3

 姉さんが僕の家に来たのは、その日の夕方、少し遅くなった頃だ。ちょうど、昨日姉さんが僕の家から帰っていった時間くらいだろうか。最近は陽が落ちるのがすっかり遅くなってきたので、まだ外は暗くなってはいない。チャイムを鳴らして、玄関先でそれを出迎えた僕の両手に、皺くちゃになった固めのビニールの塊を渡して、姉さんは言った。

「私、もっかい車行って、柵を取ってくるから。有くんはそれ膨らませておいて」

「なんですかこれ」

 僕は両手に抱えたそれを広げながら尋ねた。

「プールっ。膨らませたら、あそこ置いておいてね」

 それだけ答えると、また姉さんはぱたぱたと音を立てて車へ戻っていった。


「ふふふ。それじゃ、ルールを説明します」

 姉さんの言葉に、僕はビニールプールに息を吹き込みながら、首だけで頷いて答えた。姉さんが、車から柵を取って戻ってきて、更にその柵を、昨日僕らが隣り合って着替えた、四畳ほどのスペースを区切るように置くくらいの時間をかけても、まだプールは膨らみきっていない。姉さんは、これも自分の家から持って来たという、青いポリバケツをぶらぶらさせながら続けた。

「コウテイペンギンは、散歩のとき以外はこの柵から出ません。そして、この柵の中は、南極と同じ気候とします」

 姉さんが柵と呼んでいるのは、四方の高さが腰くらいまである黒い金網のようなものを、更に金具で横に何枚か繋げたものだ。そのジョイント部分の角度を調節することで、その柵は自立して僕の部屋の一部を区切り、その内部を定義している。南極はこれから真冬に向かっていく季節だから、その柵の中はマイナス三十度から六十度というところだろうか。繁殖地での産卵が終わり、オスならば身を寄せ合って卵を護りながらの数ヶ月間の絶食が中盤を迎えた辺り、メスならば産卵の空腹を海へと癒しに行く途中という時期だ。

 先ほどから彼女は、わりと無茶なことを言っているように思うが、これが姉さんの決めた、この「ペンギンを飼うごっこ」という遊びの「ルール」なのだ。一度決めてさえしまえば、ルールはそういうものとして運用される。姉さんの与太遊びに「没頭」するには、このことをまず理解しなければいけない。僕は再び首肯した。

「餌は、ほんとにお魚とか用意しなくていいけど、適当なタイミングで、このバケツに入ってる、これをペンギンにあげて下さい」

 そう言って姉さんがぶら下げていたバケツの中から取りだしたのは、一昔前に手品で流行った、びっくりすると手のひら大に大きくなったりならなかったりするという、人の耳の形をした玩具だった。あまりに突然、突拍子のないものが出てきたものだから、僕は思わず吹いてしまった。せっかく入れていたビニールプールの空気が、また少し漏れていく。

「ふふふ、有くん、しっかりして下さい」

「いや、いくらペンギンごっこでも、さすがに人の耳は食べないでしょう」

 もちろん、姉さんが「これがペンギンの餌」と決めたからこれがペンギンの餌の役割になる、というだけで、恐らくこの「耳」は姉さんにとっても「さっき自分の家で見つけた、手頃な大きさのもの」以上の意味なんかないのだろうけど、しかし。人の耳はないだろう。

「じゃあ、それっぽいもの、有くんが選んでいいですよ。餌、何にする?」

「え、」

 僕は答えに詰まってしまった。あのくらいの大きさのもので、僕が飼うペンギンの餌としてふさわしいもの。ハサミ、文庫本、僕の部屋で目につくものの、どれでもいい気がする。

「いや、どれでもいい、ですけど」

「じゃあ、この耳でいいよね」

 ルールが、決まってしまったようだ。僕が飼うペンギンは、定期的にあの耳を食べる。僕らがそう決めたのだ。

「でも、コウテイペンギンって、何ヶ月か餌も食べなくても大丈夫ですよね」

「かもね。ふふふ、それも有くんが決めていいよ。この耳がどのくらいの餌の量に相当して、ペンギンがどのくらい餌を与えなくても生きていけるか。どのくらい、だろうね?」

「……先に、そのペンギンの設定聞いてからでいいですか」

 また答えに窮するのが嫌で、僕は答えを先延ばしにした。

「うん。えっとね、体長は百二十センチで、繁殖地での抱卵に失敗したばかりの、若いオス」

 オスか。ビニールプールに呼気を吹き込みながら、そのペンギンを想像する。ふとした弾みでメスから預かった卵にヒビが入ってしまったのか。あるいは、風雪に耐えるために絶えず動いていた拍子に、自分の卵を見失ってしまったのか。繁殖地で絶食しながら吹雪を堪え忍ぶ理由を失ったペンギンは、そのことを是も非もなく受け入れて、餌の豊富な海へと向かう途中だっただろう。想像する。この柵の向こう側に、コウテイペンギンを一羽、存在させる。

 僕は、やっとのことでビニールプールを膨らまし終えて、柵の中へと放り投げた。なんたってこの柵の中はマイナス数十度なのだ。プールの細かい位置を決めるのに、中に入っていくわけにはいかない。立ち上がって伸びをしてから、姉さんを正面に見据えて尋ねた。

「姉さんって、身長どんくらいですか」

「私? えー、遠近法を駆使していますが、実際のところは三十メートルほどです」

 答える姉さんは、何故か背伸びしている。トレンカの先から爪先だけが出ているのが見えた。

「新聞紙を十五回ほど折り畳んだ時の厚さですね。で、身長、どんくらいですか」

「百五十……六か七くらい」

「どうも。もうちょいありそうなイメージですけどね」

 普段踵の高いパンプスを履いているときの印象が強いけど、今みたいに屋内にいると、姉さんが僕より頭一つ小さいことを意識する。百二十センチというと、その彼女の着ているTシャツの、胸か鎖骨の高さくらいまであるだろうか。こうして僕の部屋という現実空間に持ち込むと、コウテイペンギンは思っている以上に大きい。皇帝の名を欲しいままにするには、やはりあの、南極大陸のほとんど氷しかない雄大な大地を腹で滑りながら移動し、その大陸の周りに拡がる海の中を飛ぶように泳ぐ姿がふさわしい鳥なのだろう。しかし、今はこの、柵で区切られた四畳ほどのスペースが、そのコウテイペンギンの生きていく空間なのだ。更に想像する。絶食は本来の期間の半分くらいで中断したのだから、そんなに体重が落ちているわけではないだろうが、三月に海から揚がり繁殖地へと移動し始めたときの、まさしく寸胴みたいな体型だった頃から比べれば痩せている、のだと思う。

 姉さんからバケツを受け取って、浴室へ行って水を汲む。そして台所で心持ち食塩も混ぜて、融点を下げたりなんかしてみたりして。思いついた出来るだけのことを全力でやらないと、姉さんの遊びにはついて行けない。その彼女がリビングから、台所の僕の背中に声をかけた。

「ふふふ、餌の量、決めれた?」

「まあ、毎日一回くらいあげることにします」

「多いに越したことはないからね」

「あれ、多いんですか。じゃあ二日に一回くらいで」

「いやいやいや、いいんだよ。うん。この耳をバケツに入れて、一日一回くらい柵の中に入れる。たまに忘れてもそのくらいでは死なない。そう決めましょう」

「はあ、はい」

「ふふふ、良かったね」

「何がですか」

「いやいやいや。決められて、良かったね、って。あ、あと、お散歩。ちょくちょく行くことにしましょう。でもまあ、ふふふ。他の人の目があるからね。私がこの部屋の外で有くんと会うときに、コウテイペンギンもその近くにいる、ということにします」

「僕らが外で偶然会ったら、瞬間移動でペンギンもこの部屋から来るってことですか」

「まあ、そうだね。待ち合わせのときは、家を出るときから連れてきてもいいけど。で、その場合はペンギンの周りだけ南極になると。うん。大体これで、ルールは決め終わったかな。有くんはどう、始められそう?」

 僕はさっき汲んだバケツの水を柵越しにプールに注いだ。水面の高さはかろうじて三十センチに達するところだろうか。「海の中を飛ぶ鳥」とも称えられるペンギンを、こんな狭いプールに押し込めるのは忍びないけれど。

「大体いいですけど、えっと、そのペンギン、名前とかはもうあるんですか」

 せっかく僕が飼うのだ、名前くらいは僕の呼びやすい名前がいい。まあ、だからといって、決めろと言われれば僕はまた迷ってしまうのだろうけど。

 しかし、姉さんの答えは「名前は付けちゃ駄目。ペンギンは、ペンギンだから」というものだった。

「えっと。ペンギン、っていう名前なんですか?」

「違うよ。ペンギンはただ、ペンギンってだけだから。あれみたいに一つの群れで固まってペンギンさん。その中の一部分の一羽をとってきてもペンギンさん。だから、名前とか付けて個体認識みたいのは、しちゃ駄目」

 姉さんが「あれ」と言っているのは、オスが卵を暖めながら、何千羽という単位で身を寄せ合い、中でも寒さの厳しい周縁部分と、わりあい温度の高くなる群れの中心部分とで常に入れ替わりながら吹雪を耐え凌ぐ、あの姿を言っているのだろう。確か、その集団をハドルと呼んだだろうか。密度は一平方メートル当たり十羽というひしめき合いだ。例の映画でのナレーションの言葉を借りるなら、それはあたかも全体として一つの生き物を構成しているかのよう、と言えるほどのものだ。その「一つの生き物」を「ペンギンさん」と呼ぶのなら、その中の一羽ぎりを連れてきて名前を付けることに意味はない。そう考えれば確かに彼女の言うことは正しいが。

「じゃ、なんて呼べばいいんですか」

「超銀河大魔導士ザブラバッハ様」

「ちょっと長過ぎですね」

 あと、誰もいないところに向かってひれ伏しながらその名前を呼んでいたら、かなりアウトっぽい気がする。まあ、家の中でコウテイペンギンを飼ってるって言い張るという時点で、アウトどころの話ではないが。

「ふふふ。オスだからね。彼、とかでいいんじゃないかな」

 彼。個性のない、コウテイペンギンの一羽。僕は今から、彼をここに飼う。

「じゃ、始めようか」

「はい」

 姉さんと手を繋いで、柵の前に座る。一つ、まばたきをした。柵の向こうに、目を凝らす。未だ見えぬ彼へと、視線のチューニングを合わせる。体長百二十センチ。輪郭を象る。脂肪で大きく弾力のありそうな具合に膨らんだ、白い腹。その白は足首のところで急に黒へと色を転じる。足は鳥らしく三叉に拡がっているが、その巨体を支えるために足指は太く、また泳ぐために指と指の間には鰭のような物が付いている。足のその黒は腹の白と対を為す鮮やかな黒で、そのまま尾を染め背を染め、フリッパーと呼ばれるかつての羽根であった部分を染めて、首の後ろを伝い、顔面を覆う。黒い眼球もその中に埋もれ、彼と僕とは目を合わせることすら難しい。そして、その浮かび上がった輪郭、モノトーンから始まる僕のイメージに、首元とくちばしに射した黄色だけが、色味を与える。

「彼は今、何してる?」

 姉さんが問うた。

「えっと。下向いて首伸ばして、鳴いてます」

 ならばとて耳を澄ます。コウテイペンギンはその鳴き声を使って互いが自分のつがいであるかどうかを認識するという。潰れかけたラッパで高い音を吹き鳴らしたような、古いテレビゲームに出てくるモンスターの鳴き声のような鳴き声。下手な擬音語で言えば「ブァー」というのが近いだろうか。あの音だ。断続的に、あるいは長い音で? その彼の歌で、彼は自分のつがいや雛を認識させるのだ。僕も、彼の歌を早く定義しなくてはいけない。長い声、のような気がする。ならそうなのだろう。匂いはどうだ。真冬の南極ならば空気中の微粒子も凍りつき、ほとんど匂いなんかしないような気がするけれど、やはり生き物だから、近寄れば糞の匂いもすれば、食べた魚の生臭さもあるだろう。次に彼は何をする。彼は、プールの縁まで歩み寄って、中を覗き込んでいる、と思う。


 随分長い時間、柵の中に向けて目を凝らしていた気がする。少し力を抜くと、手を繋いだままの姉さんが、柵の向こうでなく、僕の顔を見ていることに気が付いた。

「姉さん、真面目にやって下さいよ」

「ふふふ。最初だからそうやって頑張らないと見えないだろうけど。大丈夫だよ、私達にとっては、ちゃんといるんだから。そのうち、楽にしてても存在させられるようになるよ」

「今の話ですよ。そのうちじゃなくて。今の、姉さんの」

「あらあらあら」

 はぐらかした姉さんは、一度外を見てから言った。

「時間、結構遅くなっちゃったね。ご飯作るよ。何がいい?」

 今日の彼女はやけに、僕に選択を委ねる回数が多い気がする。その度に僕が答えに困っているからだろうけど。

「適当に冷蔵庫にある物で作ってくれれば、なんでもいいですよ」

「ふふふ、ちゃんと決めてくれないと、ご飯は人の耳ですよ」

 そう言って姉さんは、投げやりに答えた僕の繋いだ手を引き寄せて、そのまま僕の耳を一度だけ、軽く噛んだ。彼女の八重歯が、少しだけ僕の耳に引っかかる。

「……やめて下さいよ。ペンギンが見てるじゃないですか」

「その調子だね」

 姉さんが身を離して、台所へ向かう。もう電子レンジの横に彼女の私物として置いてある、薄桃色のエプロンを着けた。僕はバケツにさっきの耳の玩具を入れて、柵の向こうの彼の目の前に差し出した。最初は警戒するだろうから、僕が見ているところは食べないだろう。バケツをそのまま柵の中に置いて、台所の様子を覗きに行った。



 実際、姉さんの言ったことは本当だった。一週間が過ぎる頃には、自室にいさえすれば、僕の意識の片隅に自然に彼を置いておくことが出来るようになったし、まるで本当のペットがそこにいるかのような頻度で、僕は彼の動向を気にするようになっていた。もちろんそれには姉さんの助力もあったわけだけれど。

 この一週間、毎日のように姉さんは僕の家を訪ねるようになっていた。一度ルールを決めたあとの姉さんは、僕がペンギンを飼っているのを彼女が手伝っているというスタンスで、あれからも、彼が何をしているかを、直接彼女が口に出したことはない。ふとしたタイミングで、僕に「彼は何してる?」なんて問うだけだ。一緒に並んで映画を観てる最中や、フローリングの床に寝転んでそれぞれ別の雑誌を眺めている最中、台所で並んで野菜を剥いている最中、二人で飲んだ缶ビールの空き缶を片付けている最中、あるいは身体を重ねている最中に。姉さんは僕の意識が逸れる瞬間を狙ってこの質問をしているらしくて、畢竟、彼女と直接触れあっているときに、この質問がよく飛んでくるようになっていた。僕は呆れて「こんな時に、他の男のこと考えるのやめて下さいよ」なんて、普段言ったことのないことを言ってみたけれど。こんなこと、言ったことないのは当たり前だ。姉さんとこうした関係になってから結構経つけれど、僕らは自分たちの関係を言葉で決めたことがない。当てはまる言葉を、僕はまた選べないままだ。どの言語の辞書を探していいかも分からない。


「そろそろ、外、出てみようか」

 そうこうしている内のある日曜の昼下がり、姉さんが言った。

「むっちゃ雨降ってますよ」

 しばらくぶりの雨だが、このまま早めの梅雨入りということになると憂鬱な話だ。

「ふふふ、その雨の中を来たんだから知ってます」

 今日の姉さんは、デニムのショートパンツとホワイトシャツというスタイルの上に、冗談みたいに鮮やかな黄色の、ポンチョみたいな雨合羽を着て、更に黒のレインブーツという完全装備で僕の家まで来ていた。しかも、そんなレインブーツを履いておきながら、靴下まで雨に濡らしてきたようだ。彼女は僕の部屋に来るなり、雨合羽とブーツと一緒に干していた。

「来る途中に寄ってきたんだけど、今日みたいに雨降ってたら、公園はさすがに人いなかったし。初めて彼を外に連れ出すにはいいんじゃないかな」

「まあ、他にこの雨の中で公園にいるとしたら、長靴にレインポンチョ着てはしゃいで、靴下まで濡らしてる人ぐらいのもんでしょうしね」

「ふふふ。遊んでたわけではないですよ。水溜まりハンティングです。禁猟期明けですからね」

「はあ、新競技ですね」

「世界の水溜まりの中に一つだけ、当たりの水溜まりがあって、その当たりの水溜まりを最初に踏み抜いた人は、空の裏側に連れてってもらえるんですよ」

 姉さんは「裏側」と言いながら、指先を宙でくるりと回す。暗転。


 雨の街は灰色だった。濃厚に漂う、雨の匂い。雨足の音と、水溜まりを跳ね上げながら走る車の音。そして、僕の蝙蝠傘に無理矢理左肩だけ入れてくる、姉さんの声。

「ねえ、相合い傘って普通、はみ出た分は、男の人が黙って濡れてくれるものじゃないの?」

「それ着てるんだから、入ってくんのやめて下さいよ」

 僕は傘を持っていない方の手で、更に入ってこようとする姉さんの、黄色い合羽の左肩を押さえる。

「ふふふ。相合い傘が駄目なら、このレインポンチョを二人羽織ですよ。悪いペンギンはいねがー。がおー」

 イエロー二人羽織だかイエロー獅子舞だかイエローなまはげだか知らないが、このイエローポンチョさんが威嚇しているのは、僕らの数歩前を歩いていることになっている、彼だ。彼のいるところは南極大陸の気候、という設定なのだから、この強い雨にも怯むことはないのだろう。灰色の街に、彼のいるところだけスポットライトが射しているみたいに、南極の雪が降っている。歩くたびに踏みしめたその地面も凍りつくなら、コウテイペンギンが長距離を移動するときにする、ヘッドスライディングみたいな恰好をして前方に飛び込み、そのふくよかな腹で氷の上を滑る、トボガンというのも、していいのかもしれない。あれは確か、かなりのスピードが出るはずだ。なるほど。僕は、急に走り出した。

 スピードを上げた分だけ、傘を避けた雨粒が前から僕の身体に当たる。五月の雨は暖かくも冷たくもない。

 しばらくしてまた歩く速度を落とす。後ろから駆けて追いついてきた姉さんには「いや、コウテイペンギンのトボガンって速いもんですね」なんてとぼけてみた。急に僕に置いて行かれたはずの姉さんは、それを聞くと、とても嬉しそうな顔をして笑った。

「なんですか」

「いやいやいや。有くんも、足、速いよね。ふふふ、追いつくの、大変で」

 そのことの何が嬉しいのかは教えてくれないまま、彼女がまた僕の傘に片方の肩だけ入れる。


 対称的に二つ並んだ小さな集合住宅に挟まれて、辺りの住宅街から正方形に切り取られたようなその公園には、もちろん誰もいなかった。ペンキの剥げた遊具が、雨晒しになっている。

「ふふふ、公園デビューですよ」

 そう言って姉さんは僕の傘から抜け出て、公園の真ん中へと足を進めていく。僕もその後を追った。腰を落ち着けようにもベンチはびしょ濡れで、公園の中程まで来ると、僕は傘を持ったまま間抜けな姿で立ちすくんでいた。このくらいの広い場所で自由に動き回る彼の姿に、僕は目を凝らす。南極大陸ごと、彼を移植する。まず、区切られたスペースから徐々に範囲を広げていこう。そう思って、僕は最初に砂場に目をやる。水はけの悪いその砂場には、四方を区切る隅の方に水が溜まっていた。すると、僕の視線を追った姉さんも砂場に入って、両手でそれを掬って、僕に向かってかける素振りだけする。

「何すんですか」

「浜辺キャッキャウフフ水かけあいごっこ。『やめろよー』って言ってみて」

「あ、姉さん、そこに立たれると彼と被るんで、どいて下さい」

「えー?」

 不満そうな顔で姉さんは砂場から出てきて、僕の横に並んだ。僕の手を取ろうとする彼女の手の中に、僕は無言でポケットから出したハンカチを押しつけて、砂場を注視し続けた。砂場の中を歩き回り、その隅の水溜まりを覗き込む彼。そして、その砂場の区切りを踏み越えて、彼は公園の中を闊歩し始める。滑り台の下に潜り込んで、上方を眺める。ブランコの手前に来たところで、ブランコが音もなく風に揺れた。ちょうど良いのでそこに、ブランコを嘴で突いた彼を見る。そうして、彼は一声鳴くだろう。

「ふふふ、調子、良さそうだね」

 手を拭き終わった僕のハンカチをポンチョのポケットに押し込みながら、姉さんが言った。

「こんな広いとこ来るの、初めてですからね。わりと伸び伸びしてるみたいです」

「有くんの調子、だよ」

「え?」

「ハンカチ、洗って返すね」

 そう言って、今度こそ彼女は、傘を持つ僕の手を両手で握り込んだ。その指先はひんやりと冷たい。僕は空いている方の手で更にその手を包んだ。

「もう、水溜まりに手なんか突っ込むから。風邪引くし、早めに帰りますよ」

「やーだぷー。平気だぷー。ぷっぷかぷー」

 彼女は平坦な口調に節だけ付けて、またよく分からないことを言っている。

「今年の風邪、物凄い勢いで脳まで達するんですね」

「ふふふ、風邪って人に伝染すと早く治るって言うし、有くんもぷっぷかぷーして下さいな」

「なんなんすか、それ。もう。……ぷっぷかぷー」

 投げやりな口調で、姉さんの節を真似た。それに呼応するように、僕らの近くまで歩いてきていた彼が、また一際大きな声で僕らに向けて鳴く。雨音の中に長い声で響くその歌は、確かに彼の鳴き声だ。上々の公園デビューなのだと思う。



 その日から何日かは、久々に姉さんとは会わない日が続いた。彼女からは断続的に、一方的なメールだけが届いていた。「歴代プロ野球外国人選手の名前しりとり」というタイトルで延々と片仮名の名前が並ぶメールが来たり(もちろん、姉さんが野球に興味を持ったという話はこれまで一度も聞いたことがない)、「本日の教育テレビ」というタイトルで、丸一日分の各番組に関する辛辣なご意見などが届いたりはしていたが、どれも僕がその返信として用件を尋ねると、特に具体的な用はないとのことで、何通も交換しない内に返信が途切れるばかりだった。その何日間かには僕も、日中に学校に行く用事もあったし、これまで通りの生活の演繹として、彼と共に過ごすことが出来たと思う。朝にはバケツに耳の玩具を入れ、ビニールプールの水を入れ替える。あとは、部屋にいるときには時折彼の方へと目を凝らす。彼はふらふらと、所在なさげに柵の中を歩いているだけだった。


 そんな折、姉さんと偶然道端ですれ違った。ある平日の朝早く、姉さんは、一人で薬局から出てくるところだった。僕は一人で自転車を漕いでいた。そして彼女の目の前を通り過ぎる寸前、姉さんが僕に気付いたのか、口を開きかけた。僕は自転車に乗ったまま、軽く頭を下げて会釈だけして、通り過ぎる。僕が再度前を向くとそこには一瞬だけ彼が現れて、また消えた。

 家に帰ってから携帯電話を見ると、彼女からのメールがまた届いていた。 「風邪薬飲み比べスペシャル」というタイトルで、各種市販風邪薬の味に関するレビューだった。四種ほど薬の名前が並んでいただろうか。僕は返信の必要性を覚えて、適当なお見舞いを綴り、携帯電話で撮った彼の写真を添えて送った。携帯電話の液晶には、青いバケツとその中の耳の玩具しか映っていなかったけど、姉さんにはその意図が通じたと思う。すぐにまたその返信が来た。曰く「かわいいペンギンの姿に癒されました。更に今ここで『君の方がかわいいよ』っていう返信を誰かに貰ったら、うっかり快癒してしまいそうです」。僕はそのまますぐには返信せず、五分ほどしてから電話をかける。ワンコール、少しかすれた声。


 すっかり復調した姉さんと待ち合わせて、川沿いの遊歩道を歩いていた。川幅が数十メートルにも及ぶこの川は、この町の中心から少し外れたところを東西に走っており、歴史の古いこの町の重要なシンボルの一つでもある。大学の中を流れるあの小川も、一度地中を通ってこの川へと流れ込んでいるはずだ。暦はもう六月に入っており、あれから程なくして入っていた梅雨の影響で、土手の土はぬかるみ、灰色に濁った川の水嵩は高くなっていた。けれどこの日の、梅雨の中で久々に覗いた晴れ間の暖かさは、遮る物がないこの川を時折吹き抜ける風と相まって、とても心地良いものだった。

 僕の左側には、薄いカーディガンを羽織って、この季節にしては少し厚着の姉さんがいて、僕の右手側では、川の流れに沿って彼が泳いでいた。海と川では泳ぎの勝手が違うのではないかと危惧していたけれど、心配は無用だったようだ。時折深く潜っては、しばらく水上へは顔を出さない。コウテイペンギンの潜水能力は、深さ数百メートル、呼吸を止めていられるのは二十分ほどと言うから、歴史上何度も氾濫を繰り返してきた暴れ川として有名な、この大きな川も形無しだ。水中を飛ぶと形容されるペンギンの泳ぐスピードは時速十キロ弱、それにこの川の流れに乗れば、僕らの歩くスピードでは到底追いつかない。彼は僕らから先行しすぎると、一旦川岸へ飛び上がって、身を震わせて水滴を飛ばしてから、また川へと飛び込む。

 川岸から水面へ向けた僕の視線を追って、姉さんが、彼には当たらないような方向に向かって、足下の石ころを川へ蹴り入れる。ぱしゃん、と水の跳ねる音がした。

「しにてー」

 呟きながら姉さんは、水面に広がる同心円の波を見ていた。

「それ、コウテイペンギンが飛び込む効果音にしては、少し遠慮が過ぎてますかね」

「こうなったら、有くんが飛び込んで演出するしかないね」

 そう言って姉さんが、冗談交じりに軽く、僕の踵を数度蹴った。散歩ということで、今日の姉さんは、普段のパンプスでなく、ハイカットの赤いスニーカーを履いている。

「そんなことしてずぶ濡れになったら、風邪引くじゃないですか」

「こんなにも早く、私の『風邪薬飲み比べスペシャル』が役に立つことになろうとはね」

「君の方がかわいいよ」

「ふふふ」

 僕らの横を、自転車が一台追い抜いていった。姉さんが、少し僕の方に身を寄せる。僕も、さすがに払いのけることはしない。


 陽が傾いてきた。昼過ぎから歩き始めて、時折休みながらも数時間歩き続けたことになる。大学近くの閑静で緑の多い川縁からだいぶ下り、この辺りは繁華街も近く、すっかり観光用に舗装された川になっている。この辺りはデートスポットの一つで、しかもいつの頃からの伝統か、川縁にたたずむカップルたちが自然と等間隔に並ぶという、等間隔法則とかいうので有名な場所なのだ。歩道も、歩き始めたところは遊歩道というよりは土手というのに近かったけれど、歩いているうちにいつの間にかコンクリート敷きに変わっており、ぬかるんでいた土よりもずっと歩きやすい。その舗装によって、川の中と川岸を隔てる段差も、高く、そして垂直に近い角度になっていた。時折水中と歩道を往復する彼も、それがちょっとした手間になっているようだ。

「あー、姉さん、ここら辺で一回止まりましょうか」

 僕が傍らの姉さんに声をかけると、彼女は辺りをきょろきょろ見回してから「この辺かな」と言って、川縁に座って、足を放り出す。ちょうどこの辺りが一番混むこの時間帯に、等間隔の中に埋めるべき空白を見付けられたことは僥倖と言えるかもしれない。

 僕も姉さんの右隣に腰を下ろした。尻に敷いたコンクリートが、太陽の温もりを残してまだ暖かい。すると、姉さんが、わざとらしく左右を見て、等間隔とやらを確認するふりをしてから、「あらあらあら、もう三十センチ右だったかしらー」なんて言いながら、また身体ごと僕に押しつけてきた。

「まじっすかー」

 僕も知らぬ顔を決め込んで、更に五十センチ右に寄る。

「いやいやいや、意味が分からないよね」

 そう言って姉さんが、僕の首の後ろに手を回して、ぐっと引き寄せた。普段他人に触られることのない、首の後ろという空間を触られて、僕は一瞬だけ背筋を固くする。僕は助けを求めるように、目線を川の中の彼に向けた。彼は、川の中腹まで一度下がってから、助走のように水中でスピードを上げて、僕らの横まで一気に跳ね上がった。流線型の身体で宙を駆るその姿は、確かに彼らが鳥類であることを誇示するかのような美しさを備えている。そして、そのふくよかな腹で着地して、そのままの勢いで彼が滑る軌跡をなぞるように、一瞬だけ彼の腹の下を南極の氷が敷き詰められる。まあ、美しいと思えるのは精々がこの辺りまでで、あとは勢いを失ってから気怠げに身を起こして身体を振るところまで見てしまえば、先の飛翔に感じたはずの優雅さなどはどこかに消えてしまうのだけれど。

 僕は、姉さんに首根っこを掴まれたまま、ポケットから耳の玩具を出して、手近なところに置いた。彼はそれを見つけ、のそりのそりと僕の近くまで戻ってくる。傍から見ると僕は、少し流行遅れのジョークグッズを女の子の前で出してる、いわゆる自称面白い人みたいなことになっているのだろうが、このデートスポットで他人を気にしている人などいない。

「そうだ、有くんにハンカチ、返さないと」

 姉さんが、僕の首元をくすぐっていた手を急に離して、カバンの中を探り出した。取り出したのは、前に雨の公園で貸したままにしてあった、僕の水色のハンカチだった。少し大きめのそのハンカチは、きちんとアイロンまでかけられた後、上部を絞った巾着みたいな形で、何かが包まれているような形をしていた。受け取ってみると、確かに何か軽い物が入っているようで、中でビニールのカサリという音が聞こえる。

「開けるんですか」

「開けてもいいよ」

「……えっと」

「ふふふ、どうぞ。開けてみて下さいな」

 膝の上で包みをほどくと、中には、透明のビニールに飴玉結びで個別包装された飴が、十数個ほど入っていた。飴玉と言っても、普通に売られている飴玉よりもずっと小さい。真珠大ほどだろうか、直径一センチ弱のころころしたもので、その中身の飴玉も薄く桃色づいた透明色をしている。飴玉に上品下品という分類があるとしたら、これは間違いなく上品の方に属するものだろう。

「まさか姉さん、あの日の天気の雨と、この飴をかけたナイスダジャレですか」

「違うからね。そんなこと私は一切思いつかなかったから、そのダジャレは有くんオリジナルのやつだからね。そうやって私に責任を押しつけないでね」

 姉さんはわりとダジャレに厳しい。

「じゃあ、いただきます。姉さんも一粒どうぞ。貰った僕が言うのもなんですけど」

 そう言って中の一粒を取り上げて、指で包みの片方の端から飴玉を押し出し、口に放り込んだ。その色の通りの桃の風味が口の中に広がる。しかし、うっかり奥歯で噛んでしまうと、軽い感触の後、飴玉はあっさり歯の上で潰れてしまった。

「あらあらあら、それじゃあ、ご相伴に与りましょう」

 姉さんも、僕の膝の上に手を伸ばして、一粒を選び出す。

「あ、ラッキー! 幸運のインドゾウ型キャンディーだ!」

 びっくりして姉さんの手元を覗き込んでみても、そこには普通の丸い飴玉しかない。

「はあ、インドの象、凄いですね。超丸いじゃないですか」

「ふふふ、嘘だけどね」

「知ってますけどね」

 姉さんは包みの両端を引っ張った。桃色の飴玉がくるりと一回転して、彼女の右手の中に転がり出る。彼女はそれを逆の手の二本の指でつまんで、舌の上に乗せた。そのまましばらく黙って、舐めているようだ。確かに、この上品な飴は、そうやって舐めるのが正しい気がする。しばらく見ていると姉さんが「あーん」と言ってから口を開いて、その舐めている飴玉を乗せたままの舌先を伸ばした。飴玉が、姉さんの唾液でてらてらと光っている。暮れかけの夕陽を反射する川面と、同じ色をしていた。

「間に合ってます」

 僕はそう言って、また一粒、ハンカチの中から飴玉を取り出した。今度は、姉さんの真似をして、包みの両端を引っ張って飴玉を取り出す。くるりと回って、飴玉の裏側が、一瞬だけ覗く。


 しばらくそこに座って、最近の彼の様子を姉さんに話していたら、やがてすっかり陽が落ちてしまい、闇がその彼の保護色みたいになってしまった。時折、僕の背後からぬっと黄色い嘴を出して、耳元で鳴いたりする。彼の行動は僕が決めているのだから、急に鳴いたりして僕が驚くことはないのだけれど。

 姉さんがカーディガンの前を合わせたのを見たところで、僕は言った。

「帰り、電車にしませんか」

 この川沿いには、地下を私鉄が走っている。帰宅ラッシュも過ぎ去ったほどの時間だ。今から暗闇の中を、また遊歩道を歩いて帰るわけにもいかないだろう。

「電車ごっこ?」

「はあ、僕は撮り鉄の役やるんで、姉さんは一人で運行して下さいね」

「嫌だよ、私、切符の役やりたいし」

「じゃあ、彼はスイッチバックの役ですかね」

「みんな適材適所だね」

「ワン・フォア・オールの精神でいきましょう」

 僕は立ち上がって、座ってる姉さんに手を伸ばし、引き上げた。彼女の指先は、僕のそれより冷たい。そのまま揉むように握り込んだ。

「ふふふ。途中で、ご飯の材料、買って帰りましょうか」

 歩き出して、姉さんが言った。

「どっかこの辺で食っていってもいいですけど」

「昨日テレビで観た、きんぴらセロリのっていうの作ってみたくて。今度でもいいけどね。ふふふ、どっちがいい?」

「え、っと。姉さんは、どっちがいいですか」

 自分でも、またこの答えか、と思う。選択。

「ふふふ、有くんが好きな方でいいよ」

 そして最近は、僕が彼女に選択を委ねると、姉さんもいつもこういう風に答えるのだ。僕は、自分がどうしたいのかしばらく考えてから、ようやく決めることが出来た。

「セロリって、普通にスーパーとかで売ってましたっけ」

「大体売ってるよ。あんまり季節とかも関係ないし。ふふふ、食い付いてきましたね」

 姉さんが、僕と繋いだままの手を大きく前後に振った。

「危ないですよ」

 僕はその手を諫めようと、力を込めた。ここへ来るときとは逆に、彼は僕らの後ろをついてきている。彼に手が当たろうものなら、僕らの手は南極行きだ。なんて。


 普通電車のロングシートはがら空きだった。同じ車両にも、少し離れた優先席に一人、おじいさんが座っているだけだ。そして、僕らが隣り合って座ったその横の席の上に、ペンギンが立っている。骨格的に座りようがなく、立つか腹這いになるかしかないのだから、座席を占有するだけ無駄なのだけれど。

 姉さんが珍しく黙っている。何かと思えば、さっき自動改札に通した自分の切符をじっと見つめている。

「え、姉さん、本当に切符になりたいとかですか」

「いやいやいや。えっと、ここに四つ数字が並んでるでしょう、この四つの数字を順番変えながら足したり加えたり和をとったりして、五十三っていう数を作るの」

 僕が知っている似たような遊びでは、四則演算をして十を作ると言うものだから、それに比べれば随分単純な遊びだ。というか、多分、頭を捻ってどうにかなる類の問題ではない。彼女の切符には、2 8 6 4という数字が並んでいる。

「はあ、二十なら簡単に作れるんですけどね」

「ふふふ、あと三十近く足りないからね」

 僕は自分の切符を取り出した。そこにある数字は5 3 2 9。

「僕の数字も貸してあげますよ」

「あらあらあら。ありがとう、これで頑張れば、三十九くらいまでなら、どうにか騙し騙し作れそうだよ」

「それでも、まだ全然足らないですね」

 僕の横で彼が断続的に五度鳴く。その五を足しても四十四だ。僕らが力を合わせても、まだまだ五十三には及ばない。

 そんなことを言っている間に、僕の家の最寄り駅に着いてしまった。僕らが数時間をかけて歩いてきた道も、電車に乗ってしまえば十数分で戻って来られるのだ。

「覚えてろっ」

 姉さんが、ふざけた口調で誰にともなく捨て台詞を吐いて、たん、たん、と靴音をさせて電車を駆け降りる。僕の横で彼も、座席から飛び降りた。


 姉さんの作ってくれた夕食を食べ、しばらく僕の部屋でのんびりしていたら、かなり深い時間になってしまっていた。姉さんを送りに出た夜の道は、直前に二人で浴びたシャワーの熱を冷ますには丁度いいくらいの風が吹いていた。一つ二つと、かすかに浮かび始めた星に、僕は何気なく手を伸ばす。

「ふふふ、有くん、おっきくなったねえ。もう少しで届くんじゃない?」

 横から見ていた姉さんが、微笑んで言った。

「だといいんですけど」

「うん。だと、いいね」

 僕はなんだか急に気恥ずかしくなって、手を戻しながら、憎まれ口を叩いた。

「てか、こんな時間に石鹸の匂いさせて帰って、母さんに何か言われないんですか」

「それ、私に向かって言ってるんだったら、私に分かる言葉で喋ってよ!」

「あれ、え、いや、僕、なんか変なこと、言いました?」

「いやいやいや。ふふふ、なんか、浮気してるサラリーマンみたいなこと気にするんだね。まあ、そのまま寝ちゃうから。大丈夫だよ」

 そう言って姉さんは、その肩まである栗色の髪の中に手を入れて、一度梳いた。ふぁさりと音がするようにその髪が一度広がると、いつもの姉さんの髪の匂いではなく、僕が使っているシャンプーの匂いがした。

「しかも、セロリの葉っぱだけ持ってるとか、怪しいにも程がありますよ」

 どうやら姉さんが昨日見たレシピには、茎の部分しか必要なかったようだが、使わなかった葉の部分も、僕の部屋に置いておいても使わないから、という理由で彼女に持たせたのだ。

「これは、栞の押し花にして、有くんにあげましょう」

「はあ。栞なのに非常食にもなりますね」

「いっぱいあるから、たんとお食べ?」

「んなことするなら一旦栞にしなくていいですから、姉さんがなんかに使うレシピを覚えてきて下さいよ」

「ふふふ。まあ、こっそり冷蔵庫に入れておいたら、お母さんが何かに使ってくれるから。それを見て覚えるよ」

「おふくろの味ですか」

「懐かしい?」

「姉御の味の方が、好みですね」

「そっか」

 姉さんが、また一人でいっそう楽しそうに笑った。僕はそんな彼女をまっすぐ見ていられなくて、何とはなしに辺りをぐるりと見回した。すると、ずっと僕らの後ろをついてきていた彼が、ふらりと道を外れて、道端の用水路を覗き込んでいるのが見える。この、歩道の脇を掘り込むように作られた用水路は、幅一メートルくらいに舗装された小さなもので、今日歩いたあの大きな川とはまた別の流れとして、どこか近くにある浄水場へ流れ込んで行くはずだ。彼は、今日のあの川ではまだ泳ぎ足りないというのだろうか。

 彼を追ってみると、用水路の中を二つ三つと、か細い緑の光が走っているのが見えた。

「ホタルだ」

 僕の後ろから、姉さんが言った。ホタル。この用水路のもう少し上流、ここよりも草木が多いところでは見られるという話を聞いたことはあったけれど、こんなところにもいるのか。言われて見ると、一見、点滅したペンライトを不規則に振り回したようなその光の軌跡は、用水路のへりに申し訳程度に生えている水草のところで、しばらく動きを止めたりしているように見える。何より、普段見慣れているような人工の光源の色とは違った、薄くぼんやりと光る黄色と緑色の中間のような色が、生き物くささとも言うべき何かを発しているように思う。

 姉さんと僕と彼とでまた並んで用水路を覗き込み、しばらくホタルを見ていた。姉さんはその間もあまり黙ることなく、前に見たというドキュメンタリー番組から仕入れた、ホタルの知識について語っていた。マレーシアだかのホタルが、一本の樹に大量に集まって、さながらクリスマスツリーのイルミネーションのようにその明滅のリズムを合わせて光るだとか、中国では昔、腐った草が蒸れてホタルになると思われてた、なんて話などを聞かされたけれど、それが本当の話なのかどうかも分からない。去年一緒に水族館や動物園に行った時にも思ったけれど、彼女はこういう生き物を見る時には、事前に仕入れていた知識との答え合わせをするようにして、それを観察し楽しむ、といった手順を踏むようだ。そんなことをするより、少し黙ってただこの細い光の行く先に目をやるだけの方が、この場面にはよっぽどそぐうような気がするのだけれど。そんなことを思いながら、彼女の横顔を眺める。その覗き込んだ横顔にかかる栗色の髪をかき上げながら、僕の視線に気が付いたようで、姉さんが言った。

「ふふふ、どうしたの」

「ああ、いえ。そうですね、ホタルって、昼間はどうしてるんですか」

 僕は誤魔化すように、咄嗟に思いついた疑問を言った。

「え? えっとね、葉っぱとかの裏側で、じっとしてるんだったと思うよ」

「はあ、裏側」

 相変わらず、僕の返事は間抜けだと思う。

「昼間は天敵とか他の虫とかもいるし。裏側に隠れてるんじゃない?」

 光るホタルを視線で追いながら、裏側に逃げ込み、息を潜めるホタルを思う。その時、僕が追っていた光点が、水面の上でふっと光を消した。



 長く続く梅雨にうんざりしていた七月の中旬、一日だけ急に馬鹿みたいに晴れた日があったと思ったら、その日を境に雨はぱったりと降らなくなった。後を追って、梅雨明け宣言が発表される。梅雨が明ければ、もう夏だ。彼からしてみれば、本来七月といえば、他のつがいの雛の孵化が次々と始まる頃だ。それに合わせて、彼と共に海へ給餌しに行っていたメスが繁殖地へと戻り、それまで卵を暖めていたオスに代わって雛を預かる。

 僕と彼の共同生活は、おおよそ二ヶ月半を迎えたことになる。彼が僕の部屋に現れた当初、僕たちは彼のことを「飼う」と言っていたけれど、今となっては、僕が自称するなら「共同生活」という言葉がふさわしいように思う。僕は彼に餌こそ一方的に供給していたし、姉さんと連れ立って出かける時には、彼も僕らの行き先に着いて来させるようにしていたけれど、かといって彼と僕の間に何らかの意味での意思疎通などはしていないし、いわんや芸を仕込むなんてことはしなかった。もちろん、彼は僕が見たいように見えているのだから、日々の交流の末に芸を覚える、なんてことも出来たはずだけれど、僕がそうしなかったというだけだ。同じ部屋に生きる、というだけの関係。そういう意味では、今日の彼が昨日の彼と同じ個体である必要すらないわけだ。僕は、姉さんが最初に彼に名前を与えなかったことの意味を今更理解していた。ただ、僕が聞く彼の鳴き声のパターンはずっと変わらないので、そのことだけは彼の唯一性を担保する役割を担っていることになる。野生のコウテイペンギン同士もそうやって鳴き声でお互いを個体認識しているのだから、僕と彼とは、この二ヶ月半の間に、ひどく野性的な関係が構築されたと言うことになるだろう。

 関係、という面から言えば、僕と姉さんとの関係も相変わらずだった。相変わらず、姉さんのすっとぼけた言動や刹那的な思いつきに付き合うことは、大変だったけれど退屈はしなかった。僕が彼と暮らし始める直前のあの日に携帯電話の番号を交換した以来というもの、彼女とは会う頻度も格段に上がったけれど、それ以上に、去年までのような偶然に頼らずに会うことが出来るようになったぶん、彼女は自分の思いつきに加えて遊びの下準備も出来るようになり、結果的に彼女の思いつきは大がかりな遊びになることも多かった。ある日などは、レンタカーを僕の家に横付けして「果物狩りに行くよ」などと言うものだから、精々がどこか近場の果樹園に連れて行かれるのかと思ったら、彼女が車で向かった先は漁港で、そこからフェリーで丸一日をかけて北海道へと向かい、結局名前も知らないような土地で、泊まりがけで苺やらサクランボやらをもぎ続ける羽目になったこともあった。姉さんは両手を苺の真っ赤に染めて楽しそうに笑っていたけれど、彼女が調子に乗って摘み過ぎた苺を強引に食べさせられていた僕は、彼女に苦笑いを返すしかなかったし、出がけにはまさか泊まりがけになると思わず耳の玩具を持ってこなかったから、彼は腹を空かせて、頻りに下を向いて鳴いていた。

 

 そんな中、八月に入った辺り。日程の綾、という感じで、他の科目から二週間ほどの間が空いて、一科目だけ前期の科目のテストが残っていた。そんな傍迷惑な日程にも関わらずその科目の単位は進級に必須のもので、また毎年えらく難解なテストを課すことで悪名高い科目だった。自分のテストが終わってから、北海道に連れて行ったり思いつくままの遊びを繰り返してきた姉さんに、僕は事情を話して懇願するようにそのテストの前日を空けてもらい、その日は朝早く彼に耳の玩具を与えると、一通りの勉強道具を揃えて、大学の図書館へ向かった。

 そして、ほとんどの科目はテストを終えたとはいえ、試験期でそれなりに混み合う図書館で、しれっとした顔で荷物を使って自分とその隣の席を確保していたのが、姉さんだった。それに気が付いて僕が溜息をついたのと、僕の横に彼が現れたのは、ほぼ同時だった。さっき餌を与えてからそんなに時間も経っていないし、食べ切れているかどうかも怪しい。関係ないけれど、初めて彼を見た時よりも太り始めている気がする。本来の南極での絶食期間や給餌と連動しているのだろうか。姉さんも僕に気が付いて、小さく手を振った。僕は彼女の隣まで行って、小声で話しかけた。

「……おはようございます」

「ふふふ、偶然だね、有くん。隣、座る?」

 そう言いながら、もう隣の席に置いておいた自分の荷物を床に下ろしている。

「……僕、ペンギン連れてるんで。一つじゃ席は足らないですね」

「ペンギン、椅子とか要らないでしょう。はい、座って」

「……ありがとうございます」

「うん。じゃ、ちょっとごめんね、私、おトイレ行ってくるよ」

 僕と入れ替わるように、姉さんが自分の読んでいた本を座席に置いて、立ち上がった。今日の姉さんは、上はボーダーシャツにレースのトップスを羽織っているが、下半身はデニムのショートパンツにサンダルを履いただけだ。健康的でこの季節らしい服装だが、図書館と言えば特に冷房の効いた施設だ。少しこの服装は冷えるかもしれない。

「えっと、ありがとうございました」

 ずっと席を取っていてくれていただろう姉さんに、僕は改めて礼を言い直した。

「ふふふ、私がトイレ行って、なんで有くんがお礼言うの?」

 僕の底意に気付いていても、姉さんはそう言うのだろうと思った。これも、茶番と呼ぶなら呼べばいいと思う。


 姉さんが一抱えの本を持って戻ってくる頃には、僕も自分の勉強にとりかかっていた。何度か横目で見る限り、彼女は相変わらず楽しそうに一人でそれらの本を読んでいたけれど、時折読んでいる本を入れ替える時には、読みさしのまま栞などを挟む様子もなく、無造作にぱたりとハードカバーを閉じていた。本の背から察するに、それらの書が扱うテーマもばらばらで、彼女が何を意図して読書をしているのか全く分からなかった。数年前のギネスブックと、この辺りに棲む昆虫の本と、障碍児教育の本。一方で彼はというと、頭をもたげたままじっとしていて、時折僕が一息を入れるたびに、僕にしか聞こえない声で鳴いていた。


 数時間が経って、気付くと時刻は昼時を迎えていた。周りも、席に荷物を置いて昼食へと向かった人が多いようだ。

「有くんは、お腹、減った?」

 姉さんが、また何冊目かの本を閉じながら、小声で話しかけてきた。

「ぼちぼちですけど。でも、今ってたぶん、学食とか混んでますよね」

「えっと、私が作ったので良ければ、お弁当あるよ」

「……それ、僕が今日図書館に来なかったら、どうするつもりだったんですか」

「ふふふ、まあ、有くんのおうちにお邪魔してたんじゃないかな」

「なるほど」

 そして、僕らも他と同じように席を確保して、図書館を出た。


 太陽が丁度南天を越え、真上から注ぐその日差しの強さは暴力的とも言えるものとなっていた。特に、冷房の効いた図書館から出た瞬間に、むっと全身を包む熱気はとてもじゃないが耐え難い。そして、けたたましく響く蝉の鳴き声が、この厚さを一層増大させているような気がした。僕は、自動ドアを抜けたところで、思わず立ち止まってしまった。

「ふふふ、暑いねー。しにてー」

 僕の横で、お弁当の入っているのだろうカバンをぶらぶらさせながら、姉さんが笑って言った。もちろん、何が楽しいのかは僕には分からない。

「ふむふむふむ、青ってのは一体、あんな色だったかね」

 空を見上げて、彼女は言った。つられて見上げると、広がる青空は雲一つ無く、どこからか持ち出してきた絵具で一面を塗り潰したような色をしていて、空が高いようにも低いようにも見えた。

「えっと、どこ行きます?」

「有くんは、どこで食べたい?」

「はあ」

 僕の口から、また間抜けな音が漏れる。ただでさえ決めることが難しいのに、この熱気で頭が上手く回らなかった。

「ふふふ、決めてくれないなら、あの池のほとりで食べることにしますよ?」

 すかさず姉さんは言葉を足した。こんな日にあんな遮るもののない日なたに放り出されて、更に池からの照り返しが加わるなど、想像しただけで尚更くらっとくる。僕の隣で、彼が一声鳴いた。そのお陰で僕は正気を取り戻して、やっとのことで言葉を返す。

「せめて、日陰に」

「だよね。一回出直して時間ずらしてから、学食でお弁当食べてもいいよ」

 どうにか選択肢を減らしたと思ったら、更に選択肢を増やされてしまった。今日の姉さんはなんだか手厳しい。

「ふふふ、ちなみに、手分けしてそれぞれトイレの個室で食べるという選択肢もあります。いや、いっそ大きめの個室を確保して、二人と一羽で仲良く食卓を囲むという手も……?」

 それは無いと思う。あと、その食卓というのは便座のことだろうか。

「えっと。じゃあ、うち来ませんか。ご飯だけ、食べに」

 僕は、言葉を絞り出すようにして、ようやく一つの提案が出来た。

「うち、ねえ? 『何もしませんから』?」

「え?」

「『先っちょだけ』?」

「何ですかそれ」

「いやいやいや。それで、食べたら、またここまで戻って来るの?」

「ええ、まあ」

 やはり不自然だろうか。

「ふふふ、いいですよ。うん、そうしましょう。途中でアイスとか買って行きましょうか」

「あ、アイスだったら、うちの冷凍庫にも幾つか入ってますよ」

「あらあらあら。用意周到だね」

 言いながら、姉さんは僕の前を歩き出した。僕は駐輪所へと向かいかけてから思い直して、姉さんの横に並ぶ。そして、カバンを持つ彼女の手に、自分の手を重ねた。

「お弁当、持ちますよ」

「あ、これ、下手に振ったりすると、爆発するから。地球規模で」

「さっき、普通にぶらぶら振ってましたよね」

「ふふふ。いいよ、このままで」

「それじゃ、単にべたべたして暑苦しいだけじゃないですか」

 そんなことを言いながら、重ねた二人ぶんの手の下にカバンをぶら下げて歩く僕らの横を、彼が腹で滑りながら追い越していった。陽炎の光る、焼けるように熱いコンクリートが、彼の滑る曲線に沿って一瞬だけ冷ややかに見える。そういえば、家に戻ったら、彼に餌を与え直した方が良いだろう。


 帰路でかいた汗を流しにシャワーを浴びてみたり、「せっかくだから」と姉さんがお弁当のハンバーグを温め直してみたり、二人でチューブアイスを分け合ってみたりしている内に、随分長い昼食休憩になってしまった。

「じゃ、姉さん、そろそろ図書館行きましょうか」

 僕は、フローリングの床に寝転んで直接扇風機の風を受けている姉さんに、声をかけた。姉さんはすっかりくつろぎ始めている。ボーダーシャツの裾がまくれ上がって、彼女の深い臍が覗いていた。柵の中から、首を曲げた彼が、まんじりとそれを見ている。姿勢そのままの間延びした声で、彼女が言った。

「あれだー、こうしよう。じゃんけんで負けた方が、置いてきた荷物持って来てー、あともうずっとうちに居よう」

 僕が選んださっき選択肢が、予想以上に姉さんのお気に召してしまったらしい。僕の目的を妨げるようなことは普段は言わないのだけれど。

「いや、僕、クーラーあるとこで勉強したいんですけど」

「単位欲しさに勉強するとは不純だぞー」

 姉さんはようやくのことで上半身だけ起こして、扇風機に向かって吹き込むようにしながら、平坦な口調で言った。遅れて、ボーダーシャツの裾がすとんと元の位置に戻って、彼女の腹を隠す。彼女の声が、扇風機の羽根に当たって、震えて聞こえた。いわゆる宇宙人の声というやつだ。やっていることの下らなさで僕まで脱力させようというなら、その魂胆は成功している。僕は萎えながら答えた。

「だから、明日の単位、落とせないんですよ」

「その明日のって、父さんの授業でしょー? 甘えて頼んだら単位くらいくれるんじゃないのー? 『パパー』って」

 本格的に、姉さんの力が抜けているようだ。普段なら言わないような冗談だと思う。

「あの人、そういう融通とか、利かない人ですから」

 僕の答える声が少し固くなっていることを自覚した。この話題にわざわざ触れた姉さんのことより、未だこのことを上手く冗談に転化できない自分に辟易する。

「えっと、じゃあ、夕方くらいに姉さんの荷物持って戻ってきますから。それまでに帰りたくなったら、携帯に連絡下さい。そしたら一回荷物届けに帰ってくるんで」

 自分の声が尖っていることを自覚して、姉さんが僕の言葉を理解する前に、急いで彼女の前を辞した。玄関のドアを閉める時に、隙間から、彼がフリッパーを振りながら堂々と柵の中を歩きまわるのが見えた。


 勉強に一段落がついて時計を見ると、思いの外に短針が回っていた。午前中と合わせると、七、八時間の勉強時間を稼いだだろうか。ふと気が付くと、図書館の窓から見える夏の太陽も、ようやく沈もうとしている。夕方に帰ると言ったのに、姉さんを家に待たせてしまっているかもしれない。そう思って座席の下で携帯電話をチェックしたけれど、特に連絡は入っていないようだった。僕はそのまま、机上の筆記用具類を片付けて、帰る用意を始めた。午後に図書館に戻ってきた当初は、授業中にとった板書のノートを見返していたのだけれど、なんだかそれを見ていたら、教室に背を向けてその板書を書き付けていた授業中の父さんの姿を思い出して落ち着かなくなり、結局は、あらかじめインターネットを通じて入手しておいた、テストの過去問を解いては参考書で答え合わせをする、という勉強方法をとっていた。三年分ほどの過去問を解き終えた頃には、大まかに出題傾向が掴めていたと思う。この過程におけるエントロピーの増大量を計算しなさい。この状態における系の自由エネルギーを計算しなさい。あの人が出す問題は何と言っても、一時限分のテスト時間にしてはどう考えても計算の量が多すぎる。そしてその配点には、各問のそんな計算量の多寡などは一切反映されていない。まるで「計算など手さえ動かせば誰にでも出来るし、そんな手間自体は等しく無価値だ」とでも言うかのように。いや、あの人ならそんなことを「言う」どころか、そんな「手間」がこの世に存在していることにすら思い当たらないのだろう。何故なら、あの人自身にとって、単純計算は苦ではないから。そういう人なのだ。半日分溜め込んだ溜息をついて、僕は自分のペンケースをカバンに投げ入れた。


 玄関を開けると、部屋には電気が点いていなくて、窓から入り込む薄明だけが、僕の部屋を薄暗く照らしていた。部屋の中はしんとしていて、動いているものの気配がないことに一瞬だけ驚いたけれど、よく目を凝らしてみれば、柵の中で彼が、自分の脇の下に首を入れて眠っていたし、食卓には、ラップのかかった二人分の料理を前にして、エプロンをしたままの姉さんが突っ伏して寝息を立てていた。近付いて見てみると、ラップの中の料理は冷やし豚しゃぶしゃぶだった。一度お湯に通してからよく水の切られた豚肉に、キュウリや水菜などの水気の多い野菜が添えられている。その上にかけられたラップの内側には、既に大粒の水滴がついていた。そして、寝ている姉さんの横には、何か書かれたメモ帳が置いてある。手に取って見てみると『お疲れ様。ちなみに、テーブルの上にはしゃぶしゃぶ用の胡麻ドレッシングが置いてありますが、これを決して、寝ている私にかけないで下さい』とある。文章の最後の方はミミズの這ったような続け字で、書いている最中の姉さんの眠そうな顔が浮かぶ。僕はそのメモを四つに折り畳んでポケットに入れて、姉さんを揺すり起こした。寝ている姉さんの二の腕は、なんだかひんやりしている。間もなくして目を覚まし、寝ぼけ眼の焦点を僕に合わせて、彼女が言った。

「有くんに胡麻ドレッシングをかけられる夢を見たよ……」

「フロイトさんの見解が気になるところですね」

「みすみすと卑猥一直線な答えが返ってくるよね。ふふふ、すぐ、ご飯にしますか」

「姉さんは、寝起きで食べれますか」

「うん」

 姉さんが頷いて、ゆっくりと椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。大きな欠伸をしてから、炊いてある炊飯器の蓋を開けると、白い蒸気が立ち上る。それを顔面で受けた彼女は「あちち。しにてー」などと漏らしながら、プラスチックの白いしゃもじをさっと水で濡らし、炊飯器全体を大きくかき混ぜてから、僕らが普段使っている茶碗にご飯をよそう。僕のは白地に黒い幾何学模様の入った茶碗で、元は来客用だったのがいつの間にか彼女専用みたいになっているのが、一輪の黄色い石蕗の花がデザインされた茶碗だ。

 姉さんが、しゃもじに二回で掬って先に僕の茶碗によそい「このくらい?」と尋ねた。彼女の横で食器棚からグラスを出しながら僕がうなずくと、「おかわり、してくれればいいから」と言って、それから、自分の茶碗に少しだけご飯をよそう。夏なのであまり食欲は無さそうだ。

「ビール飲みます?」

 今度は、冷蔵庫を開けながらの僕が、姉さんに尋ねた。

「有くんは?」

「明日のやつ、寝る前に見直したいんで。姉さんが飲むなら付き合いますけど」

「ふふふ、じゃあ、私もいいや」

 既に出来上がった料理を並べて用意するだけなのに、こうやって僕らはいちいち短い言葉で、お互いの意思を確認し合っていた。工事現場の指さし確認みたいに、と僕は思う。

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