第18話「僕も君と同じなんだ」

 台風が過ぎると、少年は「血華」を探すことを思いたった。道で赤い花を見つけてはこの花は血華に似ているか蝶に尋ね、その度に蝶が首を振ることを繰り返した。少年が堂々と道を歩いていても、人々から危害が加えられることはない上に自然と道を空けてくれる。この辺りの人々は村人一人の悪が村全体の災いになると信じているため、少年に対して害をなそうとはしないのだ。石を投げつけた母親は、自分の子供が泣いているのを見て突発的に行動してしまったのだろう。だから少年がただ歩く分には誰もが見て見ぬ振りをするのである。

 

台風で荒れた道も気に留めず、少年はついに海が見える丘の上で「血華」と出逢った。

 

 造りの粗い、石で出来た野仏の横に、赤い花が群生していた。すらりと伸びた茎といい、逆立った赤い花弁の炎のような姿といい、何より背が高いにもかかわらず強風に耐えて立つその強さといい、その花は少年が今まで目にした花の中で一番の美しさであった。蝶はその花に飛びついていた。少年が知る限り、この蝶が少年の血以外を吸おうとしたのはこれが初めてであった。しかし蝶は、しばらくしてから自分の勘違いを恥じるように肩を落として戻ってきた。これにより、少年はこの気品ある花が血華とよく似たものであることに確信を得た。


「持って帰ろうか?」


少年は自分と同じ名前の花が意外にも美しいことを知り上機嫌であった。何本かこの名実ともに「赤い花」を摘んだ。この花は曼珠沙華という名前だった。別名は彼岸花である。この花は人の生と死をつなぐ花。そして毒を持つために、誰も家には持って帰らない。古より、人に死が身近にあることを知らしめてきた花なのである。そんなことは露とも知らない少年は、摘んだ花を抱いて足取り軽く道を行く。時折、満足げな表情を浮かべては少年は赤い花弁に顔をうずめた。飛び出したおしべがくすぐったくて、しかも花粉が顔にこびり付くが、お構いなしである。

 

少年が海を眺めながら花と戯れていると、突然背後で声がした。


「あんた、誰? 何してんの?」


元気のいい声だったが、何故か空虚さを感じさせる雰囲気の少女が立っていた。この辺りの村の子供だろうか。色が抜けてしまったかのように明るい茶色の髪に、少年と同じように真っ白な肌をしていた。身長の割りに目が大きく、あどけない顔をしている。容姿は良家の子女といったところだが、着ている服は丈の短いぼろぼろの農民服だ。少年はこの少女に何か自分と似たにおいを感じた。少年の傍らに付き添う黒い蝶を見ても、一瞬頬を膨らませただけで、特に怯える様子も見せない。他人と話すのは実に五年ぶりになる少年は言葉を見つけられずに黙り込んでいると、不審がって少女は少年の顔を覗き込んだ。「話せないの?」と眉をひそめて問う少女に、少年は慌てて首を横に振った。すると、驚いたことにこの少女は逃げるどころか黒い蝶を手の平で払うようにしてどけると、少年の横に腰を下ろしたのである。


「名前は?」

「ケッ、カ」


覚えている唯一の自分の名前を初めて他人に名乗った少年は、無性に哀しくなった。自分の親に呼ばれていた名前、即ち自分の本当の名は、もっと別なものであったはずだ。しかし、もう自分にはその名はない。生んでもらった両親の存在が極めて遠いものになったこの瞬間、自分の存在の不確かさを目の前に突きつけられたような気がした。傍らの天真爛漫な少女は、変なの、と言って大笑いした。少女がどのような字を書くのかというので、少年は脳裏に浮かんだ文字の形をなぞり、転がっていた石で地面に「血華」と書いた。その文字を見たまま、少女はしばし動かなかった。そして、穴の開くほどその文字を見つめた少女は、ぽつりと呟いた。


「チハナ、でしょ? 黒服の南蛮の人が教えてくれたもの!」


少女は少年の持っていた石を横取りし、「血華」の文字の上に「ちはな」と振り仮名を付けた。この文字も、少女が南蛮の人から教えてもらったものだった。少年も少女も両親を早くに亡くし、共同体へ迎えられることもなかったため、文字を読み書きできなかったのである。

 その時、蝶が少年の手の平にとまって血を吸おうと口を伸ばした。その様子を目を丸くして見つめた少女の顔は、たちまちに憤怒の表情へと変わり、「いい加減にして!」と叫んで蝶を払い除けた。


「今日はもうあげたじゃない。どうして私以外のを欲しがったりするの。そんなに私をからかうのが楽しい? 飛べなくなった振りまでして、私、心配したんだから」


少年の蝶に叫び散らす少女の目には、もはや少年は映っていない。逆に今度は少年が目を丸くして少女を見返していた。今の少女の台詞は、この蝶の性質を知ってのもの以外にはありえないものであったからだ。顔を上気させ、体をわなわなと震わせて蝶を睨み付けた少女は唐突にその怒りの表情を失くし、少年に蝶の非礼を詫びてきた。その口調はまるで自分の子供の粗相を他人に謝る母親のようであった。さらに少女は蝶が自分の育て親であって毎日血をねだること、「血華」と言う字は育ての親である蝶が教えてくれたことを語った。

 

 明るくおしゃべりなこの少女もまた、孤独に生きることを運命付けられた血華なのだ。少年の胸の内に光が差していた。しかしその興奮と、久方ぶりに他人と話すことが重なって、うまく言葉にできずにいた。人間になら当然のように付与されているとばかり思い、いや、それすらも意識することなく使われる言葉は、普段から使っていなければこんなにも使えなくなってしまうのか、と少年は意外に思っていた。蝶と話すには全く平気なのに、人間と、しかも初対面の異性と話すとなると適当な言葉が分からない。伝えたいことが伝わらない歯がゆさを、少年はこのとき始めて知ったのである。


「あの、違うんだ。この蝶は僕のお母さんで、僕も君と同じなんだ」


ようやく途切れ途切れに口にした言葉の後、思わず顔を真っ赤にした少年は無意識のうちに俯いていた。しかし、恥じらいとともに少年の胸に沸々と込み上げてくるのはやはり明るい期待であった。血華以外の人間が聞いたら気違いとも取れるこの言葉で、少女にどれほどのことが伝わっただろうか。心配になって少年が上目遣いに少女の顔を見やると、少女は唇をかみ締めて今にも泣きそうな顔をしていた。


「嘘つき。私以外にそんな子がいるわけないでしょ」

「嘘じゃないよ。この蝶は僕の血を吸うんだ。それで、そのおかげで多分僕は生きてこられたんだと思う」

「五月蠅い! 黙れ、嘘つき。私以外に蝶に選ばれた尊い存在はいないんだから!  きっと貴方のは化け物の類よ!」


絶対にそうに決まっているのだと言い捨て、少女は少年の制止も聞かずに踵を返した。最後の言葉は無情にも少年にではなく蝶にかけられた。先に帰っているから、と。少女の瞳は涙をたたえていたが涙をこぼすことはなかった。そのおかげで少年もまた涙をこらえることができた。ようやく抱いた希望は、あっけなく絶望に変わった。少女から声をかけられたとき、少女が血華だと知ったとき、瞬時に少年は少女を同士として受け入れていた。仲良くなって当然だと思った。これまで向けられてきた冷たい視線を向けることのない唯一の存在同士で、孤独を埋め合っていける新しい生活が始まるのだと思った。しかし、その生への希望が大きかっただけに、相手が同類であっただけに、まさに天国から地獄に落とされたような気分であった。

 

 少年は遠くに潮騒を聞きながら徐々に小さくなっていく少女の背中をしばらく見つめていたが、それが見えなくなると寂しさがどっと押し寄せてきて死んでしまいたいとさえ思った。いっそのこと、蝶に全ての血を吸わせてしまったらどうだろう。しかし、それで血華である自分が死ねる保証も、死んだとして、楽になる保証もないのだ。自分が何故地獄蝶と一緒にいるのか以前蝶から教えてもらったことがあった少年は、結局何も出来なかった。

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