第12話 まどろみの中で【三吉千里】

 ゴールデンウィーク前、北海道ではようやく桜が咲き始め、お日様が春らしくなってきた。

 今、私たちは5月末にあるNHK杯全国高等学校放送コンテスト、通称Nコンの地区大会に向けてそれぞれ頑張っている。

 アナウンス部である私と楠見さんは、発声練習や滑舌を鍛えるための早口言葉に加えて、Nコンに向けた練習も始まった。私たちは基本的に個人戦になる。参加出来る部門は2つ。校内放送用の原稿を自分で考えて発表する”アナウンス部門”と、大会で指定された5冊の中から1冊を選んで一部抜粋して読む”朗読部門”だ。どちらを選ぶかは私たちの自由。私は朗読部門に、楠見さんはアナウンス部門にそれぞれ挑むことにした。

「うーん、印象に残るような原稿ってどう書けばいいんだろうなー。高校生らしさっていったい何?」

 楠見さんみたいに積極的なタイプは、自分であれこれ手を加えられるアナウンス部門が性にあっているのだろう。本気で悩んでいるのはわかるんだけど、はたから見ているとそれでもどこか楽しそうに見えた。

 私はといえば、まだ課題本5つのうちからどれを読むかも決められずにいた。とりあえず全部読まないことにはちゃんと決められないと思ったので、今は3冊目を読んでいるところだ。ここ1週間くらい、基礎練習以外の時間はひたすら放送室で本を読んでいる。ときどき文芸部だっけ?なんて自嘲気味な気持ちになったけど、それをなんとか打ち消して黙々と読み進めていた。

 ただ、この3冊目は文体が肌に合わずなかなかページが進まない。活字を目でなぞっていくだけで全然ストーリーが頭に入ってこない。文字がするすると逃げて行く魚のように見えてきた。

「はぁ、ねむい...」

「ちーちゃん読むのしんどそうだねぇ」

 楠見さんは、いつの間にか私の事を「ちーちゃん」と呼ぶようになった。距離が縮まったようですごく嬉しいけど、私の方はなんとなくタイミングを逃してまだ「楠見さん」と呼んでしまっている。どうも昔から、こういう距離感を計るのは苦手だった。

「本読むのは割と好きなんだけどなぁ。でもこの本はよそよそしいっていうか堅苦しいっていうか読むのきつくて」

「読みづらいなら止めちゃえばいいのに、もうそれは選ばないしょ?」

「そうだけど、一回読み始めた本を途中で止めるのはなんかね…」

「ちーちゃんて変なとこ頑固だねぇ」

 そう、これは意地だ。なんとしてもこの本は読みきるんだ。がんばれ私。ここでは、ちゃんと頑張るって決めたんだから。

 そう思ってページに目線を戻すのに、睡魔はしつこく私にまとわりついてくるのだった。



「待ってよーっ、お兄ちゃーんっ」

 子供のころの私は、いつも兄と一緒だった。思い出せる一番初めの記憶はどんどん先に行ってしまう兄の背中。

 私は置いて行かれるのがたまらなく悲しくて、その場で泣き出してしまう。そうすると兄は直ぐに戻ってきて私の頭を優しく撫でてくれた。

 当時は兄も子供だったはずなのに、その手が凄く大きくて安心出来たのを覚えている。シュウ兄ちゃん、三吉修司はずっと私のヒーローだった。

 小学校に上がるころ、我が家にはもうひとり家族が増えた。妹の莉奈が産まれたのだ。

 莉奈は産まれたころは未熟児で、産まれてからしばらく入退院を繰り返していた。そのため両親は病院に泊まる日も多く、その間私たちの面倒は近くに住んでいる母方の祖母がみてくれていた。祖母はハキハキとした厳しい人で、引っ込み思案で鈍臭かった私とはそりが合わずに、私は度々叱られていた。そんなとき、兄はいつも私を庇ってくれた。

 両親がいない寂しさや、祖母との気まずい生活ですっかりまいっていた私にはシュウ兄ちゃんだけが心の支えだった。


 兄は身内のひいき目を抜きにしても、優秀な人だ。幼い頃から近所のサッカークラブに入り、エースとして活躍してきた運動神経を持つ上に、強い好奇心からかわからない事は納得出来るまで調べるという性質のため学校の成績も常に上位だ。頭の回転が早く、なんでもテキパキこなす兄は祖母にも気に入られていた。両親も兄を頼りにしていて、自分たちは莉奈の面倒を、私に関しては兄に任せているようにも思えた。

 もちろん、私はシュウ兄ちゃんが大好きだ。けれど兄が優秀であればあるほど、私の中には自分に対する失望が降り積もる。


 シュウ兄ちゃんと私は2歳違いの兄妹だ。当然、小学校、中学校は同じ学校に通うことになる。どの学校でも私は”あの三吉修司の妹”として認識された。初めのうちは、妹と呼ばれて先生や先輩から優しくされることが嬉しかったし誇らしかった。だけど中学校にあがり、人並みに自意識を持ち始めると気付いてしまったのだ。誰も彼もが兄というフィルターを通してしか私を見ない。それは私自身でさえもそうだった。

 気付いてしまったら、もう元には戻れない。私は慌てた。自分には兄のような運動神経も学習意欲もない。それどころか、引っ込み思案な性格をこじらせて、これまでクラブ活動にも入ってこなかった。私から兄を引いたら、何も残らない。いや、引くという表現もおかしい。初めから兄は兄で、私は私でしかなかったんだから。


 だから高校は、シュウ兄ちゃんとは違う学校を選んだ。そもそも兄の学校は市内一の進学校で、私の成績では合格が危うかったので両親からも特に異論は出なかった。昔の私なら、多少無理してでも同じ高校を目指しただろうという事にも両親は気付かなかった。

 ただ、その頃には莉奈が第一次反抗期を迎えていて、それどころではなかったのかもしれない。私も兄も反抗期なんてあってないようなものだったから、初めての激烈な反抗期に両親は四苦八苦していたのだ。


 そうして私は北葉高校に入学した。兄の存在がない初めての学校生活。ここでなら私は、違う何かになれるだろうか。

 何になりたいのかもわからないくせに、漠然とした期待だけを持っている自分がひどく滑稽だった。



 …いつの間にか眠ってしまったようだ。室内に差し込んできた夕陽の光で目が覚めた。なんだか夢を見ていた気もするけど、思い出せない。

 カレンダーの上では春でも、日が落ちるとまだまだ外は肌寒い。だけど防音対策として気密性の高いこの放送室は暖房で効率よく暖められていて、とても眠気を誘う気温になっている。そんな場所で読みづらい本を無理矢理読もうとすれば眠くなるのも仕方がないだろう。

 もうスタジオには私しかいなかった。楠見さんや日野先輩は帰ったのかな?

 はめ殺しの窓からミキサー室を覗いてみると、藤城くんが1人でテレビを見ている。なんだろう、妙に真剣な表情だけど。あれは過去の先輩たちが出たNコンの大会記録だろうか。

 Nコンでは毎回出場校の作品や読みをビデオやレコーダーで記録しておくと、確か榊先輩から聞いたことがある。ミキサー室の扉を開けるとちょうど終わったとこらしく、藤城君はDVテープをプレーヤーから取り出していた。

「何見てたの?」

「ん、昔の先輩が全国行ったときの記録。三吉さん、やっと起きたんだね」

「私そんなに寝てた?もうっ、みんな起こしてくれれば良いのに」

 藤城君を含めてみんなに寝顔を見られたかと思うと顔が火照ってくる。みんなのいじわる。楠見さんまで。早く話題を変えよう。

「それはそうと、どうだった?私、まだ大会のテープ一個も見てなくて」

「んー、良かったよ。凄かった」

 そういって藤城くんは小さなため息をついた。余韻を噛み締めるように静かな横顔が、いつもに増して大人びていて、ついまじまじと見てしまう。すると、私の視線に気付いた藤城くんはすぐにいつもの優等生らしい雰囲気に戻った。

「まあ、三吉さんはまずは朗読だし、時間のあるときに見てみたら良いよ。まだ課題本でどれを読むか決めてないんでしょ?」

「そうなんだよね、なかなか進まなくて」

「たしか、無理して全部読まなくても良んだよね?」

「そうだけど、ちゃんと全部読んでから選ぼうって決めたんだもん」

「結構自分に厳しいんだなぁ」

「そんな事無いよ。楠見さんの方がずっと真剣で厳しいと思うし」

「あー、楠見さんは文化部には珍しく熱血って感じだよね。陸上部にもああいう子ひとりは居たなぁ」

「そうそう。楠見さんが頑張ってるから、私も頑張らなくきゃって思う。それに…」

「それに?」

「私でも頑張れば、日野先輩みたいに読めるかなぁって」

 口から出て来た言葉に私は自分でびっくりした。確かに、日野先輩には憧れている。でも先輩みたいになりたいなんて、はっきりと意識した事はなかった。いや、ひょっとして心の奥ではずっと思ってたのかな。新入生歓迎会で先輩の声を聞いたときから。

「まあ無理だってわかってるけどね。発声も滑舌も全然うまくいかないし、何よりあんな風に堂々とはなれないだろうし…」

「そりゃあ、入部して1ヶ月で上手くいくわけないじゃん。自分のペースで頑張ればいいんだよ。三吉さんの声、綺麗だと思うし」

 え。あまりに自然に褒めるものだから、動揺が一瞬遅れてやってきた。

「それに、僕もちょっと頑張ろうと思ってるから、一緒に頑張ろうよ」

「な、何を?」

 心臓がばくばくして、顔が熱くなってきた。先ほどの衝撃から全然立ち直れない。藤城君はそんな私の様子にはまだ気付いていないようだ。

「んー、それはまだちょっと秘密。じゃ、もうすぐバス来るから先帰るね。鍵返すのよろしく」

 鞄を手に持ち、足取り軽く部室を出て行く彼を見送る。放送室のドアがバタンッと音を立ててしまったとき、私は机に突っ伏した。綺麗だなんて、初めて言われた…。

 他に誰もいなくて良かった、今絶対顔赤いよ。はぁ…落ち着け私。

 それにしても、秘密って藤城君はいったい何を頑張るつもりなのだろう。あんな言われ方をすると気になってしまう。しかも秘密と言ったときのいたずらっぽい顔を思い出すと、理不尽にからかわれたような気分になってきた。不意打ちといい、なんだかずるいなぁ。

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