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 それから、色んなことが足早に過ぎていった。おとーさんは、あたしが運ばれてから間もなく霊安室に駆け込んできて、眠るあたしの肉体に向かって「まどかっ……!」と一度だけあたしの名前を呼んでから、信じられないという顔で膝から床に崩れ落ちていた。しばらくしてから、おかーさんも北海道に来たみたいだ。久しぶりに顔を合わせるはずのおとーさんとおかーさんは、殆ど口もきかなかった。おとーさんは、おかーさんが来てからは、表情一つも変えることはしなかった。元々、世を捨てているというか、いまいち鈍い人なのだ。

 その後、変死体として扱われたあたしの肉体は、警察で解剖されてから、北海道で火葬された。幽霊のあたしはずっと、おとーさんの隣にいた。おとーさんは、必要な時以外、殆ど誰とも話さなかった。

 骨だけになったあたしは、おとーさんとおかーさんと一緒に東京に戻って、自分のお通夜とお葬式を、またぷかぷかと宙に浮かびながら見ていた。黒い喪服を纏った青ちゃんは、あたしの遺影を見ながら、さめざめと泣いていた。普段から感情の動きがいちいち激しい子だから、無様に泣き叫ばれるかも知れないというような心配はしていたけれど、こうやって涙を流しながら、何かを質すようにあたしの遺影を見つめる青ちゃんというのは、ちょっと想像していなかった。もう少し生きていたら、こういう泣き方をする青ちゃんもいっぱい見られたのかな、それを隣で慰める役割もあたしに出来たのかな、と少しだけ残念に思う。飾られているあたしのその遺影も、青ちゃんと一緒に遊んでいる時に撮られた写真で、力の抜けた自然な微笑みをしている。この顔でみんなに覚えててもらえたら、それはちょっと嬉しいことかも知れない。持つべきものは、親友と、遺影選びのセンスがある父親だな。

 そうだ、とあたしは気付く。青ちゃんに借りてたあのライトノベル、どうなったんだろう。あたしの服とかバッグとか、あの時に持っていたあたしの荷物は、全部一度、北海道のおとーさんの家に送られて、そのまま置いてあったはずだ。あの本が借り物であることなんか、おとーさんたちが気付くわけがない。参ったな。返さないと。しかし、どうしようかな、とあたしは思う。この幽霊とかいうの、現実の物に触ったり出来る感触はあるのだけれど、それで現実の物を動かしたりは出来ないみたいなのだ。何かを押しても、まるで自分の体重が無くなったみたいに、あたしだけが一方的に反動で突き飛ばされる。何かを擦っても、あたしの指先がつるつるになったみたいに、擦った跡は残らない。たぶんあたしは、そういうルールの幽霊なのだ。

 うん、とあたしは心の中で頷く。ルールを守って青ちゃんに本を返そう。いつまで幽霊としてふらふらしてられるのかも分からないし、出来るだけ、早く。



 葬式と、あと面倒そうな手続をいくつか済ませると、おとーさんはそそくさと北海道に帰っていこうとした。時折携帯電話を弄りながら、迷いない足取りで東京の電車を乗り継ぐおとーさんの後ろを、あたしもふわふわ浮かんで着いていく。飛行機の中では、頬杖を突いて眠るおとーさんの膝の上に座って、あたしも少しだけ目を閉じた。幽霊になってから、そもそも眠くならないというのもあるけれど、いつ消えてしまうか分からない恐怖で、あまり長い時間、目を閉じているのが嫌だった。そんなの、生きていたっていつ死ぬか分からないのに、幽霊になってから気にしてもしょうがないとは思うけど。だけど、まあ少なくともその時は、おとーさんの膝の上でだったら、消えてもいいかと、少しだけ思ったのだ。結局、消えることはなかったけれど。



 北海道は土地が広くて安いだとかなんとかで、おとーさんの家は、無精な一人暮らしのわりに広い一軒家を借りている。広ければ広いでいっそう暖房は効きにくくなるらしいし、あとおとーさんは昼も夜も基本的に大学に巣食っているだとかで、おとーさんはこの自分の家にいる時間は少ないみたいだった。それでも、何年間もこの家から引っ越さない。その甲斐あってか知らないけれど、死ぬ前にあたしが持ってた荷物は、この家の空き部屋の一つにそのまま放り込んである。青ちゃんの本も、そこにあるはずなんだけど。

 家の前の道路をすたすた歩くおとーさんの後ろを追いかける。北海道に着いた頃からいつの間にかあたしの足に履かさっていたふわふわのブーツで、あたしは久々に地に足をつけて歩いてみたけれど、雪の上でも足跡の残らない自分に、ちょっとだけ悲しくなって、すぐにまた宙に浮いた。

 その先でおとーさんは、目を瞑ったままでも出来そうなくらいの自然な一連の動きで、北海道の家らしい二重構造のドアになった玄関の鍵を開けて、玄関フードと呼ばれる一つ目のドアと二つ目のドアの間に身を入れる。そしてその時、一つ大きな溜息を吐いてから、外の方へ振り向いた。一瞬、目が合った気がして、あたしは思わず息を呑む。問いかけたくて、微笑みかけたくて、触れたくて、気づいて欲しくて、叫びたくて。

 でも、いつもあたしの感情には、おとーさんは鈍感で。それは、その時だっておんなじで。おとーさんは、いつもと変わんない無感情な声で、しっかりとあたしを見つめながら、言ったんだ。

「まあ、あがって下さいな」

「……え?」


 あたしが東京から送ってあった、一週間分の服と冬休みの宿題とが詰まった段ボール。あの日にあたしがごろごろと引いていた、ピンクの小さなキャリーバッグ、それと、今もあたしの肩にかかっているのと同じ、青ちゃんの本が入ってるだろう、洋書型のショルダーバッグ。それに、この部屋でこの五番目の季節を過ごす時に毎年お世話になる、ベッドと、組立式の天蓋。八畳ほどの部屋の隅に押し付けられたそれらのものを横目に、あたしは、部屋の真ん中に片膝を抱えて座っていた。部屋着の作務衣に着替えて隣の居間にある薪ストーブに火をくべていたおとーさんも、やがてあたしの前に膝を突き合わせて座る。ふう、と息を吐いてから、あたしは二人の間の沈黙を破った。

「……えっと、あたしのこと、いつから見えてたの?」

 誰にもあたしの姿は見えてないと思っていたから、ずっとおとーさんの後ろを着いてってたけど、これが見られてたとすると、かなり恥ずかしい。

「まあ、最初の霊安室に浮いてたとこからですよね」

「……最悪。なんで声かけてくんないの?」

「俺一人にしか見えてないみたいだったから、最初は俺の妄想だと思ったんですけど。……なかなかね」

 おとーさんは、その最後の言葉を、首を傾げながら捻り出したみたいだった。無理矢理、自分を納得させるみたいに。そりゃそうだろう、あたしのおとーさんは科学者なのだ。幽霊なんてもの、よっぽど認めにくいに違いない。

「ねえ、おとーさんは、幽霊とか、信じるの?」

「まあ、今、自分が観測しているものを幽霊と定義するなら、信じるも何もないですよね」

 なんか小難しい言い方だ。そりゃそうだろう、あたしのおとーさんは、科学者なのだ。どうしようもない。

「……結局、どっちなの?」

「だから、俺の目の前にいるまどかはまどかで、それを幽霊と呼ぶかはどっちでもいいです。自分の娘を一般に拡張するつもりは無いですし」

「……ふうん」

 やっぱり言ってることはよくわかんないけど、とにかく、おとーさんにとって、まだ、あたしは、あたしなのか。おとーさんの言っている意味とは違うかもしれないけれど、その言葉にあたしは、なんだかちょっと嬉しくなる。

「で、まどかは、今、どんな状態なわけですか? 物質との相互作用とか」

「そうごさよう?」

「うん、インタラクション」

「うん?」

 英語にされても知らないし。たぶんそのインタラクションってのが、さっきの『そうごさよう』って意味なんだろうけど。でもそれじゃ、同じ言葉を繰り返しただけだ。

「あのさ、あたしに言ってるんだったら、あたしの分かる言葉で喋って」

「んー? ああ、……えっと、物とか、触れますか?」

 おとーさんが苦労しながら自分の言葉を噛み砕いて、やっとあたしの分かる言葉になった。久々に、おとーさんと話している感じを思い出す。あたしが今より小さい頃から、こんな話し方をする人だった。

「えっとね、触った感じとかはちゃんとあるけど、全部の物がすごく重くなったみたいで、押したりとかしても全然動かせないの」

 立ち上がって、とん、と床を蹴って、部屋の隅にかかってる、あたしのコートのとこまで飛んで、その裾を引っ張ってみる。だけどやっぱり、コートはぴくりとも動かない。

「その、飛んでるやつは、どうやってんですか?」

「これ?」

 答えながら、あたしは今度は真上へ床を軽く蹴り上げて飛び、そのままふわっと宙に留まる。

「なんか、体が軽くなったみたいな感じかな。落ちなくてもいい、みたいな」

 知らないけど、テレビとかで観る限り、宇宙の無重力空間とかが、こんな感じなんじゃないかと思う。

「うーん、マスレスに近いんですかねえ。でも空中で制御出来てるしなあ。そもそも光速じゃないし。えっと、暑いとか、寒いとかは」

「無いよ」

「えー、熱はミクロにはカイネティックエナジーで、それがマスレスだと、んー? マスだけじゃ決まんねーのかな。有限温度系は時間を巻く……のは関係ないし。そもそも細胞の浸透圧とか考えると、なあ」

 おとーさんが、またあたしの知らない言葉を使っている。

「まあ、分かんねーです」

 そして、すぐに諦める。おとーさんは昔から結構、この「分かんない」って言葉を使うことが多い。

「おとーさんって結構、分かんないこと、多いよね。それで科学者とかやってけんの?」

「全部がもう分かっちゃったら、俺は飯を食いっぱぐれます」

 おとーさんは、首をゆっくり回しながら言った。

「まあ、いいや。追い追い分かってくこともあんでしょうし。じゃ、その服とかは? 着替えてんですか?」

「これ? これは、なんか周りに合わせて何時の間にか変わってるみたい。ブーツとかも全部、もともとあたしが持ってるやつで、北海道に来る時の荷物に入れておいたやつばっかだけど。て、ゆーか」

 おとーさんの視線が私の服に注がれてるのを見て、急に疑問が浮かんだ。

「なんですか」

「いま、あたし、何着てる?」

「はい?」

「えっと、だから、この着替えとか、あたしが『今着替えるなら、こういう服がぴったりだな』っていう服に勝手に変わってるのね。っていうか、死んだ時の服とも違うし。だから、なんていうのかな、見てる側の意思であたしの服まで変わってるというか、見る人によって違う服に見えたりしてないかな、とか、そういうことなんだけど」

 自分でも、自分の疑問をうまく説明できなかったけど、おとーさんは、

「ああ、観測者依存性ですか、なるほどね。なるほど、ね」

 なんか頻りに一人で頷いているから、たぶんあたしの疑問は通じてるんだろう。

「で、あたし、今どんな服?」

「ん、ああ、いつもの感じですよ、なんかふりふりしたやつ」

「それじゃ分かんないよ」

 なんて大雑把さだ。というか、あたしの持ってる服は、おとーさんに言わせれば、みんなその『ふりふりしたやつ』になっちゃうんだから、それじゃ意味ない。……たまには、ふりふりしてないのも、着て見せてあげてればよかったのかな。

「ああ、えっと、なんだ、白い長袖のブラウスで、腹のところで黒い太めのベルトで巻いてて、で、下のスカートは黒地に、なんかピンクでごちゃごちゃ描いてあるけど、なんだそれ、あ、そこに描いてあんの、プリンですかね」

「そう! これね、パフェがいっぱい並んでる絵なの! 可愛くない?」

 嬉しくなって、あたしはその場でくるりと回る。不慣れな体の軽さに勢いがつき過ぎたけれど、スカートの形は全然崩れない。

「ああ、じゃあ、見えてるのは同じ服っぽいですね。ふうん」

 そうそっけなく言いながら、少しだけおとーさんの目が細まっている。うん、とあたしは思う。どうやら、今のあたしに着られる服は、東京からの荷物としてこっちに送ってきているものだけらしい。五番目の季節に持ってきてる服は毎年、あたしの服の中でも、気に入ってるのばっかりだ。いつまでいられるか分からないから、毎日、可愛いやつから順番に着ていこう。それを、ルールにしよう。あたしは、心の中で、そう決める。


「で。……心残りとか、ありますか?」

 その後、少しだけ挟まった沈黙のあと、おとーさんが、真剣な目であたしを見ながら、尋ねた。

「やっぱり、成仏とかして、消えないと駄目かな、あたし」

 おとーさんのせっかくの問いかけをこう返すのは、すごく申し訳ないけれど、どうしたって、寂しい。

「いや、まあ、……えっと、少なくとも、まず、消えるとか成仏とか関係なく、もうまどかは現実に干渉出来ないんだから、なんかしたいことがあったら、俺を通すしかない、ですよね。だからまあ、なんかあるなら、とりあえず聞きますよ」

「んー、うーん」

 おとーさんにしては、あたしに気を遣ってすごく言葉を選んだんだろうけど、途中に挟まった『かんしょう』という言葉は分からなかった。でも、なんとなく、言いたいことは通じる。貰った暖かいものを失くさないように、あたしは胸に手を当てて、それからゆっくり考えてみた。

「えっと、まず、あたしは、本を返さないといけないんだ。あのね、青ちゃんって覚えてる? 昔からよくうちに来てた」

「んー? 葬式、来てました?」

「うん、おばあちゃんの右後ろに座ってた子。あの子にさ、本、借りてたんだ」

「あー、あの子ですか。なんか、すげえ遺影を睨んでたけど、なんか喧嘩でもしてたんですか? その喧嘩、その本を返すとかいうのと、関係あります?」

「いやいやいや、喧嘩なんかしてないよ。あの時に、なんであたしを睨んでたのかは分かんないけど」

 あれ? もしかして、関係、あるのか? あたしが、本、借りっぱで死んじゃったから?

「……やばし。青ちゃん、物凄く怒ってるかも」

「マジですか……。怒ってる人に本返すの、俺、嫌ですよ……。で、その本、どこにあんですか」

「あたしのこのハンドバッグの中」

 肩に掛かったままの半透明のバッグをぽんぽんと叩いて答えた。まあ、そんな音はしないけど。それを聞いたおとーさんは、壁際に置いてある、あたしの本型のショルダーバッグを手に取る。

「開けますよ?」

「うん」

 おとーさんがバッグを開けて、中を覗き込む。なかなか見つからないようで、やがて、右腕をバッグの中に入れて、ごそごそやり出した。

「あんま漁んないでよ」

「いや、本とか、ぱっと見、無いですけど? 本って、このバッグ自体じゃないですよね」

「そのバッグ、去年おとーさんと一緒に買いに行ったやつじゃん。忘れちゃったの?」

 あたしはそれ、東京でも北海道でも、幽霊になってからも持ってるくらい気に入ってるのに。いつも甘めの服ばっかりのあたしを、クラシカル風のそのバッグが、引き締めて、手を引いてくれるようで。

「いや、覚えてますけど。え、じゃあ、本ってどんなやつ? 大きさは?」

「えー、普通の文庫本だよ。一番広いところに入れておいたよ」

 そういってあたしは、半透明で自分の肩に掛かっている方のバッグを開けた。

「おやや?」

 そこに半透明になって入っていたものを確認して、あたしは思わず首を傾げてしまった。

「宿題じゃん、これ」

 そこにあったのは、バッグに入れた記憶のない、あたしの冬休みの宿題だけだった。これ、先に送っておいた段ボールの方に入れたはずなのに。携帯とかも入っていない。

「そう、こっちのバッグにも、数学のプリントとかなら入ってるんですよ」

 そう言っておとーさんは、あたしの持っているのと同じ藁半紙の束を取り出す。いつの間に、あたしの冬休みの宿題が、そんな意味ありげなところに現れたんだ? あたしが解剖されて燃やされている間にもう三学期は始まっていて、宿題の締切もとうに過ぎているのに? その代わりみたいにして消えた、青ちゃんの本は?

「え、じゃあ、段ボールの方は?」

「はあ、じゃあ、開けますよ」

 おとーさんが、段ボールの蓋をしていたガムテープを、雑に引き剥がす。その途端、押し込めたあたしの服が、弾けたように飛び出る。

「服ばっかですねえ」

 上の方に重なっていたワンピースとジャンパースカートを二、三着取り上げて、軽く畳み皺を伸ばしてから、おとーさんがクローゼットの中に架ける。一番上になっていたのが、今あたしが着ている、パフェ柄のだ。

「いや、架けても着れないし」

「まあ、せっかくだし、綺麗に、しておきたいじゃないですか」

 あたしに背を向けて、クローゼットの中を見ながら、おとーさんは言う。そんなことで、あたしが消えた後、ちゃんと遺品整理してくれるんだろうか。あたしの大事な服なんだから、ちゃんと大事に捨てて欲しいんだけどな。不安に駆られながら、あたしは床を蹴って段ボールへ取り付いて、中を覗く。ペンギンの縫いぐるみとか、バレッタなんかが入った小物入れがまだ上の方に重なっていて、底の方はまだ見えない。

「おとーさん、もっとあるから、早く」

 おとーさんの後ろに立って、腿の裏をぺちぺちと蹴った。おとーさんはほんとに鈍感なので、たまに、こうして蹴らないと駄目な時がある。

「早くしなさいキック!」

 もう、この体じゃ、蹴っても感触はないのだけれど。

「そう、ですか」

 振り返ってこっちを見下ろすおとーさんは、いつもの仏頂面で、あたしの頭をわしわしと撫でる。


「この縫いぐるみ、今年も持って来たんですか」

 段ボールの中から、おとーさんが両腕でフォースターくんを抱き上げる。フォースターくんというのは、このペンギンの縫いぐるみの名前だ。ずっと昔、おとーさんが付けてくれた。

「あたし、フォースターくんに取り憑いたりできないのかね」

 あたしはふわっと浮かんで、おとーさんが抱きかかえるフォースターくんの、目と目の間くらいのところに、座るようにして飛び乗った。必然、おとーさんにお姫様だっこされるような形になる。だけど、いつもはふさふさで柔らかいはずのフォースターくんなのに、今日はなんだかぺたぺたしていて、沈み込んでいくような感触も全くない。

「むりー」

 そう言って、あたしはすぐにおとーさんの腕の中から飛び降りて、床にぺたんと座る。その脇に、おとーさんの下ろしたフォースターくんが据えられた。そして、その横に、おとーさんが箱から取り出した、ビスケットの形をした小物入れや、ロールケーキを象ったペンケースなんかが積まれていく。おとーさんが魔法使いで、段ボールの中から幾らでもあたしの好きなものを取り出して、あたしを埋めてくれたらいいのにと思う。もちろんそんなことはない。あたしのおとーさんは、ただの科学者だ。

「あ、文庫、何冊か、入ってますよ」

 おとーさんが、段ボールの底に手を伸ばして、色とりどりの表紙を持つ数冊の文庫本を取り出した。

「や、それじゃないの。それ、読書感想文用にあたしが持ってきたやつ」

 これも、冬休みの宿題関係のものだ。これは、バッグの方には移動してなかったんだな。基準がよく分かんない。

「はあ。この本で、読書感想文書くんですか」

 おとーさんが、一番上の本をぺらぺら捲る。

「知ってんの?」

「昔に、読んだってことだけ憶えてます。なんか、小さい妖精が出てくるんですよね」

「そう。そっか、これも図書館に返さないとね」

 ちょっとだけ子供っぽい、あたしの持ってきたその本は、続き物の結構古い児童文学で、北海道に昔いたと言われている小さな精霊と、少年が交流するという話だそうだ。

「幽霊になってから、妖精とか精霊とか言うのも、おかしな話だけどね。むしろ地元の妖精とかには、新参者として挨拶に伺った方がいいのかな」

「さあ。会ったらよろしくお伝え下さいな」

 その本もまたあたしの周りに積み上げて、おとーさんがまた段ボールの上に身を乗り出す。

「これで全部ですねえ」

「え、ほんとにないの?」

 あたしも、おとーさんの頭上にぷかぷか浮いて、中を覗き込む。

「これ、違いますもんね」

 箱の隅に最後に残った、中の見えないビニール袋を指しておとーさんが言った。中身は下着とか、そういった類のものだ。何年か前に、ずけずけとその袋に触ってあたしに泣きながら怒られて以来、おとーさんはそういうのに気を遣ってくれるようになった。ちゃんと、言えば分かってくれる人なのだ。

「困ったね。本当に無いし。運ばれてる最中に落としたかなあ」

 その可能性はあるだろうけど、それでは、意味ありげにバッグに入ってた、冬休みの宿題に説明がつかない。……説明がつかない、なんておとーさんの使う言葉みたいだね。

「もう、一週間くらい経ちますからねえ。落としてたとしても、探すのはちょっと難しそうですね」

「まあ、無くなってたら、買って返せばいいものなんだけど」

「本のタイトルとか、憶えてます?」

「表紙見れば思い出すから、あとでネットで探してよ」

 あの、どうにも小憎たらしい表紙絵は、まだ憶えている。

「いいですけど」

 おとーさんが立ち上がって伸びをする。宙に浮かぶあたしも、おとーさんに目線の高さを合わせた。

「北海道だと、ネットで注文しても、届くまでちょっとかかりますよ」

「何日くらい?」

「二日見とけば大丈夫ですけど」

「ふーん。うちだと、朝に注文したのが夕方に来たりするけど」

「そういや、東京の住所で注文して、お母さんに代わりに返してもらうのも、原理的にはあり、なんですかね」

 何の原理か知らないけど、それじゃああたしは、ネットの通販ページで、あの表紙のライトノベルを探して、注文ボタンを押してもらうためだけに、幽霊になったのか? ……なんかそれ、あたしの未練と、違う気がする。というか、そもそも、あたしの未練は、青ちゃんに本を返すことなのか? この季節に、あたしが、自分のやることとして、ルールに決めたこと。思い出す。いつの間にか、あたしのバッグに滑り込んでいた、冬休みの宿題。毎年のあたしの、五番目の季節の、過ごし方。

「微妙ですか」

「微妙だね」

「じゃあまあ、本はとりあえず注文して、のんびり二日待ちますか」

「じゃなくて。あたしの、本当の、未練。本を返すのも、たぶん、そうなんだけど、違うんだ。えっとね、あたしが毎年、やるって決めてること、やってないのが、いけないんだ」

「ほほう?」

 おとーさんの変な相槌を無視して、あたしは続けた。

「あのね、あたし、毎年、ここで、冬休みの宿題、やってるんだ」

「やってますねえ」

「今年も、そのつもりでいたし、うん、えっと、楽しみにしてる、わけじゃ、ないんだけど、でも、毎年ここに来て、おとーさんと一緒に、宿題をやるってことは、あたしが、決めたことなんだ」

 考えながら長く話すのは疲れる。うっかりすると、そのまま成仏しちゃいそうだ。しないけど。いま思いついた、あたしの未練を、こなすまでは。

「たぶん、バッグの中に宿題が入ってたのも、そういうことで、えっと、だから、あたしの未練はきっと、この、冬休みの宿題を、こなすこと、なんだ。まあ、本は本で、注文しといて欲しいけど。でも、まず、宿題を、ここで、あたしは、やりたい」

 まさか冬休みの宿題が、現世の宿題になるとは、ね。でも、あたしの決めた、ルールだ。

「そう、ですか」

「それでね。おとーさんにも、手伝って、欲しいんだ。あの、本のページをめくるとか、そういうこともだけど、えっと、分かんないこと、ちゃんとおとーさんに訊くってのも、今年はやるって、あたし、決めてたんだよ」

「……そうですか。分かりました」

 いつもはあんまりあたしと目線の合わないおとーさんが、あたしの顔をちゃんと見つめながら言ってくれる。頑張ろう、とあたしは思う。

「いっぱい、訊くよ」

「人に教えるの、俺の本職ですんで」

「そうなの?」

 そういえば、おとーさんが科学者だってことは知ってるけど、大学に行って、具体的なお仕事として何をしてるかとか、全然知らない。

「一応は。大学教員ってことになってますよ。まあ、自分の研究が一番ですけど」

「ふうん」

 まず一つ、知れた。おとーさんのお仕事のこと。あたしの知りたいこと、訊きたいこと。この調子だ。

「えっとね、宿題、大体、今日入れて三日くらいで終わるから」

 五科目あって、大体三日分。冬休み前に書かされた冬休みの計画にも、そう書いた。その意味は、今よりずっと軽かったけど。二日後に、あたしは消える。今は、そういう意味になった。おとーさんにもその意味は通じたようで、下唇を噛みながら、ゆっくり頷いてくれた。

「それでね。その一日が終わるごとに、宿題のプリントと一緒に、あたしの着ている服、クローゼットに架かってる方だけど、燃やして欲しいんだ。そこのストーブで」

 そう続けて、あたしは、居間で燃えている薪ストーブを指す。

「……はい?」

「おとーさん、どうせ、あたしの服、捨てられないでしょう? だから。あたしが消えるまでに、少しずつ、あたしの目の前で。あたしだったものを、燃やしていって」

「いや、……でも。えっと、まず、有毒ガスとか出ますよね。その、化学繊維って」

「ほんとに?」

「多分、まどかが想像してるようには燃えないと思いますよ。どろって、融ける感じで」

「んー」

 科学者のおとーさんの言うことなんだから、それはたぶん本当なんだろうけど。でも、あたしは、おとーさんに燃やして欲しいのだ。もう決めた。

「どうしても、駄目?」

「まあ、駄目、って、わけじゃ。期待してるような燃え方はしないってだけですよ。有毒ガスの方も、まあ一人分くらいなら、ちゃんと換気すれば。……それに、有毒で困るの、俺だけですから」

 小さく自分で笑い飛ばしながら、おとーさんは言う。

「それは駄目だよ。ちゃんと窓開けて、やろう」

「寒いんですよ」

「あたしは寒くないから」

「じゃあ、まあ、いいですけど」

「うん」

 顔を見合わせて、二人で、はにかむように笑う。

「んー、ちょっと待って下さいね。一応、確認、しますから」

 そう言っておとーさんは、またクローゼットの中からあたしの服を取り出して、裏側のタグを覗き込んだ。

「裏とか、あんま見ないで」

「あれ、この服、綿百パーセントだ。それなら燃えるかもですねえ。ふうん。じゃ、えっと、明日はどれ着ます?」

「ひみつ」

「はい?」

「明日は明日のおたのしみ」

「なんですか、それ」

 そう言っておとーさんは、苦笑いを浮かべる。いつの間にか十六時をまわっていて、この季節の短い日は暮れようとしていた。今日の次の日は、明日だ。薄暗くなっていた部屋を、おとーさんが点けた蛍光灯が明るく照らす。半透明のあたしの体を、光線が突き抜けていった。


「数学、やる」

 宿題のプリントも、普段使っているペンケースも、半透明になってハンドバッグの中に入っていたから、これは一人でも出来そうだ。使うものをバッグから粗方床に放り出した後、その真ん中にあたしは俯せに寝そべって、宿題の準備を始めた。ロールケーキの形のペンケースの中に、何年も前におとーさんに貰った、飾り気のない銀色の細いシャープペンが入っている。小学校でシャープペンを使うのが駄目だった頃からずっとこっそり使っていて、最近ようやくその重さが手に馴染んできた。これを使っているのを見ると、おとーさんは毎年、呆れたように「物持ち、いいですねえ」と言う。

「うむ。貰い物だからね。大事にしないと」

「貰った、って。帰る時にこっそり取っていって、東京に戻ってからメールで『貰ったから』って言ってくるってのは、貰うとは言いません」

「親の躾がなってなかったんだねえ」

「それは……。すみません」

「いやいやいや、謝らないでよ。ただでさえあたし、親不孝してるんだし」

 おとーさんは、あんまり冗談が通じない。科学者だからだ。

「じゃあ、分かんないことあったら、訊くから。おとーさんもお仕事とか、してて」

「んー。とりあえずは、まどかのベッド、組み立てますかね」

 そう言って、おとーさんは、部屋の隅に立てかけてあるベッドの部品の中から、まずその足を一つ手に取る。

「別にいいよ。あたし、どこでも横になれるし。なんなら宙に浮いてればいいしさ。ほんと、明日から、おとーさんにもいっぱい手伝って貰わないといけないし。おとーさんはおとーさんのこと、してて」

「んー。大学は今年もう授業無いですし。適当にメールで連絡取れれば、あとは家でも大学でもどこにいても大丈夫なんですよ。国内にいる分、普段の出張より、お仕事的にはしやすいくらいですよ」

「そうなの?」

 そう言えば、年に何回か、おとーさんの出張土産として、ヨーロッパのお菓子とか縫いぐるみとかが送られて来る。そんなことするより、北海道土産を持って東京に来てくれた方がずっと嬉しかったのに。

「まあ、それに。忌引なのは、間違いないですし」

「ふーん。じゃあ、あたしがいる間、ずっと家にいてくれるの?」

「というか、下手に元気に外に出てるとこを見つかる方がアレですね。東京にいることになってんので」

「そーなんだ。じゃあ、三日間、よろしく、お願いします」

「はい。こちらこそ、ですね」

 そう言っておとーさんは、またベッドの組み立て作業に戻っていった。組み上がったベッドの四隅に支柱を立てて、それにカーテンレールを渡し、薄紅色のカーテンを架ける。最後に、その支柱とカーテンレールに造花なんかで飾り付ければ出来上がりだ。あたしは、おとーさんが手を伸ばして高いところに薔薇の造花を据え付けているその背後で、おとーさんの指の高さまで浮き上がった。

「それ、斜めってる」

「……そういうデザインなんです」

「うそだよね」

「まあ、嘘ですよね」

「うそキック!」

 おとーさんの二の腕を、爪先だけが当たるように空中で何度か軽く蹴る。

「いいから、勉強しなさいな」

 軽く払い除ける仕草だけしながら、おとーさんは薔薇の向きを変えた。その背中に、あたしは続けて声をかける。最初から、これを訊きたかったのだ。

「あのさ、円錐の体積の公式の『割る三』って言うのって、正確に三なの?」

「え、ああ、勉強の話なんですか。三、ねえ。あれはー、積分の定数キャンセルなんで、正確ですよ。次元を落とすと、円周長の二πrってのの二と同じですね」

 おとーさんは、数学とか科学のこととかを考える時だけ、天井の何もないところを見る。

「きゃんせるとは」

「相殺、ですね。何だろう、出てくる三を約分して消すのに、予め三で割っとくんです」

「ぱいあーるとは」

「えっと、だから、積分の時に出てくる定数キャンセルっていう意味では、円周を求めるのには直径使って、面積求める時は半径を使うのは何故か、ってのと同じ程度の話、だと思います。あんま理由とかはアレですけど」

「せきぶんとは」

「積分ですか。微小量の足し上げ、微分の逆操作。この場合だとnフォームからc数への写像、だと基底で展開した行列のデターミナントで一意に定義出来るか、なー?」

 また知らない言葉を一人でぶつぶつ呟きながら、おとーさんが首を傾げてしまった。あたしとしては、知らない言葉をそのまま口に出してみたら、次々おとーさんが答えてくれるのが、既に楽しい。せきぶんとか数学とかは、もうあんまどうでもいい。そして、今どうでもいいことは、あたしにとってもう、一生どうでもいいことだ。あたしは、もう一つ、付け加えて知らない言葉を訊いてみた。

「父娘愛とは」

「……それ、知らない、ですかね」

「……ごめん。勉強、教えてくれて、ありがと」

「いえ。あんまちゃんと答えられた気がしないですけど。じゃ、続き、頑張って」

「うい」

「はい」

「父娘愛キック!」

「はいはい」

 一通りおとーさんの前脛をぺちぺち蹴ったあと、あたしはまた、床に寝そべって半透明のシャープペンを握り直した。楽しいな、と思う。


「できたかなー」

 プリントの最後の問題の欄を埋めて、あたしは立ち上がって、両手を高く伸ばしながら言った。

「ぐぅー、天に吸われるー。成仏するー」

「やめなさいな」

 すぐ横に座って、上からあたしの宿題が終わるのを見ていたおとーさんが、軽い口調で言ったあたしの冗談を窘める。

「まあ、合ってますよ」

 おとーさんにとっては凄く簡単なはずのあたしの宿題を、おとーさんは数時間、飽きもせずに見ていた。ずっと黙っているのに、あたしが間違えた時だけ何か言いたそうにするから、言われる前にあたしも気付いてしまう。でも、笑いを堪えながら気付かないふりをしていると「えっと、半透明でよく見えないんですけど、そこ、十二って書いてます?」なんて切り出してくるから可笑しい。

「そーいや、おとーさん、ご飯どーしたの?」

「んー……ああ、そういや、俺、腹、減ってますね」

「他人事みたいに」

「食べるの忘れちゃうんですよ、よく。まどかは、ご飯、食べなくていいんでしたっけ?」

 その言い方を聞いて、あたしはちょっと微笑んでしまう。『食べなくていい』だと、なんか、幽霊になったのが得してるみたいな言い方だ。『食べられない』より、ずっといいと思う。

「食べなくてもいいんだけど、お茶碗に箸を刺しておいてくれたら、食べられるかも」

「嫌ですよ」

「えっと、気にしないで、好きに食べてくれていいよ。あたしも見てるし。お腹減らないから、美味しそうに食べてるの見てたら、あたしはそれで充分」

「それは難しいかも知れませんねえ……」

 そう言い残して、おとーさんは居間に出て行った。と、片手に小さな箱を持ってすぐに戻ってくる。おとーさんが手に持っているのは、掌サイズの黄色い箱に入った、有名な固形栄養補助食品だ。歩きながらもう箱を開けて封を切り、もそもそと頬張り始めている。

「それ、夜ご飯なの?」

「まあ」

 ぱさぱさしたそれを喉に押し込んで、おとーさんが短く答えた。傍から見てるだけで喉が渇きそうだ。渇かないけど。死んでるから。

「いつも、夜ご飯、それ?」

「そうですよ」

「……美味しい?」

「まあ、いつもと同じ味ですかね」

「あの、いっつも、同じ味の食べてるの?」

 おとーさんが今食べているチョコレート味の他にも、このシリーズにはチーズ味だとかメープル味だとか、何種類かあったはずだ。

「こないだ、まとめ買いしたんですよ。うちに今、この味ばっかり三十箱くらいあります」

「あたし、一生ぶん全部合わせても、そんなに食べなかったよ……? 三十箱て」

「十二メガカロリーですよ。はっはっは」

 一人で何か言って一人で笑ってる。おとーさんのギャグは何が面白いのか分からない。科学者だからだ。

「大学でも、それ食べてんの? 大学って、なんか食堂みたいのあるんでしょう?」

「ありますけど、いやまあ、カタログスペック的には、これを三食食うに越したことはないんですよ」

 そう言いながらおとーさんは、何故か自慢気に、箱に書いてある栄養成分表示の欄を見せてくれる。もちろんあたしには、それらの数字がどのくらい凄いのかは分からない。でもきっと、おとーさんが信用してる数字なら、それは凄い数字なのだろうと思う。別におとーさんが凄いわけではないので、おとーさんが胸を張る意味は分からないけど。そんなことを言っていると、箱を持つのと逆の手で食べ続けていた、ぼそぼそしたクッキーみたいなそれは、もう無くなってしまっていた。

「はい、ご馳走様でした」

「え、うん、お粗末様でした」

 なんだか、えらく満足げなおとーさんの顔を見ていると、食生活を云々言う気力も削がれてしまう。去年までは、ここに来る度に、何度かおとーさんに手料理を振る舞ってあげたこともあったけれど、今ではそれも叶わないし。

「大体これで、一日やること、終わりましたかね」

「そだね。あと、一つだ」

「……ほんとに、燃やすんですか」

「うん。あたしのこの服、クローゼットから、出して」

「はい」

 おとーさんが、さっき自分で折り皺を伸ばして、綺麗にクローゼットに架けた服を取り出していく。その上に、半透明じゃない、白紙のままの宿題のプリントを乗せた。

「カチューシャとタイツと、ブラとパンツも」

 そういってあたしは、さっきおとーさんに触られるのを嫌がった、自分の下着の入った袋を指し示す。両手にあたしの服を抱えたおとーさんは、言葉を発さないままそれらを一度床に下ろして、渋々その袋の中身を開ける。

「その灰色の、上と下とでセットのやつ」

 あたしが指した下着の端っこをつまんで、床に置いておいたスカートやブラウスの間に差し込んで見えなくする、おとーさんの姿が微笑ましい。

「さ、忘れ物はないかな?」

 辺りを見回しながら、いつもの着替えの手順を頭の中で再生して、足りないものがないことを確かめる。

「行こっか」

 とん、と床を蹴って、隣の居間の、薪ストーブの前に浮かぶ。おとーさん自慢のこのストーブは、すらりとした四本の足の上に、ちょうど体育座りしたあたしがすっぽり入れるくらいの大きさの、鉄で出来た黒い箱が乗っていて、その箱の中で火が燃えるという仕組みだ。箱の前側の面はガラス張りになっていて、今も揺れる炎が見えている。普通の焚き火なんかで見るような全体が一気に燃え上がるような炎と違って、橙色の薄い絹がゆらゆらとはためいているような炎になる、というのがおとーさんの自慢らしい。一応窓を開けて換気を確かめて来たおとーさんが、薪を足す時に付ける耐火手袋をして、その正面のガラス扉を開けた。一瞬だけ煙が部屋に流れ込んで、火が大きく揺れる。

「じゃあ、燃やしますからね」

「うん」

 真っ先に入れたのは、現実に残っている方の宿題のプリントだ。その解答欄は未記入のままになっていた。揺れる炎の隅をかすめたプリントが、あっという間に真っ黒い煤になって、炎の中を舞う。そして、火がちゃんと燃え移るのを確認しながら、一枚ずつ、あたしの服がストーブの中に押し込まれていく。あたしは、火を操作するおとーさんの後ろに浮かんで、そこから、あたしの大好きだった服が燃えていくのを見ていた。服が全部灰に変わるたび、半透明のあたしが着ている方の服も、どこかへ消えていく。下着類だけは素材が違うらしくて、夕方におとーさんが言った通りあんまり燃えず、どろりと融けて、ストーブの底に溜まった他の薪や灰にまとわりついていた。やっぱりあんまり良くないガスが出たみたいで、炎と間近のおとーさんは、手袋をした手で口を押さえて咳き込んでいた。あたしは、その背中に声をかける。

「だいじょぶ?」

「ごほ、ごほっ、まどかっ」

 振り向いた視線が、いつの間にか全部が燃えて全裸になっていたあたしに気が付いて、そのまま逸らされる。あたしは嬉しくなって、そのままおとーさんの頭上に浮かび上がってから言った。

「ねえ、おとーさん。あたしのこと、愛してるって、言って」

「まど、か……?」

 その視線が、あたしの顔に戻された。

「あたしはね、おとーさんのこと、愛してるよ。ねえ。貴方と迎える五つの夜に、幾億の詩を贈りましょう」

 用意された台詞を誰かに言わされているみたいな、不思議な昂揚感があたしを包んでいた。

「また明日だね、おとーさん。今日はありがと。お休み。愛してる」

 言葉のないままあたしを見上げるおとーさんをそのままにして、あたしは宙で体を翻して、自分のベッドへ飛んでいった。天蓋カーテンをすり抜けて、裸のままベッドの上に転がる。枕元には、おとーさんが縫いぐるみのフォースターくんを置いておいてくれていた。布団も枕もフォースターくんも、この体には硬すぎたけれど、あたしは気にせずに、そのままベッドの上で何度も寝返りを打っていた。

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