The 5th season

椎見瑞菜

1


その日は雨が降っていた。『止まない雨はない』なんて唄は、雨の日に死んだ奴のことなんか考えちゃいない。大体そんな理由で、僕らはバンドを結成した。


 ぱたん。あたしは、読み始めたばかりの本をあっさりと諦めて閉じた。本を読み始めた時に頭の中から弾き出した周りの喧噪が、またすぐにあたしの耳に戻ってくる。轟音。乗っている飛行機が、滑走路を走り出した。ぱらぱらと雨の降る窓の外を一瞬だけ眺めてから、あたしはまた、目線を手元の文庫本に戻す。まったく、誰に向かって拗ねてるんだか格好つけてるんだか知らないけど、最初の一文からして酷く自分勝手な文体だ、とあたしは思う。閉じた本の表紙には、この物語のヒロインなのだろう、アニメ絵の美少女が、ドラムスティックを手にして、なんだか意味はよく分からなけど躍動感だけはあるポーズをとっていた。典型的なライトノベルの表紙だ。文体が憎ければ表紙絵まで憎い。

 ブックカバー、やっぱり、かけてくれば良かったな。出かける前にも一度、そうしようかと迷ったのを覚えている。その時にそうしなかったのは、この本を貸してくれた青ちゃんに、なんか悪い気がしたからだ。青ちゃんは、あたしの仲のいい友達だ。ちょっと本の趣味は合わないけれど。だから、青ちゃんが好きで貸してくれた本を、恥ずかしいものみたいに扱って、ブックカバーに隠すのは、なんか嫌だと思った、んだけど。

 結局あたしは、その小さな文庫本を、そそくさと自分のショルダーバッグの中に戻すことにした。ダークブラウンの、古い洋書の形を摸したバッグだ。金色の留具を外してその表紙を開けると、中が空間になっている。その中に文庫本を滑り込ませてまたバッグを閉じると、なんだか本が本を共食いしているみたいで微笑んでしまう。

 そのショルダーバッグを前の座席の下に足で押し込んで、手持ち無沙汰になったあたしの耳に、刺すような痛みと、突き抜けるような上昇音が飛び込んで来た。離陸。機体の傾きで座席の下から転がり出そうなショルダーバッグを足で押さえながら、あたしは、ぐっ、と唾を飲み込んだ。少しだけ、耳の痛みが楽になる。

『耳の中と外とで気圧差が生じているんで、唾を飲み込む時の運動で、耳を開いてやるんですよ』

 そう教えてくれた人の声を思い出す。理屈だ。あたしが必要なのは、こういう時にはこうしたらいい、みたいなことだけなのに、あたしにこういうことを教えてくれる人は、原理やら理屈やらから全部説明したがる。これから数日間もきっとそうなんだろう、と思うと、あたしは少しだけうんざりして、少しだけわくわくする。知らないことを知ることは純粋に楽しいけど、それは、知りたいことを知る時だけだ。そして、それが、おとーさんがあたしに教えたいことと一緒なことは、あんまりない。たまにはある。それを増やすためには、あたしがおとーさんに、自分の知りたいことをちゃんと訊けばいいんだって気が付いたのは、去年、おとーさんの家から東京に帰ってくる、飛行機の中でだった。今年は、とあたしは思う。今年は、ちゃんと、しよう。

 毎年あたしは、冬休みの終わり半分、年が明けてからの数日間を、北海道に単身赴任しているおとーさんの家で過ごすことにしていた。あたしのおとーさんは科学者で、何年か前の秋から、北海道にある大学でお仕事をしている。その時、あたしとおかーさんは東京に残った。それ以来おとーさんとおかーさんは、殆ど会っていないと思う。確かにその時のあたしも、受かったばかりの中学校から転校するのは嫌だったけれど、なんだかそれが、おとーさんと青ちゃんとかの友達とを比べて、おとーさんを捨てて青ちゃんをとったみたいで、凄く嫌だった。だから、あたしはルールを決めた。毎年冬休みには、ちゃんとおとーさんのところに行く。冬休みの宿題を持って。そして今年からは、わかんないところをおとーさんにちゃんと訊こう。それも、あたしの決めたルールだ。

 北海道の冬は寒い。まず、雪の量が意味分かんない。誰が何のために作ってるのか知らないけれど、北海道には歩道と車道の間に雪の壁が立っている。あたしの背より高いのもそこら中にあったりして、ちょっと怖い。しかもその雪の壁、あちこち犬のおしっこで黄色くなってて、凄く汚い。あと、北海道の冬は、暑い。屋内とか電車の中とかの暖房が、冗談じゃなく暑いのだ。ちょっと厚着をしていると、じんわり汗が浮かぶくらいだ。外は痛いくらいに寒いのに、本当にどうしていいのか分からない。きっと、あたしの知らない、何か違う規則で北海道の冬は運用されているのだ。東京の冬とは、別物。大体そういうのが、毎年、東京の冬の真ん中から、あたしだけが迎える、北海道の冬。五番目の季節だ。あたしが今、飛行機で向かっているところは、そんなところ。


 機長さんからの注意のアナウンスがあって、それから機体が大きく揺れた。飛行機が、雨雲の中を通り抜けていったのだ。その揺れが収まると、窓の外には青空が広がっていた。眼下には、どこまでも続く白い雲が波打っている。さっきまでの雨粒が、今は凍って窓ガラスに貼り付いていた。……この窓、ガラス、なのかな。ガラスだったら、割れちゃいそうな気がするけれど。これも、後でおとーさんに訊いておこう。こんこんと、爪の先で窓の内側を叩きながら思っていると、飛行機の進む方向に、虹が架かっているのが見えた。あたしは息を吸って、そのまま止める。あたしはいま、虹に向かって飛んでいる。自分で気に入っているピンクのワンピースを着て、大切なショルダーバッグを抱えて、その中には、大好きなお友達が貸してくれた本が入っていて、虹の向こうの、おとーさんのところに、時速何百キロという速度で、飛んでいる。おとーさんの家には、一昨日に予め送っておいた、一週間分の服と、冬休みの宿題が届いているはずだ。なんだかふとあたしは、すごく、いま、幸せだと思った。




 そして、その幸せに包まれたまま、あたしは死んだ。何の前触れもなく、何の理由もなく。

 座席の中でぐったりとした、様子のおかしいあたしの身体に気が付いて、客室乗務員が声をかけてくるのを、あたしはその一メートル上空から見下ろしていた。無重力空間にいる宇宙飛行士みたいに、あたしは飛行機の中をぷかぷか浮いていた。自分の右手を見ると、少し透けているけれど、さっきまで着ていたワンピースを着たままになっていて、たぶんあたしは、自分が幽霊とやらになっているんだなと思った。あたしは幸せなままだった。さっきまで抱えていたあのショルダーバッグも、透明感を新たに備えて、あたしの肩にかけられていた。あたしの肉体も、現実のそのショルダーバッグを抱えたまま死んでいる。あたしはなんだかそれで、前に青ちゃんに借りたロールプレイングゲームで、バグを利用して主人公の持つアイテムを幾らでも増殖させる裏技があったのを思い出す。

 不自然な姿勢で目を閉じているあたしの肉体に触れようと、あたしは自分の張り付いていた飛行機の天井を蹴って、手を伸ばした。今の幽霊のあたしは、周りの人からは見えないみたいだった。あたしの肉体はひんやりとしていて、青ざめていて、重たくて、死んでいた。機内が騒然とし始めた。機内放送で呼ばれて駆けつけた医者が、シートベルトを外して床に寝かせたあたしの肉体に心臓マッサージなんかを施している。でも駄目だ。あたしは死んでいるんだ。

 予定通りの北海道の空港に着陸した飛行機から、あたしの肉体は救急車で病院に運ばれていった。そんなに急いでもあたしは死んでいるのになあ、と、ちゃっかり救急車に同乗したあたしは、のんびりと窓の外を見ながら思った。救急車の窓は曇っていて、空港の近くの畑ばかりの土地に積もっているはずの雪は見えない。飛行機の外に出た時から、あたしはいつの間にか、座席の上の棚に仕舞っておいたはずの、イヤーマフと白いケープコートを身に纏っていた。何もかもが白かった。ゆきも、まどがらすも、きゅうきゅうしゃも、はくいも、あたしのコートも。今年も来たな、北海道、とあたしは思う。五番目の季節だ。




 その日は雪が降っていた。五番目の季節にはいつだって雪が降っていて、『止まない雪はない』なんて唄は、誰にも歌えなかった。雪の日に死んだあたしは、その季節がとても好きだった。大体そんな理由で、あたしは幽霊になった。


 タイトルコール。

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