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春。眠たい講義を聴き終えて、昼休みの眠たい陽光の中、僕は構内の少し奥まったところにあるベンチに腰を下ろす。新年度が始まったばかりのこの時期の大学は、サークルの新入生勧誘とやらで、構内はどこも騒がしい。一般教養科目の授業が集められたこの辺りの建物では、どの教室にも勧誘ビラがいっぱいだ。去年、自分が勧誘される側だった時分には気にならなかった騒がしさだと思う。当時は、これからの新しい大学生活が、このような賑やかなものになるのだろうと、期待混じりの溜息をついていたはずだ。ふう、と少し大きな息を吐いた。今年の溜息は無意識に、誰に見せるものでもなく、そして、とても板についているものだったと思う。特に、去年のこの時期に何かを失敗したつもりはない。ただ僕は、何も選ばなかっただけだ。どのサークルも選ばなかったし、誰かを選んで積極的に親交を深めようともしなかった。失敗しないようにただ漫然と、日々の選択肢をやり過ごしていたら、気付かない内にその選択肢が供給されなくなっていただけだ。
「かくして、」
自分だけに聞こえる声で呟きながら、先ほど購買で買った缶コーヒーを開けてあんパンの袋を破る。かくして、僕が持っている選択肢は、精々が、購買に並ぶパンの中から今日の昼食を選ぶくらいのものとなったわけだ。あんパンも缶コーヒーも、いつも通りの味がした。何かを選ぶことは、とても難しい。
その時、うつむいた僕の頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
「ねえ、そこの君、新入生? 溜息の成分について興味は無い? 私たちは溜息同好会っていう名前で活動していて、今は『ぱっとしない大学生が昼休みに一人でつく溜息には、通常の吐息よりもずっと多くの二酸化炭素が含まれていて、そしてそのぶんずっと重い』っていう仮説を検証しようとしているんだ。それで、良かったら君のその溜息を回収させて欲しいんだけど、今はお時間ありませんか?」
下を向いて携帯電話で今日の夕方からの天気を調べていたから、その声が頭上から降ってきた時には少し驚いたけれど、そのさっぱりした声色には覚えがあった。顔を上げると、思った通りの顔がそこにあった。
「口移しで回収してくれるならいいですよ、姉さん」
「んー? ふふふ」
僕の気の利かない返事を軽く笑い飛ばすその女性は、やっぱり姉さんだった。柏樹陸、僕の実の姉だ。故あって僕とは名字も違うし、住んでいる家も違うけれど、同じ大学の一つ上の学年にいる。姉さんの見た目は、やや中性的な名前に違わない、すっきりした印象の女性だと思う。今日は、白いシャツの上にグレーのカーディガンを羽織り、やや細めで濃い青のデニムパンツを履いている。肩まで伸びた栗色の髪は、無造作に背中に投げ出してあるようでいて、決して乱れているわけではない。あまり化粧気のない顔も含め、この人のいつもの、変に力の入っていないのに、必要最小限はきっちり押さえた身だしなみだ。
「で、なんですか、今日は。溜息研究会って」
「いやいやいや、ふふふ」
また笑っている。この、僕より一つ年上の姉は、何が楽しいんだか、何かにつけ一人で笑っている節がある。特に、自分で言った冗談に、自分で笑いを堪えきれないことが多いようだ。今だって、単に僕に話しかけるためだけに用意したありもしないサークルのことで、ずっとくすくす笑っている。自分の冗談を自分で笑えるのなら、わざわざ僕に言わなくてもいいのに。以前にそんなことを指摘した時には、「いやいやいや、聞いている有くんあってこその、私の冗談だよね」なんて、言いながらまた笑っていたけれど。
有くん。だから、この人がこうやって僕の名前を呼ぶ時の声には、いつも楽しそうな笑い声が伴っている気がする。そもそもが、この大学で久々に再会した時からそうなのだ。
―
それは、去年の五月中旬くらいのことだったと思う。連休が終わって以降の大学は新入生歓迎という趣も薄れ、この頃には、僕はすっかり、新たに定着した「日常」に追われるようになっていた。木曜の一時限目、一般教養科目の力学A。入学の折に配られた『工学部 学生便覧』だかいう冊子に「履修を推奨する」なんて書いてあった科目で、僕はそれに逆らうことなく履修していた。木曜の朝八時四十五分、四号棟は三階大講堂。無遅刻無欠席。もちろん四月の初めには、同じ学部の学生たちもそれなりにいて、初めての授業の時に講堂に着いたときには、既に最前列右端という席しか空いていなかったのだけれど。なにぶん朝早い授業なのと、教員が黒板からこちら側に一度も振り返ることなくやたら早口で授業が進められるのとで、出席する学生は週を追うごとに少なくなっていた。空いている席が出るようになっても、僕は相変わらず最前列右端の席に座っていたから、背後にいる学生の数なんかはそんなに気にならなかったけれど。
そんな授業が始まる直前、僕の座席に突然歩み寄って話しかけてきたのが、姉さんだった。
「……えっと。有くん、だよね」
そうやって下の名前で呼ばれたのは、それこそ姉さんと最後に会って以来だったから、二、三年ぶりだったろうか。席に着いたまま見上げたその顔は、薄めに見える化粧というのがよく似合う、垢抜けた先輩という感じで、記憶に残る姉さんとの符合は、僕の名前、有という音を、平坦な音で、そして普通よりも少しだけ長く伸ばして発音する、その声ぐらいのものだった。三年前に母と一緒にうちを出て行った時には、髪だって染めていなかったし。
「まさか、姉、さん、ですか?」
「ふふふ、実は会わないうちに、兄さんになりました」
「ええっ?」
「まあ、嘘だけど」
「はあ」
この人の言葉には、どんな荒唐無稽な言葉でも、相変わらず騙されそうになってしまう。それにしても。まさか姉さんがこの大学にいるとは。それだけじゃなくて、彼女が姉さんだなんて、思いもしなかった。それが姉さんだなんて思いもしなかったけれど、これまでにも彼女がこの授業を受ける姿は視界に入っていた。最前列中央。好き好んでこんな授業を最前列で受ける人はそういないから、僕がこの授業で見ていた風景は、黒板と、その前の教壇に立つあの人の白髪だらけの後頭部、板書を写した自分のノート、そしてこの彼女が頬杖をついて授業を聞いている姿くらいのものだったのだ。
「久しぶり、だね。ごめんね、声、かけるの、遅くなっちゃって。お母さんから、有くんもここの大学の工学部に来るっての聞いたから、この授業には出てるだろうとは思ってたんだけど。いっぱい、人、いたし。ふふふ、ねえ、この授業、びっくりするくらい人少なくなってきてるけど、気付いてた?」
「そうらしいですね」
僕は振り返って確認することもなく、そう答えた。
「そう、ふふふ、そう、らしいんだよ。で、らしいのついでに。この授業の次の時間にこの教室で、理学部の教授がやる力学Aって授業があるらしくて、そっちの方は分かりやすくて単位も簡単に取れるらしくて、しかもその単位は工学部ででもちゃんと力学Aの単位として使えるらしくて、それでみんなそっちの授業に出るようになったらしいんだけど。ふふふ、ねえ、これも知ってた?」
僕の言った「らしい」をからかうみたいに繰り返す彼女の声はそれでいて、歌うようなリズムに満ちていた。ああ、姉さんだ、と思う。
「あー、知らなかったですけど。まあ、でも、出ないわけ、いかないじゃないですか」
「まあ、そうだね。だから私も、ここで有くん探してたんだし」
そう言って、僕と彼女は、揃って空の教卓を眺めた。これからあそこに立つのは、僕たち二人の父親なのだ。これで母までいたら、一家大集合じゃないか。三年前にばらばらになったうちの家族が、こうやって揃いつつある状況には、首を傾げざるをえない。
「あ、や、ていうか、なんで姉さんまでこの授業に出てるんですか。つか、ここの学生、なんですか」
姉さんばかりが状況を知っているような状態で、僕はようやく自分の混乱に追いついたみたいに、最初に問うべきだった疑問を投げかけた。
「ふふふ、えっと、私、二年生だから。文学部の」
無様に姉さんを追いかけるような形でかけた僕の声に、教卓を向いていた彼女が、栗色の髪を揺らしながらもう一度振り返って、僕の方を見下ろしながら答えた。
「あ、えっと、なんで、学部も違う先輩が、わざわざ最前列でこんな授業受けてんですか」
「なんで、って。探してた、って言ってるのに……。ふふふ、ほんと、そういうとこ、変わんないね。んー、そうだ、じゃあ、父さんは父さんで久しぶりだから、見てたら、飽きなくて、かな」
「意味分かんないですよ。つかあの人、ずっと黒板の方ばっか向いてるじゃないですか」
「そう、その後ろの白髪と、あと横顔の目つきが、イエローアイドペンギンに似ててね。ぼーっと見てたら、毎週九十分間なんかあっという間だよね。イエローアイド、絶滅寸前だし、日本だと動物園とかにもいないし。うん、あれだね。大変興味深い」
最後の一言は、そのなんとかペンギンとやらに似ているという父さんの物真似だ。もちろん似ていなかったけれど、彼女は楽しそうに、何遍も「大変興味深い。……大変興味深い。あ、今の上手いね」なんて繰り返していた。
「上手くはないですよ」
「ちなみに、有くんは、シュレーターペンギンに似ているよね」
「は?」
口を挟む暇もなく唐突に展開し続ける姉さんの口調に、また自分が気圧されていくのを感じた。
「いやいやいや。イエローアイドにシュレーター。この授業はペンギン好きにはたまんないよね、実際。もうニュージーランドか、この講堂かって感じですよ、ふふふ」
「……それって、僕とあの人で顔が似てる、ってことですかね」
「え? まあ、血、繋がってるしね。今、有くんもあの家出て、この辺に下宿してるんだっけ」
「まあ、はい。たまに父さんも、泊まりに来ますけど」
「ふーん……」
そう言って、姉さんは言葉が澱む。
「つか、僕のことなんかほっといて、またあの席から、僕と父さんの顔だけ見て笑ってれば良かったんじゃないですか」
「え? や? なんの話?」
「……いえ。つか、僕の顔がペンギンに似てるだけの話だったら、ほっといてまたあの席から、顔だけ見て笑ってればいいんじゃないですか」
「あらあらあら……その話はまだ続いてたんだね……。っていうか、再会した家族に話しかけるのにも、ちゃんと理由を欲しがるんだ……」
「はい?」
基本的にはずっと、楽しそうに言葉を紡ぐ姉さんだけど、さっきから時折、僕には聞こえない声で一人ごつ時には、遠い目をして、懐かしさと寂しさの混じったような表情を見せている。
「いやいやいや、別に有くんの顔、笑っていたわけではないですよ。えーっと、なんで有くんに話しかけたか、ね。うん、有くんの顔を見てるだけってのは悪くないんだけど、あれだね、シュレーターペンギンくんに優しくしておいたら、夜中にシュレーターペンギンの群れが私のうちに来て、恩返しをしてくれるかも、って思いついたのが今朝だよね。で、力学の単位のこと、教えてあげようと思って」
「はあ?」
今度はちゃんと聞こえたけれど、言っている意味は分からなかった。
「うん。でもまあ、結局お節介なだけだったし、恩返しは無理はしなくていいよ」
また姉さんは、僕の理解の埒外で言葉を積み重ねている。
「いや、だから、」
困惑する表情の中に、少しだけうんざりした表情を見せてしまったかも知れない。
「あ。……んー、ごめんね、久しぶりなのに私、さっきからちょっと、はしゃぎ過ぎちゃってるかもしれない。なんか、さっきから勝手にいっぱい喋っちゃってるね。でも私、そういうアレな人とかじゃないよ、ちゃんと分かっててやってる人だよ。あとペンギンの擬人化とかも断固反対派だし」
ふう、と息をつく。擬人化反対派だとか、ペンギン愛好家の中での派閥とかはよく分からなかったけれど、彼女が自分で使った「はしゃぐ」という言葉は、楽しそうな彼女の表情に、ぴったりな言葉だと思ったのだ。悪気がなかったということを、ここまですっきり納得させてしまう言葉は他にないだろう。あるいは、毒気を抜かれる、とも言うのかもしれない。
「はしゃぎ過ぎちゃったなら、仕方がないですね」
僕は長い息を吐いた。多分、この時に一緒に出たのが毒気だ。
「なんか、久々に会って、私一人がはしゃいでるみたいで、気恥ずかしいけれど」
「え? ああ、僕も、姉さんに久々に会えて、嬉しいですよ」
「その喜びのテンションで、何枚脱げる?」
「え? 脱ぐって。いや、脱げませんけど」
「久々に会ったお姉さんがお兄さんになってた喜びのあまり、何枚脱げる?」
「あ、いや、それ、嘘なんですよね」
「それは私が脱いで確かめさせろと言う話か!」
「知りませんけど……」
姉さんが、またはしゃいでいる。昔から、こうだっただろうか。記憶を辿ってみても、そんな印象はあまりない。
「姉さん、ちょっと変わりました?」
「性別の話?」
「そうじゃなくて、なんか、その、喋ってる時の、テンションみたいの」
なにか、深刻な理由でもないといいが。
「どうかな。自分じゃ、よく分かんないよ。目に見えるものじゃないし」
「そりゃ、外見も結構、変わりましたけど」
「ふふふ、うん。……お化粧、覚えたよ。髪、染めたよ。お久しぶり、細谷、有くん。柏樹、陸です。よろしく、お願いします」
急に、改まった口調で、姉さんが頭を下げた。座ったままの僕の鼻先をかすめて、髪が薫る。
「初対面、みたいですね」
「んー? 実際、有くん、私の顔見ても、全然気付いてなかったしね」
「いや、まあ、でも声聞いたら、分かりましたよ」
「声?」
「声っつうか、僕の名前を呼ぶ感じ」
「ほそや、ゆーくん? 変、かな」
いつもより平たさと間延びした感じとを増したような呼び方で、姉さんは僕の名前を唱えた。僕の胸のどこかが、くすぐられる。
「いえ」
答えながら、僕は笑ってしまった。それを見て姉さんも、表情を緩める。
「ふふふ、有くん」
こうして姉さんは、それからずっと、僕の名前を呼びながらはしゃいでいる。
―
「で、姉さんはもう飯とか食いましたか」
一頻り笑い終えてベンチの僕の横に座った彼女に、僕は声をかけなおした。
「なんと、今日はお弁当を作ってきました。じゃじゃーん! って、お弁当箱の中に何故かシャープペンと消しゴムしか入っていない! うわあ!」
姉さんがバッグの中からペンケースを取り出して、これ見よがしに大きく開きながら何か言っている。楽しそうな人だ。
「シャープペン、結構よさそうなの使ってるんですね」
「千円くらいのだよ。なんか、製図用とかで売ってた」
僕のつれない返事に平然と答えながら、ペンケースをしまって、今度はちゃんと小さめのお弁当箱を開いていた。
「有くん、あーん」
箸を持つと今度はそう言う。姉さんは、お弁当箱を出すにも箸を持つにも、いちいち手間がかかるのだ。そもそも僕の返事なんか期待せずに、そのまま自分で卵焼きを頬張るのだから、僕の方でも気にするだけ無駄なのだ。
「そういや図書館、四月の新着DVD、そろそろ入ってますかね」
ベンチに背中を預けて、抜けるような青空を見ながら、僕は彼女に尋ねた。
「そうそう、それ。さっき見て来たらもう入ってて。その中に観たいのがあったんだけど。有くん、午後から暇?」
「え、……っと。三時くらいまで暇です」
新学年で覚えたての時間割を思い出しながら答えた。空いているのは一時限分だけど、残りの昼休みの三十分くらいと合わせれば、DVDを一本観るくらいの時間はあるだろう。うちの大学の図書館には、パソコンとヘッドホンが何台か置いてある、DVDの視聴室なんてものがあるのだ。そこの書架は、館内貸出に限るものの、そこそこ話題になった映画や外国のドキュメンタリーのDVDなんかが毎月入ってくる。そのわりにその視聴室自体を利用する人は殆どいなくて、僕達はよく、ヘッドホンを使わずに二人で同じ画面で映画を観たりしている。
「うん。じゃあちょっと、お弁当食べるまで待っててね」
「ゆっくりでいいですよ」
少しだけ、彼女の箸を動かすスピードが上がった気がする。けれど、その横顔を見ていたら、「あーん」なんてまたペンケースを取り出しては、その中から消しゴムを箸でつまんで僕に突き出してきたりするので、僕達が図書館に入る頃には、昼休みの終わりに図書館から出て授業へ向かう勤勉な学生たちと入れ違う恰好になった。
姉さんが新館書架から手に取ったDVDは、ミュージカル映画だった。
「それ、もうDVDになってたんですか」
「うん。なんか、気になってたのにいつの間にか映画館で観そびれてて、いつの間にかDVDになってたよね。ありがたいことです。えっと、観るの、これでいい?」
「はあ、姉さんが観たいのでいいですよ」
どうせ僕には選べない。姉さんの前で答えに詰まるのが嫌で、僕は彼女に選択を委ねた。
「ふふふ、ありがとう、かな」
僕は姉さんからそのパッケージを受け取ると、慣れた手つきで館内貸出手続を済ませて、視聴室の防音扉を開ける。やはり先客は誰もいなかった。その中の一番奥のパソコンのスイッチを入れて、椅子を二つ並べる。パソコンのファンの音と、入れたDVDのシーク音。控えめにした音量で映画が始まる少し前、いつもはしゃいでいる彼女は、この瞬間だけ、急に静かになる。
やがて映画が始まると、流れ出したメインテーマのゴスペルに合わせて浅く組んだ足の先でリズムをとったり、場面に合わせて微笑んだり表情を歪ませたり、また姉さんはせわしなく動き出す。でも、視線は画面から外れない。
「いやいやいや、面白かったね」
映画を観終わって肩を回しながら彼女は言った。観てる最中もあれだけ動いていたのに、凝る肩があるのだろうか。
「っていうか、ミュージカル映画って、こんなとこで音量を気にして観るもんじゃないですよ」
「ふふふ、そうだね」
まるで気にしてない風で、姉さんはDVDを取り出して、立ち上がった。
「時間、あんまりないんだっけ? 先に行っていいよ」
時計を見ると、急げば次の授業に間に合う、という程度の時間になっていた。
「え、ああ、そうですね。それじゃ、すいませんけど」
「またね」
彼女と別れて図書館から出ると、僕は携帯音楽プレイヤーのイヤホンを耳に挿して、早足で次の授業に向かった。またね、と僕は思う。溜息をついた。
―
次に姉さんに会ったのは、それから三週間以上経ったあとだった。姉さんと再会してからも特に母親とは連絡をとっていないし、偶然大学で会うこともなければ、そんなものだ。姉さんと久しぶりに会った日、僕はお昼過ぎ、電磁気学の面倒そうなレポートをでっち上げるために図書館に来ていた。工学書の書架から電磁気学の本をタイトルだけで選んで、貸出カウンターに向かう途中で見かけた、隣の通路、宇宙物理学の書棚の前で、太陽系の天体写真の本を読んでいたのが姉さんだった。ロールアップデニムに合わせた袖の短い花柄のシフォンブラウスが、彼女には珍しく、女の子らしい印象の服装になっているかもしれない。
というか、なんで姉さんがこんなとこで理工書を読んでいるんだ。そもそも、文学部の先輩がこの辺りをよくうろついているのも分からない。他の学部のことはよく分からないけど、普通三年生くらいになったら、教養科目しかやらないこの辺の建物には用がなくなるんじゃないのか。大体にしてあの人から、自分が何を専攻しているかなどの話を殆ど聞いたことがない。再会してからすぐの頃に一度訊いた時には、なんだか言うイギリスの作家を研究しているという話を聞いたような気がする。聞いたことのない長い名前の作家だった。確か名前の途中にハイフンとかが入る。けれど、思い立ってその作家の本を読んでみようと、その後に僕が何回か同じ質問をするたびに彼女からは、毎回違った、しかも相変わらずふざけた答えしか返ってこなくなったので、今となってはその作家の名前を確かめる術はない。それどころか、その最初に聞いた、イギリス文学というのも何かの冗談だった可能性がある。
「姉さん」
僕は近くに寄って出来るだけ小さな声で呼びかけた。ここが図書館だからというよりも、食い入るように天体写真を見つめる彼女をあまり邪魔したくなかったからというのが大きい。でも、彼女に気付いてすぐに声をかけなかったことを知られると、姉さんはいつもの三割増くらいで面倒くさい感じの人になるので、声をかけないわけにはいかないのだ。顔を上げて僕を認めると、また彼女ははしゃぎだす。ここが図書館であることを踏まえた、それなりに小さな声で。
「あらあらあら、有くんだ。ふふふ。あのね、大変だよ有くん、金星人が私達をビームで狙っているんだよ」
先まで見ていた天体写真を指さして、姉さんは言った。適度に切り揃えられた、いつも血色の良い、桃色の爪。その人さし指が指しているのは、茶色くて丸い星の、ちょうど中央辺りだ。これがきっと金星なのだろう。
「ほらほら、この辺にアンテナがあってね」
僕がその写真を覗き込むように頭を寄せると、
「びびびびびー」
姉さんは、写真を差していた指をまっすぐ動かして、僕の額に突き立てた。彼女は今日も早速面倒くさい。額の上の彼女の指をそのままにして、僕は尋ねた。
「わざわざ教養の図書館まで、星の写真、見に来てたんですか」
「ん、まあ、自然のものだったら何でもよかったんだけど。ふふふ。学部の方の図書館は、なんか人が作ったものが多くて、ちょっと疲れちゃうよね」
彼女は、僕の額に刺した爪の跡をその指の腹で軽く撫でてから、指を離した。離れていく熱を追うように、どうでもいい話題を選んで、僕は声をかける。
「多分前にも聞きましたけど、姉さんの専門ってなんでしたっけ」
「んー? あ、そーだ、アイスクリームの溶け方に関する流体力学」
窓から入ってくる五月の陽光を見て少し考えてから、彼女は答えた。
「はあ、なるほど。ところで、前にも聞いたかもしれないですけど、姉さんの専門ってなんでしたっけ」
「えー、っと、ね、コンビニアイスのマーケティング、とかかな」
今の姉さんは徹底的に文学部ではないらしい。相当お疲れのようだ。
「結構ニッチな分野ですねー。そういや、全然違う話題ですけど、姉さんの専門ってなんでしたっけ」
「アイスクリームを用いた……疲労に対する民間療法、について」
ふむ。僕は彼女からちょっと目を逸らして、床のタイルを視線でなぞりながら言った。
「あー、姉さん。ご本に集中してらしたところ申し訳ないですけど、気分転換に購買にアイス買いに行きませんか」
「ふふふ。有くん、それはとても良いアイディアです。しょうがないので一緒に行ってあげましょう」
どうやら、僕は正解を選べたようだ。彼女の顔を見ていられなかったから分からなかったけど、彼女の声はいつもより楽しそうだった。僕は、照れくささに伏せた顔を上げて、彼女の背中を追って歩き出す。こうやって彼女についていけば、いつかこんな茶番でも、あんなに楽しそうに演じることが出来るようになるのだろうか。
姉さんと一緒に購買でアイスを買って、構内にある池の畔まで歩いてきた。無駄に広くて無駄に自然の多いこの大学の構内には、この池から流れ出した小川まで流れていて、この池というのにも、淀んでいるイメージは全くない。それどころか、すくすくと養生された芝生に囲まれて、この五月という季節には、暴力的なまでに明るい反射光を湛えている。少し離れた木陰にはそれぞれまばらに人がいるが、こんな晴れた日に芝生の真ん中に腰を据えようという人はいないようだ。だけどもちろん、この人は例外だ。姉さんはその芝生の開けたところにつかつかと歩いて行って、そのど真ん中に立ち止まり、突然自分のブラウスに手をかけて言った。
「心頭滅却すればヌーディストビーチ」
僕が無言のまま携帯電話のカメラを向けると、彼女は服にかけた手を下ろして、芝生の上に躊躇いなく腰を下ろした。僕もその横に、アイスの入った購買のビニール袋から中身を取り出して、その袋を敷いた上に座る。自分の下で、くしゃりと音がした。
「あ、それ頭いいね」
「普通ですよ」
「ふふふ、そっか」
それから二人でお揃いのアイスの箱を開く。購買で姉さんは、冷凍庫の中を一瞥するなり、チョコレートコーティングされた一口サイズのアイスが幾つか箱に入っているものを選んでいた。それを見て僕も、彼女と同じものを手に取ったのだった。
「旨そうだぜい!」
「そうですか。誘った甲斐がありましたよ」
「うん、ありがとうですよ」
早速その一つ目を口に運びながら、彼女は言った。そして、口元まで運んだアイスを注意深く前歯で割り、付属のプラスチックフォークの刺さっていない残りの半分だけを口に入れ、ゆっくり咀嚼する。
撫でるように涼やかな風が吹く。時間の流れが遅くなった気がした。僕は、アイスを頬張ったまま、芝生に背中を預けて寝転んだ。青空。背中の芝生からも、さっきまで受けていた太陽の熱がじんわりと伝わってくる。さっき割ったアイスの残り半分をようやく口に含んだ姉さんが、座ったまま僕を見下ろして、笑った。
「ふふふ、それじゃ、さっきのビニール袋、全然意味ないね」
「姉さんのアイスの食べ方が悪いんですよ」
「意味分かんないこと言ってるし。ふふふ、私みたいだ」
それから二人で、他愛のない話をした。ペンギンの最近明らかになった生態の話。ペンギンにも同性愛があるらしい。最近TVで観た動物もののドキュメンタリーの話。読んだ小説の話。映画の話。授業の話。研究の話。金星人の話。天気の話。アイスクリームの溶け方に関する流体力学の話。最後のは、いくらなんでもゆっくり食べ過ぎた、姉さんのアイスの話だ。相変わらず姉さんははしゃいでいて、次々と紡がれるその話はどこからどこまでが本当の話で、どこからどこまでが与太話なのか分からなくて、僕はいつもの気の利かない相槌を打つので精一杯だったけれど。彼女が楽しそうに語る話の、全部が本当の話だったらいいと思ったし、全部が空に溶けていった嘘の話だったらいいと思った。
「ふふふ、やってらんねーですよ」
何かの拍子に、笑いながら姉さんが言った。そして、食べ終わったアイスの箱を横に片付けて、やっぱり姉さんも仰向けに寝転んだ。
「死にてー」
見上げた青空に手を伸ばして、彼女が溜息と一緒に吐き出した言葉は、僕の知らないうちに覚えたらしい、晴れた日の彼女の口癖だ。去年の夏に初めて聞いたときは驚いたけれど。彼女が言うには、空の裏側には、悪意というものが存在しない世界があるらしい。つまり。僕はずっと姉さんに追いつこうとしているけれど、その姉さんはずっと、晴れた空に手を伸ばしているんだ。僕は、姉さんを地上に繋ぎ止めるための、いつもの提案をした。
「あー……、姉さん。うち来て、アレ観ますか?」
「あらあらあら。アレ、ですか。私がたった一枚のディスクで、何回も釣られると思ってたら大間違いですよ」
「や、いいならいいですけど」
「ふふふ、そうだね。やっぱり、お邪魔、しようかな」
そう言って彼女は、起き上がって、さっきまで空に向かって伸ばしていた手を、今度は寝転がっている僕に差し出した。
―
僕らの間で「アレ」と言って通じるのは、一枚のブルーレイディスクだ。中身はコウテイペンギンのドキュメンタリー。姉さんの一番のお気に入りのこの映像は、コウテイペンギンが南極大陸の吹雪の中、絶食したまま集団で身を寄せ合って抱卵し、孵化させるまでを撮ったものだ。元は五年くらい前のフランスかどこかの映画だったらしいけれど、姉さんに言わせれば、ペンギンを擬人化したナレーションを充てているそのフランス版はまるでペンギンの良さが分かっていないらしい。それで、アメリカでの公開に際して、もっとドキュメンタリーらしい解説をつけたという版だけを勧められている。実際、そのアメリカ版はドキュメンタリーとして結構有名な賞を受けているようだ。僕達が初めてあの図書館に行ったときに、彼女が書架から手に取ったのもこれのDVDだった。毎月の中旬を越え、観たい新作DVDがなくなるたびに、彼女はこの映画を観ようとするので、僕はせっかくだからと言って、更に画質が良いメディアで買っておいたのだ。更にせっかくついでに視聴環境も新調したので、大学近くの僕の下宿には、一人住まいには不釣り合いなほど大きなモニターとスピーカーがある。
僕らは、いつもの手順で肌を合わせてから、もう一度順番にシャワーを浴びたあと、二人とも裸のままソファーベッドの上に隣り合って、一枚の毛布を羽織って座った。僕と姉さんがこういうことをするのは、初めてではない。何度目かに家に呼んだときに済し崩し的に始まってから、これが何度目だろう。
僕らは、お互いの体温を感じながら、無言でコウテイペンギンたちの繁殖の映像を観ていた。遮光カーテンも閉めて部屋の電灯も消したままで、薄暗い部屋にモニターだけが光っている。字幕も消しているので、低い男性の声で流れる英語のナレーションは、ところどころの意味が掴めるだけだ。
地球上で最も過酷な子育てをする鳥として知られるコウテイペンギンの抱卵は、オスだけが行う。産卵を終えたメスたちが餌をとりに海へと向かう二ヶ月もの間、それも南極大陸の最も寒さの厳しい時期の二ヶ月間を、何千羽というコロニーに身を寄せ合い、頭をもたげて寒さをやり過ごしながら、絶食したままその足の上で卵を暖める。その後、メスたちが海で産卵後の空腹を癒し、また雛のための食物を携えて繁殖地へと戻ってくると、今度は雛をメスに預けて、オスたちが海へと向かう。雛はまた、メスの両足の間に身体を挟めて、寒さをやり過ごす。こうして、殆ど陽の出ない南極大陸での冬がようやく明けるまでに、多くのペンギンが産まれて、死ぬ。繁殖地へと向かう途中で成鳥が死に、雛が卵のまま凍りついて死に、孵化してから凍りついて死に、天敵に襲われて死に、餌を携えて戻ってくるはずの親鳥が死ねば、雛が飢えて死ぬ。初めて図書館でこの映画を観せてくれたとき、死と吹雪に覆われ、それを甘受し、気持ち悪いくらいの数で集まって揃って首をもたげ、ただただ耐えるばかりのコウテイペンギンに、僕は圧倒されてしまった。そんな僕に姉さんは一言だけ「システム」と言った。システム。どうして、という疑問を撥ね除ける言葉。
「服、着ようか」
映画が終わってモニターが暗くなってからしばらくして、ようやく姉さんが口を開いた。
「部屋着になっていいですか」
僕は二人で羽織っていた毛布から抜け出して、部屋の隅に脱ぎ捨ててあったジャージに手を伸ばしながら言った。
「あらあらあら、送っていってくれないんですか」
僕の背中越し、ベッドの上で姉さんも着替え始める。
「あー、じゃあ」
そう言って僕が再度、その隣に落ちていた、さっきまで大学に着て行っていた服の方を引き寄せると、ベッドの上から姉さんがまた茶化した。
「細谷・送りウルフ・有くん」
「自分の母親の家ですよ」
「ふふふ、修羅場だね」
相手をするのも面倒で、僕はそのまま床に座って壁の方を見ながら、さっきまで着ていたTシャツとパーカーをかぶった。薄暗い部屋ではちゃんとは確認できないが、目立ったところに芝生の汚れはつかなかったようだ。
「有くんち、わりと広いよね」
「いま片付いてるから、そう見えるだけですよ」
僕の部屋など、台所を含めてせいぜい十畳を超えるくらいだ。L字型に折れた部屋の角にテレビなどのAV機器を置き、片方の端には台所や食卓、そして玄関があり、今僕らが居るもう一方の端にベッドなどがあって、そして、L字の欠けたところを埋めるようにして浴室などがある。ベッドやオーディオセットは場所を広くとるので、この部屋もそう広く使えるものではない。実際、姉さんを部屋を部屋に連れてくる時には、四、五分だけ玄関先で待ってもらって、その間にベッドの脇のクローゼットにものを手当たり次第に押し込むというのが、初めて部屋に彼女をこの部屋にあげたとき以来の恒例だ。だから、僕がいま着替えている、部屋の壁際のところだけ、ぽっかりとものがなく空いているのだ。
下着姿のままジーンズをずるずると引き連れて、彼女が僕の後ろから近づいてきた。そしてそのまま僕の右隣に座り、フローリングの床をぽんぽんと叩きながら言った。
「でも、片付けたら、少なくともここは空くってことだよね」
「ああ、まあ、実際、空いてますね」
「ふーん……」
それきり少しの間、姉さんは白い壁の方を見ながら、黙って靴下とジーンズを履いていた。
結局、姉さんを送ることなく、僕らは下宿の玄関先で別れることになった。狭い玄関でパンプスを履きながら、姉さんが思い出したように呟く。
「不幸になるまで自分の絶望に気が付かない、お前の愚鈍ぶりに絶望するわ……」
「はあ、なんだか知りませんけど、がっかりさせたみたいで」
「ん? 有くんに言ったわけじゃないよ」
「ええ……?」
姉さんは誰と交信していたんだ。
「そうだ、有くん、携帯のアドレス、ずっと訊こうと思ってたんだけど」
「ん、ああ、そういや交換してなかったですね」
再会してから一年近くも経っているのに、僕らはお互いの連絡先を知らずにいたのだ。僕もそのことに気付いていなかったわけではなく、どちらかというと、最初に交換し損なってから、僕からは言いだしあぐねていたというのが大きい。タイミングの問題だと思う。そもそも姉さんが携帯電話に向かっている姿も、あまり見かけたことがなかったし。
しかし、思いの外、姉さんが携帯電話を操作する手つきは手慣れたもので、赤外線を通じたメールアドレスの交換は手早く済んでしまった。彼女は、赤い携帯電話をぱたりと折り畳んで、満足そうに笑った。
「ふふふ、これでやっと有くんを着信拒否に出来るよ」
「念願叶いましたか」
「これまで、偶然かかってきたらと思うと恐怖で夜も眠れなかったからね。これからも電話かけてきても無駄だし、絶対かけて来ちゃ駄目だよ」
また適当なことを言いながら姉さんは、携帯電話を一度軽く自分の胸に押し当ててから、カバンの中に無造作に落とした。
「それじゃあ、またね」
「ああ、はい。また」
姉さんが手を振って扉を閉めたあと、すぐに僕の携帯電話が震えた。メールの着信。送信元はもちろん姉さん。内容は『おかけになった電話番号へは、お繋ぎすることが出来ません』。姉さんが使っている携帯電話の会社の、着信拒否の時にかかるアナウンスだったと思う。役に立たない知識は無いものだ。溜息。アドレス帳を開いて、さっき登録したばかりの電話番号を選択して、携帯電話を耳にあてる。一コールで繋がった。
「おかけになった電話番号へは、お繋ぎすることが出来ません」
「姉さん、さっき、ぱんつ履き忘れてってません?」
「いやいやいや、さすがにそれは忘れないよ」
「良かったですね」
一通りどうでもいい会話をしてから、少しだけ空白が空く。電話口の向こうから、自動車の排気音が聞こえた。姉さんが道を歩く音。僕らがまた、遠ざかる音。
「……ふふふ、この携帯電話、ほんとに有くんの声がしますよ」
「そうですか。僕の携帯電話からは姉さんの声がしますけどね」
「それは故障です。一旦電話をお切りになり、また明日、かけ直してみて下さい」
「え? ああ、じゃあ、また明日、ですか」
「うん、ふふふ、また明日」
こうやって僕らは、別れの挨拶を「またね」から「また明日」に変えて、電話を切った。
―
次の日の朝早く。僕は言われた通り馬鹿正直に、姉さんに電話をかけた。最初は電話をかけてもいい時間すら僕には分からなくて、一度メールで確認をとってから電話をする、なんて無様な真似をしたけれど。「昼休みに、いつも行く図書館のすぐ脇にあるベンチで待ち合わせ」と言う姉さんの声はとても弾んでいた。それを直接メールで教えてくれればいいものを。だけれど、姉さんの声は何かとても楽しいことが待ち受けているかのように浮かれていて、あまりの浮かれ具合に、彼女のいつもの与太話が一度も混じらず、電話が繋がるなり一方的に用件だけを捲し立てる勢いに、待ち合わせを取り付けながら僕は拍子抜けしてしまったくらいだ。
彼女の浮かれた気分は午前中もずっと続いていたらしく、お昼休み直前に追伸として来た、僕に購買でのお使いを頼むメールも、文面は用件しか書いていないのに、その後ろに「!」マークが二十個くらい付いていた。僕はその機嫌を損ねぬように、昼休みの始まる前の授業で使った、構内の少し離れた建物から購買へ向かって、頼まれたものを買ってから、急いで図書館へと自転車を走らせた。昨日と同じく天気は晴れ、屋外は新緑の季節というにふさわしい陽の光に満ちている。
待ち合わせ場所から少しだけ離れた場所に自転車を止めて、歩きながら呼吸を整えてから、姉さんが座るベンチに近づく。今日の姉さんは、白のロックTシャツに薄い色のデニムミニを合わせて、そこから黒のレギンスが伸びている。トレンカの上とはいえ、姉さんがスカートを履くのは珍しい。昨日のフリルブラウスといい、最近の彼女に何か心境の変化でもあったのだろうか。何やら楽しそうに膝の上で、またペンギンの写真が載っている本を読んでいる。
「すいません、待たせました」
姉さんがおとがいを上げて、僕に気付いた。
「ふふふ、有くんだ。偶然だね、一人?」
「はあ、偶然一人ですよ。もう偶然も偶然、ちょうどそこの購買でふりかけ買ってきたんですけど、姉さんはたまたま、ふりかけとか必要じゃないですか」
姉さんの隣に腰を下ろして、さっき購買で買ってきた袋を差し出す。これが先のメールで彼女に頼まれたものだ。購買で好きなふりかけ買ってきて。五・七・五に「!」マークが二十個。
「うん、ありがとうね。じゃ、まずはご飯を食べましょう」
そう言って姉さんは、カバンから色違いのお弁当箱を二つ出した。一つは彼女がいつも使っているものだ。もう一つの方を僕の膝に乗せる。
「召し上がれ」
「あ、じゃあ、いただきます」
そう言って貰ったお弁当箱の蓋を開けると、姉さんがたまに自分で作ってきているお弁当よりも若干彩り豊かな食材が並んでいた。いつも彼女と会うのは偶然が主だったから、姉さんにお弁当を作ってきてもらうなんてことは初めてだ。だけど彼女の料理の腕がそれなりであることは、僕の家に来た時に、よくあり合わせで何か簡単なものを作ってくれることで知っている。特に卵を使ったデザート類、プリンなんかは絶品なのだけれど、さすがに今日のお弁当にプリンは入っていない。そして今、そのことよりも問題なのは、姉さんが普段食べているお弁当箱と同じサイズなので、絶対的にその量が足りていないことだ。少し戸惑いながら手を付ける僕に、姉さんが付け加えるようにして言った。
「足りない分は輪ゴムでも噛んでて」
「じゃ、姉さんの手首のシュシュ貸して下さい」
「ふふふ、利子つけて返してね」
「三倍の大きさにして返しますよ」
「それ、噛んで伸びきっただけだよね」
ふむ。姉さんも量の問題に気付いてはいたらしい。実際、すぐに「ふふふ、そこで、さっきのふりかけの出番ですよ」と言って姉さんは更に僕の膝に、レトルトのご飯を一パックと、さっき姉さんに渡した、僕の買ってきたふりかけを載せた。ご飯はまだほのかに暖かい。
「いやいやいや、量が足りないって気が付いたのが、ついさっきで。急いでこれ買ってきたんだけど」
「ああ、好きなふりかけって、僕が食べるんですか」
「さすがにこれを食べきるなら、ふりかけくらい自分の好きなのじゃないとね、ふふふ。のりたまですか。好きなんだっけ? 有くんちの冷蔵庫に入ってるふりかけ、行くたびに違う種類の入ってる気がするけど」
確かに僕が今日買ってきたのはのりたまだが、これは、購買で色々並んでいるふりかけの棚を見ていたらまた選べなくなりそうだったので、急ぐのを優先して、真っ先に目に付いたのを買ってきただけだ。
「冷蔵庫のは、ふりかけとかあんまこだわりないんで、近くのスーパーに並んでるやつ、棚の左上から順番に買ってってるんですよ」
答えながら早速、レトルトご飯の蓋を開いて、お弁当のアジの南蛮漬けをおかずに口へ運んだ。少しだけ効いたカレー粉の風味がご飯を進ませる。せっかく買ってきたふりかけも、そんなに量を使わないかもしれない。
「ふふふ、あそこのお店、結構種類あったよね」
「一年くらい通ってますけど、まだ半分くらいしか試せてないですね」
当分、ふりかけの選び方には困らないと思っていたけれど。そんなことを話しながら、姉さんも自分のお弁当に手をつけ始めた。ふとそれに目をやると、僕の方では簡単にウサギの形に飾り切りをして入っているウインナーが、彼女の方ではそのままの形で入っている。そもそもウインナーは豚肉なのにウサギとはこれいかに。
結局最後は、半分くらい残ったレトルトご飯に、買ってきたのりたまを振って、黙々と食べることになった。既に自分の分を食べ終わっていた姉さんは、適当なタイミングで僕に水筒のお茶を注いだりしながら、僕が来るまで読んでいたペンギンの本をまた取り出して、何やら書き込んだり、適当なところを読み上げたりしている。
「うーん。見えないものとの、バランス、かな」
いつも思うままに行動している姉さんには珍しく、自信なさげに首をかしげながら、ぱたりと本を閉じた。書題が見える。『君にも飼える! ペンギンの飼い方事典』。ふざけた本だ。
「姉さん、ペンギン飼うんですか」
「いやいやいや、飼うのは有くんですよ」
「僕に首輪つけて飼う話ですか。餌は生魚よりは南蛮漬けがいいですね。さっきの美味しかったです」
姉さんがなんかおかしなことを言っているのはいつものことだけれど、今日の話は殊更だ。
「うん、南蛮漬けに関してはまた機会があればね。で、有くんをペット扱いするのも、そのうち機会があれば、ね。虎視眈々と狙って参りますけれども。今日の話は違います。有くんが、有くんの自宅で、ペンギンを飼う話です」
そう言う彼女の目は残念なことに真剣だ。さてはいつもの与太話ではない。それでいて楽しそうな目なのが一層厄介だ。考える。一年近く姉さんのペンギン好きに付き合って、僕にもそれなりにペンギンの知識もついている。日本の温暖な気候に耐えられそうなのは、リトルやフンボルト辺りだろうか。動物園や水族館でもよく見かける種類だ。しかし、それらを飼うのにも大きなプールなどが必要だろうし、何よりペンギンは群れを作る鳥だ。飼うとなったら一羽単位では無理だろう。エサ代も空調代も馬鹿にならない。姉さんは自然の中に生きるペンギンが心底好きな人だから、そういったことで妥協するくらいなら、冗談でもペンギンを飼うなんて言い出すはずがない。僕は、レトルトご飯の最後の一口を飲み込んで手を合わせてから尋ねた。
「どのペンギン、ですかね」
姉さんは、持っている『ペンギンの飼い方事典』の一番最初の方を開いて、高らかに宣言する。
「ここはでっかく、コウテイペンギンでいきましょう!」
「……その『ペンギンの飼い方事典』とやらには、南極条約の破り方は書いてあるんですか?」
南極に棲むコウテイペンギンは、どの国も勝手に捕獲することは出来ない。その他にも色々問題はあるはずだが、昨日彼女と一緒に観た映画からも分かるように、姉さんの一番好きな動物であるところのペンギンの内、一番好きなのがこのコウテイペンギンだ。とりあえず手に入れてしまえば、飼うとなったらその熱意でなんとかなってしまうかもしれない。いや、コウテイペンギンの生息環境は南極のマイナス数十度という世界なので、そんな熱意なんかにあてられたら一瞬で干からびて死んでしまうだろうけど。かっこわらい。いや、まあ、しかし。コウテイペンギンか。捕鯨時代には日本の飼育実績もかなり高かったが、今となっては全国の動物園にも二、三箇所にしかいないはずだ。普通に考えて無理だろう。そう結論づけて、姉さんの顔を見る。
「ふふふ、南極条約は破りませんし、コウテイペンギンは実際には要りません」
姉さんが遂にバグってしまったと思った。本気で、言っていることが、分からない。コウテイペンギンを僕の自宅で飼うけど、コウテイペンギンは必要ない?
「えっ、と」
「うん。ふふふ、簡単に言うと、ごっこ遊び、だよね」
「……ペンギンを飼うごっこ、ってことですか」
なんとなく呑み込めてきた。姉さんはたまに、冗談の延長でこういう遊びを考えつく。やけにしおらしいと思って聞いたら「大和撫子ごっこ」だったり、アルミホイルの芯の筒を使って二人で「万華鏡ごっこ」と「天体望遠鏡ごっこ」のダブルヘッダーをこなしたこともあった。「アリスごっこ」と言われて始めたのに、いざ始めてみたら、姉さんがハイエナの役で、僕は野に転がった骨の役だった、というのもある。そう言えば「裸ごっこ」とかいうのもあった。服を着てるのに裸になったつもりで身を隠す遊び、と、こうして改めて思い返すと、姉さんのごっこ遊びは毎度のことながら意味が分からない。あるいは、いつもの姉さんの、見え見えの真意を言わない「茶番」もごっこ遊びの一つなのだろうか。
「でも、真剣にやれば、見えてくるはずだから。コウテイペンギン」
問題はその「真剣」だ。これまでにやってきた「ごっこ遊び」でも、どのくらい設定を徹底するかなどは、わりと姉さんの裁量次第だったし、それを突然やめるのも彼女の気分次第というところがあった。その点、今回のこのペンギンを飼うごっこはかなり真剣度が高そうだ。こうやって参考資料を買ってきているところからしてそれが伺える。
「有くんちの、あそこの空いてる場所を使うから。私も手伝うし。がんばろうね」
「頑張るんですか。穏やかじゃないですね」
「がんばろうね」
「……はい」
「じゃ、とりあえずこの本を貸してあげるから、授業中にでも読んでおいて。私は一回おうちに帰って、使えそうなもの取ってくるよ。お母さんの車借りて、そのまま有くんち行くね」
車、とな。姉さんはどんだけの大荷物を運んでくるつもりなのだろうか。
「はあ。じゃあ、まあ、気をつけて来て下さい」
「うん。ふふふ、行ってきます、だね」
そう言って彼女は、僕に先の『ペンギンの飼い方事典』を手渡して、去っていった。とりあえずコウテイペンギンの項だけを読んでおけばいいだろう。彼女がさっき読みながら貼っていた付箋も、殆どがそのコウテイペンギンのページに集中している。二、三が別の種に挟まっているので見てみると、それはシュレーターペンギンのページだった。久々に再会した時に彼女が、僕と似ていると言った種類のペンギンだ。その写真では、相変わらず目の上の黄色い飾り羽が勇ましく立ち揃っている。その「シュレーターペンギンの餌」という項に挟まった黄色い付箋には、姉さんの筆跡で「でも南蛮漬けも美味しそうに食べている」だの「おっきいドットのシュシュが好きっぽい」だの「プチトマト最後まで残してる」だの書かれている。変わったペンギンがいたものだ。
僕は午後からの授業に向かった。いつもはなんとなく最前列の席に座っているけれど、今日はこの本を読むから、後ろの方の席に座らなければいけないだろう。溜息。
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