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その夜は、そのまま、色んなことを話した。昔の話と、今の話だ。五番目の季節では、時間の向こう側は白い雪の壁に遮られていて、未来の話は出来ない。ここは、凄く閉じた季節なのだ。知ってたけど。
あたしたちはいつの間にか、本を読んでいた時の身体を預け合うような姿勢に戻っていて、後ろのおとーさんは背中を壁にもたらせかけたまま眠っていた。あたしは、この夜に交わしたばっかりのおとーさんとの会話を反芻する。例えば、おとーさんが色んなことを『分かんない』とか『どうでもいい』とか言って、知ることを諦めていることの話。科学者なのに、そういうのを諦めてるってのは、どういう意味なんだろうと思ったのだ。
―
「観測出来ないことは、基本どうでもいいですよ」
尋ねたあたしに、おとーさんは、首をひねりながら返していた。
「何が?」
観測という言葉は、たぶん科学者の言葉なんじゃないかと思う。おとーさんの使う言葉で、知っている言葉のはずなのに違和感がある時は、大体そうだ。
「物理には、不確定性原理ってのがあって。動いているものの、場所と速度の両方を正確に同時に測ることは、出来ないんです。もう、原理的に」
言いながら、テーブルの上にあった消しゴムを、指でぴんと弾く。
「そこにあるじゃん」
あたしは、すぐに停まったその消しゴムを見て言った。
「いや、もう、ほんとに細かく、〇、〇〇〇〇何ミリとかで測った時の話なんですけど。それがもう、物理って言うフレーム、公理系って言うか、物理の言葉を使ってものを考えるってことにした時点で、それは諦めなくちゃいけないことなんですね。ほんと、考えるのも無駄で。俺が本気でやってる学問では、こんな消しゴムのことすら分かんないんです。ねえ、考えても無駄なことが、この世の中にあるんですよ。分かんないって、言わなくちゃいけない。だから、観測出来ないことは、どうでもいいんです、きっと。この世の中には、俺と関係ないものが一杯あって、そういうものを俺が無理矢理どうにかしようとすることは、無駄で、駄目なんです」
凄く大事で、真剣なことを一生懸命に話しているはずなのに、おとーさんの口調は軽かった。どこか、色んなものを嘲るみたいに。正しいことなのかも知れなかった。けど、おとーさんの言う『諦める』というのがそのことなら、それはただ拗ねているだけなんじゃないかと思った。だったら、ちょっとだけ悔しい。
―
窓辺に立って、カーテンの隙間から外を見やる。深夜から朝方にかけて車道の雪を掻き分けていく除雪車の、くぐもった轟音がゆっくりと通り過ぎていった。ほぼ毎夜をこんな音の中で寝られるというのも、なかなか北海道の人は凄いなと思う。
灰色の空から落ちる雪は珍しく弱くて、小さい粒の粉雪が風に吹かれていた。弄ばれる粉雪は地面に落ちることすらままならず、時折下から吹き上げられてくるくると舞っている。その時、ちょうどキリの良い時間になったのか、北海道の遅い朝を照らしていた街灯が、一斉に消えた。
「うん。起きよう」
目を瞑って、軽く伸びをする。消えるという言葉はなんだか不思議な言葉だな、と思う。誰かがいなくなることで、他の人が何かを新しく始めることが出来るのだ。
瞑っていた目を開けると既に、あたしの最後の日の服が着せられていた。長袖の白いブラウスの上に、白地に細いブラウンのストライプが入った、少しだけシックなワンピース。ほんとは取り外せるはずの首元のセーラー襟も、ちゃんと据えられている。いつだったか、学校の制服がセーラーじゃないことに文句を言っていたら、おかーさんが買ってくれた。大事な服だ。もちろん、肩にはバッグが掛かっている。
その後、やがてすぐに起き出してきたおとーさんは、ストーブの薪を足した後、着替えて屋根の雪下ろしに外に出てしまった。気温が上がってから屋根に登ると滑って危ないから、朝方のうちに済ませてしまうのだそうだ。あたしも追いかけて、雪国の家特有の緩やかな三角屋根の上に舞い上がった。
おとーさんは、あちこちひびの入った赤いプラスチックのスコップを両手で握って、雪を屋根から押し出していく。
「たいへん?」
「いや、寒い日の雪は、軽いんですよ」
「そうなんだ」
どうやら、今日は寒いらしい。
「水分が少ないから、なんですかね」
「知らないけど」
「分かんないですねえ」
落ちていった雪が下の地面に当たって、ぼふんという音を立てる。おとーさんが、手袋の甲で鼻を拭った。
「気をつけてね」
そう言いながら、編み上げのショートブーツでおとーさんの脛を軽く蹴る。
「まどかも、うちの中、入ってていいですよ」
「やだけど」
言いながらあたしは、おとーさんがスコップで押し落とす直前の雪塊の上に飛び乗った。そのまま一緒に屋根の上から落下して、雪が地面で砕ける寸前に身を翻し、また屋根の上に飛び上がる。
「何やってんですか」
屋根の上では、呆れた顔でおとーさんが待っている。
「わりに楽しい」
落ちていく時の投げやりな感覚を、久々に味わった気がする。無力感と言い換えてもいいかも知れない。
「もっかい」
「勝手に乗ってればいいじゃないですか」
そう言っておとーさんは、淡々と雪下ろしを続けていく。あたしは何度も繰り返して。落下していく感覚を覚え込もうとした。
「午前中はわりと暇かも」
机について朝食にいつもの栄養補助食品とインスタント珈琲を口にするおとーさんに向かって、あたしは呟いた。
「四つ目の宿題が、料理なんでしたっけ」
「そう。夕ご飯ね。食べたいものって言うか、作り方を覚えたいものがあったら、先に言ってね」
「まあ。そう、そうですね」
大して考えもしない、薄らぼんやりした返事が返ってくる。無言のまま、机の下でおとーさんの脛を蹴る。どっちにしろ、大して手応えはない。
「使い切りたい食材とかでもいいよ」
「そもそも、うちに食材なんかないですよ」
まあ、そうだろうな。じゃあもう、あたしがおとーさんに作らせたい料理を作るしかない。ちょっとだけ考えてから出し抜けに、思いついた料理に決めた。
「じゃあ、ホワイトシチューかな」
お野菜をいっぱい入れて、ゆっくり煮込んだシチューを作ろう。
「いいですね」
おとーさんの感触も悪くない。
「おとーさんさ、昔よく、シチューとご飯、ぐちょぐちょに混ぜてから食べてたよね」
「ああ、まあ、はい。真似しちゃ駄目ですよ」
「してない」
ほんとは、一人で食べる時にはたまにやる。ドリアみたいなもんだし。
「今も、そやって食べてる?」
「シチュー自体、そんな食べませんからねえ」
言いながら、食べ終わった朝ご飯の空箱をゴミ箱に向かって投げ捨てる。もしや今度は、そのいつものご飯をシチューに浸けるつもりではあるまいな。
「野菜と鶏肉と、あとは小麦粉と牛乳と、バター、塩胡椒にコンソメ、くらいかな。あるもの、ある?」
作る手順を頭の中でざっと再生して、必要なものを挙げてみた。
「冷蔵庫にバターはあったかも知れないですけど。え、いや、売ってるシチューのルーみたいなの、使うんじゃないんですか」
「えー、まあ、それでもいいけど、それもう、ルーの箱の裏に書いてある手順通りに野菜切って煮て、ルー溶かしてお仕舞いだよ?」
あたしは最初におかーさんから、小麦粉と牛乳から味を調える手順で教わったから、初めてスーパーでああいうルーの箱を手に取った時には、その簡単さにびっくりしてしまった。しかも、試してみたら、それはそれでそこそこ普通に美味しく出来る。ちょっと、色んな味がし過ぎることに違和感はあったけど。
「その、簡単なのがいいんじゃないですか」
「かも知れないけど」
うーん、と思う。出来るだけ簡単にしないと、自分で作らないだろうからな。本当に伝えたいことと伝えるべきもの、その途中で失われる情報とか気持ちとかの行き先は、どこになるんだろう。宇宙の隅の方に押しのけられて積もっていたり、しないのだろうか。無くなってしまうのは悲しいな、と思った。
「じゃあ、次からおとーさんが作る時はそうしてくれていいから、今日だけは、あたしの味で作らせて」
「……それは。はい、じゃあ、それで」
『じゃあ』という同じ言葉を使っているのが、二人が同じ方向に流されているみたいで、それはちょっとだけ嬉しい。
「時間、あるなら。車乗って、どっか出かけてみませんか」
「いいの?」
北海道に住んでいると、ちょっと市街地を外れた場所に出かけるのにはいつも車が必要で、おとーさんも引っ越して来てすぐに買って一台持っているんだけど、あんまりこの季節は乗りたがらない。道路も凍って滑るし、あと、なんか雪道はやたら渋滞に巻き込まれることが多いからだそうだ。だから、この季節しかおとーさんのところにいないあたしがおとーさんの車に乗せてもらうのは、毎年、空港に送り迎えしてもらう時くらいだ。
「まあ、それなら、二人でどこでも行けますしね」
「うん」
頷いたつもりの返事が、なんか潰れたみたいな声が出てしまった。
「どっか、行きたいとこ、ありますか」
「夕ご飯の買い物、とかじゃなくて、いいんだよね」
「ええ。遠くても」
行きたいところと言われて、あたしは窓の外に目をやった。灰色の空から白い雪が相変わらずしんしんと降っている。見るからに積もりそうな雪だ。そういうのは、なんか、分かる。
「雪の降らない星、かな」
「……分かりました。車、暖めてきます」
カーポートにいるおとーさんに呼ばれて向かうと、あたしはいつの間にか黒い長袖のカーディガンを羽織っていた。この季節の北海道の外套としては全然心許ないんだけど、可愛いから別にいい。
久しぶりに見た、おとーさんの普段のイメージからは想像もつかないパールピンクの、小さくてちょっとぼってりとした自動車は、少しだけ雪泥で汚れていた。
「最近、乗った?」
「ああ、まあ、空港、行く時に」
「ああ、そうか、そだね。ごめん」
「いえ」
おとーさんの開けてくれたドアから助手席に乗り込む。そのあたしの後ろから、いつの間に取りに行っていたのか、おとーさんがダッシュボードにフォースターくんを転がして置いてくれる。車内の、予め暖房を付けておくのと同時に点けたのだろうカーステレオのCDからは、二昔前のアイドルソングが流れていた。昔、おとーさんと一緒に暮らしていた頃に、よくこうやって車の中で聴いた曲だ。それがなんか、凄く懐かしい。キャッチーで安っぽいメロディを、小さく口ずさむ。
隣の運転席におとーさんが乗り込む。後部座席に誰かを乗せることなんかないんだろうな、っていうくらい後ろに下げられたシート。そこに座って一連の動作でシートベルトを締めてから、あたしの方に振り向いて尋ねる。
「まどかも、シートベルト、締めます?」
「別に、いいよ」
言ってから、ちょっとだけ迷う。出来るだけ普通にしたかったかも知れないな。でも、あたしのそんな思案なんか全然察しないで、おとーさんは改めてエンジンをかける。そしてアクセルを軽く踏むと、きゅるきゅると音を立てて、タイヤが派手に空回りした。こてりとフォースターくんがダッシュボードの上で傾く。
「いやいやいや」
言いながら、おとーさんは小さく一人で笑う。
「だいじょぶ?」
あたしのからかうような声も気にせずに、今度はゆっくりと踏み込むと、静かに車はカーポートの外へと鼻先を出した。早速フロントガラスに降りかかる雪を、ワイパーが振り払う。
カーステレオのCDが四周目に入った。ただでさえ軽いメロディが、更に上滑りしている。もう、休憩を挟まないまま三時間ほど車を走らせただろうか。お昼をとうに過ぎている。市街地の外れから高速道路に乗って以降は、真っ直ぐな道沿いに同じ白い風景ばかりが続いていた。雪に埋もれた道路の境界線を示す、下を向いたオレンジ色の矢印が、延々と同じ形で吊り下げられている。こんなにスピードを出しているのに、どこにも行けないんじゃないか。雪山の中を切り通すような道路は、左右を挟まれて圧迫感が覆っていた。白は膨張色、なんてつまらないことがふと思い浮かんだ。あたしのような服を着る人にとってはわりと常識だけど。
山林の、葉を落として個性を失った細い樹が、次々に後ろに流れていく。空いていて遮るものの少ない高速道路の上では風が随分強くて、前方から雪が吹きつけてきていた。おとーさんが小さくため息をついて、ライトをハイビームに切り替える。あたしたちはいつからか言葉少なになっていた。おとーさんの表情も、なんだか険しい。
また一つ、読み方も分からないような地名ばかりが並ぶ表示板を追い越した。おとーさんが運転しながら片手でカーナビの地図の表示域を広げて、あたしたちがどこまで来れたかを確認する。カーナビの画面から知らない地名が消えて、北海道の全域が映し出された。ここまで随分来たような気もしたけれど、この広い北海道の中では、全然大した移動距離に見えない。それに、北海道は衛星写真では雪のない緑の島になっていて、なんだか騙されているような気になる。本当はあたしたちは、書き割りの中を走っているんじゃないか。この季節には車の外にはもう、出られないんじゃないか。黙っていると、そんな気がしてくる。馬鹿げた考えを振り払うように、カーナビの表示を戻してあたしは沈黙を破った。
「ねえ、どこ、向かってるの?」
運転してるおとーさんに視線を向けないままにあたしが訊いたことは、随分今更なことだった。
「南」
「どのくらい?」
「ずっと」
そっけなく、それだけを答えられた。規則正しい、ワイパーの駆動音。変わらない風景。それ以上のことは訊けないくらい、おとーさんの表情は険しかった。でも。ずっと南まで行くなら、それでもいいよ、と心の中で思った。遠くなら、遠くの方がいい。疾く疾く急げ。雪の降らない星。カールーフの向こうの雪雲の向こう。そこまでは見たことがあるな。死んだ時の飛行機の窓から見た、雲を突き抜けた向こうの青空を思い出す。あたしは、祈るように手を組んだ。合わせて、いっそう強くアクセルが踏み込まれる。
だけどその時、カーナビの地図がポンという電子音を立てた。目をやると、数十キロ先の地名と一緒に、『地吹雪のため通行止』の文字がポップアップされている。おとーさんも気付いたようで、苛立たしげな手つきでステレオを地元のFMラジオに切り替えると、やがて流れてきた交通情報も、同じことを伝えてきた。
「クソがっ!」
おとーさんが、珍しく怒った表情で、片手でハンドルを叩いた。少しだけ車がコントロールを失って揺れる。
「危ないからさ」
「……すいません」
長い息を挟む。あたしたちは、やっぱり、どこにも行けなかった。
「一回、休もう?」
カーナビによると、少し行ったところにパーキングエリアがあるはずだ。遠くに表示が見えないかと目を凝らしてみるけれど、強くなりつつある雪のせいで、そう遠くまで通すことは出来ない。
高い丘のような開けた場所にあるパーキングエリアの、がらがらの駐車場に雑に車を入れて、そのままおとーさんはシートを完全に後ろに倒して寝転んだ。
「あたしのも」
言ってあたしのシートの下を指さすと、億劫そうにもう一度起き上がって、あたしのシートも倒してくれる。そうしてもう一度寝転び直して、顔を覆うように腕を伸ばした。
「……逃げ切れませんでした」
腕の下から呻くように、おとーさんが呟いた。
「駄目だったね」
あたしは笑いながら答える。そんなに悪い気分じゃないのが、自分でも不思議だ。
「なんで、ですかね……」
「なんでだろうね?」
「分かんない、ですけど」
助手席の曇った窓ガラスの向こうには、何か公園のように開けた雪原に、樹で出来た遊具の先端だけが飛び出ているのが見えた。だだらにある自然に任せたような、大ざっぱな作りの場所だった。その中を、吹きすさぶという言葉が似合うような強い風が、塊みたいな雪を巻き上げている。スノウドウムを振り回した直後みたいだ。道理で雪は降り止まないし何処にも行けないわけだ、とあたしは独りごちる。更にその雪嵐の向こうはやけに見晴らしの良さそうな展望台になっているけど、そこに辿り着くまでに、雪の中に溺れてしまいそうだ。
「あっち側って、なに見えるの?」
「南側だから、もう海ですよ」
「太平洋?」
「繋がってるって意味では太平洋ですけど、南側の凹んでる部分の片側なんで、向こう岸も北海道です」
さっき見たばかりの、北海道の地図を思い浮かべる。
「つまらぬ」
「ほんとですよ、もう」
おとーさんは、また大きな溜息をついた。そして「ああもう、トイレ行ってきます」と言って、ゆっくり伸び上がるように身体を起こす。
「ああ、うん、そっか、外、出れるんだよね。うん、お土産買ってきてね」
「どうですかね、なんか、北海道のパーキングエリアって、全体的に小さいんですよ。お土産買うとことか、あるかどうか」
あたしの軽口にも真面目に応じてくれるおとーさんが、ちょっと可笑しい。
「気をつけてね」
ドアを開けた途端に、おとーさんの息が白くなる。ポケットに手を入れて小走りで駆けていく背中を、なんとなく眺めていた。
戻ってきたおとーさんにお土産として手渡されたのは、よく分かんないキーホルダーだった。なんか、この辺の有名な和菓子を擬人化、というかキャラクター化したものらしい。お菓子の名前からしてお芋が原材料なのだろう、茶色く揚げたお菓子の表面に、デフォルメされた表情が描かれている。
「何これ」
「なんか、これか、この元ネタのお菓子しかなくて」
そう言っておとーさんは、一つ単位でビニールに包装されている、小さなお菓子を幾つか取り出した。確かにこのキーホルダーと同じ色をしている。
「そっちくれればいいのに」
「食べられないじゃないですか」
「そだけど」
そうじゃないのだ。意に介せず、おとーさんは取り出したそのお菓子をそのまま口に放り込む。
「お芋って、じゃがいも?」
「これ、サツマイモですね」
「この辺、獲れるの?」
名産なら、シチュー用に買っていってもいいかも知れない。季節もズレてるし、そんなの戻ってから買っても一緒かも知れないけど。
「薩摩ってくらいですからね。北海道産ではないと思います」
「なんじゃそりゃ」
脱力してしまう。
「おいしい?」
「ぱさぱさしてます」
「いつものアレと一緒じゃん」
そう切り捨てるように言いながら、あたしはちょっと嬉しくなっている。細かく色んなことを訊いてると、まるで自分が食べているみたいだ。
食べ終わった手をハンドルにかけて、今度はおとーさんは、前にぐったり身体をもたらせかけている。
「ここまで、来たね」
車内から見える限りの遠くの空を見ながら、あたしは言った。降り止まない雪は、灰色の空から垂れ下がる白くて厚い緞帳のようだった。本当に、悪い冗談みたいだ。
「どこまで、ですか」
呆れたような拗ねたようなという声で、おとーさんが答える。
「しょうがないくらい、遠く」
「そう、思います?」
「思うよ」
向けられたままのおとーさんの背中に手を這わせる。しょうがないな、と思う。しょうがないことは、いっぱいあるのだ。
「分かんないんですよ、自分のやれたこと」
「うん。でもね、えっと、なるようにしかならないし、出来たことしか出来なかったよ。きっと」
出来ることを増やしておくことは、出来たのかも知れないけど。でもそういうのは、何か一つのために予めやることではない、と思った。だから、一つ一つのことは、全部しょうがないのだ。
「帰ろ?」
背中を撫でていた手を翻して、そのままぽんぽんと叩く。あたしに体温は無いけれど、冷たい雪よりも優しくしたいと思った。
帰り道の車中、あたしは意識して他愛ないことを喋り続けた。最後に行った動物園の話とか、青ちゃんの好きな人の話とか。いつ終わってもいい話だし、いつまでも続けられるような話だ。BGMとして繰り返し流れ続ける古いアイドルソングのように。始まりと終わりのない、降り続ける雪のように。
「まどかには、好きな人とか、いなかったんですか」
「んー? いや、微妙かな」
青ちゃんによると、男の子に抱く、こいつムカつくなとか馬鹿だなとかいう気持ちを、ちゃんと温めてから一つのカップに注いで集めると、それはとても大切な人を思う気持ちになるらしい。それを言われた時はぴんと来なかったけど、そういうことがあたしにもようやく分かったのは、ここ数日のことだ。だから、例えばあのクラスの馬鹿な男子たちの中からも、ちゃんとゆっくり見てやっていれば、そう思える奴も出てきてたのかも知れない。
「まあでも、この人が好きってのは、いなかったよ」
「そうですか」
安心したように、おとーさんが笑う。馬鹿だな、と思う気持ちが、あたしの中にまた一滴、ぽたりと溜まった。
家に戻る頃には、また陽が落ちていた。この季節は、少し気を緩めると暗くなっているな。おとーさんが、家に置いたままにしていた携帯のアラームをセットして、火を入れたストーブの前で寝転んだ。
「二十分だけ、寝かせて下さい」
「起こす?」
「いつもなら起きれますけど、寝過ごすようなら」
「うん」
腕を枕にして、苦しそうに息を吐き出してから、電池の切れるように眠りに落ちた。それを確認してから、感触のないはずの手で、あたしはおとーさんの硬くて短い髪を撫でた。遠いどこかで、時間が流れていた。例えば、おとーさんの枕元に置かれた携帯電話の中。例えば、おとーさんの首元で脈打つ血管。あたしはそこに、静かに爪を立ててみる。ぐっと爪を押し込んでも、その脈は乱れない。
これもいつかおとーさんに聞いた話なのだけれど、今の時計は大体、どこか遠くでちゃんと測った時間を、電波とかインターネットとかから受信して、それを正確な時間として合わせているらしい。窓の外を見る。さっきの山の中と比べればずっと勢いは弱くなっても、それでも雪は降り止まない。あたしたちは、またこの部屋の中に二人でいる。こんなに閉じた世界なのに、どこからか時間が飛んでくるのが、凄く寂しいと思った。
そして、たぶん二十分後、おとーさんは携帯電話のピピピピという電子音に驚いたように身を起こし、頭の下に敷いていた右腕を、痺れを振り払うようにぐっと下方に伸ばす。そのまま、噛み殺しきれない大きな欠伸を漏らした。
「寝ました」
「見てました」
あたしはふんわり笑って、おとーさんは照れたのを誤魔化すように笑みを浮かべる。
「すいません、なんか、時間、使っちゃって」
「全然。もったいなくなかった。疲れ、とれた?」
「まあ、そうですね」
そう言うのなら、とあたしは思う。外から見て取れるものより、言葉の方を大事にしてあげたい。飛び上がって、ぺしぺしとおとーさんの右腕を蹴りながら言った。
「じゃ、ご飯の買い物、行こ」
ちらちらと舞う雪の向こう側に、墨で描いたような朧気な月が滲んでいる。
近くのスーパーの野菜コーナーで、ネットに入った玉葱を手に取るおとーさんの後ろに飛び上がって、肩の上から覗き込む。
「安いし」
この辺の野菜コーナー全般にも言えることだが、特にこの玉葱は安い。東京にいた頃と比べると、値段が三割くらい違うだろうか。
「これ、自炊した方が絶対いいよ」
この値段だったら、ちょっと手間をかけても全然元が取れるはずだ。何も聞こえていないふりをしながらおとーさんが、ポケットから携帯電話を取り出して、画面に文字を打ち込んでいく。身を乗り出して覗き込むと、その画面には『めんどくさいだけで、別にお金の問題じゃないですから』と表示されている。他の人の前で自然に会話出来るように考えたのが、この携帯電話を使ったやり方だ。
「かもだけど」
答えながら思うけれどしかし、おとーさんが携帯電話に文字を打ち込む速度は凄い。片手で携帯電話を支えて、画面の上に回した親指を滑らせるフリック入力は、なんか、入力画面がおとーさんの手に合わせて作られたみたいな自然な滑らかさで、ぱぱっと打ち込んでしまう。あたしもおとーさんと同じ機種を使っていたけれど、外国製のその携帯電話は手の大きさも外国人向けに作られているみたいで、そもそもあたしには片手で持って入力することすらままならなかった。あたしは指を伸ばして、おとーさんの持つその携帯電話を突いた。もちろんあたしの半透明の指には反応しない。諦めて指を離したところでおとーさんが、またとんとんとリズム良く文字を入力していく。
『せいでんようりょうほうしきはゆびさきのもつゆうでんりつが、』
そこまで一気に入力したところで変換候補を探るが、この機種特有の文字変換の拙さに一瞬指が止まる。そこをあたしは、
「聞いてない」
言いながら、今度はその指で、おとーさんの頬を突いて撫でた。鬱陶しげにしながらも、周りの目を気にして素知らぬ顔をしているおとーさんを見て、少しだけ気が晴れる。
玉葱、ジャガイモ、人参、南瓜。携帯電話に予め入力させておいたチェックリストを見ながら、書いてある野菜を、律儀に上から順番に買い物カゴに放り込んでいく。既に四分の一にカットされた南瓜の、鮮やかな黄色が目を惹いた。そのままおとーさんは、チェックリストの次に書いておいた、お米のところに向かおうとする。
「重いの、後にすれば」
買い物リストは、あたしが思いつくままに書き出しただけのものなんだから、お肉とか調味料とか、軽いものから集めた方が楽なのに。そもそもあたしにしてみれば、カートを使わずにカゴを直接持ち運ぶ意味も分からないけど。おとーさんは、買い物カゴを持つ手と逆の手で携帯電話を操作して、またあたしに見えやすいところに持ち上げてくれる。
『別にいいんですよ』
「……いいなら、いいけど」
軽く宙に跳んで、広がったワンピースのスカートを膝裏に手をやって伸ばしながら、おとーさんの持つ買い物カゴの端に腰掛けた。長いブーツを履いた足を、ぶらぶらと放り出す。ほんとは、カゴの中に座れたらもっと可愛かったのかも知れないけど、さすがに入れそうになかった。
お米、小麦粉、鶏肉、塩胡椒、コンソメ、牛乳。買い物カゴを揺らしながら、次々に材料を集めていく。ちょっとずつ要るものを全部買うと、相当な量になっている。全部をシチューで使い切ろうとすると、八皿とか十皿とか作れてしまいそうだ。
「食べきれないぶん入れておく、タッパーみたいの、あったらいいかも」
一度に作って凍らせておけば、めんどくさがりでも食べれるだろう。
『こういうスーパーで、売ってるもんですか?』
「訊く前に探す」
あたしはそう言いながら、買い物カゴを軽く蹴って、スーパーの高い天井近くへ飛び上がった。思わずおとーさんが立ち尽くして、何もないはずの天井に目をやってしまっているのが下に見えた。
ぐるりと見回すと、そういうのがありそうな雑貨コーナーは、陳列棚を二つほど越えた向こうにあった。そしてそのまま宙に浮いていると、色んな人の買い物カゴの中身が見えた。凝った香辛料を買っているOLさん。惣菜を見比べる中年のおばさん。鍋の材料を買い集めている大学生くらいのカップル。それぞれが、自分の家に持ち帰る何かを探している。その向こうに、この季節の雪の街に潜んで、各々の家の中で炎を燃やしている姿を思い浮かべて、あたしはなんだか嬉しくなってしまう。星空みたいだと思った。高く浮いているのはあたしの方なのに。なんとはなしに、片手を伸ばす。
おとーさんが、重さを二つのビニール袋に分けて、両の手にそれぞれ携える。スーパーの自動ドアを抜けると、驚くことに雪が止んでいた。雲のない夜空が見える。雪が降っていないと、橙色の街灯がやけに明るく感じられる。
「雪明かり、ですね」
周りに誰もいなくなったのを確認して、おとーさんがあたしに直接口をきいた。言葉と一緒に吐き出された白い息が、中空に残る。
歩道を車道が横切るところは、タイヤ跡で地面が凍っていて、不用意に歩くととても滑る。そういうところを歩く時のおとーさんは、なんかひょこひょこリズミカルに歩いていて、傍から見ているとちょっと笑える。こっちに来て何年目かに、自然と覚えた雪道の歩き方だそうだ。二年前に来た時は、それを笑いながら歩いていたらあたしが転んだ。氷の上で転ぶと、恥ずかしい上に打撲として地味に痛い。それに膝が紫色に腫れると、しばらく短いスカートも履けなかった。だから去年は、おとーさんのすぐ後ろを歩くようにしていたのだ。それで、滑るたびにおとーさんが羽織るPコートの裾に掴まっていた。最終的には、おとーさんが油断してる時に引っ張って転ばせようとする遊びみたくなっていたけど。それはそれで楽しかったし。そう思いながら、今年は、半透明の左手をおとーさんの右手に重ねる。重たい買い物袋を支える手伝いは出来ないけれど、それは仕方ないことだと思った。
「仕方ないんだ」
実際に口に出してみた。あたしの口からは、白い息は漏れない。幽霊だから仕方ないけど。
「何がですか」
「消えること」
家に帰ってシチューを作って食べて、最後の宿題をこなして、服を燃やしたら、あたしはそれで消える。
「まどかは、それでいいんですか」
「よく分かんないけど、」
おとーさんの口癖が伝染ったみたいだなと、自分で思う。
「やりたかったこと、というか、やってみたかったこと、みたいのは一杯あったけど。でも、それは、あたしのやること、あたしの仕事じゃなかったんだな、って。今は思う」
ゆっくり、考えながら言葉を選ぶ。ずっと昔からあった、どこか遠くで操作されている感覚。
「なんか、嬉しいこととか好きなこととか、幸せなこととか、生きてるうちにも沢山あって。幽霊になってからも一杯あったけど。でも、それが意味あることかどうか、よく分かんないんだ。あたしが幸せなことが、あたし以外の人にとって、何の意味があるのかな。最後にあたしが消えるんだったら、そのあたしが幸せだったかどうかとか、誰に関係あるのかな。違う。他の誰かじゃなくて、あたしにとって、意味はないんだ。ねえ、失ってからでないと気付けないなら、幸せなんてものに意味はあるのかな?」
言いながら急に、お葬式の時の青ちゃんの、遺影のあたしを睨みながら流していた涙を思い出した。
「生きてるだけで、やなこととか苦しいこととか悩むこととか、他のもっと大変な人たちに比べたら全然大したことじゃないかも知れないけど、あたしにもあって。なんか、嬉しいこととかより、そっちの方が、ずっと、何をするにも付き纏ってきているみたいで。一瞬、嬉しいこととかあっても、嬉しいだけのことに意味はないから。そんなことのために、苦しいの頑張り続けるのは、つらいよ」
客観的に見て、あたしほど幸せに、我が儘に生きてきた女の子も、そういないんだろうと思う。でも、そのことの意味は、最後まで分からないままだった。たぶん、そういうことなんだと思う。言いたいことを吐き出すと、なんとなくおとーさんから手を離して、おとーさんの前に背を向けてふわりと浮いた。そのまま、満月に手を伸ばす。
「届かない」
ここではないどこかに、行きたいと思った。北海道だからって、このくらいの街灯りがあると、星の多さはそんなに東京と変わらない。
「まどか」
「何?」
振り向く。
「おっきく、なりましたね」
「もうすぐ、届くと思うんだよね」
そう言ってもう一段階、宙を蹴って高い空へ飛び上がる。飛び上がった分だけ一メートルぶんだけ月が近くなったはずだけど、見た目は全然変わらなくて、ちっとも近付けた気がしない。あたしが逃げれば逃げただけ、着いてくる癖に。
「……行かないで、下さいよ」
そう言っておとーさんは、あたしの足下で、生欠伸を口で覆った。あたし自身もなんか昔からの癖で、泣きそうになると誤魔化すように欠伸が出るんだけど、それって遺伝だったんだな、と今更ながらに思った。地表に戻って、おとーさんに顔をぐっと近付ける。視線は合わない。
「死んだ人は、どこに行くんだろうね?」
幽霊が問うには滑稽な質問だと、自分でも思った。おとーさんは、無言のまま、あたしの言葉に耳を傾けている。
「たぶん、どこにも行かないけど。消えて、それで終わりだけど。でも、またどっかに行かされたとしても、たぶんあたしなら、どうにでもなると思うけど。でも、きっと、消えてお終いだよね。消えるって、どんな感じなのかな。ねえ。痛いのは、やだかな」
思いつくままに、歌うように述べあげた。おとーさんが下唇を噛んでいる。
「でもまあ、それで全部消えて、終わるなら。あたしが痛かったことすら、なくなるなら。最後くらい痛くても、別にいいけど」
そういう意味では、あたしが肉体を失った時にいつの間にか死ねていたのは、凄く幸せなことだったのかも知れない。なんなら幽霊にもなれたわけだし。あたしはおもむろに、おとーさんから顔を離した。
「それは、俺がまどかを覚えてるとか、そういうことじゃないんでしょうね」
「違うよ」
それは、おとーさんの人生の話だから。
「でもそれで、少しでもおとーさんが悲しくなくなるなら、覚えてて欲しいかな、あたしのこと」
なんだか急に、涙が零れそうになった。欠伸がこみ上げてきて、目の後ろをぎゅっと絞られるような感じが訪れる。
「そんなのって、ないよね。ごめんね。一生懸命、生きようとしないで、ごめんね」
死んだ時のことは、ちょっと記憶がぼんやりしている。自分がなんで死んだのかも、よく覚えてない。でも、あの時、包まれた幸せのあまりに、自分が何かを手放したような気がするのだ。それはきっと、今までのあたしの人生の中でやった我が儘の中でも、一番やっちゃ駄目な我が儘だったんだ。
「まどか」
一度は離れたあたしを、おとーさんがまた近くに抱き寄せる。
「帰ろう?」
帰って、家の扉を閉ざして、またストーブに炎を点そう。この季節に浮かぶ、星空の一つになろう。
「だって、ここは、寒いよ」
あたしは、おとーさんのコートの、メルトン生地に頬を擦りつけた。
あたしは台所のシンクに突っ伏して、向こうの洗面台でおとーさんがあげる水音を聞いていた。家に入るとそそくさと買い物袋を置いて、手を洗ってくるとか言っていたけれど、たぶん顔を洗って腫れた眼を隠してるんだと思う。ずるい。バッグに入っていた半透明のハンカチで、あたしは眼をくしくしと拭った。
改めて台所を見回してみる。去年も使ったから、大体どこに何が入っているかは知っている。一人用の大きさの冷蔵庫の上に、オーブンレンジ。去年はあの電子レンジを使うのに椅子の上に登ったけれど、今年は中を覗き込むのも一っ飛びだ。なんなら、その電子レンジの上に座ることも出来る。ドアは開けられないけど。
「待たせました」
玄関に置いておいたビニール袋をまた両手に下げて、おとーさんがやってくる。もう、いつものラフだけど温かそうな部屋着だ。あたしは、わざと何も答えないで、てきぱきと指示を出す。
「お米を研いで水に浸す。計量カップはそこの引き出し。その前にお米の袋開けるのに、ハサミ要るかな」
「なんか最近、お米は研がない方が美味しく炊けるって聞いたんですけど」
「嘘じゃないかも知れないけど、洗うくらいはした方がいいよ」
「そうですか」
素直に引き下がって、居間にハサミを取りに行く。もちろん、この家にキッチンばさみなんてものはない。
「水に浸すっての、なんか北海道では『うるかす』って言うらしいですよ」
「ふうん」
去年も聞いた。
「南瓜をラップして電子レンジにかけて柔らかくして、その間にジャガイモとかの皮を剥く」
あたしが指示しておとーさんにその通り料理させるこのやり方は、楽しいけどもどかしい。普段だったら考えないで思いついたままにやっていることを、いちいち言葉にして説明しなくちゃいけない。
「あー、ごめん、ジャガイモ剥く前に、ボールに水溜めて。で、剥き終わったのをそこに入れてくの」
「はあ、はい」
「えっと、確か、色が変わるのを抑えるのと、灰汁抜きの効果があるんだ」
「なるほど」
なんか、いちいちちゃんと理屈を説明すると、汲む水の量とか、おとーさんの動きから目に見えて迷いがなくなる。まあしかし、ジャガイモを水にさらすのなんか、普段だったら洗うついでに流れでやっちゃうから、指示するのを忘れていた。実際に料理する目線で動いていないから、あたしの気付けないうっかりみたいのがあって、まだたかが野菜の皮を剥くくらいしかしていないのに、凄く疲れる。包丁を操るおとーさんの背中で、電子レンジが鳴った。
「南瓜は、種を綿ごとスプーンで取って、捨てるかな」
「あれ? 綿って普通、食べないんですか?」
「シチューには入れないけど」
いかにも食物繊維って感じのあの食感がシチューに溶け出すのは、ちょっと合わないはずだ。
「でも、おかーさんの煮付けには、ちょっと残ってたね」
「でしたかね」
とぼけたと言うよりは本当に思い出せないかのように、首を捻っている。でもきっと、南瓜の綿を捨てるといった時のおとーさんの小さな驚き方からして、おかーさんの作った料理の味も、どっか記憶の奥底には残っているのだろうと思う。うし、と小さく呟いて、あたしはちょっとだけ気合いを入れ直した。
「最後に、もっかい塩胡椒で味を調えるんだけど」
お鍋は、台所から薪ストーブの上に移動させて温めている。買い物から戻ってから、悠に三時間は経っているが、ようやくここまで漕ぎ着けた。なんだか達成感で一杯だ。お米はとうに炊きあがって、保温に入っている。おとーさんがおたま持ってる姿が、落ち着いて見ると面白い。
「まどかは普段は、ここでどのくらい塩胡椒、足すんですか」
「え? いや、味見て、適当に。毎回違うよ」
「……環境や素材をパラメータにすると、例えば沸騰温度とかで水分の量が変化して、味の濃度が変わるとか。だったら複雑系過ぎて、考えてもしょうがないか」
首を傾げるおとーさんの、おたまを握る手を蹴った。
「適当に。自分の食べるものなんだから、好きにしていいの」
「それ、俺が、好きにやって、いいんですかね」
「あたしには出来ないからね」
「そうですか」
そう言って、火を止めた鍋を深くかき混ぜてから、おたまに掬って味見する。南瓜の黄色にうっすら色づいた、とろみのあるシチューになっていて、見た目からは失敗しているようには見えない。まあ、変な工夫をしないで手順通りに作ったら当たり前だけど。
「あっつ」
「どう?」
「……ああ、シチューって、こんな味でしたね」
しみじみと呟いている。
「そういうことじゃなくて」
「熱いことすら一つの味のような、乳製品の香りと、南瓜の甘み」
なんじゃそりゃ。
「野菜、ちゃんと柔らかくなってる?」
おとーさんが、底の方をもう一度おたまで掘り返して、煮崩れしてないジャガイモを取り出した。大きい。一口サイズに切ると教えたら、あたしの思ってたより一回り大きく切り揃えていて、ちょっとびっくりしたのだ。その分、野菜を煮込む時間をあたしのレシピよりちょっとだけ長くしたんだけど、ちゃんと柔らかくなってるかね。そのジャガイモを小皿に出して、おたまで潰す。
「大丈夫そうだね」
「ですかね」
そう言いながら、おとーさんの顔は少し得意げだ。あたしも、自分の頬が緩みそうになるのを、心にしまう。
「えっと、じゃあ、もう今日食べないぶんは、タッパーに分けようか」
手癖で覚えてた作り方が四皿分だったからその通りに作ったけれど、一人で食べたら四食分だ。牛乳を入れてるから、ほっとくとシチューはこの季節でもすぐ腐る。
「明日のぶんくらいは冷蔵庫で、まあ面倒じゃなければ、食べる前にもう一度、火、通して。それ以外は冷凍かな」
「一回凍らせた野菜、好きじゃないんですよね」
分からなくはないけど。凍らせた野菜は、なんかスカスカな感じがする。
「細胞壁が破れるんだっけ」
なんか、そんなことを生物の時間に聞いた気がする。
「ああ、そうかも知れないです」
「本当に嫌だったら、ジャガイモは潰しちゃった方がいいかも」
「……まどかは、なんでも知ってますね」
「おかーさんだって、なんでも知ってたよ」
意外と、色んな人が色んなことを知っているものだ。その知識を使える場所が限られていることも知っていただけだ。そんなこと、科学者以外はみんな知ってるけど。
「なんか、移すお皿、ないの?」
「洗うの、めんどいですし」
作ったとこから今日食べる分のシチューだけを残した鍋に、炊飯器から一合分の炊きあがったお米を無造作に投げ込んでいる。この鍋から直接食べるんだそうだ。付け合わせのレタスのサラダも、水に晒すのに使ったザルをそのまま使うらしい。
「見た目も料理、なんだけど」
特にあたしは、傍から見てることしか出来ないのに。
「だったら、これが俺の手料理なんでしょうよ」
「そうなのかな?」
首を傾げながらも、別にいいかと考えてるあたしがいる。あたしがおとーさんと一緒に作って、覚えて欲しかったもの。
「まあ、冷めないうちに、食べたらいいよ」
「そう、ですね」
おとーさんが、南瓜で黄色く色づいたシチューの中に、木の匙を刺しこむ。掬ったその匙にあたしは一息吹きかけるけど、湯気は揺らめかない。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした、まあ、あたしが言うことじゃないね」
でも、悪くない気分だ。
「そだ、レシピ、ちゃんと順番に言うから、メモして」
「ああ、そう、そうですね」
あたしが、レシピの文量とか気をつけるとこを順番に挙げると、おとーさんが近くにあったシャープペンで、それをメモしていく。メモは何故か縦書きだ。メモが書き上がると、おとーさんは自室にあったデジカメでそれを撮った。
「そこまでするほどのものでも、ないよ」
「かも知れないですけど」
「それより、自分で何回も作った方が、覚えると思うし」
おとーさんの背中を抱きかかえるように座って、デジカメの粗い液晶に映るあたしが教えたレシピを覗き込みながら、そのカメラを支えるおとーさんの手の上に、あたしは自分の手を被せる。
「作ってく内に、自分でアレンジしていく部分もあると思うし」
「だったら、尚更ですよ」
おとーさんが、優しくて低い声を出す。カメラの無線機能みたいのを使って、そのメモの写真をパソコンに送信している。あたしという存在もあやふやなもの、その残滓の一つでしかないメモをずっと取っておきたいと思う気持ち、でもそれはデジタルカメラのデータで構わない、という割り切り。その、理屈では説明出来てないあやふやな部分に、けれど明確に引かれている境界線。
炎を焚き続ける黒いストーブの前で、半透明のあたしは既に、全裸のままで俯せに寝そべっていた。枕元に転がっている、フォースターくんを両腕で囲う。もう、あたしの着ていた服は燃やされて、煙になっている。その一部が、この、あたしに背を向けてストーブに火ばさみを入れているおとーさんの肺に吸われて脳まで届くのだと思う。なんか、あんまり実感のなかったまま燃やされたあたしの本当の身体より、大好きだった服が燃やされている今の方がずっと、自分が燃えている気がする。
「さて」
しばらくぶりにあたしが口を開くと、おとーさんがゆっくりと振り向く。もう、あたしが裸でも、目を逸らしたりはしないみたいだ。
「もう一つ、最後の宿題があるんだ」
「ああ、あるって、言ってましたね」
「簡単なやつ」
「ええ」
「あたしの仕事」
「なのでしょうね」
息をついて、まあ、いいか、と思う。
「いや、最後に引っ張っといて、全然簡単なことで、なんでもないことなんだけど」
「なんでも、いいですよ」
おとーさんが小さく笑う。あたし達はお互い、色んなことを諦めて、色んなことを赦しあっているのだ。
「あの、さ。先生が、えっと、自分の名前の由来、訊いてこいって」
「はあ、名前の、由来」
「あたしは、なんで、まどかっていうのかな?」
そう言いながらあたしは、フォースターくんを一度強く抱いて頭を押しつけてから、おとーさんの方に目をやる。おとーさんはあたしの意図を汲んでくれて、そのフォースターくんを静かに火にくべた。あっという間に火に包まれて、あたしは涙が出そうになる。振り向いたおとーさんは、胡座をかいて、寝そべったあたしに少しだけ目線を近付けてくれた。
「まどかという名前は、漢字を当てれば、一円二円の円という字になります。まる、ですね」
くるりと、持っていた火ばさみで、宙に円を描く。
「うん」
そこまでは知ってる。
「それが、すごく綺麗だと思って。えっと、物理には対称性ってのがあって、それが高い方が色々なことが計算しやすいんですけど、二次元空間に埋め込める一次元コンパクト空間としてはやっぱりエスワンが一番綺麗だし」
「……そのエスワンってのが、円なの?」
「ええ」
なんだかな、という笑い出したい気持ちと、まあ、間違いなくおとーさんが、おとーさんなりの意味を篭めて付けてくれた名前なんだな、というのが分かって嬉しい気持ち。訊いてよかったな、と思う。
「男の子だったら、同じ字を書いて、ゆういちと読ませてましたね」
「何それ?」
「ああ、ほら、ユーワン対称性」
さも面白いアイディアを言ったかのような顔をしている。ゆっくりと身体を起こして、馬鹿だな、という気持ちを込めて、おとーさんを蹴る。何回も、何回も。
「そろそろ、消えるよ」
座っているおとーさんとストーブの間に身体を入れて、炎に背を向ける。おとーさんの背中の向こうに、壁に掛かった時計が見えた。九時を、ちょっと過ぎた辺り。でも、外のことは、もうどうでもいいと思った。
「そう、ですか」
「あと、色々お願いね。借りてた本とか。返せなかったけど」
「それは、まどかのじゃなくて、俺の仕事、なんでしょうね」
「多分ね。あと、さ」
「はい」
「おかーさん、浮気してるよ。隠してるけど」
「はあ」
「いいの?」
「いいって言うか、俺に観測出来ないことは、やっぱりどうでもいいですよ」
「……知ってる」
二人で、笑う。あたしたち二人を囲んで、炎が燃えている。それ以外は、全部外側だ。そこで、家のチャイムが鳴った。でも、おとーさんもあたしも気にしない。
「じゃあね」
おとーさんに背を向けて、扉が開いたままのストーブに一歩、踏み出す。手を差し伸べて指先がその炎に触れると、燃え移るかのように、半透明の炎があたしの身をくるんだ。熱いとか息苦しいとかいうことはない。でも、これであたしは消えるのだ。もう一度振り向いて、おとーさんの顔を見る。苦しくなさそうなあたしの表情を見て、おとーさんも安心したような顔をする。
「ねえ、おとーさん。あたしのこと、愛してるって、言って」
「愛して、ますよ」
「そうなんだ?」
聞き返す言葉を宙に残してから、あたしはそのまま目を閉じた。自分の半透明の身体が、どこまでも広がっていく気がした。
眠りに落ちる寸前に見る夢みたいに、言語化しないままにイメージだけで無軌道にころころと転がっていく、自分の思考を追いかけていった。最初は自分が死ぬことについて思いを巡らせていたはずなのに、ルールの無いモノクロの連想が次々に現れては形を変えていった。その先でふと、自分には立ち戻るべき自分がないことに気が付く。夢から覚めたみたいに、その瞬間、流れ出すように自分というものを失った、喪失感だけがあった。それ以外には何もない。そして、電源が切れるように、それすらも消えた。
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