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 しばらくして、携帯電話が一度だけ鳴って切れた。もちろん発信元は姉さんだ。窓から外を見ると、雨煙の中に姉さんちの赤い車が停まっているのが見えた。コンパクトカー特有のむっくりとした車型なのだが、前方から円弧の一部が覆うような流線型のため、野暮ったさはなく、むしろ愛嬌を帯びた形をしている。姉さんに言わせれば、お手をした犬の手の形、だとか。彼女によると、国産なのにむしろヨーロッパでよく売れた車種らしい。「そん中でも一番小さいのにしたら、傘を入れるところもないよ」なんて言っていたけれど、僕は姉さんによく似合った車だと思う。何故かは分からない。

 その雨傘をよく振るって水を落としてから、助手席に乗り込んだ。

「行こっか」

 着替えた姉さんは、ガーゼ生地で涼しげな印象の、アイボリーの短いチュニックワンピースの下に、白のデニムのショートパンツを履いていた。そんなに時間をかけない中でも、それなりのコーディネイトを見せるのが、姉さんらしいと思う。その姉さんは、カーナビの上で指を踊らせている。操作しているのは、行き先の施設名を入力する画面のようだ。『空の裏側』なんて入力しては「該当施設は存在しません」などと怒られていた。

「水族館だ、って言ってるじゃないですか」

「いやいやいや。せっかくだし、行けたらめっけもんかなって」

「知りませんけど、たぶん、雨の日には行けないんじゃないですかね」

「ふうん、ふふふ、なるほどね」

 諦めてようやくちゃんとした行き先を入力して、姉さんは車を発進させた。ハンドルを握る手には、珍しく赤いマニキュアが塗ってある。さっきまでは無かったはずだから、戻ってから塗ったのだろう。


 途中で遅めの昼食を挟んだりして、結局水族館に着いたのは午後三時をまわった辺りだった。夏休み中の小中学生による混雑が、ようやく解消していくような時間帯だ。駐車場に車をバックで入れる時に、姉さんは助手席の僕の首の後ろに手を回して、自慢気に後方確認をしている。首だけを後方に向けながら、姉さんが車の中で言った。

「ねえ、ときめいてる? 私に腕を回されていることによる、守られてる感みたいなのに、ときめいてる?」

「微妙ですよ」

 そんなことで何かを守れるなら、と思う。僕だってコウテイペンギンの首の後ろに腕くらい回したし、そのことで凍傷を負ったとて甘受したろう。

「微妙にはときめいたんなら、もう今から駐車場に入れては出して入れては出してを繰り返して、有くんを完全にときめかせちゃうよね」

「ちょっと左に寄りすぎですよ」

 僕は助手席の窓から、駐車場の白線を見下ろして言った。

「あらあらあら。やっぱ車庫入れは苦手だよね。有くん、ちょっと外に出て、後ろから合図してくれない?」

「いいですよ」

 僕は後部座席から傘を取って、あまり隙間に余裕のない助手席側のドアを、慎重に開けた。その背中に姉さんが声をかける。

「じゃあ有くん、オーライの時はサンバのリズムで腰を振って、ストップのところでおもむろに自分の右肘を関節とは逆の方向に曲げて」

「はいはい」

 適当に返事をして、助手席のドアを潜り抜けた。運転しているうちに、雨は小雨と言っていいくらいの強さまで弱まっていた。僕が車の後ろに回ったのを確認して、姉さんは車をもう一度、前に出した。軽くハンドルで方向を調整してから、窓から姉さんが首を出して、大きな声で言う。

「これでまっすぐー?」

 僕も負けじと大声で返した。

「いいですよー」

「じゃあ有くん、サンバのリズムで腰を振ってー」

「いやですよー」

「轢くぞー」

 不穏なことを言いながら、姉さんはゆっくりと後進を始めた。

「轢いて右肘が折れたら、ちゃんと停まって下さいよー。……あーはい、ストー……ップ、です」

 鍵を抜き、運転席から姉さんが降りてきて、素早く僕の傘に入ってくる。

「あらあらあら、綺麗に入ったね。有くん、ありがとう」

「いや、いいですけど。姉さん、傘、どうしたんですか」

「傘?」

「あ、いや、さっきまで黄色い傘、持ってたじゃないですか。なんで僕のとこ、入ってきてんですか」

「ん、ああ。ふふふ、あんな傘くらい、軽い恋の翼で叩き折りました」

「……前から思ってましたけど、姉さんの相合い傘に対するその異常な執着心は、どこでこじらせたんですかね」

「きっと、これで有くんとの相合い傘で水族館の入口まで連れて行って貰えたら、私は満足して消えちゃうんだよね」

「執着どころか未練レベルですか。だったら尚更、自分の傘に入って下さいよ」

 結局、姉さんを傘に入れたまま水族館の入口に入った。もちろん、姉さんは消えない。コウテイペンギンではないからだ。


 自動改札のようなところに水族館の入場券を通すと、まずはエスカレーターで建物の一番高いところまで連れて行かれる。そこから、建物の中心にある巨大な水槽を螺旋状の順路に囲みつつ、外周側にも小さい水槽が何種類も見られる、という構造のようだ。始めに見せられる水槽には、カワウソやアシカ、ラッコなどの海獣が飼われていて、その流れで、かなりの序盤にペンギンたちのいる南極水槽があった。南極水槽にはその名前の通り、南極大陸近辺という、わりと高緯度のところに棲むペンギンのみが集められている。嘴とフリッパーの裏の赤と、眉の上の白と、全身を覆う黒とのコントラストが美しいジェンツーペンギン。コウテイペンギン以外に南極大陸上で繁殖までを行うものとしては唯一の種であり、タキシードを着た姿としてよく擬人化され、先ほどの姉さんの話にも登場したアデリーペンギン。そして、コウテイペンギンと模様のよく似たキングペンギンの三種だ。

 ペンギンのいるこの水槽は他の客にも大好評のようだった。次々と入れ替わり立ち替わり、誰も彼もが携帯電話のカメラをペンギンたちに向けていた。人間の言葉を使って言えば、よちよち歩きというのに近い歩き方をするアデリーペンギンは、プールから上がるたびに大歓声を受けていたし、水槽の上から落とされている雪をその頭に受けながら、じっと動かないキングペンギンは被写体としては丁度良いようだった。そして、数の多いジェンツーペンギンは、プールの中を所謂ドルフィン泳法という泳ぎ方で、水面近くを跳ねるように泳いでいた。とても派手なその泳ぎ方は、一般的には、アシカなどに襲われる可能性の強い陸に近いところの海から、一気に脱出するために用いられる。ここでどの個体もが揃ってドルフィン泳法を用いているのが、プールが狭いからなのか、その耳目を集める泳法を芸として仕込まれているからなのかは分からない。ただ、高く水しぶきを上げて泳ぎ、そして陸に上がる際に高く鈍い角度で飛び上がるたびに、周りから驚きのどよめきが上がっていた。

「キングって、意外と小さいんですね」

 僕は、小さな声で隣の姉さんに向けて呟いた。

「いやいやいや、あれで、ペンギンの中ではコウテイペンギンの次に大きいからね」

「知ってますけど」

 それでも、彼の姿ばかりをこの数ヶ月を見てきた身としては、彼の姿をそのまま縮めたようなキングペンギンの姿には、違和感があった。あの中に彼が混じったりすれば、頭一つか二つは飛び出て、さぞかし目立つことになるだろう。それに。

「遠い、ですね」

 僕は、水槽のガラスに触れて言った。ガラスは綺麗に磨かれていて殆どその姿を主張しないけれど、僕の触れた指先と、中の水槽の水の間には、数十センチもの隔たりがあった。そして、中のジェンツーペンギンは時折、首を長く上へ伸ばして嘶いているようだが、その鳴き声はこちら側に届くことはない。逆に、こちら側の歓声やシャッター音も届かないのだ。もちろん、ペンギンの体臭などもしない。人間と、ペンギンと、互いのストレスのために視覚情報のみを切り取って提供するこの水槽に、僕は欺瞞のようなものを感じ始めていた。

「そっか」

 落胆した僕の様子を敏感に読み取ったようで、姉さんは僕の手を取って、通路の反対側にあるベンチまで連れて、そこへ腰を下ろした。通路には頻繁に見学客が通り、その上この水槽には、張りついて写真を撮る人が特に多く、通路を挟んだベンチに座るともう、時折雪の積もったキングペンギンの頭頂部が見えるかどうか、という有様だった。

「じい! 図録を買って参れ! 水槽の前で写真を撮っている者どもに、配って差し上げろ!」

 姉さんが、ぱんぱんと手を鳴らしながら、従業員用通路と書かれた閉じた扉に向かって呼びかけた。もちろん、誰も答える者はいない。写真を撮り終えたのか、携帯ゲーム機を持った幼児が二人、水槽の前を離れて、僕らの前を競うように駆けていった。空いたスペースに、キングペンギンの毛むくじゃらの雛が一瞬だけ覗いたけれど、その隙間はまたすぐに、高校生くらいのカップルが埋めてしまう。

「世知辛いですね」

「ふふふ、若さには勝てません」

 そう言いながら彼女は携帯電話を取りだして、そのカップルごと水槽の姿をレンズに収めて、シャッターを切ったようだ。すると同時にどこからか、聞き覚えのある、けたたましい壊れたトランペットのような音、というかペンギンの鳴き声がした。慌てて僕は水槽の方を見やるも、その一度きりの鳴き声は二度と聞かれず、今は人の声しか聞こえない。

「え、あれ、今、あいつらの鳴き声、しませんでした?」

「ああ、それ多分、私の携帯のシャッター音ですよ」

「えぇ……?」

「心霊写真的なあれで、彼が写るかも知れないよね」

「死んだわけではないでしょう……。というか、消えたっつうか、僕の問題なので」

「この携帯電話は、裏側の位相の世界が写るようになってるのです!」

 そう言って姉さんが見せてくれた携帯電話の画面には、さっき撮った写真が表示されていたが、その画面は、色調がぐちゃぐちゃに調整されていた。ものの輪郭は僕が見ているものと同じなのに、色だけがおかしい。くすんだ赤い服を着た女の子が、蛍光の黄色い服をまとい肌は緑色に写っていた。白と黒だけで構成されたアデリーペンギンだけが、元の色を保っている。その静止画を見ているだけで酔ってしまいそうな情景だった。

「はあ、姉さんがいつも言ってるその裏側ってやつ、バグったテレビゲームみたいなとこなんですね」

「いやいやいや、ちょっと設定をいじっただけなんだけど」

 そう言ってまた姉さんは携帯電話を操作してから、また画面を見せてくれた。今度は、僕が見ているのと同じ情景だ。もちろん、彼は写っていない。

「かくして、村には愛だけが残る」

「何がですか」

「ふふふ、なんでもないよ」


 そのまま座ってしばらく、僕らは人間とペンギンを眺めていた。

「種の保存とか飼育技術とか一般啓蒙とかの面で、動物園とか水族館とかの果たす役割とか調べていくと、ここはここで面白いんだけどね」

 そう言って姉さんは、この水族館自体の解説を簡単に諳んじた。僕がさっき触ったあの厚いガラスですら、アクリルガラスを水族館に用いた先例として、名高いものだったらしい。

「確かに厚くて遠いけど、その厚いガラスの透明度とか、歪んで見えないようにする平滑さとか、厚いからこその凄さみたいのは、あるらしいよ」

「そんなの、誰かに聞かないと、絶対気付かないでしょうね」

「ふふふ。そんなもんだよ。じゃ、もっかい、触ってみましょうか」

 そう行って、また姉さんは僕の手を引いて、水槽に近付いた。僕は人さし指の先だけをぺたりと水槽に付けた。

「ガラスにも、表とか裏側とか、あるんですかね」

 姉さんは答えをくれないまま、黙って僕の指の隣に中指を付けて、僕の指を突いたり、そっと絡めたりを繰り返す。やがて水槽の向こうにもジェンツーペンギンが一羽やってきて、僕らの指をガラス越しに嘴で軽く突いた。

「ね?」

 姉さんは僕の顔を見て、笑って言った。何のことかも分からないまま、僕は肯きを返す。


「コウテイペンギンが南極水槽にいるとは限らないのではないか」

 僕がなんのかのと飽きもせず、何十分と水槽に張りついてペンギンを見続けていると、やがて痺れを切らしたように、姉さんが順路の先の方を見ながらそわそわし始めた。彼女の視線の先、隣の水槽には、また大きな魚が泳いでいる。

「ああ、そういや、彼を探しに来たんでしたっけ」

「ふふふ、一応ね」

「あの魚、でかくないですか」

「カマイルカ、ですって。イルカだから、魚じゃないよ」

「そして、コウテイペンギンでもない」

「一応ね」

 僕らはそのまま、南極水槽を離れた。さっきから、水槽の一番奥から僕のことをじっと見つめていた一羽のキングペンギンも、僕への目線を切る。


 この水族館も、他の動物園や水族館などと同様、全ての展示に目を通そうという人は少なく、順路を追うごとに、水槽の前に立ち止まる人の数は少なくなっていった。特にこの水族館では、縦に深い水槽の周りを周回して、見る深さを変えながら何度も同じ水槽を観察する順路のため、愛嬌のある表情が珍しかったエイやマンボウも、すぐに見飽きてしまった。南極水槽もその実はなかなかの深さを持っていたらしく、順路の半分ほどを消化したところで、急に目の前の水槽を、アデリーペンギンが流れるようにまっすぐ泳いでいった。滑空。反応のいいマウスカーソルを画面いっぱいに滑らせたみたいな泳ぎだと思った。

 瀬戸内海水槽の前で、姉さんは立ち止まった。その名の通り、瀬戸内海に棲む馴染み深い魚が入れられている。ちなみに、順路に沿ってこの水槽を見るのは三度目だ。一度目はマダイの桜色に光る鱗に目を奪われ、二度目はマダイを見ながら、姉さんが食用魚としての鯛についての話をしてくれた。鯛は、万葉集の中にも詠まれるくらい重要な魚だということらしい。三度目の瀬戸内海水槽でも、相変わらずマダイがこちら側に体表を見せながら泳いでいた。尾を振るでもなく、吊された標本みたいに水中に留まり、ただゆっくりとした水の流れの中に鰭だけがゆらゆらと揺れていた。

「有くんは、釣りとか行ったことある?」

 三度目ともなると特に言うことはないのか、姉さんは背後に立つ僕を見ないまま、何ともなくといった調子で口を開いた。

「昔、あの人にイカ釣りに連れてかれたのが最後ですかね」

「へえ、いつくらい?」

「姉さんも一緒に住んでた頃ですよ。九歳くらいかな。前日に急に『行くぞ』って言われて、次の日の朝の四時くらいに叩き起こされて、気が付いたら船に乗せられてましたけど」

 陽の出る前の、黒い海を憶えている。

「ふーん? 朝まづめってやつだよね。そんなこと、あったかな? で、釣れた?」

「いや、寝不足の上に船酔いですぐ具合悪くなっちゃって。出航した途端に吐いて、そのあとずっと船の後ろの方で横に寝かされてました」

「ふふふ、大変だったんだ」

「あー、いや、家に戻ってから『乗船料、いくらしたと思ってるんだ』って言われて、そのぶん小遣いから引かれたことの方が、大変でしたけど」

 それをきっかけに、追いかけていた漫画雑誌を一つ諦めてしまった記憶がある。

「そっか」

 目の前を漂っていたマダイが、急に身をくねらせて、弾けたように泳ぎ出す。水槽の外縁にぶつかる寸前に速度を落として、身の向きを変えた。裏側の体表も、先ほどまでと同じ桜色をしていた。

「じゃ、明日、陸釣りでも行ってみる?」

「えー……、ペンギンが釣れるなら」

 姉さんがくるりと回って、背後に立つ僕を見上げた。栗色の髪が、ふわり、一瞬だけ遅れて波立つ。そして彼女は、僕のTシャツの首元を指先でちょこんとつまんで、引っ張りながら言った。

「ふぃっしゅ!」

「まあ、魚ではないですよね」

「スフェニスキフォルメス!」

「何すかそれ」

「ペンギン目の学名」

 姉さんが微笑んだ。


 そんな調子で結局、かなり他の人より遅いペースで見て回って、水族館全体を一回りするのに三、四時間ほどかかっただろうか。このマリントンネルという水槽で、順路は最後のようだ。水族館には良くある趣向で、十メートルほどの距離を、トンネル状の水槽の中をくぐりながら行く。この水槽には、ここぞとばかりに、色とりどりの小さな熱帯魚ばかりが集められていた。きらきらと光る魚たちに、頭上をぐるりと囲まれる。僕の隣を歩いていた姉さんが、急に数歩を走り出して、大きな声で言った。

「踊りましょう!」

 そして、その場でくるくると回り出す。相変わらず彼女の言う意味は分からないけど、相変わらず彼女の笑顔は、誰よりも楽しそうなものだった。たくさんの人とたくさんの魚がたくさんの目を見開き、たくさんの人とたくさんの魚が僕らからたくさんの目を逸らしていた。たくさんの見開かれた眼球がきらきらと光って、くるくると回る姉さんを彩っていた。綺麗な人だ、と僕は思った。


 帰りに売店で、姉さんとお揃いの、ペンギンの羽根のキーホルダーを買ってから、僕らは帰路へとついた。高速道路を走る帰り道、僕は何ともなく、助手席から、運転する姉さんを見ていた。長い一日だった。その頃には雨はすっかり上がっていて、残っている水滴がフロントガラスに垂れるたび、彼女はマニキュアの乗った指先を踊らせて、ワイパーレバーを中指と薬指の間に挟んで操作していた。カーステレオからは古い映画のサウンドトラックが流れていて、姉さんはそのメロディに、意味のない物語を歌詞に乗せて歌っていた。その歌詞は、流れ星に間違えられて少年から願いを託された雨粒さんが、一生懸命その願いを叶えに行くという、姉さんオリジナルのお話だったけれど、雨粒さんが電子錠をショートさせた隙に少年が地下施設へと潜入するとかいう辺りで、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。



 その後、一月半ほど残っていた夏休みを、僕らは数日おきくらいに一緒に過ごした。名目が「彼を探しに行こう」だったから、その殆どを外出に充てたけれど、全ての行き先は僕に任されていて、すぐに行く候補が尽きてしまい、最終的にはだらだらとカラオケに行ったりする始末だった。夏祭りみたいな季節ごとのイベントの存在が、こんなに有難かった年はない。結局、陸釣りには行かなかった。


「十月。夏休みが終わると、僕らの街を一瞬だけの秋が通り過ぎる。夏の暑さと冬の寒さと梅雨の湿気で先約がいっぱいのこの街の、間隙を縫うように顔を覗かせる季節。その季節が美しいのは、恐らくは桜の花が美しいのと同じ理由だ。もみじという言葉は、冷たさに揉み出されるように紅色がつく、というのが由来らしいけれど、その名の通り、染められる過程が見えるかのようにしっとりと生色の溢れるような紅が、風が吹くたびに舞い落ちる。これが、ほんの少し散るタイミングを逃して冬の初めになってしまうと、途端に鉄の赤錆みたいな乾いた色に変わり、それが寒風のたびにガサガサと音を立て、メッキが剥がれ落ちるみたいに無様に散る羽目になる。タイミング。何につけ物事はタイミングだと思う。時間軸が、周回しないルーレットポケットとして僕らの横に並んでいて、その横を転がる僕らは、機を測ってどこかのポケットを選んで身を委ねるのだ。

 ……こういうのは、どうかな?」

 僕らは、まだ彼がいた頃に一緒にホタルを見た、あの家の近くの用水路の脇を二人で歩いていた。僕らの歩く細い道の反対側には桜の樹が並んで植えられているが、まだ桜紅葉と言うにはほど遠い、緑の葉が繁っている。十月の初め、そろそろ朝晩の冷え込みが厳しくなってきたが、葉を色づけるにはまだ足りないようだ。実際、こうして昼下がりに外を出歩けば、薄手の長袖を羽織ると少々暑さを感じるくらいだ。今日の姉さんは、黒のクロップドパンツに白の七分袖のフォトTシャツで、そのTシャツの袖を少しだけ捲り上げていた。上下両方の半端な長さが、移り変わる途中の狭間みたいなこの季節によく馴染んでいる。

 今日は土曜だと言うに、昨日インターネットで観たどこぞの景色が綺麗だったからと、朝から急な電話を寄越して、県境を越えた北の方の街に紅葉狩りに行くと言って聞かなかった姉さんを、僕は必死で宥め賺すように、とりあえず近くへ散歩に連れ出したのだ。だからさっきの姉さんの、緑の葉を見ながらの紅葉の描写は、近場の散策で済ませようとしている僕への当てつけの意味も含まれている。低い声で「僕」なんて言いながら気取った的外れの比喩と警句なんか振り回して、それが誰の物真似のつもりなのか、僕には分からなかったけど。

「姉さん、髪、伸びました?」

 僕は、さっきの姉さんの言葉には応えないで、彼女の栗色の髪を見ながら言った。彼が僕の家に来る頃からだったか、彼女とはあまりに頻繁に会うようになっていたから気付かなかったけれど、春先には肩の上で切り揃えられていたはずの髪が、いつの間にか鎖骨を伝い、胸にかかるかどうかという長さになっていた。この季節は街中の金木犀の香りが強くて、隣を歩く姉さんの髪も薫らない。

「ふふふ、昔から、苦髪楽爪と申しましてね」

 右の手で、横に並ぶ僕の長袖の上から爪を立てながら、彼女は答えた。爪が伸びたかどうかは分からない。


 並んで歩く僕らの間を少しだけ強い風が抜けて、桜の梢が音を立てて揺れた。その音が止んで、混ぜ返された空気が思い出したようにふわりと金木犀の香りを取り戻す。何がおかしいのか、姉さんが立ち止まって、軽く微笑んでから言った。

「『食肉目ネコ科ヒョウ属』って言葉、面白くない?」

「その並びが、ってことですか? まあ、なんとなく、そうですね」

「で、有くんって、革ひも的なものに詳しかったりしない?」

 相変わらず、何を持ち出してくるにも突拍子のない人だ。

「……えっと、革ひも的なものってのは、革ひもそのものじゃない方がいいんですか?」

「有くんって、将来はヒモとして働かずに済ませたがっている、シュレーターペンギン似の優柔不断な男子大学生について詳しかったりしない?」

「さあ、僕は勤労意欲に篤い方なので、ちょっと思い当たる節がないですね……。で、ダジャレはどうでもいいんですけど、革ひもが何ですか」

「うん、なんかね、親戚のお姉さんに、海外旅行のお土産にってペンダントトップだけ貰ったから、それに通すのが欲しくて」

 そう言いながら姉さんが、自分の着ているフォトTシャツの、モノクロの写真の真ん中辺りに指を乗せた。親戚のお姉さんね、と僕は思う。

「そういうの、なんか金属のチェーンとか使うんじゃないですか? アクセサリーショップとかに売ってるような」

「まあ、そうなんだけど。でもね、私、シルバーとか付けてると、すぐ肌がかぶれちゃうんだよね。あと、そんなに高いペンダントじゃないみたいだから、わざわざチェーン買うのも、おかしい感じだし」

「はあ。どっちにしろ、アクセサリーショップか、あと手芸店とか、なんじゃないですかね」

 僕が漠然としたイメージだけで答えると、姉さんは「手芸店! まあ素敵!」と言って、両の手を胸の前で合わせた。

「え、なんですか、その反応」

「ふふふ、素敵なアイディアを聞いた時のポーズです」

 そう言って姉さんはまた、「素敵!」と言いながら手を鳴らせて見せた。

「ちなみにこのポーズは、手芸店に行きそうなタイプの女の子をイメージして作られました。さあ、どうですか?」

「いや、僕もそんな手芸に詳しくないですけど、姉さんのそれは、物凄い偏見に充ち満ちているんじゃないですかね」

 そう答えてから、彼女を真似て僕も「素敵!」と言いながら、手を打ち合わせてみる。僕のは更に、小首を傾げるサービス付きだ。案の定、それを見た姉さんは顔を顰めた。

「うわうわうわ……。自分で作ってみてなんだけど、わりと最悪のポーズだね……」

「ですよね」

「うん。で、その手芸店、行ってみたいんだけど、いいかな?」

「この近く、ありましたっけ?」

「んー、なんか、ちょっと遠くのデパートに入ってたような気がするんだよね。行くなら家からそのペンダントも取ってこなくちゃいけないし、ついでに車も借りてくるよ」

「素敵!」

 またやってみた。

「いやいやいや……。有くん……」

「素数!」

「いやいやいや……」


 郊外大型店舗、と呼ばれるのだろう、そのデパートには、土曜日の昼下がりらしい、家族連れの喧噪に満ちていた。入口で「お前らのせいで、うちの商店街はシャッターだらけじゃ!」なんて言いながら自動ドアを蹴る真似をしている姉さんを傍目に、案内板を見上げると、確かに手芸店のテナントが入っているようだ。

「二階ですかね」

「アイス食べたい!」

「そういうの、誰にでもよくあることみたいなんで。気にしないでいいですよ」

「そっかー」

 僕の返答を聞いただけでそれで満足したみたいに、姉さんはすたすたと店の中に入っていく。本当にアイスが食べたかったのかも分からない。僕も駆け足で追って、彼女の隣へ並んだ。


 姉さんの思いつくままにあちこち寄り道しながらようやく辿り着いたその手芸店は、二階の一番奥の一辺を幅広く占めていた。ベージュと木目調を基調とした明るい店内に、女性の背丈に合わせた低い棚が並び、壁には売り物の生地が大きく広げられている。客足はそんなに多くはなく、女性側に引かれて商品を見て回っているカップルや、上品なおばあさんらがまばらに見えるばかりだ。姉さんも、目を輝かせて店の中をぐるりと見回している。でも多分、手芸に興味が湧いたとかそんな穏やかな理由ではなく、単に初めて見るものがいっぱいあることが、彼女にはとても楽しいだけだ。多分、ゴルフ用具専門店なんかに連れて行っても同じ顔をして、パターの試打を始めるだろう。

「革ひも、ありそうですかね」

「そんなのどうでもいいよ!」

 そう言って姉さんは、一番入口側の、ミシンの棚に取り付いた。ミシンなんか見るのは小学校の家庭科の授業以来だが、相変わらずの白いミシンに、使わされていた当時は想像もしなかった、十何万円という高額の値札が付けられて並べられている。

「ミシンにも興味あるんですか?」

「いや、全然」

「でしょうね」

「でも、家にあるのも高校にあったのも、みんな結構古いミシンだったから。最近のがどんな方向に進化してるのかとか、気になるよね。ふふふ、これ、タッチパネル付いてる。ミシンにタッチパネルて。しかもライトがLEDだって。ふふふ」

 姉さんが、並んでいる中でも一番の高機能種を指さして笑い始めた。別にタッチパネルくらい付いてても良さそうなものだが。多分、姉さんの中で、ミシンというのは相当レトロな機械として位置づけられているんじゃないか。

「あれ? これって、最新の機種を笑えば笑うほど、うちのミシンがボロいってことを言い触れ回ってるようなもんなんじゃ? 有くん大変だ、うちのミシンが馬鹿にされてるよ!」

「そういや、あの時にそっちの家に持ってったんでしたっけ」

「でも、ふふふ、ミシンに、LEDって、ふふふ」

 そんなにか。


 そのまま端から順番に見ていくようにして、僕らは手芸店を見て回った。壁に広げられたシルクの布を見て「まあ! 飛び立つ天使の翼みたいだわ!」などとのたまう姉さんを無視したり、作った服を着付ける為にある首の無いマネキンにアテレコして遊ぶ姉さんを無視したりと、思い付きで来たわりに、僕らはかなり手芸店を満喫したと言っていいだろう。

 そんな僕らが揃って足を止めたのが、フェルト売り場だった。掌ほどの大きさのスポンジに針で穴を開けて、そこに色の付いた羊毛を絡ませると、小さなぬいぐるみのような置物を作ることが出来るらしい。その見本として、他の子犬や子猫などと並んで、コウテイペンギンのフェルトが置かれていたのだ。

「いた……」

 姉さんが、思わず漏らしてしまったという口調で呟いた。

「え、姉さん、これを彼だとか言うんじゃ」

「いやまあ、言ってみただけだけど」

 姉さんはわりと、いなくなってからの彼のことをぞんざいに扱っているような気がする。

「これ、なんかキットみたいにして、ひと揃いまとめて売られてるんですかね」

 見本の下の陳列棚を覗くと、そのまんま「ペンギン」という名前で、スポンジと紺色の羊毛、それに型紙なんかが一つに入って売られていた。僕らなんかが「ペンギン」と聞くと、何ペンギンなんだか随分漠然とした名前だ、と思うところだが、普通のイメージでは「ペンギン」と聞いて思い浮かべるのは、このコウテイペンギンの姿なのだろう。

「ふふふ、これで前から私が、手芸が得意だという伏線をちゃんと張っておいたら、これで彼そっくりのぬいぐるみを作ってあげて、有くんのトラウマを解消したところで愛の告白をして、ハッピーエンドと言うところだね」

 まあ、そのトラウマからして、全部姉さんのごっこ遊びが原因で作ったものなのだが。

「つか、こんなん作り始めたら、きりが無いでしょう」

「そう?」

「多分ですけど。彼を規定しようと思ったら、南極大陸の大地とか、同じ繁殖地の他のオスとか、そういうのも同じレベルで作らないと、駄目、な気がします」

 そも「彼」という呼称からしてそうなのではなかったか。個体認識しては駄目、みたいな。そんなルールがあったはずだ。もう、半年近く前の話になるが。

「ふーん。壮大なジオラマを作ればいいわけだ」

「全部出来たら、最後に僕の人形も作って、どっか置いて下さい」

 荒唐無稽だが、想像してみると、悪くないアイディアのような気がしてくる。

「ふふふ、ねえ、知ってる? 南極大陸だと死体とかが全然腐らないから、雪の下にはペンギンの死体とかがそのままあちこちに埋まってて、そこら中を歩くだけで、足あとの下から血が滲み出てくるらしいよ」

「はあ、歩くだけで」

 僕は間の抜けた声で姉さんの言葉を繰り返した。

「そう。歩くだけで。雪の裏側から、滲み出てくるんだって」

 そう言って姉さんは、とん、とん、とん、というリズムで、フェルト売り場から数歩を離れた。


 姉さんに持って来てもらった、その小指の先ほどの小振りな、それでいて鮮やかに赤いガラスペンダントには、通るような革ひもが店頭に一種類しかなく、またそれも二メートルという長さを単位にでしか売られていなかった。

「ペンダントに長し、亀甲縛りに短し」

 言いながら姉さんは、その束ねられた革ひもを両手の間にぴんと張った。

「じゃあ、余った分は僕が貰いますよ」

 特に使う宛があるわけではないが。

「ミリ単位で割り勘だよ!」

「いいですけどね」

「そうと決まれば、割り勘する為の定規も必要だ!」

「確かに」

「あ、あと、有くんは、『こんな時にパニエがあったらなあ……』って思ったこと、ない?」

「ないっすね」

 僕は姉さんから目を離して、お座なりに返事をした。あとは、革ひもの端を留めるための金具も必要だろう。ナスカンとかいう名称だったような覚えがある。売り場をぐるりと見回すと、その金具が並んでいる棚はまだ遠い。更にその間には、リボンの棚にステンドグラスの棚、それに極めつけは手芸の専門書の棚と、姉さんと見て歩くにはまたえらい時間のかかりそうな売り場が続いている。


「これ、ちょっと持ってて」

 駐車場の白線の中に収まる姉さんの赤い車の前まで来て、彼女はかじりかけのチョコレートクレープを僕に向かって突き出した。僕は自分のクレープを持つのと同じ手で受け取る。僕のその逆の手には、首尾良く手に入れた革ひもと金具一式の入った袋と、ついでに食料品売り場で買い入れた食材を入れた買い物袋が二つぶら下がっている。一つは姉さんの家ので、もう一つは僕のだ。姉さんはその空いた手で、車の鍵を探して自分のクロップドパンツのポケットをまさぐった。どうせこのタイミングで彼女が何かするのは目に見えているので、姉さんがおもむろにポケットからあの耳の玩具を取り出して「びっくりしてポケットから人の耳が出てきちゃった!」と言ったけれど、僕には何の感慨もない。

「最低限、ポケットから鳩ぐらい出して見せて下さいよ」

「いやいやいや」

「あわよくばコウテイペンギンですね」

「有くん……」

「あー、ほら、クレープのアイスが溶けるんで、早く鍵出して下さいよ」

 少しだけ調子に乗った僕が気に障ったのか、姉さんは、いつもより少しだけ乱暴な所作で車の鍵を開けて、その運転席に滑り込む。そのままシートベルトをせずに軽くシートを倒して、追って助手席に乗った僕の手から、乱暴にクレープを奪い取った。僕も食料品の入ったビニール袋を足下のスペースに置いて、同じようにシートを倒す。二人でこの車に乗る時は、いつも僕が乗る助手席のシートの方が少しだけ後ろの方に下げられていて、こうやってシートを倒すと、いつもと違った角度から姉さんが見える。押し黙ったままクレープの包み紙をちぎって、少しずつ食んでいく彼女を頭の上から見下ろしているうちに、何とはなく僕は彼女のつむじに指を伸ばした。中指で押さえたそこは、薄く押し潰れるような柔らかい感触と、暖かな熱を僕に返す。一瞬だけ、ぐ、と息を漏らして、それでもそのままクレープを食べ続ける姉さんの、その肩に流れる髪を、根元の黒い数センチから栗色の毛先まで、僕はそのままゆっくりと手で梳いた。


 クレープの甘い匂いを残したままの車を僕の家に横付けした頃には、姉さんはいつも通りのよく喋る姉さんに戻っていた。カーオーディオのクラシック音楽に合わせた鼻歌が、曲の盛り上がるにつれて大きくなっていくうちに、いつの間にか機嫌が直ってしまったようだ。最後の辺りでは大太鼓に合わせて、口で「だーん! だーん!」とか言っていた。楽しそうで結構だと、僕は思う。

「じゃ、私、近くに車、停めてくるよ。お魚だけ冷蔵庫に入れといて」

「はい、じゃあ、気をつけて」

「うん」

 車を降りた僕は、食材の入ったビニール袋をぶら下げたまま体の節々を伸ばしながら、走り去る姉さんの車を見送った。


 車を停めてから僕の部屋に戻ってきた姉さんと、流れに任せて体を重ねてから、順番にシャワーを浴びていたら、外はいつの間にか日が暮れて、紫の空に残照の赤い雲が浮かんでいた。

「六時だけど、やっぱり先にご飯、作っちゃう?」

 カーテンの隙間から外を見やる僕の背後に、姉さんが立って言った。窓に映る彼女の姿は、先ほどまでと同じ服だが、シャワーあがりに髪を上げているところだけがさっきと違う。夏の暑い時期にはよく見た髪型だったが、気をつけていないといつの間にかその露わになった首もとばかりを見てしまっている、自分が照れくさい。

「どっちでもいいですけど」

「ですけど?」

 窓に映る姉さんは、優しい笑みを含みながら、僕の目を見つめていた。受容。

「えっと、じゃあ、最初にひもの長さだけ合わせてくれたら、その後はやっときますよ」

「ふふふ、なんか、自信満々だね」

「金具をペンチで潰して、ひもに接着するだけじゃないですか。それくらい出来ますよ。それに、」

「んー?」

 言葉を継ぐ僕に、彼女はゆっくり首を傾げた。

「それに、まあ、ひもも金具も、予備がいっぱいあるんで。失敗してもいいんだったら、やりますよ」

「あらあらあら。じゃあ、そう、しましょうか」

「そう、します」

「うん。じゃあ、用意して、長さを決める時になったら、呼んでね」

 彼女は背後から腕を回して僕の胸の前で手を組んで、一度軽く僕を抱き締めながら、僕の背中で囁いた。その僕の背中の柔らかな感触はそのまますぐに離れて、台所にかかっているピンクのエプロンへ向かう。


「えっと、じゃあ、いいですか」

 僕が背後から声をかけると、姉さんは野菜を切る手を止めて、振り向いて軽く胸を突き出した。

「どうだ! 3Dだぞ!」

 姉さんの妄言に僕は何も答えず、彼女の首の後ろに手を回して、ひもを通した。

「こんなもんですかね」

 そう言いながら、姉さんの胸の上で一周したひもの端を片手で押さえて、彼女の表情を窺う。

「もうちょい、長い方がいいかな」

「このくらい?」

「そうだね」

 束から更にひもを数センチ出して、作った輪は姉さんの鳩尾の辺りまで伸びた。小振りのペンダントにしては、かなり長い方だと思う。作った輪を指で押さえたまま、姉さんの首から革ひもを外す。姉さんの束ねた髪の端が、引っかかって跳ねた。

「じゃ、これで、金具、付けるんで」

「そっか。ふふふ、頑張ってね」

「頑張ることもないですよ」

 僕はそう言って、ポケットの中に入れてきた金具とペンチを、食卓の上に広げた。早速、ひもの指で押さえていた辺りを、ペンチの切断部分で切る。切ると言うよりは、ぐにゃり、と押し潰すような感触が手の中に残った。

「あらあらあら、そこでやるの?」

 台所の野菜に向き直りかけていた姉さんが、それを見つけて僕に尋ねた。

「まあ、姉さんが料理作ってるとこ、見てたくて。えっと、邪魔、ですか」

「んー、ふふふ、いや、そんなことないよ。うん、お互い、頑張ろうね」

 そう言って姉さんは、今度こそ作りかけの料理に立ち戻る。すぐにまた、まな板の上で、さく、さく、さく、と一定のリズムで心地良い切断音が鳴り始めた。


「えっと、たぶん出来たんですけど、ペンダント、通してみてもいいですか?」

 恐らく簡単な作業だろうと思っていたけれど、本当に数分で終えてしまった。苦労したのは精々、金具の穴に革ひもを通すのに少し手間取ったことくらいだ。

「すごいね。えっと、私のバッグの中に入ってるから」

 姉さんは、鍋をかき混ぜる手を休めず、こちらを向かないまま答えた。入ってるから、というのは、どういう意味なのだろう。

「あの、えっと」

「んー? ああ、私のバッグ、開けていいんだよ。中の横の、ポケットみたいになってるとこに入ってるから」

 ああ、そういう意味だったのか、と知ったところで、やはり他人のバッグを開けるというのには、強い抵抗感が残る。

「えっと、……すみません」

 僕は結局、革ひもを握ったまま、再度うろたえることになった。

「ふふふ、じゃあ、ちょっと待ってて。これ、味を調えたら、あと煮込むだけだから。そだ、有くんもちょっと味見してみてよ」

 そう言ってお玉にスープを少量汲んで、食卓に座ったままの僕の口元に寄せに来てくれる姉さんは、いつもの優しい笑顔だ。僕はいつの間にか、作ったばかりの革ひもの輪を強く握り込んでいた。


「送ってくれて、ありがとう、だね」

「いえ」

 駐車場に停められた彼女の車の運転席のドアを開けたところで、姉さんは振り向いて僕に言った。彼女が背負う車内灯の他に、この僕の家の近くのコインパーキングには、心許ない街灯が一つきりあるばかりで、夜の帳に透ける姉さんの表情は読み取れない。姉さんの愛車の赤も、作ったばかりの首から下げられた赤いペンダントも、ドアにしなだれかけられた血色の良い指先の爪も、黒くくすんで見えるばかりだ。

「じゃ、ね」


 だから、なのだと思う。自分でも、意図しなかったことなのだけれど。だから、このモノクロの世界から、車内の色づいた世界に滑り込もうとする姉さんの腕を、僕は自分でも気付かぬうちに、強く握っていた。

「……えっと、有くん?」

 困惑した彼女が呼びかけて、僕ははっと我に返る。

「あの、や、えっと」

 だけれど、僕は、掴んだ腕を離さない。言葉のないまま、彼女の腕を、離すことが出来ない。

「……どうしたの?」

 彼女がまた、僕を見て優しく微笑んだ。姉さんの困惑は、いつも長くは続かない。

僕は視線を逸らして、僕らの頭上に広がる夜空を見やる。星だけが色を保っていた。この星空の中に、僕が今、彼女に言うべき言葉を探した。西の空に残る夏の大三角。南の一つ星フォーマルハウト。東に現れるペガスス座。散らばる星をかき集めて星座を作っても、僕が探している言葉だけが見つからない。

 諦めて姉さんに視線を戻した。すると、言うべき言葉は相変わらず見つからなかったけれど、その彼女の微笑の中に、僕は、自分の言いたい言葉を見つけた。そして、その見つけた言葉が、僕の口から、漏れる。

「あの、姉さん」

「んー?」

 姉さんは、力の抜けた声で小首を傾げた。言いたい言葉、と僕は思う。言いたい言葉はどうやら発してもいいらしい、と僕に教えてくれたのは、この人だ。


「えっと、好き、です」

 大仰に言えば、愛の告白、というやつだ。真面目な場面で口にするのは、間違いなく、初めてだ。

「ふふふ、ありがとう」

 そのわりに、彼女の反応は淡泊なものだった。微笑みが湛える優しさは一層増していて、僕の言葉が彼女の心を和らげているのは分かったけれど。

「あの、だから」

「うん」

「彼氏と、彼女になりましょう」

 僕が踏み出したい、一歩の話。切り出すのにかなり勇気と激情が必要だった、大事な言葉のつもりだったのだけれど。それを聞いた姉さんが、顔面を強張らせて、動きを止める。


「……んー……。あー、あれだ、えっと、私たちって、」

「あ、え、はい」

 やっぱり、姉さんの困惑は、すぐに解ける。その彼女の困惑にかえって戸惑わされた僕が、逆に取り残されるほどだ。

「もう既に、恋人同士、だったんじゃ、ないの?」


「……え?」

 そんなことは、と思う。こうやって言葉で好意を確認するのも、少なくとも僕からは殆ど初めてのはずだし。姉さんからだって、改めてそんな愛の告白みたいなものを受けた記憶はない。今更僕らの間に、姉弟の倫理観なんて下卑たものを持ち込むつもりもないけれど。

「いや、だって、ほら、そういうことだって、ずっとしてきたし、今日もしたのに」

 姉さんが、言葉を濁しながら、僕を糾弾する。

「それは、なんか、姉さんは、付き合うのとそういうのと、別な人なんだと思ってて。いや、だって、ちゃんと確認したこと、ないじゃないですか。恋人とか、彼氏とか、そういうの」

 僕のこの言葉を聞いて、姉さんは完全に脱力したようだった。いつもの、良い按配に力の抜けた、というのとは全然別の、力が入らない、という方向への脱力だ。彼女の手首を掴んだままの僕の右腕に、項垂れた額をぺたんとくっつけて、そのまま彼女が零した。

「そっかー……。成る程ね……。有くんにとっては、そういうこと、なんだね……」

 それでも、すぐに顔を上げる姉さんが、僕は好きなんだと思う。そして、この上げた顔に寂しそうな表情が残っているのが、また僕が知らずに犯した何かの失敗のせいなのだとしたら、それは、酷く、悔しいことだと思う。

「えっとさー、じゃあ、ここで有くんと恋人同士になって、それで、付き合い始める前と後で、何が違うの?」

 少しだけ投げやりな口調で、彼女が問うた。

「多分、お互いが彼氏と彼女として、束縛? とかする権利が発生する、んじゃないかと」

 考えながら、僕は答えた。権利の発生だなんて、法律用語みたいだ。契約、みたいに。

「私のこと、束縛、したいんだ?」

「そういうわけじゃないですけど。でも、多分、そういう権利は、欲しいんだと。思います」

 うん、と思う。考え直してみると、僕が欲しいのはきっと、そういうものだ。

「ふんふんふん。……ふーん。じゃあ、いいよ」

「え?」

「有くんが選んでいいよ。私と有くんが、付き合うかどうか」

 姉さんは、投げやりな口調のまま、そう答えた。

「僕は、だから、姉さんと、恋人同士に、なりたくて」

「じゃあ、付き合う? 私たち」

「でも! 僕が、言ってるのは。言いたかったのは。そういう僕を、姉さんが、彼氏として受け入れてくれるかどうかとか、僕が姉さんの彼氏として振る舞う権利があるのかどうか、とか、そういうことだから。それを僕が決めていいとか言われても。……だから。そんなこと、訊かれても。……分かんない、です」

 姉さんの手首を掴んだ僕の手が、緩みかけた。すると、姉さんが、空いている方の腕で、僕の首に手を回して、思いっきり抱き寄せた。姉さんの顔と、僕の顔との間が、二十センチ。

「あのさあ!」

 姉さんが、いい加減に痺れを切らしたというような口調で、僕に言い募った。

「分かんない、って、何? ねえ、別に間違ってても、いいの。気ばっかり遣って、かっこばっかりつけて。もっと、有くんの、好きにしてよ」

「そんな、好きにして、って。そうやって、いつも間違えても許されて。それって、姉さんの気持ちに甘えてるってことに、なりませんか」

 僕が言い淀むと、姉さんが、更に僕に顔を近づけた。十センチ。

「あの、ね。いっぱい、間違えてくれていいよ。絶対、嫌いになんかならないから。いっぱい、甘えて欲しいよ。絶対、諦めたりしないから」

 言い終わるとそのまま、姉さんは僕に口づけた。距離は零。更にその勢いを止めず、舌根を僕の唇に割り入れる。上の歯列を右から舐めあげて、下の歯列を左からねぶり、半開きになった僕の歯の間に舌先を通してその奥へ、僕の口腔を一頻り侵した。口づけている間、なんだか無性に、涙が零れそうになっていた。僕に足りない何かを、涙が埋めようとしているみたいに。今の僕のこの気持ちが、恋だったらいいと思った。ようやく姉さんが唇を離す。そして、僕の唇と唾液の糸で繋がったままの彼女の唇が、更に言葉を紡いだ。

「……いいよ。距離を零にして、マイナスにして。それから、私たちの恋が、始まって。ねえ、彼女と、彼氏になりましょう?」


 こうして、僕と姉さんは、恋人同士になった。

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