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 もっと、色んなことが上手くできるようになりたい。僕はそう思っていた。そして、いっぱい練習していっぱい学んで、あらゆることが上手くできるようになったら、何かになれる気がするのだ。僕は、何かになりたかった。


「いや、そこまで全部覚えなくてもいいんだけど」

 隣に座って、僕のプレイするテレビゲームの画面を見ながら、未都子が言った。今やっているのは、難しいことで有名な2Dシューティングゲームだ。シリーズ物の最新作だが、初代はかなり古くからあるらしい。

 未都子は若くして声優になるだけあって、小さかった頃からマンガやゲームなんかに親しんでいて、大概のジャンルのテレビゲームも、エンディングを見るくらいまでなら、発売直後に一人でこなせてしまう。その点、彼女と一緒に棲むようになって、十数年ぶりに家にテレビゲームの本体を置くことになった僕は、彼女に教えを請うことが多い。対戦していい勝負になるのは音楽ゲームくらいだ。まあ、かなりの枚数のCDを売る歌手と、ゲームとはいえ音楽でいい勝負ができてるというんだから、それはなかなかのことかも知れないけれど。

 そんなわけで、僕らは実際に一緒にテレビゲームをやることは少ない。夕食後に、未都子がプレイしているのを隣で見ていることは多いけれど。最初はなかなか、プレイ中に話しかけてもいいゲームと駄目なゲームの区別がつかなくて、よく怒られたものだ。その気持ちが分かるようになったぶんだけ、自分でプレイしてみるようになった甲斐がある。

「最初に死ぬだけ死んでぱっと慣れて、反射神経でだいぶやれるとこまでいってから、ざっと流れだけ押さえて、それでどうにもならないとこだけ覚えればいいよ。クリアするだけなら」

「そうなの?」

「スコア安定させようとか言うと、ちゃんとルート作って覚えてっての要るけど」

 ゲームオーバー画面をそのままにコントローラを置いて、手元に広げた雑誌の攻略記事を眺める。雑誌の後ろの方に未都子のインタビューが載っているというので事務所から送られてきた雑誌だが、もう折り目は違うページの攻略記事についてしまっている。そこには、ポイントごとに撮られたキャプチャ画面でステージが記してあって、自機をどこに移動させておくべきかが細かく矢印で指示されている。これを全部覚えて、この通りに挙動を制御するのが一番簡単な攻略方法だと思ったのだけれど。

「でも、あっという間に上手くなったよね。初めてやるシューティングがこれとか、最初どうかしてると思ったけど」

「まあ、隣で見てて、やり方さえ分かればクリアできないもんじゃないってのを知ってたってのが大きかったかな」

 あとは、インターネットやら雑誌の攻略記事やらを使って、そのやり方を知って実践するだけだ。

「なんかズルくない? いっつも、なんでもすぐできるようになるよね」

「なんでもって」

 子供っぽい言い方を選ぶ未都子に破顔してしまう。

「ゲームもそうだし、家事もそうだし」

「それ、どっちも未都子が教えてくれたやつでしょう。実際、今でも未都子の方が上手いし」

 未都子は、自分の知ってることなら訊けば大体なんでも教えてくれる。例えば、女性の下着を洗濯する際に気をつけるべきことだ。

「上手くなる速さの問題だよ」

「そうかなあ」

「なんかこれまで、やってみて全然できなかったこととか、ないの?」

 いよいよ話が逸れてきたので、僕も今日のところは諦めて、ゲーム機の電源を切る。

「いや、でも、最初に道具とか揃えて、教えてくれる人に教わったら、普通なんでも、そこそこできるようになるもんじゃないの?」

「何それ! 天才肌か!」

 声だけ怒っているけれど、未都子はなんだか嬉しそうだ。彼女は、僕が何か新しいことができるようになるたびに、とても楽しそうな顔をする。

「実際、そこそこまでしか、できるようになんないしね。ちゃんと練習したら練習しただけ成長したの、ピアノくらいのもんだよ」

 ピアノだって、その価値も分からないまま、本格的に人について習うのはもう、中学生の頃にやめてしまった。その頃どころか、ほんの最近までは気が付かなかったけれど、『そこそこ』にしか上手くならないような色々な事柄が、僕にとってセンスのない事柄で、それに気付いてみると、その範囲は思いのほかに広いものなのだった。

「ほんと、なんでもなんか、全然できないって」

 その、できるようになる『そこそこ』というのが、たまたま未都子の審美眼に叶うレベルになっているだけだ。



 二階席、ステージ向かって一番左の一ブロックが今回の関係者招待席だ。ちらほら埋まり始めている下の階のアリーナ席なんかとは違って、少しフォーマルに揃えた服装の人たちがまばらに座っている。指定された席を探すと、その隣に既に座っていたのは知った顔だった。

「柏木」

 未都子の妹で、僕を未都子に紹介してくれた人だ。紺のワンピースが、一緒に働いていた頃のことを思い出させる。

「うす」

「今日は、親御さんは?」

 席に腰を下ろしながら、真っ先に気にかかることを尋ねた。

「あとからお母さんだけ。ビビりすぎだよ、もう一年も同棲もしてんのに」

「だからだよ。よろしく言っといて」

 未都子の実家はうちから電車で一時間くらいで、同棲を始める時に挨拶に行ってから、ことあるごとに顔を出すようにはしているつもりだ。そんなに悪い印象を持たれてはいない、と思う。

「うん。控え室、行った?」

「いや。出かける時に一緒に外で飯食ったし、なんかわざわざ会いに行くのもね。今回、知らない人もいっぱいいるし」

 今回は未都子の単独ライブではなくて、何人かの歌手や声優が集まった合同のものだ。未都子の出番は最後の方で、歌うのもせいぜい三、四曲らしい。

「そっか。まあ君ら、自分ちが控え室みたいなもんか」

「まあね」

 適当な相槌で会話を打ち切った。


 わん、つう、くる、って、まわって、んたたん、ほいほいっ。

 未都子が家で練習しながら口に出していた拍の取り方は、僕の方でもすっかり覚えてしまって、ステージで踊る未都子に合わせて口をついてしまう。普通に踊っているはずなのに、肘や膝の曲げ方、指先の表情で、他の人に見えているよりもう一段階細かい、彼女だけが刻む拍がそこにあることを気付かされる。それがいつもの未都子の不思議な振り付けだった。妖精のように軽やかに。両耳の上で少しだけ束ねた髪の房が、体を回すたびに羽根のように遅れて流れる。ステージでは、特に指定しないと何故かよくこの髪型にされるそうだ。

 歌っているのは、桐川真那が作詞した『ふわふわしかしてない』。スピーカーから前奏が聞こえてきた時には、数曲しかない今回の出番にまさか、なんのタイアップもないカップリング曲を持ってくるか、というどよめきが上がったが、更にイントロの途中で、ステージにその桐川真那が登場したことで、より場の盛り上がりが増す。今回だけの特別デュエット版ということらしい。

 こういうジャンルのライブは、付き合い始めてから来るようになったけれど、観客のリアクションの意味とその無意味性がようやく分かってきた気がする。どれもキャッチーなメロディで同じに聞こえる曲ばかりだけれど、未都子に言わせれば、自分で歌詞でも書かない限り、歌っている方でもそれは同じらしい。ただ、それがライブやラジオでどんな取り扱い方をされるかに従って、ファンと共有する文脈や思い入れみたいなものが積み重なっていって、それがその曲の意味になっていく、という感覚だそうだ。


 桐川真那の上段から斬りかかってくるような芯のある歌声に、ふわっと一瞬だけ広がるような未都子の声がユニゾンで彩りを添えていた。情感の篭もった桐川真那の歌を補完するように、いつもよりテンポ感の方を意識しているようだ。

 二の腕までの袖の白いブラウスに重ねた、明るいオレンジの、細かいギンガムチェックの入ったミニのエプロンワンピースが、柏未優卯の幼さを強調しようとしていた。

 遠くから見る未都子の顔は、ライトアップに晒されて真っ白にしか見えない。ステップを踏むたびに、問題なく練習通りにこなせていることを確認していくようだった。聴いていても、音楽ゲームみたいに、譜面が流れていくような感慨を抱いていることに、自分で気が付く。なんだろうな、これ、と思った。何かを考えようとしたけれど、曲のリズムに押し流されて上手く思考がまとまらない。

 そのまま曲は、桐川真那がメインボーカルを張る『私の首を絞めに来て』に移る。未都子はコーラスを務めるパートが多くなっていた。自分の曲の時よりも、更に透明感の強い声色を使っている。音程が急に飛ぶときのしゃくり上げるような癖などが意識的に消されていて、その匿名性が透明感の一部となっていた。僕はなぞるようにそれだけを追っていた。未都子は色んな年齢の色んな役柄を演じ分けることができるけれど、どの役でどんな声を使っても、それが柏未優卯であることが分かる声色の芯のようなものを必ず出せていた。その芯のようなものが今回は、この透明感のある歌声を、残り香のようにだけ印象づけている。気付かないうちに過ぎ去ってしまう、気付かないといけないものがあるような気がした。


 終幕後、柏木家の人との挨拶もそこそこに、僕は急いで帰路についた。何かを追いかけるみたいに。弱い雨が降っていた。冷たくない雨粒を通じて、自分以外のものとの境界を共有しているような感覚があった。色々なものがやわらかで曖昧な夜だった。

 帰ってきたのは、誰もいない部屋だ。未都子だってこれから打ち上げだから、数時間は帰ってこない。


 遠くで車の走る音が聞こえる。居間の真ん中の箱の中に身を入れた。

 箱の中に、未都子がたまに使う香水の匂いが、少しだけ漂っていた。出かける前、僕の気付かない間に箱の中にいたのだろう。普段使いとは違う香りだけで、未都子の意思のようなものすら伺える。だけれど、あの、遠くのステージでライトに照らされていた柏未優卯と、同じ人だということを上手く結びつけられない。それに、一人になれるはずのこの箱の中にすら、未都子の一部が漂っているようだった。真っ暗な箱の中が、空っぽになった後の宇宙を摸したプラネタリウムみたいだと思った。

 未都子の香水の匂い、唇の荒れ、性交の時の性器のアンモニア臭、洗面所に落ちているファンデーションの粉、顔中をキスだらけにされた時の乾いた唾液の臭い、思い出せるのは、人としての未都子ばっかりだった。どこにも妖精の要素がなかった。一つ一つに湿度があって、つまり重さがあって、それらは全て足元に落ちていくべきだった。未都子の指が僕に触れる時の、皮膚より上、産毛を撫でて温度と気配だけを押しつけてくるようなやり方は、生き物にしかできないものだった。僕の言葉の一つ一つで喜んで、泣いて、笑って、その表情の移り変わる合間の顔はとても不格好で、誰も柏未優卯の表情として写真に撮ったりはしないものだった。

 どうしようもないくらいに未都子は妖精ではなくて、そんな未都子のことが好きな僕も、恐らくは妖精ではなかった。僕たちは湿度と匂いを使ってしかお互いを愛せなかった。そのことの意味を考えると、僕はたまらずに、箱の中に嘔吐した。吐瀉物の湿り気と臭気が、ふわふわと宙に浮かび上がろうとする柏未優卯の爪先を、また搦め捕ろうとしていた。そのまま、やさしさの微温で、彼女の白くて薄い羽がチョコレートみたいにやわらかく溶けた。


(了)

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しばらくほっといて欲しい人が入る箱 椎見瑞菜 @cmizuna

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