落とした。少年は月明かりの中で蝶の影と鎌の影がぶつかるのを目にし、思わず悲鳴を上げたが鎌は風の吹くような音を立てて空を切っただけであった。蝶を見つけたときの少女の口元は鎌のように湾曲していたが、それはすぐさま鬼の形相に取って代わられた。鎌の刃を受けたはずの蝶は、何事もなかったかのように月光の下に舞っていた。少女が何度蝶を切ってもまるで影そのものでもあるかのように鎌は蝶の体を通り抜けた。まるで嘲笑うかのように自分の手の届くところを舞う蝶を睨んでいた少女は、わずかに後退りして今度は少年を睨んだ。蝶が駄目ならその相棒をというわけである。この蝶はこの世の住人ではないため、この世の物では傷つけることさえできない。異界からの訪問者であるという点などさまざまな点で少年の養い親は妖なのである。しかし少女は自分の養い親以外のその存在を認めようとはしない。


 少年は微動だにせず、少女を見つめていた。今の時点では自分の言葉に少女が耳を貸すことはないであろうことは火を見るよりも明らかである。ならば、やりたいように気の済むまでやらせてやろうという気になっていた。今までの経験上、いかなる物をもってしても自分はかすり傷一つ負ったことはないのだからと少年は高を括っていたのである。だから、自分の首筋を重い衝撃が襲っても動じずにいられた。


 しかしその瞬間、少年の視界からは色が抜け落ち、体からは力と体温が抜け落ちた。ただ、自分の養い親が嬉しそうに笑っていることが分かった。全身の力が抜けて地に伏した少年の首から血が流れ出た。少年は自分の身に何が起こったのかすぐには理解できなかった。有り得ないことが起こっていたのだし、第一自分の血を見たこともない人間が首筋を伝う生暖かくとろみのある液体の感覚が、流れ出た血によるものだと知ろうはずもない。蝶が嬉々として地面に垂れる少年の血を吸い、そこでようやく少年は自分の体が傷つき、その傷から血が出ているのだと解釈することができた。普通、人が斬首された時に出る血は、まるで鯨が潮を吹くように迸り、室内なら天井を赤く染めると言うが、傷付けた少女に返り血すら浴びせることはなく、その傷口すらもう治りかけている。だが、少年にとって重要なのは何故治るのかよりも何故傷ついたかである。一方の少女のほうは、体を起こした少年とは対照的に鎌を落として力なくその場に座り込んでいた。少年の蝶の行動、そして何より驚異的な少年の体の丈夫さを見て、ついに自分の創り上げた妄想の世界に終止符を打たねばならなくなったのである。


 少女には分かった。それは女の直感的なものだった。同類の自分だから、あれだけあれだけぼろぼろの刃で首があんなにも深く傷ついたのだと。そして同類だからこそ、少年は首が切れても死ななかったのだと。


「良かった。僕の血もみんなと同じだ」


少年は蝶が吸う服に付いた自分の血をしげしげと見つめ、安堵の息を漏らした。蝶の口の中から見る自分の血が赤いことは知っていたが、眼で直に見たおかげでようやく納得することができる。傷つけば血は流れ、自分が胸の鼓動を聞くときには体の中を赤い血が巡っているということを。


「帰ったと思ったら、つけて来てたのか」


少年は自分の勘の鈍さに呆れるようにつぶやいたが、少女は何の反応も示すことはなかった。帰路の前半は失意のあまり、後半は考え事をしているためか、他のことが全く目に入っていなかったと少年はここに来てようやく気づいた。

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