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翌日のテストは、わりあいに上手くいったと思う。予想通りの出題傾向と、対策。予想されるということは、それがあの人の仕事として期待されることであり、つまり、あの人は自分の仕事を為したということなのだろう。……僕は、たかがテスト一つで、自分でもよく分からない感慨に耽りすぎだと思う。実際、テストが終わった後には、開放感と言うより、前日から妙に張っていた気が抜けて、急に身体が重くなってしまった感がある。待ち合わせてから一緒に映画を観に行った姉さんにもそれは気付かれたようで、いつもなら平気で二、三本ほど梯子して観るところを、今日は短いアニメ映画を一本だけで解放してもらった。心配げに僕の家まで着いてこようとする姉さんを駅まで送り届けると、同時に彼の姿も消える。先に僕の家まで帰ったのだろう。一人になった僕は、広い歩道の真ん中で、目を閉じて数歩を踏み出してみる。頬を伝う汗と、踏みしめたアスファルトから、感触が伝う。溜息をついて、目を開いて、僕は自分の家へと向かい歩き出した。
家に着いて、そのままベッドに倒れ込んだ僕を無理矢理起こしたのは、携帯電話の振動音だった。気が付くと時計は二十二時を回っている。携帯電話の液晶を見て少し驚いた。メールは父さんからだった。用件は『大学で遅くなったから泊めてくれ』とのことだった。去年も何度かあった話だ。あの人は毎日郊外から電車で通勤しているのだが、何かの用事で遅くなった時、例えば指導している大学院生の修士論文発表前だとか、入試の採点だとかの時には、こうやって僕の部屋に泊まりに来ようとする。僕の方でも拒む理由はないのだけれど、そういう時、あの人はいつもこうやって直前になってから連絡をしてくるのだ。あの人が寝るための寝袋はクローゼットに常備してあるから、特に物質的な用意は必要ないとは言え、その出し抜けな行動にはいつも辟易させられる。
どうにも身体の重さは、目覚めてからも変わらない。ぼんやりと、どのような言葉で返信しようか迷っている間に、チャイムが鳴って、父さんが入ってきた。遠慮のない足取りで入ってくる見知らぬ人を見て、彼が、警戒心を顕わにフリッパーを振りながら鳴き出した。もちろん、あの人にそんなものは聞こえない。ぶら下げてきたスーパーの惣菜の袋をどすんと食卓に下ろして、電子レンジに入れながら言った。
「飯買ってきた。一緒に食うなら食え」
「……いただきます」
携帯電話をベッドの上に投げ捨てて、僕ものろのろとキッチンに入った。あの人は今度は冷蔵庫を開けていた。買ってきた缶ビールを冷蔵庫に詰めている。
「缶ビール、入ってた冷えてるやつ貰うわ。あるってことはお前も飲むんだろう」
「……ああ、ええ」
僕はそのまま食器棚からグラスを二つ出した。やがて電子レンジの電子音が鳴って、パックのままで暖め終わった出来合いの焼き鳥なんかを挟んで、僕とあの人は食卓を囲んだ。
しばらく無言の時が続いた。時折僕は、向かいに座るあの人の表情をそれとなく窺ったけれど、もちろん感情などは読み取れない。何の興味も無さそうに、食卓に並ぶ調味料類の瓶を眺めているだけだった。
「テレビ、こっち向けるぞ」
あの人が、半分ほど囓った焼き鳥をパックに戻して、おもむろに立ち上がって言った。テレビは専ら、ベッドに並んだ姉さんと一緒にDVDを見るのに使っているので、普段は食卓とは逆の側を向いている。あの人は、配線を無造作に巻き込みながらやすやすとテレビの向きを反転させて、そのまま電源を入れた。賑やかなだけのバラエティ番組が映る。あの人がこちらへ向けたのは画面だけで、僕の自慢のオーディオスピーカーは逆向きのまま、配線を巻き込まれてあらぬ方向を向いていた。食卓まで戻ってきたあの人は、鼻を鳴らして、リモコンを使ってそのままテレビの音量を上げる。彼がそれに対抗するようにけたたましく鳴いた。彼が落ち着いてしまうと、また無言の食卓を囲むことになったけれど、目線の固定先が見つかって、僕はさっきより気疲れしなくなっていた。
随分遅い夜食を食べ終えたあとも、僕とあの人はしばらくそのままテレビの深夜番組を見つめていた。あの人がチャンネルを変えて『からくり人形の文化史』なんてドキュメンタリーが、静かに始まっていた。茶運び人形、というものらしい、手の平大の、車輪の付いた気味の悪い人形が、その手に小さな茶碗を置かれると、それをスイッチとして、不快な歯車の音を軋ませながら走り出す。
先ほどテレビの向きを変える時にリビングまで歩いて行った時に、ようやく気が付いたのだろう。ふとした折に、あの人が、彼のいる方を見ながらまた口を開いた。
「あの柵、何」
「ああ、えっと。先輩との、ごっこ遊びに使ってるやつで、」
説明しようのないことを訊かれて、僕は少しだけしどろもどろになった。あの向こうに僕はペンギンを飼っていて、あの柵はここと南極を区切る、大切な役割を果たしているものです。そんなこと、説明して分かって貰えるような人ではない。けれど。
「あれあったら、寝袋、敷くとこ無いよな。遊んでるんだったら、どかしていいやつか」
「あの、出来れば、そのままにして下さい」
僕は、やっとのことで自分の要望を口にした。こんな言葉でも、絞り出すような声でしか発せない。その柵が無くなってしまえば、彼がどうなってしまうのか、僕には想像がつかないんだ。予感なんてものは必要ない。彼の存在は僕が規定しているのだから。だから、あの柵が無くなった後のことが想像できない僕にとって、それは無くなっちゃいけないものなんだ、と思う。
「どかさねえんだったら、どうすんの。おい、寝れないだろう」
「え、っと、その」
僕はまた、言葉に詰まった。ああ、と思う。そんなことを訊かれて、僕が決められた験しなんか、ないじゃないか。知っているだろう、父さん。あなたが僕を、そういう風に、育てたんじゃないか。
「……どかすぞ」
「あ、」
あの人が、食卓を外して、彼の柵に手をかけた。中の彼はフリッパーで叩いてあの人の手を払おうとするけれど、そんなもの、あの人は一顧だにしない。当たり前だ。あの人には見えないのだから。僕が大きな声を上げて止めようとした瞬間、喉の奥で何かが絡みつくような感触がして、僕は大きく咳き込んでしまった。
「がふっ……かふっ」
「おい、大丈夫か」
振り向いて僕の方を向きながらだったけれど、あの人はそのまま柵を持ち上げて、ぱたん、ぱたんと折り畳んでしまった。ぱたん、ぱたん。それが、僕の部屋と南極との境界が、不可逆的に損なわれる音だった。少なくとも、僕がそう思った。刹那。僕の視界から、ふっと、彼の姿が消えてしまった。普段、外出先で姉さんと別れた時と同じ、音もしない突然の消滅だったけれど、そういうのとは違う決定的な消滅なのだ、ということに僕は気が付いてしまった。くるりと手の平が裏返るような、相転移。あるいは、普段の彼の外出先で見せるその消滅が、僕の部屋への転送の結果として起こるものだとすれば、今回の消滅で彼はきっと、本当の南極大陸の繁殖地へと転送されてしまい、彼という個体は、コウテイペンギンという種の中の一部に戻ってしまったということなのだ。いいかい、彼は二度と僕の部屋には現れない。どころか、仮に僕が南極大陸に行ったとて、その鳴き声を追い求めたとて、嘴の色を頼りにしたとて、コウテイペンギンの集団の中から、彼という個体に辿り着けることは、ないんだ。さあ、この転送過程におけるエントロピーの増大量を計算しなさい。……二ヶ月間にも及ぶ彼との共同生活が、あまりにも唐突な、嘘みたいな一瞬のうちに蹂躙されてしまったことに、僕は呆けて、思考が無軌道になっていた。
「このプール、水、入ってんのかよ」
柵を畳み終えて横に投げ置いたあの人が、続けてビニールプールを覗き込んで言った。
「……そこのバケツ使って、汲み換えるんです」
僕は、喪失感で気が抜けたままに、毎朝繰り返してきた、そしてもう二度とする必要のない手順を説明した。
「バケツん中、なんか入ってんぞ。何だこれ、あれか、手品のやつか。……お前、ほんとにこれで、何してたんだ」
バケツから、彼の食糧であった耳の玩具を取り出して、僕に放り投げる。胸の前で受け取り損ねて、それは僕の両手に安っぽいゴムの感触を残して床に落ちた。ぼんやりと見つめると、耳の玩具は、耳の形をしていた。
「じゃあこれ、捨ててきてくれ」
あの人は、プールを傾けて水をバケツに受けたのを、僕に差し出した。僕はバケツを持って浴室でその水を空け、またバケツを持ってあの人のところまで戻ってきた。
「いや、バケツまた持ってこられてもな。どっか置いて来いよ」
「……ああ、そうでしたね」
また、浴室に行ってバケツを捨て置いた。乱暴に置いたバケツの音が、浴室の中で反響する。再度居間に戻ると、あの人はビニールプールを踏んで空気を抜いているところだった。初めてこのプールを膨らませてから二ヶ月、抜けかけた空気を何度か足したことはあったけれど、こうやって意図的に抜くのは初めてだ。空気の抜ける、ぷしゅうという音は間抜けで、そして、空気を吹き込む時とは比べようのないくらいの速度でみるみる萎んでいく様子は、更に間抜けだった。あっという間にビニールプールは、両手で抱えられるくらいの大きさになってしまう。あの人がそれを部屋の隅に押しやってしまうと、彼のために用意した物は、全て片付けられてしまった。
「おい、ここ、カビ生えてんぞ」
あの人が、ビニールプールの下敷きになっていた場所を指して言った。フローリングに膝をついて、あの人の指すところを見ると、確かにぽつんぽつんと黒ずんでいるところがある。でも、ここは南極だったはずで。カビなんか、生えるはずがなかったんだ。だって、飼育下のペンギンの死因で一番多いのは呼吸器がカビに冒される呼吸困難のはずで、だからカビが生えるようなところに、彼が生きていられたはずがない。僕は、この黒く点在するカビに、自分と彼との間にあったものが全て虚構であったことが暴かれたような気がして、膝をついたままうなだれた。
「……お前、さっきから呆けすぎだぞ。俺も寝っから、お前ももう寝ろ」
「……はい」
「シャワーだけ借りるから。先に歯磨いて寝てろ。寝袋だけ出しといてくれりゃ、電気消してていいから」
そう言ってあの人は、先の惣菜と一緒に買っておいたのか、同じスーパーの袋から下着と歯ブラシを持って浴室へ向かった。僕ものろのろと、台所で歯を磨き、着替えて先にベッドに入った。浴室からはしばらく無遠慮な水音が聞こえてきていたけれど、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
―
翌朝、僕が自然に目覚めると、部屋の中には誰もいなかった。部屋の隅に、しぼんだビニールプールと畳まれた柵、折り畳まれた寝袋だけが残っている。まるで父さんが、彼を攫っていってしまったみたいに見えた。
雨が降っていた。昨日までのギーギーという蝉のけたたましい鳴き声の代わりに、周波数のズレたラジオのノイズみたいな雨音が聞こえていたけれど、僕は不思議と、静かな朝だと思った。今日からは、彼のために食事を用意しなくてもいいのだと思うと、僕はベッドから抜け出す気力すら無くなってしまった。そして、そのまま手を伸ばして、携帯電話を掴んだ。姉さんの、声が聞きたいと思った。姉さんが出るまでの三コールが、酷く長いものに思える。
「ふふふ、おはよう、有くん。昨日、あれから大丈夫だった?」
「ねえ、さん」
「なに?」
事情の知らない姉さんの、いつも通りの一人で楽しそうな声を聞くと、喉の奥から急に悔恨の思いが押し上がって来て、僕は息苦しさに唇を噛みしめた。僕と、姉さんと、彼と。一緒だったのに。僕は、あの人から、彼を守りきれなかったんだ。
「有くん?」
「ねえ、さん」
「うん? ふふふ、今から行くから。着替えて待ってて」
「あ、や、い、いま、うち、来ないで下さい」
相変わらず察しの良い姉さんだったけど、僕は彼女の申し出を断った。むざむざと彼の居場所を失った僕の無様さを、彼女に見せたくない。だけれど、姉さんは僕の言葉を無視して「大丈夫だよ」とだけ僕に言い残して、電話を切った。
小一時間もしないうちに、ドアのチャイムが鳴った。返事をすると、返ってきたのは案の定、姉さんの声だった。一度は来訪を断ったのに、こうやって彼女の声を聞いて安堵を覚える自分に、先ほどからの自己嫌悪感が更に募る。ドアを開くと、そこには姉さんがセーラー服を着て立っていた。白い半袖のセーラーカラーのオーバーブラウスの中央に、赤い小さなリボン。紺の膝丈スカートには、よく見ないと分からないほどの色でチェックが入っている。片手には、黄色い傘。
「姉さん……? え……いや……なんで……?」
「えっと、なんか、高校の時のがクローゼットにあったから、だけど……。あれ……? 私、なんでセーラー服とか着てるんだろう……?」
昨日からの僕の喪失感が、有耶無耶になってしまいそうだった。
「……とりあえず、上がって下さい」
「うん……。お邪魔、するね……」
姉さんは律儀にも、制服に似合ったローファーを履いてきていた。片足ずつ踵を上げて、音をたてて脱ぎ落としていく。
居間に通すと、姉さんは、彼のいた場所を見て少し驚いたようで、それから、その横に置いてあるままの寝袋を見て、粗方の事情を察したようだった。寂寥すら感じさせるような薄い微笑みを僕に見せながら、彼女は言った。
「昨日、誰か、泊まりに来たんだ?」
そして、察しているからこそ、少し遠回しに聞いてくるのが、彼女の優しさなのだと思った。
「……はい」
「私というものがありながらっ。相手はどこの泥棒猫ですかっ」
少しおどけた口調の姉さんの言葉が、一瞬だけ僕らの間にぽつんと浮かんだ。そして、僕らはお互い苦笑を交わす。優しい、茶番。
「気持ち悪いこと、言わないで下さいよ」
「じゃあ、やっぱり、昨日来てたのって」
「父さんですよ。毎度毎度、あの人の自分勝手な都合で、急に押しかけてきて、」
昨夜あったこと、そして、彼が見えなくなってしまったこと。大体の顛末を説明し終えると、姉さんは突然僕の手を握って、そして、例のコウテイペンギンのドキュメンタリー映画が観たいと言い出した。確か、僕が彼を見るようになってから、あの映画を観たことはなかった気がする。何かが起きるような気がして、僕は頷いた。そして、手を繋いだまま、再生の用意を始める。
あの人が向きを変えたままにしたテレビを元の向きに戻す時だけ、僕らは手をほどいた。昨夜、無理に向きを変えた時に絡まったオーディオケーブルを、二人で順番に、一本ずつ刺し直す。遮光カーテンを引き、照明を落とした。昼間だが、雨が降っているせいで、程良く部屋が薄暗くなった。二人、無言になってベッドに並んで座って、リモコンを操作した。もう何度見たか分からない、冒頭の著作権に関する警告映像、そして、ゆっくりと遠景から入る、南極大陸の風景。静かに入るナレーションと、スタッフテロップ。そうして、やがてフォーカスが当たるのは、冬の初め、繁殖地へと向かって行列を成す、コウテイペンギンたちの姿。
僕は、コウテイペンギンとしての彼の姿をかなり正確に見ていたつもりだったけれど、改めて見返してみると、ところどころ勘違いがあったようだ。例えば、早期に孵化に失敗した場合、オスは彼のようにすぐに絶食を解消するために海に向かうのではなく、ハドルの一羽として集団で暖をとり続ける場合も多くあるようだった。注意して見れば見るほどに、彼が、単なる僕にしか見えていなかった夢物語でしか無かったことが思い知らされるようだった。だけれど、それでも。ハドルの中に、僕が見ていた彼の姿を探してしまう。つがいのオスとメスが呼び合うその声に、彼の特有の、僕にだけ聞こえていた鳴き声を探してしまう。映画のチャプターが進むごとに、僕の夢物語がほどけていく。いつの間にか僕は、姉さんと繋いでいた手を引き寄せて、きつく自分の唇に押し当てていた。ああ、と僕は思う。僕が姉さんに望んでいたのは、口づけですらなく、無様なことこの上なく、授乳だったのだ。そして、画面の中での彼らの繁殖は続いていく。何千、何万というオスのコウテイペンギンが、ハドルとして身を寄せ合い、じっと頭をもたげ、吹雪に耐え忍び、卵を護っていた。
「なんで、」
姉さんの手の甲の上に唇をなぞらせながら、僕は思わず呟いていた。寒空の中に力尽きるオスが居て、餌を採りに行った先でアザラシに噛み付かれるメスが居て、孵化できずにその生を閉じる雛が居て、トウゾクカモメに攫われる雛が居て。彼らは、こんなにも死にやすいのに。彼らは、何のために世界で一番厳しい寒さに耐えているんだ? 彼らは、なんで生きているんだ?
映画が終わりに近づいていた。雛の群れが、あの特徴ある顔の模様を残したまま、海へと飛び込んでいく。彼らが、自分で餌を採るために。生きていくために。繁殖するために。吹雪に耐えるために。死ぬために。僕はいつの間にか、嗚咽を漏らしていた。
姉さんは、自分の胸に僕を抱き寄せて、そのままあやすように僕の背中を、ぽん、ぽん、と二度叩いた。
「有くんは、大丈夫だよ」
さっき電話口で聞いたのと同じ言葉が、僕を強引に落ち着かせる。その与える安心感と、それとは真逆の印象を与える稚いセーラー服が、僕の頬に触れる触感。そして、長らく仕舞ってあっただろうそれから漂う、防虫剤の香り。複雑なアンビバレンツが、姉さんの胸の中にあった。
「いつまで、僕はっ」
「うん」
姉さんの柔らかい胸の中で、僕の声はくぐもって聞こえた。
「いつまで、僕は、あの人の言いなりなんだっ」
「うん」
「自動人形みたいに、あの人に与えられた言葉ばかりを」
「うん」
「最近、やっと、姉さんに言葉を貰って。ようやく、こんな自分に気がつけた頃だったのに」
「うん」
「結局、彼のことも、護り、きれなくてっ……」
「うん」
「あの人も、自分の言葉を振りかざすばかりで、僕の、ことなんかっ……」
「うん」
それ以上は、言葉にならなかった。モニターには、エンドロールが終わって、タイトル画面が映し出されている。そうして、姉さんが、僕の背中に回していた両腕に、そっと力を込めてから、静かに話し出した。
「有くんはさっき、映画を観ながら、『なんで』って言ったよね。なんで、あんな吹雪に耐えてまで、ペンギンたちは生きていかなくちゃいけないんだろうね。
ペンギンって、二足歩行するし、昔からよく、擬人化されて描かれてきてるじゃない。アデリーペンギンなんかの体の模様をタキシードに見立てたりして。かわいいとか、言われたりして。そうやって人間は、共感ってのを使って、ペンギンを理解するんだ。でも、こうやって、あんな風な繁殖風景を見せられたら、もう共感なんかできないよね。『なんで』って言っちゃうよね。だって、異常だもん。何万っていう数でびっしり身を寄せ合って、何ヶ月って絶食して。そんなの、人間じゃ考えられないよ。気持ちが、悪いよ。共感なんか、出来やしない。でもね、コウテイペンギンは、そういう風に出来てるんだよ。生きていくためのシステム。ただのシステムとしてそう出来てるの。感情がどうとかじゃないから、それは共感で理解しちゃいけないんだ。もっと、別の方法で、そういうものとして理解して、受け入れていくんだよ。
そして、ね。有くん。きっとそれは、人間同士だって同じなんだ。私は、有くんのことが好きだし、有くんが考えてること、いっぱい知りたいよ。有くんと一緒にいて、同じことがしたいよ。出来るだけ、有くんと同じ気持ちで居たいよ。でもね、それは、きっと無理なんだ。きっと、いつか、どこかで、有くんは、私が絶対に共感出来ないようなことをするの。それは、子犬を蹴ったりとか、道端にゴミを捨てたりとか、ものを食べる時に音をたてて噛むとか、そういう分かりやすく糾弾出来るようなものではなくて、きっともっと些細な、日常の癖みたいなもので。でもそれは、私にはきっと気になって仕方ないものになるんだ。どうでもいいことなんだけど、一度気になっちゃったら、嫌で嫌で仕方なくなること。そしたら、どうしてそんなことするの、意味分かんない、気持ち悪い、って、私、言いたくなっちゃうと思うんだ。でもね。でもね、それでも、って思うんだよ。それでも。それでも、私は、有くんのことが好きだから。私の好きな有くんが、ただそうできているだけだから。それを私が共感出来なかったくらいで、有くんを理解することを、諦めたくないんだ。意味分かんないとか言って、諦めたくないんだよ。あなたを、もっと、受け入れたいと、思うんだよ。
有くんも。お父さんのこと、彼を追い出した敵みたいに言って。自分の理解の範疇から、閉め出してるように見えるけど。あのね。きっと、どこかに、違う見方もあると思うんだ」
姉さんは、そこまで喋ってから、一つ息を入れた。意味の詰め込まれた言葉が、中から弾ける寸前の硝子玉みたいだと、僕は思った。常日頃からよく喋る人だけど、いつもは僕との受け答えそのものを楽しむように、僕の表情を窺いながら話すから、こんなに一方的に真面目な話を、語りかけるように話す彼女の姿は、初めて見たと思う。
「だから。探しに行こう。私達で、彼のこと。見つかっても、見つからなくてもいいから。一緒に、色んなところに行って。色んなものを見て。そしてその中に、彼がまた見えたら、それはとっても素敵なことだと思うんだ」
「姉さん」
「うん」
「姉さん」
「ふふふ、彼は、どこにいるだろうね?」
「どこ、ですか」
「有くんの、行きたいところ。私を、連れて行きたいところ。どこ、だろうね?」
ああ、と僕は思う。また、姉さんの「遊び」が、また始まるんだ。ゆっくりと、何度でも。姉さんのフィクションの中に沈み込もう。僕は姉さんの腕の中から離れて、姉さんの顔を正面から見据えた。彼女は、いつもの楽しそうな笑顔を浮かべている。
「水族館、とか、どうですか」
僕は、途中で変にしゃくりあげるような声になりながら、やっとのことで答えた。もう、迷うよりも先に、答えたいと思った。
「隣街の?」
「はい」
隣街にある水族館はかなりの大きさで、確か世界有数の規模だということだったはずだ。ペンギンに関しては、コウテイペンギンこそいないものの、やや小さくも同じ属に属し見た目もよく似ている、キングペンギンがいる。僕はその水族館には行ったことがないが、姉さんは、その売店に売られているという、キングペンギンが換毛期に落とした羽根を一枚収めたキーホルダーというのを、いつも使うカバンに付けている。
「ふふふ、じゃあ、早速今日、行ってみようか」
「……いえ、セーラー服着てる人とは、ちょっと」
「あらあらあら。じゃ、着替えてくるよ。車も借りてくるね」
「……はい」
「ふふふ、いい子にして待っててね」
姉さんが、僕の両目蓋に一度ずつ、口づけてから立ち上がる。部屋を出て行こうとするその背中に、僕は声をかけた。
「姉さん」
「なに?」
「彼の柵、持って帰って下さい」
僕は部屋の隅に畳んである柵とビニールプールを指して言った。
「彼を探しに行く、って言ってんのに?」
「ええ。多分、いいんです」
「ふふふ。そうなんだ?」
「長いことお借りしました」
「うん」
柵を拾って、姉さんは今度こそ部屋を出て行った。僕はその間に、洗面所に顔を洗いに行く。
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