3

 この季節の北海道の長い夜がようやく明けようとする頃、カラスの鳴き声に混じって、外からカモメの鳴く声が聞こえた。海が近いわけでもないのに、この街にはカモメが住み着いている。前におとーさんに聞いた話では、カモメがこの街に見られるようになったのは、ここ十年くらいの話らしい。繁華街の生ゴミとかを漁って生きているそうだ。少なくとも、おとーさんがこの街に住むようになった頃には既にいた。だから、あたしにとっては、このカモメの鳴き声と、北海道で迎える五番目の季節の白くて眩しい朝の肌を突き刺すような冷たさは、一セットだ。それは、熱さも冷たさも分からなくなった、この体になっても同じ。

 夜通し話しかけていた枕元の置き時計とフォースターくんをそのままにして、あたしは体を起こす。自分では開けられない天蓋のカーテンを避けて、ベッドの外に出た。裸だったあたしの体はいつの間にか、昨日のうちから着ようと思っていた服をちゃんと纏っていた。長袖の青いパーカーのフードには垂れた犬耳が付いていて、その前面にも大きく犬さんがプリントされている。その下は同じ柄と色をした大きなスカートだけれど、パーカーなぶんだけガーリーで、昨日の甘さと対照的になっているはずだ。そんなことを思いながら、自分で使った『はず』という言葉が、誰かの視線を意識しているみたいで、あたしは小さく笑ってしまう。そのまま居間を抜けて、おとーさんの寝室まで飛んでいこうとしたのだけれど、その寝室の扉は閉ざされていた。

「七時キック!」

 いつもおとーさんを蹴る時のと違って、あたしに篭められる全力で、おとーさんの部屋のドアを蹴り上げる。もちろん、ドアは蹴り破られもしなければ、音すらもしない。ただ、あたしに返ってくる反動だけは凄くて、あたしは真後ろにそのまま飛んでいきそうになるのを、宙で体を捻って、ようやくのところで抑える。だいぶこの体の使い方にも慣れてきた気がする。しかしこの体では、出来ることがほとんど無い。去年までは、冬休みの宿題の中に『おうちのお手伝い』なんてのがあったから、仕方なく早起きしてストーブを焚いておいてあげたり、朝ご飯を作ってあげたりしたものだけど。今年からはそういう宿題も無いのは助かる。そろそろ、わざわざ宿題に言われなくても手伝いくらいやれ、ってことなんだとは思うけど。

 することは無いけれど、またベッドに戻るのもなんなので、あたしは絵を描くことにした。絵、と言っても大したことはない、バッグから取り出した半透明の自由研究用のレポート用紙にシャープペンで描く、単なる落書きだ。そもそも、あたしに絵心はない。粘土を捏ねるのは得意だったりするんだけど。その点、青ちゃんは絵を描くのが上手くて、あたしが道端で見つけた綺麗な花とかを携帯の写真で送ると喜んでくれて、次の日に会うと、その写真を模写した絵をくれたりした。その絵は、あたしが適当に撮った写真よりずっと綺麗だったりするのが不思議だ。よく分からないけど、その上乗せされている何かが、青ちゃんの一部なのだと思う。そんなことを思い出しながらシャープペンを走らせていると、自分でも苦笑いしてしまうほど歪な顔をした青ちゃんが描けた。調子に乗って、その横におかーさんとおとーさんを描く。それから、おとーさんの頭の上に、フォースターくんを乗せる。それだけ描いてしまったら、あとはもう、あたしに描きたいものはない。これが、今あたしの持っている全部だ。ぐるっと大きな丸を描いて、それらを囲う。何周も、何周も。


「さみぃ」

 ようやく起きてきたおとーさんが、寒さに愚痴をこぼしながら、ストーブに火を入れる。どうやらやっぱり、今朝も寒いようだ。あたしは、昨日のそれとは違う柄の作務衣姿の背中に声をかけた。

「おはよ」

「ああ、おはようございます。もう宿題始めてるんですか?」

 薪ストーブの扉を閉じて振り向いたおとーさんが、さっきまであたしが描いてた絵を覗き込んでくる。

「これは違うやつ」

 下手くそな絵を見られるのが恥ずかしくて、あたしは半透明のその原稿用紙を裏返した。半透明なのに、その裏に描いた絵は見えないのは不思議だ。

「なに隠してんですか」

 おとーさんは軽く笑いながら、それでも無理矢理見ようとすることはなく、テーブルの隅に積んである、昨夜と同じ固形栄養補助食品を手に取って、そのまま封を切った。食べかすの粉が零れないように、慎重に囓っている。

「またそれ?」

「お陰様で」

 一度唾液を飲み込んでから、おとーさんは答える。やっぱり口の中が渇くらしい。

「あのさあ」

 呼びかけるあたしに、おとーさんは今度は、視線だけで答える。

「家庭科の宿題ってのがあって、旬の材料を使った料理を作るってのがあったんだけど。あたし、今のままじゃ作れないからさ」

「はあ」

「おとーさんに、教えてあげるよ。お料理。それでいいよね」

 宿題をやることに決めてからずっと気がかりだった家庭科の宿題を利用して、このおとーさんの食生活に少しでも潤いを与えようと思ったのだ。もう、傍から見てるだけでぱっさぱさに乾ききっていて、潤いが全くないし。昨夜、フォースターくんとの話し合いの中で、そう決議がとられた。

「え、なんで俺が……」

「宿題、出来ないと困るんだけど」

「それ言うの、ズルくないですか?」

「ぜんぜんですよ?」

 あたしは首を傾げながら、そう答える。実際、今の体じゃ料理は出来ないし。

「だから、あたしが後ろから見ててあげるから、あたしの言う通りに、おとーさんが料理するの。あたしが左手で野菜を押さえるって言ったら押さえて、右手で包丁を使うって言ったら切る。ざくざく」

 その場で手振りで包丁を振るって見せる。左手は猫の手。

「包丁とか、引っ越して来てから殆ど使ってないですよ。材料もないし」

「買いに行かないと有るわけないでしょ」

 左手の猫の手のまんま、おとーさんの右肩にパンチする。

「うーん、大学休んでるし、あんまり外、出たくないんですよ」

「そう、それも考えたんだけど、あたしがいなくなる前の日とかだったら、誰かに見つかっても、『今東京から戻ってきたところで、明日から行きます』って言えばいいじゃんね」

 昨日の夜にこの名案を思いついた時には、ちょっと自分でもびっくりした。聞いたおとーさんも、あたしから目線を逸らして考える。

「そうなの、か、なー……? そうなの、か」

 おとーさんは何か考えている時は、何もないところを見つめて、いつもの変な敬語の無い独り言を呟く。一人で勝手に、違う世界に行ってしまったみたいに。あたしには見えない幽霊と話しているみたいに。

「えっと、その。最終日の宿題って、結構時間がかかるものなんですか?」

「いや、すぐだよ?」

 宿題をやる順番も、昨夜のうちに決めた。最後に残すのは、一番簡単なやつだ。

「はあ。教科は?」

「そういうのじゃなくて」

「はい?」

「当日、ちゃんとやるから。冬休みの計画が、あるからさ」

「まあ、いいなら、いいですけど」

「うん」

「じゃあ、取り敢えず今日は、何の宿題をやるんですか」

「今日はあれですよ、理科」

 昨日の数学に続いて、おとーさんの得意科目だ。

「あー、理科って、まだ物理とか生物とか、分かれてないんでしたっけ」

「理科Aとか理科Bとかはあるけど、先生は一緒」

 理科の先生の顔を思い浮かべながら答えた。一生懸命教えてくれるおじいさんの先生だけど、ちょっと話が通じない時がある人だ。あたしはおとーさんで、そういう科学者には慣れてたけど。

「そうですか……。俺、星とか生物のこととか、訊かれても分かんないですよ」

「いや、なんかね、プリントとかじゃなくて、自由研究。おとーさんの得意なことで、何かやれそうなことない?」

「自由研究、ねえ。調べものか実験か、だと?」

「実験」

「はあ。俺の専門分野で、実験ですか……? そうだ、宇宙空間に加速器を建設してプランクスケールに行きましょう」

 言っている意味は分かんないけど、おとーさんが、さも自分が面白いことを言ったかのように一人で笑ってるのに、なんか腹が立つ。

「それ、あたしに出来んの?」

「やー、百年以内くらいに世界中が協力して金出してくれれば、俺にも少しはノーベル賞の可能性が出てくるんですけどねー」

「馬鹿じゃないの?」

 浮き上がって、おとーさんの右肩を軽く蹴る。

「あたし、あと二日で消えるの。計画だと、自由研究は、今日中に終わらせるの。何が百年以内だ」

 何より、科学者としての夢を語っているはずなのに、おとーさんがどこか自分で諦めているような口調なのが、一番腹が立つ。

「すみません」

「で、何かない?」

「何かって、何でもいいんですか」

「いーよ。たぶん、何やっても、大体楽しいし」

 科学は嫌いじゃない。科学者は好きじゃないけど。

「というか、実験は実験で、その体じゃ出来ないですよね」

「だから、手伝って、って」

「全部、ですか?」

「ぜんぶ」

「……はあ。纏める時の文章とかは、まどかが考えるんですよ」

「そのくらいはね。で、何、やろうか」

「家の中にあるもので、一日で終わることねえ。定番は果物電池とかなんでしょうけど……。振り子の周期とか、計ります? 紐の先に重りを付けてぷらぷら振って、行って帰ってくるまでの時間を計るんですけど」

 そう言いながら、あたしの目の前で空中で何かをつまんで、それを小さく横に振るような仕草を見せる。たぶん、催眠術とかに使うやつのことを言ってるのだと思う。

「ふーん。それ、おとーさんは答え、知ってるの?」

「それねえ、微妙なんですよ。最大振れ角テータの……ゼロ次だったっけ、一次だったかな、サインを展開する、んだったような気がするから一次、かな……。それで、まあ、あと、紐のねじれとか重りの形、大気っつうか風とかは無視した状態なら」

 よく分かんない言葉を使われると、誤魔化されているような気がする。おとーさんからしてみれば、科学のことを正確に言ってるだけなんだろうけど。

「知ってるか知らないかで答えて」

「ええ……? 誤差範囲で概ね知ってる、くらいで」

「じゃあ、やだ」

 なんか、今日のあたしは、我が儘な気分なのだ。あたしは髪を纏めて、後ろに投げ出してあったパーカーのフードをかぶり、そこに付いてる犬耳の垂れる向きを調節する。

「うーん、俺、結構色んなこと、既に知ってるつもりなんですけどねえ」

 おとーさんも、苦笑いしながら、あたしのそのフードをかぶった頭にぽんと片手を乗せて、指先でぴこぴこと犬耳を弄っている。

「なんか、おとーさんも一緒に楽しいこと、ないの?」

「えー、じゃあ同じく振り子を使って、共振とか」

「どんなの?」

「えっとですね、一つの支柱を通じてその振り子を二つ根元で繋いで、その片方だけを揺らすんですよ。で、なんか上手いこといってる時だけは、片方だけ揺らしてるのに、勝手にもう一個の振り子も揺れ始めるんです」

 そう言いながらおとーさんは、もう一方の手もあたしの頭に乗せて、両方の耳を交互に振り始めた。

「全然分からぬ」

 あと、自分の頭の上も見えない。

「そうですか? まあ、説明するより、やって見た方が早いかも知れませんねえ」

 実際にやってみようとか言っているのに、おとーさんは、宙に浮かぶあたしの耳を揺らす手を止めない。

「いやあ、半透明だけあって、変な触り心地ですよね、これ」

「犬キック!」

 おとーさんの太腿の外側を軽く蹴ると、おとーさんは最後にあたしの頭をぽんと叩いてから、実験の材料を探しに、台所へと足を向ける。


「こんなもんですかねえ」

 一通り、その共振とやらの実験装置が組み上がったようだ。軒先に置いてあった物干しスタンドを屋内に持ち込んで、高さの揃った二本の物干し竿の間に、アルミホイルの細長い芯を渡している。その芯には、どちらもばらばらの長さで二、三十センチほどの二本の糸が留められていて、それぞれその下に五円玉を結んだのを重りにした振り子になっている。

「今のままだと、」

 そう言っておとーさんが片方の振り子を軽く揺らす。するとそれは、二、三往復ほど大きく揺れた後、ほぼ真下で小さく、一定のリズムで、なかなか止まることなく揺れ続けていた。勿論、もう片方の振り子は動かない。

「これがですよ」

 動いていた振り子を掴んで止めると、メジャーでその振り子の長さを測る。そして、動かなかった方の振り子の根元でその長さを調節して、二つの振り子の長さを同じにした。そうして、またさっきと同じように、片方だけ振り子を揺らす。すると、その揺らした振り子は見る見る振れ方が小さくなっていき、それに合わせて、もう片方の振り子が何もせずとも振れ出す。最初に触った方の振り子が、殆ど止まるというところまで動きを小さくしてからはその逆で、結局、大きく揺れている方の振り子がどんどん振れ幅が小さくなって、止まる寸前だったもう片方の振り子がそのぶん振れ始める、というのを、交互に何度も繰り返していた。

「へー」

 あたしは思わず感嘆の声を漏らす。

「不思議ですよねえ、共振」

「おとーさんでも、ふしぎ?」

「そうですねえ。固有振動数とかで説明はされますけど、正直、力のヴェクタがどう伝わってんのかとかは、よく分かんないですよね。ブランコに乗りながら勢い付ける時もこれなんですけど、その時は遠心力を考えると、振れ角の分母に固有振動数との差が入るから発散する、んだったか、なー……」

「ふうん」

 よく分かんない。でも、おとーさんが楽しそうだから、いい。

「で、ですね。これが、二つの振り子の、重りの重さとか紐の長さとか変えて、どんな場合に共振が起こるかを実験で探すんですよ」

「紐の長さが同じ時に起きるんでしょ? さっきそうしたじゃん」

「え、いや、まあ、そうなんですけど。それは十分条件で、必要条件は別です」

「分かる言葉で言いなさい、って言ってるでしょ」

 おとーさんはすぐ調子に乗る。科学者だからだ。

「えっと、紐の長さが同じな時以外にもこれは起きます。どういう時に起きるかを、出来るだけ多く探しましょう」

「いっぱいあんの?」

「理論上は無限個。今回は床までの長さでアッパーリミットが付きますかね。それでも二つか三つはあるはずです」

「ふうん」

「変えられるパラメータは、重りの重さ、これは先に付いてる五円玉を増やせば変えられます。あとは二つの紐の長さ、それから、最初に振り子を揺らす時の振れ角、ぐらいですかね。えっと、何をどのくらい変えるか言ってくれれば、セッティング変えてやりますよ。ああ、そうだ、その前に、今のこのセッティングをメモしないと。それはまどかがどっかに書いといて下さい」

「ちょ、ちょっと待って」

 矢継ぎ早に喋りだしたおとーさんに少し面食らう。さっきまで落書きに使っていたレポート用紙を一枚持ってくる。その間におとーさんは、振り子の紐の長さをメジャーで測っていた。さっきも自分で測っていたのに。

「振り子Aも振り子Bも、紐の長さは三十二.二センチです。あ、ちなみに、振り子Aの方が、最初に動かす方の振り子ですよ。あ、そうだ、位置依存性もあるかも知れないから、どっちを先に動かすかも記録した方が、いや、両方を同時を動かすというセッティングもあることを考えると、最初の振れ角をテータA、テータBって分けて書いて、片方だけ動かすのをゼロって書けばいいですね」

「うっさい」

 手に持っていた半透明のシャープペンをおとーさんに投げつける。

「……はい。すいませんでした。えっと、危ないですから」

 おとーさんが、自分の脚に当たって落ちたシャープペンを拾ってあたしに手渡してくれた。

「うん、ごめん」

「はい」

 そう言っておとーさんは、少し笑って、黙る。呼吸。あたしから、口を開いた。

「で、あたしは、何をメモすればいいの?」

「えっと、これは言ってもいいのかな、表を作ると見やすいの、分かります? 今回は、変えられる量が幾つかあって、その内の何を変えた時に変化が起こるかを見たいので」

「あー、なんとなく」

「で、今回変えられるのは、二つの振り子の重さと、長さと、最初の角度です。角度は、止まってる時はゼロにします。これをそれぞれ振り子Aと振り子Bについて書くので、表の項目の数は六つですよね。それで最後に、共振が起きたかどうかを書く欄で、合わせて七つですかね。こういう表を作ります」

「あのさあ」

 言われた通りに、横に六つ量が書けるような表をレポート用紙の上に書きながら、あたしは言った。

「その振り子AとかBとか言うの、何?」

「んー……、振り子に付けた名前、ですかね」

「かわいくない」

「そうですか? いやまあ、じゃあ何でもいいですよ。アリスとボブでも」

「アリスはいいけど、ボブて。どんな名前だ」

 おとーさんのネーミングセンスは、結構信用できると思ってた。つい最近おかーさんに訊いたことなのだけれど、あたしの『まどか』って名前も、おとーさんが付けてくれたらしい。フォースターくんの名前もそうだし、そりゃ、おとーさんのネーミングセンスを信用したくもなるというものだ。

「ああ、いや、アリスとボブってのは、物理でよく使う人名ってだけですよ。それぞれAとBを頭文字にして、擬人化しただけというか」

 また物理か。

「じゃ、なんか、おとーさんのセンスで、振り子に名前、付けて」

「えー……? じゃあ、ロリーナと、イーディスで」

 ふうん、と思う。悪くない響きだけど、何か意味のある名前なのだろうか。

「それはなんか、元ネタあるの?」

「謂われは、まあ」

「物理、関係ある?」

「ないですねえ」

「じゃ、それでいいや。なんだっけ」

「ロリーナと、イーディスです」

 レポート用紙に簡単に、実験の様子をスケッチして、二つの振り子の名前を書き込む。

「で、まず最初に、ロリーナとイーディスの長さが両方三十二.二センチ、重さも両方、五円玉一枚分です。で、ロリーナだけを角度、えー、rテータだから三十度にするにはこのくらい持ち上げれば良くて、えー、ロリーナを三十度、イーディスを〇度にして、やります」

 言われた通りの数字を表に書き込んで、おとーさんの方を見やると、おとーさんは振り子を持ち上げていたその手を離した。さっきと同じ、共振が起きる。

「じゃ、この場合は丸で」

 表の一番右のマスに丸を書き込んだ。その間にもうおとーさんは二つの振り子を握って止めていて、こっちの様子を伺っている。

「さあ、次はどのセットアップでやりますか」

 また本人の気付かぬうちに、おとーさんの変な物理やる気スイッチが押されているような気がする。

「とりあえず、今度はイーディスの方、同じ角度で持ち上げてみたら?」

 あたしは若干投げやりに言った。、まあ、間違えていたら、おとーさんが正してくれるだろう。見ると、おとーさんは、なんだか満足そうに頷いている。


 気が付くと、表に並ぶデータの数は、二十を優に超えていた。連ねている表も、そろそろレポート用紙の最下段に達しようとしている。そろそろ終わりにしてもいいと思うのだが、そう切り出すたびに、対称性がどうの有理数倍がどうのと言い始めて、おとーさんは実験の手を止めない。最初はあたしの指示を仰いでから実験の設定が決まっていたのに、最初の数回が終わる頃には、おとーさんの提案に頷くばかりになっていた。あたしはこっそり、夢中になっているおとーさんの後ろ姿を見ながら、実験結果を文章でまとめ始めている。途中からロリーナの方の糸の長さはずっと同じのままにしていて、おとーさんが振り子を持つ手を離すたび、そっちはいつも同じリズムで振れている。イーディスの方は色々長さが変えられていて、ロリーナの横で、ある時はせわしなく大きく揺れてみたり、ある時はのんびりと長く揺れていたりしていた。この二つの振り子が、おとーさんとあたしの時計として、二人の話し声とストーブの薪のはぜる音以外に音のしない、あたしたちだけの時間を刻んでいた。この振り子が、あたしとおとーさんで共有する心臓になればいいと思った。

「あたしも、科学者とかに、なれば良かったかな」

 おとーさんが、揺れていた振り子を手慣れた手つきで掴んだタイミングで、あたしは呟いた。

「なんで、ですか?」

 こっちを振り向かないまま、おとーさんが問いを返す。

「んー、なんとなく。おとーさんがそんな夢中になるんだったら、面白いんだと思って。それで、父娘の科学者として、二人で色んなとこに行くの。海外とか」

「やめた方がいいですよ。科学者なんか」

 あたしの夢物語を否定するおとーさんの声色は、薪ストーブの炎みたいに低く優しくて、紐の長い振り子みたいに穏やかだ。

「そうなの?」

「まあ、なんというか。科学って、色んなことの本質的な理屈を説明して、他の人にも出来るようにすることなので。自己の埋没化、うん、ほんと、やってても、自分にしか出来ないことなんか何もないつうか。この仕事は、俺がやらなくても、いつか他の誰かがやるんだろうなっていう気しかしないし。そういうの、多分、まどかみたいに強い子には、向かないです」

 そう言って、初めておとーさんはこっちを振り返る。その顔は、凄く寂しそうに笑っていた。自分にしか出来ないこと、とあたしは呟く。あたしがあたしであることの意味は、どのくらいあるのだろうか。そのあたしが死んでしまった今になっても、その意味を尊重してくれるのはきっと、おとーさんだけだ。そのことが嬉しくて、少しだけ重い。

「……やっぱり、科学者に、なれれば良かったよ」

「ありがとう、ございます」

 結局、目指すことすら出来なかったけれど。


「出来たよ」

 実験結果と考察を纏めて書いた半透明のレポート用紙を、テーブルの上に広げる。おとーさんに見せるのは、ちょっとどきどきする。

「お疲れ様です」

 おとーさんは、ぽん、とあたしの頭の上に手を乗せたままにして、視線だけをあたしの自由研究の上に走らせる。

「ほんとは、テーブルのキャプションは上って決まってんですけどねえ。あれも何故かは知らんけど」

「なんか間違えてる?」

「ん、いや。なんつうか、立脚点から結論までの流れが、ちゃんとしてますねえ、まどかは」

「んー?」

 たぶん、褒められてるんだと思う。科学者の言葉でだけど。あたしは、おとーさんの手の下で首をよじる。

「定量じゃないから誤差評価もしなくていい実験だし、これに理論面での考察入れて、あとまあ今後の課題ってのもあれですけど、そういうの入れたら、ちょっとしたもんですよ」

「知らない」

 おとーさんの手の下から抜け出て、そのまま床を蹴って天井の高さまで浮き上がる。おとーさんの目線が、ようやくあたしの方へと向けられた。

「あー、と。よく、頑張りました、ね」

「ふふ、うん。手伝ってくれて、ありがとう」

 あたしはそのまま両手を広げて、見回すようにゆっくり空中で一回転する。どっちがどっちの名前だったかも忘れてしまった二つの振り子が、いつの間にか動きを止めていた。時間はいつだって勝手に過ぎていく。色々なものが終わっていく。色々なものが奪われていく。何の権利があって時間はそんなことをするのかは分からないけれど。今後の課題、だってさ、とあたしは思う。


 二つ目の宿題が終わってもまだ夕方にもなっていなくて、あたしは暇を持て余す。少しでもじっとしている時間が続くと、なんだかうずうずしてしまう。一人で過ごす暇なら、毎晩充分すぎるくらいにあるのだ。

「おとーさんって、普段、暇な時って何してんの?」

「暇な時、ですか。なんだろう、潰すのに困るような暇って、そもそもあったことがないですからねえ。研究って、終わりが無いんで。論文読んだり、だらだら仕事するだけなら、幾らでも出来ますし」

「それ、楽しい?」

「それが楽しいって思える人しか、研究者になっちゃいけないんです」

 鼻で笑いながら、おとーさんが答える。ちょっと自分以外の研究者を馬鹿にしたみたいな言い方をしているけど、さっきの実験中のおとーさんなんかその通りだったような気がするのに自分では気付いてないみたいで、ちょっと面白い。

「じゃあ、何して遊ぶ?」

「なんでもいいですよ。まどかが楽しいことなら」

 今度はおとーさんは、歯を見せてちゃんと笑った。

「あたしもなー。遊べるものかー。そだ、粘土あるよ。作る?」

 粘土細工はあたしの趣味なのだ。白い紙粘土に絵具を混ぜて捏ねると、自在に色がつく。それを型で形を整えて、あとは身近にある歯ブラシやスポンジなんかで表面の質感を整えれば、いわゆるスイーツデコ、お菓子や果物なんかを象ったミニチュアなんかは、意外と簡単にそれなりのものが出来てしまう。自分の手に入る道具を使ったちょっとした一工夫で出来が変わってくるのが、センスを試されてるみたいで楽しい。

「俺はいいですよ。不器用ですし」

「あたしだって、もう触れないもん。ほら、余ってる粘土、勿体ないし。今度はあたしが教えてあげるからさ」

 そう言ってあたしは、自分の荷物が詰まっている段ボール箱の傍らまで飛んでいく。新品の粘土や愛用していた抜き型や絵具の筆、それに、ホイップクリームなんかを表すのに使うシリコンを打ち出すコーキングガンなんかが、一まとめにしてトートバッグに入っている。

 まあでも、おとーさんのことだから、あんまり細かい作業とかは出来なさそうだな、と思う。初めてあたしが、紙粘土を触った時のことを思い出した。あれはいつだっただろうか。小学校の図工の時間だったと思う。それまで油粘土、固まらない粘土でしか遊んだことが無くて、作っていく先から乾いて固まって、挙句ひび割れていく紙粘土に凄く苛ついたのを覚えている。確かあの時は学校で飼っていたウサギを象って作っていたのだけれど、もう途中で片耳がひび割れて折れたところで諦めて、色を塗らないでいたんだ。そしたら、青ちゃんがあたしのウサギに可愛い顔を描いてくれて、めでたくつぶらな瞳の片耳ウサギが出来上がってしまったのだ。今も東京の家のあたしの机の上に置いてあるけれど、表面も整えられていなくてデコボコで、片耳も無残にもげているのに、瞳だけは少女漫画みたいにつぶらなのはとてもシュールだ。

 今だったら、と思う。それこそ瞳は何か透明感のある別素材にして、後から貼り付けるはずだ。表面は難しいけど、スポンジで荒く擦れば毛羽立つ質感になるだろうか。そもそも、本格的に粘土を触るようになってからでも、作るのはもっぱら掌に収まるような小物ばかりで、粘土一パックをまるごと使うような大きいものは作らないし、それは形を整えるのにも結構大変だと思う。あれを小学生に使わせようというのは、何だったんだろう。まあ結果的に、それがあたしの一生の趣味になったんだから、分からないものだ。時間が経って気持ちが変わって、それでもあたしはあたしなのか。

「このバッグ、机の上に開けて」

「はあ、はいな」

 わざわざもう文句は言わないけれど、態度からしぶしぶというのが窺えるのっそりした動作で、おとーさんがあたしのバッグから、道具を一つずつ取り出していく。

「え、これ、なんですか」

 おとーさんがその手を止めたのは、あたしが作ってる最中のものを小分けに入れておいた、小さいビニールパックを手に取った時だ。

「つめ。手の」

 あたしは何食わぬ顔で答えるけれど、おとーさんが驚いてそれを見つめる表情を見て、内心では得意げだ。自分の指先に押し当てたプラスチック粘土で型を取って、その型に薄く紙粘土を詰めて作った。型を取る時に柔らかくするプラスチック粘土はとても熱くて、火傷しそうになりながら手早く型を取ったり、あと薄い紙粘土を割れないように型から外すのにも、自分のそっくりの色を絵の具で出すのにも凄く苦労した、あたしの生涯最後の力作なんだけど、青ちゃんには「リアルすぎてキモいよ」とか言い捨てられるし、おかーさんには「マニキュア塗って、それ着け爪にしたら?」なんて寝ぼけたことを言われてしまった、不遇の一作なのだ。

「うーわー……! 気持ち悪いですね、これ!」

 それに比して、おとーさんは大喜びだ。言葉こそ青ちゃんの感想と一緒だが、早速ビニールパックから出して直接触感を確かめたり、蛍光灯の光を当てて食い入るように見つめていて、その食い付きっぷりはあたしの想像を超えていた。最初の驚きと、その無駄なリアルさを面白がるのと、これこそがあたしが見た人に期待した反応なんだけど、もう、意図通り過ぎてちょっと怖いくらいだ。

「あ、これ、なんか細かく縦に筋が入ってますね」

 そこまで細かくあたしの作った意図を見てくれるのは嬉しいのだけれど。

「うん、なんか実物よく見てみたら入ってたから、ニス塗る前にちょっと、紙ヤスリで」

 そう言うと、おとーさんは突然、立っていたあたしの手を取って、今度は半透明の方のあたしの指先に顔を近づける。

「綺麗なもんですねえ」

 おとーさんのその姿勢が、跪いて姫に忠誠を誓う騎士のようで、あたしはちょっとだけ悲しくなる。粘土の爪と半透明の爪とを見比べるおとーさんに言った。

「来る前にちょっとだけ整えたから。その粘土の方が普段だよ。そっち、あげる」

 おとーさんは、膝を付いたままの姿勢で顔を上げる。

「いいんですか」

「うん、持ってて」

 そう言ってあたしは、おとーさんの手をほどいて、その頭に手を乗せた。

「頑張れば、こういうのも、作れるようになるから」

「まあ、いいですけど」


「基本的には、何かで作った型で形を整えるんだ。クッキーの型とかをそのまんま使ってもいいし、既にあるモデルから一旦型を自分で作って、それに紙粘土を詰めるとか。手で捏ねて作るってことは、あんまり無いのね。滑らかな面を作るには、その形を作れるような、型に出来るものを、自分の身の回りから探すの」

「身近にある、リーマン面」

「うっさいよ」

 いなしながらあたしは、自分が使っていた何種類かの型に半透明の指で触れる。例えば、お弁当に入れる小さい醤油入れを切り取れば、内側が小さい筒の型になる。あたしが好きな紙粘土は、こういう日常のせせこましい工夫によって支えられているのだ。自分の今持っているもので勝負する。何かを得るのはその先だ。まあ、型の中にはもちろん既製品の型もあって、その中には、最近行った動物園で買ったペンギンの型なんかもある。元はペンギン型の氷を作る為のものとして売られていたこれの作りは結構細かくて、しかもクッキーの型みたいに貫通してる型じゃないから、粘土を押し込むだけで嘴や眼なんかまで再現出来ちゃうんだけど、ゴム製だからか、温度を上げたプラスチック粘土を流し込んだら溶けて、一つ駄目にしてしまった。紙粘土を自分で工夫しながらやってるとそんな失敗も慣れっこで、あらかじめその型も三つくらい買っておいたから良かったんだけど。

「最初は、これ使ってみようか」

 まあ、自分が死ぬ方の予想はしてなかったけどね。なんて、残った二つのペンギンの型を指さしながら、ふと思う。

「これは……粘土、詰め込むだけですか?」

 その一つを手にとって、おとーさんが言う。

「そのくらいなら、出来ると思って」

「そりゃ、たぶん」

「ふうん。まあ、いいけど。えっと、ラップあるかな。それだけ、借りようと思って」

「ありますよ」

 そう言って台所に向かうおとーさんの背中を見送る。ラップは、使い切れなかった粘土を乾燥させないようにするのに使うんだけど、でも、もう二度と、残った粘土を使うことはないんだろうな。


 おとーさんが、片手の上に伸ばした粘土の上に、直接赤い絵の具を静かに垂らす。そのまままた捏ね始めると、白い紙粘土の中に赤い絵の具がマーブル状に広がっていく。ペンギンを作るのに好きな色を使ってって言われて、どうしてその色を手に取るかな。おとーさんの横顔は、なにか楽しい悪戯をしている子供みたいな顔だ。その手も、粘土と絵の具で汚く汚れている。そして更にその粘土に、黄緑色の絵の具を加えた。絵の具の独特の匂いが、更に強くなった。もう紙粘土に白い部分は残っていないけれど、赤と黄緑は混色することなく、その境界を保ったまま、紙粘土の上で、お互いの色を貪るように複雑に絡み合っていく。

「こんなもんですかね」

「うん。あと、型に詰めて。で、もう、すぐ出して乾かして。二、三日して乾いたら、そこのニス塗って、おしまい」

「そうですか」

「ニス塗りくらい、出来るよね」

「たぶん」

「やるのとやらないのとで、ほんとに出来が違うからね」

「ちゃんとやりますよって。せっかくだし」

 二人でそっと笑う。

「型からはみ出た分は、定規とか使ってまっすぐに削る」

「はいな」

 持っていた粘土を型の中に雑に押し込むと、ひょいと手に取った三十センチ定規で、おとーさんはぽんぽんと自分の右肩を叩いた。

「その型、柔らかくて細かいから、ちゃんと粘土、押し込まないと駄目だよ」

「はいはい」

 おとーさんの大きな掌が、紙粘土全体を軽く押し込む。そしてはみ出た粘土を、定規で易々と刮げ取った。なんとなくあたしは、定規を持つおとーさんのその手を蹴った。半透明になってからのいつもの、手応えのない感触があたしの足に返ってくる。

「なんですか、もう」

「で、裏返して、型から出す」

「いや、……もう」

 言葉を飲み込んだおとーさんは、型から外したペンギン粘土を手の中で弄ぶ。詰め込まれた粘土は意外と固くて、軽く触ったくらいでべたべた指紋が付いたりはしない。

「気になるところがあったら、そこのヘラで直す」

「なるほどね」

 そう言っておとーさんは、軽く線を付け足すように、ヘラを粘土の上に走らせた。ここの一工夫のセンスで、単に粘土を型に入れただけのものに、立体感を加えることが出来るのだ。

「ふうん」

 おとーさんは携帯を手に取ったかと思うと、ささっと検索したペンギンの画像を表示させて見比べる。赤と黄緑色の混じったペンギンの、羽と胴体の間にヘラの先を通して、羽の部分を摘んで反らせた。首元の模様も軽く入れてみせる。

「そんなことまでやるなら、最初からちゃんと色、選んで作ればいいのに」

「いいんですよ」

 最後に、付いた指の跡を軽くヘラで撫でつけながら、おとーさんが答える。いいなら、いいけど。この言葉は確か、前におとーさんから聞いたやつだな。

「これ、そこら辺置いておけば、乾くものですか」

「うん」

「ストーブの近く置いておいたら、早く乾きますかね」

「かもね」

「そういうの、飽和水蒸気圧って言ってですね」

 そこで言葉を止めて、あたしの表情を窺うように、ちらりと視線を向ける。

「なに?」

「いえ」

 ちょっとだけ沈黙が通り抜けて、あたしたちは小さく笑った。あたしが何かを好きだという気持ちは、消えて、結局意味はなくなってしまうらしい。そんなものに最初から、意味があったのかどうかも怪しい。ラップの上に無造作に転がされた、変な色のペンギンフィギュア。絡み合うけど混じり合えない二つの色。ただ型に入れて出しただけの、大して空もない、しかも未完成の作品だ。それらは何も象徴していない。

「楽しかったなあ、紙粘土」

 パックの中の白くて冷たい紙粘土をちぎり出して、手の中で捏ねて柔らかくしながら、何をどうやって作ろうか考えている時間が好きだった。出来上がった作品を、青ちゃんにはっきりとした好き嫌いで評価されるのが好きだった。爪の間に入ってなかなか落ちない絵の具を、洗い流すのが好きだった。

「そうですねえ。残った紙粘土、いつか、俺が使い切ってもいいですか」

「いいよ」

 好きなことをするのが、好きだった。


 五番目の季節は、暗くて、そして、閉じている。あっという間に陽が落ちて、こうしてずっと家の中にいると、まるで雪がずっと高くまで積もって、太陽が見えなくなったのかと思うくらいだ。その家の中であたしたちは、必死に炎を燃やして自分たちだけを守っている。

 粘土の道具一式を片付けた机の上におとーさんがまた、黄色い箱の夕ご飯を用意した。薪ストーブの上に薬缶を乗せてお湯を沸かせて、インスタント珈琲を淹れる。インスタント珈琲は、普段から雑に扱っているせいで、瓶の中が黒く汚れている。最初から珈琲の茶色い汚れが付いていたマグカップに無造作に淹れられたそれは、とても美味しそうには見えない。

「美味しいの、それ」

 囓った半欠けの夕食をその珈琲で流し込んで、おとーさんは答えた。

「こんなの、カフェインが摂れればなんでもいいんですよ。なんなら、カフェインを静脈注射しても変わらない」

 そう言ってまた、次の一口に取りかかる。なんか、食事というか、自分の身体に対するおとーさんの考え方は、もう身体を無くしたあたしにとって、すごく面白い。地球の色んなところにあった色んな成分が、おとーさんの一部になるためにうねうね集まってきたみたいだ。そう言うとおとーさんは「ラプラスの悪魔は不確定性で死にますからねえ、いや、多世界解釈だといいんだっけ」と言って考え込んでしまった。馬鹿だな、と半透明のあたしは思う。

 あたしの身体は、あたしの身体であることをやめて、ばらばらにどこかへ行っちゃったんだろうな。そういうのは、ばらばらな方が自然なような気もする。粉になりあるいは煙になりもしくは拭い取られた赤になった、あたしの身体を思い出す。それらを無理矢理かき集め続けることに対して、あたしは、凄く必死にならなくちゃいけなかったんだ、きっと。なかなか気の抜けないものだ。


 夕食を取り終わったおとーさんがそのまま机に頬を乗せて、垂直に倒した顔だけであたしをじっと見つめていた。

「傾いた家」

 そう言ってあたしは宙を飛んで身体を垂直に倒し、壁の上を歩く真似をする。目線を倒したおとーさんには、部屋だけが直角に倒れて、その中をあたしが真っ直ぐ歩いているように見えるはずだ。

「逆ですよ。それじゃ天井歩いてるみたいです」

「まじか」

 あたしはそのまま反対側の壁まで飛んでやり直す。やり直すほど面白いものでもないとは自分でも思うけど。

「ははは」

 おとーさんは声だけで笑って、あたしに手を伸ばす。

「質量の無い女の子に、」

「んー?」

「御本を読みましょうね」

「ああ。そう、そうね」

 今日やる宿題の最後に、読書感想文があった。北海道に昔いたという妖精のお話。小学生向けの童話らしいけれど。今はそういう、他愛のない話の方がいい。


「はじまりはじまり」

「そこまで子供向けじゃないと思うけど」

 文庫本を開こうとするおとーさんに、なんとなく突っかかってしまう。胡座をかいて床に座るおとーさんの、その膝の間にあたしは座って、脚を伸ばす。小さな文庫本なのに挿絵が入っていて、頁をめくって本を読むおとーさんと一緒に本を覗き込まなくちゃいけないっていうので、仕方なくこんな体勢になっているのだ。仕方ない。あたしは、かぶっていたパーカーの犬耳フードを後ろに払った。そのあたしの頭の上に直接、おとーさんが顎を軽く乗せる。重くはない。ただ、

「読みますよ」

「うん」

 おとーさんの喋る低い声がそのまま頭蓋骨に響くみたいで、それだけが気持ちいい。押しつけた背中ががくがくと、震えてしまいそうなほどに。


「……なのでした。あれ、別に舞台、北海道ってわけじゃないんですね」

「うん。出てくる妖精の元ネタが北海道の民話ってだけで」

「あれー……? 昔、読んだはずなんですけどねー……」

 おとーさんが、音読しながらちょくちょく自分の感想を混ぜる。全然進まない。まだ最初の最初、物語の舞台の風景描写だ。あたしは目を閉じて、文庫本を持つおとーさんの二の腕に頭を預けた。暖かさも柔らかさも、もう分からない。

「いやいやいや、寝ないで下さいよ」

「聴いてるから、いいよ」

「ほら、挿絵とかもあるし」

「いいよ」

 どうせ、この一度しか読まない本だ。もう、本を通過した先のあたし自身にしか興味は無い。だったら、全ての読み方は正当化されると思う。例えば挿絵を見ないとか、読書感想文なのに他人の音読に耳を委ねているとか、死んだ後に読むとか。

「つづき」

「……もう」

 息をついてから、おとーさんがゆっくりと物語を語る。緑の生い茂る、春の山野の風景。そよ風。あたしは容易に、脳裏にそれを描き出すことが出来る。

 本を読むのはわりに好きで、特に、こういう風景描写を思い浮かべるのに困ったことはない。でも、その時に浮かぶ背景の元はきっと、昔に、おとーさんとおかーさんに連れてってもらった、色んなとこの風景だ。海に泳ぎに行ったし雪山にスキーにも行った。小さすぎてあたしも覚えていないような頃のアルバムを見ると、一面の花畑とか遊園地とか、本当にあちこちに連れて行ってもらっていたことが分かる。そしてそれが、あたしの読書に役立っているのなら、あの時あたしが連れて行ってもらっていたのはきっと、本の中の世界で、外国の世界で、剣と魔法の世界だったんだ。あたしは、さっき思い浮かべた緑野を、どこまでも、どこまでも伸ばしていく。


 その物語は、めでたしめでたしで終わった。この話には確か何巻か続刊があるはずだが、一冊目はそれだけでちゃんと完結している。自然破壊と共に奪われそうになった妖精たちの住処が、主人公の人間の青年とヒロインとの機転で守られて、そのままひっそりと妖精たちとの暮らしは続き、物語はめでたしめでたしだ。手の中で、半透明のシャープペンをくるりと回す。読書感想文は、四百字詰めの原稿用紙に四枚書くのだが、今埋まっているのは大体二枚と半分というところだ。大体書きたいことは書き終わってしまって、残りの少しが埋まらない。

 この本は、なんだか凄く密やかさを感じる本で、風景の広大さと、主人公たちがやった騒動のこぢんまりとしたスケールの対比が印象に残ったので、そのことを書いた。まるで、文学少女が静かに図書室の隅で読んで、こっそり自分だけの世界を繰り広げるためにあるみたいな本だと思った。ふと、この本が好きだという、おかーさんのことを思い出す。そんな文学少女とは真逆みたいな人だ。

「あのさあ」

 しばらくあたしとは別に、ラップトップのパソコンに向かってメールを打っていたおとーさんに、あたしは声をかける。

「なんですか」

「こないだ、久々におかーさんに会って、なんか変わってた?」

 あたしの葬式で、忙しそうに立ち回っていたおかーさん。突然の出来事だったわりにはそつなくこなしていたけれど、なんかどうでもいい変なことで急に意固地になってみたり、あたしからしてみたら、ちょっと違和感を覚えるところもあったけれど。

「この年になると、老けたなあ以外の感想なんか、あんまないですよ。もうそう簡単に、人なんか変わらないです」

「そうなんだ」

 確かに、ここ数年でおかーさんは随分年をとったような気がする。本当はもっと色々、一緒に住んでると分かることもあるんだけれど、それは今は言わない。

 それから。一行の空白を空けて、一字落としたその先にあたしは、それから、という言葉を続ける。残り十行ほどを埋めて原稿用紙の四枚目に滑り込めれば、指定枚数には到達、この宿題は一応おしまいだ。でもなあ、と思う。そういう、あんまりかっこ悪いこと、したくないんだよな。もっと、書きたいことを書きたい。上手く書けるかは、分からないけど。

 結局あたしがその先に続けたのは、読書感想文でも何でもなくて、物語の続きというか、書かれていなかった部分をあたしが自分で勝手に書いたものだった。指定枚数なんか全然飛び越して、最後のその話だけで原稿用紙を三枚くらい使った。本の中の話では、元々高速道路の建設予定計画が妖精の住処を破壊するはずだったのを、主人公の青年たちの機転で建設計画が別の山を通るように変更させていた。あたしが書いたのは、その変更先の山の森に棲む、毒キノコの話だ。最後には、周りの土と一緒くたになって、ブルドーザーに掘り起こされて終わる。もちろんこのキノコには、協力してくれる青年もいなければ、そもそもが自分の生命が断ち切られるということに対する感情も感傷も予感もない。あたしはただただ、さっき自分が想像した通りの情景を書き綴った。おとーさんに連れていってもらった場所の話。色と匂いと音と感触を記した。

「出来たけど、読む?」

「読んだ方がいいですか?」

 またおとーさんが、全然察してくれない風なことを訊く。そして、一瞬眉を顰めたようなあたしの顔を見て、取り繕うように言った。

「出来れば、読んでみたいんですけど」

「じゃあ、是非、だね」

 心の中で呆れながら、あたしは、半透明の原稿用紙を滑らせるようにして手渡す。


 昔から、おとーさんがものを読む速さは凄い。読み流す、という言葉が似合うように見えるけれど、それでいてちゃんと中身も把握出来ているようで、なんというか、ずるい。

 一緒に住んでいた頃のおとーさんの部屋には壁一面に本棚があって、本当に色んなジャンルの本が雑多に並べられていた。小学校に入った頃からあたしはその部屋に勝手に入っても良いことになって、おとーさんがいようといまいと、そこで時間を過ごすことがよくあった。そこの本棚の中身は本当に多彩で、子供向けのファンタジーなんてのも揃えられていた。あたしがその中から選んだ本を床に座ったまま読んでいるのを見つけると、おとーさんは決まって必ず「読み終わったら感想でも聞かせて下さい」とか言う。それで読後感を伝えると、またおとーさんは本棚から数冊を取り出して、あたしの感想を基にしてお勧めを教えてくれるのだ。おとーさんの中では、自分の本棚の本たちが、蜘蛛の巣を張っているみたいにお互いが繋がっているみたいだった。あたしがそう伝えると「まあ、そういう風にして、一冊一冊自分で買い揃えていった本ですからね。それを早回しで教えてるだけです」と笑っていた。

 いつか、追いつくのだと思っていた。いつか追いついて、あたしの選んだ本を読んだおとーさんの感想を、訳知り顔で聞けるのだと思っていた。だから、なんというか、ずるい。


 おとーさんは、ざっと最後まであたしの読書感想文に一通り目を通してから、あたしの書いた毒キノコの話の部分だけを、本文を読んだ時と同じ声でゆっくり朗読してくれた。

「どう、かな」

「読解力と想像力とやさしさとは、多分、同じ意味の言葉なんでしょうね。分かんないですけど」

 そう言って、またあたしの頭を撫でる。あたしは隙あらば撫でられているな。しかも、結構な頻度で隙だらけだ。

「そうなの?」

 あたしは、おとーさんの言った三つの言葉を諳んずる。読解力と想像力とやさしさと。

「与えられただけのものから、自分で考えて自分の言葉にする力。見えないものまで、届く力、ですかね」

「うーん」

 自分がそう褒められることが適切かどうかは分からなかったけど、おとーさんの言いたいことはなんとなく分かる。でもきっと、その想像力、優しさは、凄く疲れるものだ。あたしは、目を瞑った瞼の裏に見える、広くて静かな世界に行きたいと思った。


「それじゃあ、今日をお仕舞いにしましょう」

 そう言ってあたしは、おとーさんをあたしのクローゼットの前に引き連れる。もうすぐ、日付の変わる時間だ。越えられる夜は、今夜が最後。

「開けて」

 クローゼットの中にはもう、今着ているパーカーとスカート以外だと、もう明日着るジャンパースカートとブラウスしか残っていない。

「ネタバレだ」

 咄嗟に身体で隠そうとするけれど、半透明のあたしの身体ではそれもままならない。

「まどかが着てからじゃないと、興味ないですよ」

 おとーさんはさり気なくそう言いながら、ひょいと手を伸ばして今日燃やす分の服を回収していく。

「なら、いいんだけど」

 今夜の分は、ヘッドドレスとかの小物がないぶんだけ、なんだか燃えやすそうに見える。いいことだ、たぶん。両腕にあたしの着替えを抱えたおとーさんの、その腕の中にあたしは飛び乗る。そのままストーブの前まで運ばれたあたしの顔を見てたら、おとーさんは動けなくなっちゃったみたいだった。

「ねえ、連れて行ってよ」

「……行きたいのは、どこですか」

 あたしの行きたかったところ。

「広い世界」

 駄目だ。

「まだ、早いですよ」

 呟くおとーさんの腕の中から飛び立って、あたしは宙の中で一回り、くるりと回った。おとーさんはかくんと膝を付いて、ストーブに屈み込む。ガラス扉の中で炎が揺らめいていた。その中にあたしの服を押し込むと、炎の舌先が伸びて舐り尽くすようにあたしの服を通過していって、あたしの一部だったものはあっという間に形を変えてしまう。同時に、半透明のあたしの身体からも、服が脱げ落ちていた。炎を見つめるおとーさんの額で、汗が滴の形を取った。あらゆるものが形を変えながら、前にばっかり進んでいた。思わずあたしは、言葉にならないままの悲鳴を上げた。高く響く音が、一瞬でどこかに届けばいいと思った。喉が裂けるなら、それでもいいと思った。それであたしの形も変われるなら。でも駄目だ。

「どっか、痛むんですか?」

「違くて」

 とても哀しい。高鳴る動悸を抑えて抑えて、あたしはおとーさんに、昨夜と同じ言葉をかけた。

「ねえ、おとーさん。あたしのこと、愛してるって、言って」

 縋るようなあたしの声は、息が切れている。おとーさんは静かに目を瞑って、額の汗を拭った。きっと、こういうのが、祈りだ。

「あのね、これからは、おとーさんの祈りは、全部あたしが聞くよ。だから、これからは、あたしに祈って」

「……はい」

 絞り出すような声で、おとーさんが答える。

「やくそく」

 そう言って、左手の半透明の小指を差し出す。おとーさんがそれに自分の小指を絡めると、あたしはおとーさんの他の指にまで順番に、指を纏わせていった。小指、おねーさん指、おにーさん指、おかーさん指、ささくれを撫でるようにして、搦めとる。

「おとーさん指」

 手の中で、二人の親指の腹を一瞬だけ、口づけるように合わせた。屋根から雪塊が滑り落ちるくぐもった音が、どこか遠くで響いた。そして、それを合図にするように、おとーさんがあたしをぐっと引き寄せた。あたしは半透明の裸のまま、おとーさんの胸の中に飛び込む。ぐっとそこに、頭を押しつけると、背中に、腕を回される感触を覚えた。

「まどかっ……」

「黙ってよっ……!」

「まどか」

「馬鹿……」

 あたしは、囁くように呼ばれる自分の名前が、すごく好きだと思った。

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