第10話 血の同盟

 ぼくの傷ついた左手を手当てしながら、アフロディーテは時折、幸せそうな目でぼくを見上げてくれた。ぼくはそれだけで心が満たされたし、不思議なことに、葡萄酒を舐めながら炎に当たっているヘパイストスもまた、どこか満足げだった。

 そのとき不意に、大窓の方から、聞き慣れた声が響いた。

「あれ? 丸く収まっちゃったんだ、つまんないの」

「アテナお姉様」

 ぼくも、他のふたりも心底びっくりしたようで、ヘパイストスは危うく、彼の愛用の頑丈な椅子から転げ落ちそうになったほどだった。

 雲母と水晶で張られた美しい明かり取りの窓の向こうには、夜の闇でも隠せない黄金の塊、ぼくの姉、戦の女神アテナが、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。

「いつからそこにいたの?」

「ずっとよ。いつあんたとヘパイストスの殺し合いが始まるかってわくわくしてたのに、なんで和解してるのよ。まったくもう」

 アフロディーテが慌てて窓の掛けがねを上げると、姉はにっこり笑って礼を言った。

「ありがと」

 そして彼女は、開かれた窓から部屋へと入ってきた。大人の腰ほどの高さのある窓枠など、軽々と飛び越えて。まるで、山猫か豹のようにしなやかで優雅な身のこなしだった。

 それから姉はぼくの方を向き、人差し指をぼくの鼻先に突きつけて、勝ち誇った顔で笑う。

「あんたがあたしに隠れ鬼や鬼ごっこで勝てたことなんてあったっけ、アレス。あんたのあとをつけるなんて、簡単なものね」

 とても信じられないことだった。燃え盛る暖炉の明かりと、いくつも照らされたランプのせいで、窓の外もかなり広く敷地が見渡せる。

 しかし、強い光があるところには必ず濃い影もできるものだ。

 ぼくは、アテナお姉様がどこに潜んでいたのかをなんとなくではあるが把握した。

 窓枠の下、壁と地べたの間の低い場所に屈むか、あるいは身を横たえて、窓枠によってできる台形の影に身を潜めていたのだろう。普通ならば簡単に見つかってしまうような場所でも、彼女は堂々とそこに居座ることで違和感を消してしまう。もしその時間帯にヘパイストスの館の庭を眺めたものがいても、誰かが窓の下に植えられた薬草か香草でも摘んでいたようにしか見えなかったはずだ。

 それにしたって、人が悪い。

「アテナ様、どうしてこちらに」

「そうだよ、お姉様。なんでわざわざぼくをつけるような真似を?」

 アフロディーテとぼくはほぼ同時に問いかけたものだが、アテナお姉様は当たり前のような顔をして、腰に帯びた反りのない剣の柄を指差した。

「そこのヘパイストスってのがうちの可愛い弟の恋路の邪魔だったから、そっ首切り落として、すやすや寝てるヘーラーのババアの毛布の上にでも置いてやろうかと思って」

 冗談や軽口ではとても済まないような不敬極まる言葉の連続だったが、意外にも、これには当のヘパイストスが腰掛け直した椅子の上で、ひいひいと息苦しそうな声を立てて笑い転げたものだ。

「そいつはいい、ぜひともそうなさって下せえまし。あの女、目を覚ました途端に腰を抜かしますわい。愉快愉快」

「最初はそのつもりだったんだけど、考えが変わったの」

 そう答えた時に既に、アテナの目からはおふざけや冗談は消え去っていた。

 彼女はヘパイストスへと近づくと、椅子に座った彼を悠々と見下ろしながら、口元だけの笑顔で言った。

「そもそもあんたは、ひとりであたしを生んだゼウスに嫉妬したヘーラーが、自分にもできると慢心して作った子供よ。ヘーラーは馬鹿で嫉妬深いから、男のゼウスに子供が産めたのに自分が石女なのを認めたくなくて、どうにかして子供を作ろうとした。女ひとりの力でね。でも、それがとんだ大間違い。女の浅知恵よ」

 口調こそ軽快そのものだったが、その鋭いまなざしと微笑は、ぼくが今まで見たことがないほど恐ろしかった。あのギカントマキアの猛将の雄叫びよりも、ゼウスの厳かな眼光よりも。 

「あたしは知恵の女神メティスとゼウスの間にできた子で、たまたま子宮と産道ごとメティスがゼウスに食われちゃったから、彼の頭の中の牢獄で大きくなって、頭から出てくるしかなかった。まあ、もうちょっと穏便に、口の穴や耳の穴からでもよかったんだけどね、遠回りするのも面倒だったし、お産の傷みって男だと死ぬほどだって言うから、産みの苦しみでゼウスが死んだら、それはそれで面白いと思ったわけよ」

 しかし同時に、これまでの人生で見たアテナの中で、それがもっとも美しい瞬間でもあった。

「アテナ様は、すべてご存じ置きだったのじゃな。わしがこんな生まれ損ないになった理由までも」

 ヘパイストスは椅子の背もたれに全ての体重を預けて、まるですべての生気を彼女に抜き取られた人形のように呟いた。

「お袋さまは……あの女は、わしを好き好んで作っておきながら、わしがあなた様のように美しくなかったから、ゴミのように捨てましたので。神々の末席には置かれましたが、わしには何の力もない」

 だが、そのとき。

 アテナは、自虐めいた彼の両肩を掴んで、その落ちくぼんだ小さな目を、その底にある瞳を見つめながら言ったものだ。

「何ふざけたこと言ってんのよ。あんた、本物の天才じゃない」

 その、たった一言で。

 背もたれにようやく体を預けていたはずのヘパイストスの体に、一本の芯が通ったように、彼はアテナの方へと身を乗り出した。

 アテナお姉様は、彼の作り出した水晶の鎖の束を片手で軽々と持ち上げると、キンと済んだ音を立てて鎖同士を打ち鳴らした。

「この鎖。これよ。これを見て、あたしあんたを殺す気が失せたわ。こんなに美しい、こんなに見事な細工、ヘーラーの首飾りでだって見たことない。こんなものが作れるなんて、この世にあんたひとりよ。しかもこれ、その寝台だとかにちょこっと仕掛けすると、勝手に飛び出して、寝てる奴を雁字搦めにできるんでしょ? すごい罠よ。やっぱりあんたはヘパイストス、造形と創作の神だわ」

 両手に光り輝く水晶の鎖の束を握り、その端々を高らかに打ち合わせて、アテナはそれが楽器ででもあるかのように奏でた。

「勿体ないお言葉でございます」

「だから、提案があるの」

 ヘパイストスの礼の言葉をほとんど無視して、彼女は嬉々として目を輝かせた。

「あんたも、あいつらが憎いんでしょ?」

 いや、その瞳の奥にあるのは、喜びではない。恐ろしい絶望だ。

 その炎に自らを焼きながら、アテナは容易く、本心を口にした。

「あたしたちを作った、この世の支配者気取りのあの馬鹿夫婦が」

 それが誰のことなのかは瞭然だった。ここにいる誰かが、不敬だと訴え出れば即座に処刑されるような台詞だ。

 しかし、痩せた小男ははっきりと頷く。

「ああ、憎い。わしをこうして作っておきながら、殺してもくれずに捨てた母と、わしの生まれと姿を滑稽な笑い話にしたあの男が憎い。アレス様のお生まれも同様に、笑いごとで済ませたあの男が憎い」

「ならば、話が早いわ、ヘパイストス」

 ヘパイストスの怨嗟に満ちた声に対して、アテナお姉様の声は快活だった。

「同盟を組みましょう。共通の敵のいる間柄だもの。敵の敵は味方よ」

 ヘパイストスもぼくも、思わずはっとアテナを見上げた。

 彼女は全ての策謀を、頭の中に組み上げ終わっているようだった。

「ヘパイストス、あたしはあんたの名誉を回復する。偉大なる創作の神として、まずはあたしとあたしの弟の兵士たちに崇めさせる。あたしが神殿と領土を持つまでになったら、その民全てに信仰を捧げさせる」

「なんと」

 思わずヘパイストスが声をあげたのも無理はなかった。

 いまはまだ、ぼくたち姉弟自身がオリュンポス神殿の部屋住みの身分、ようするに間借り住まいの、最も軽い扱いの神々に過ぎないなのだ。版図どころか、独自の神殿すらない。

 だが彼女は、必ず自らの神殿と、自らを信仰する民衆で構成された都市を勝ち取り、そこに君臨するつもりでいる。

 普通ならば、誰もが一笑に付すような計画だ。ヘーラーの実子であるヘパイストスでさえ、妻であるアフロディーテよりはるかに見劣りする館しか与えられず、都市の名は夫婦のものですらないというのに。

 だが。

 しばらく考え込んでいたヘパイストスは、不意に、口元の半分が全部片方に引っ張られるような、不気味な笑みを浮かべた。

「面白そうな博打じゃな」

「賭け事は好き?」

「ああ、大好きじゃよ」

「じゃあ、あたしたち気が合うわね」

「そのようじゃな。それでわしは、何をするんじゃ」

 アテナお姉様は、きらきらときらめく水晶の鎖の束を何本も手にして、ぼくへといつもの悪戯っ子らしい笑顔を見せる。

「ねえアレス。この鎖、鋼で作って敵の城壁に打ち込んだら便利よねえ」

「ああ、それは便利だね、縄梯子を下ろさせる内通者を用意する必要がなくなる。それに……この、水晶のままなら、ちょっと枯れ草かなにかで覆えば、騎馬兵や重装歩兵の足止めにも使える。あのティタンどもを雁字搦めにできるなんて、考えるだけで笑っちゃうよ」

 ぼくは本当に声を出して笑っていた。確かにアテナの言うとおりだったからだ。

 この、自在に動く魔法の水晶の鎖を使えば、敵対兵力を容易く削ぐことができるばかりか、敵将を捕らえることすらできるかもれしない。

 ましてや、より強度のある鉄や青銅で作った鎖を好きな場所に打ち込める機構があるのならば、敵の砦の一番弱いところを簡単に攻略できる。

 これは処刑具ではない。戦に用いれば、攻城戦となった時には切り札となる。

「それに、断崖にこれを張り巡らせれば、あたしの天馬の騎兵隊を温存できるわ。ちょっと鎖に命綱を着けた輪を通すだけで、歩兵の一団が一斉に崖を滑り降りられるのよ、ヘパイストスの作った鎖だと言えば、誰でも喜んで命綱を結ぶはずだわ」

「それもそうだけど、これは退路の確保にも使えるね。この鎖の間に棒を通して、縄梯子みたいにすれば、兵士が登れる。これだけの代物だもの、なんでもできるよ。そう、かなり大きなものを作ってもらうことになるけど、梯子を谷間に渡して吊り橋としてだって使えるでしょ。いちいち谷底まで降りて進軍する必要がなくなる。ぼく、谷底って大好きだけど大嫌いなんだ。追い込み猟には最適だもの、こっちが獲物にされたらたまんないよ」

 ぼくとアテナが真剣な顔で、同時に実に楽しそうに想像をめぐらせるのを、ヘパイストスとアフロディーテは呆れたというより、あっけにとられたような顔で眺めていた。

「なるほど。戦の道具、すなわち武器を作れと仰せか」

 しかし、そこはさすが、造形の神の名を受けたヘパイストスである。彼もやがて、ぼくとアテナの言わんとしていることが理解できたようだ。

「ええ、そういうことよ、ヘパイストス」

 アテナお姉様はにっこり笑って頷いただけだったが、ぼくは思わず、包帯を結び終えてもいない両手で彼の手を握っていた。

「あなたのような天才が作る武器があれば、負けの芝居もいらなくなります。そりゃあ、わざとの負けの敗兵はただの犬死にじゃないけれど、そういう兵士が減るのも、それもまた素晴らしいことですよ、ヘパイストス様」

 冥府のあるじであるハデス様からは、大量の死者を送られたことへの礼を言われたが、ぼくだって、できれば、その数が敵の方が多い方がうれしい。

 そうでなくても、ただの捨て石となるだけより、最後まで誇り高く戦士として死を迎える方が、傷病兵たちにとってもどれだけ幸せか。

 そのちっぽけな誇りだけを手にして、忘却の川を渡り、冥府へと赴くのだとしても、ぼくにはそれが栄光そのものに思えた。

 ぼくはそのとき確信した。

 戦争は、自分にとって栄光を勝ち取るための唯一の手段なのだと。


 次の瞬間にはもう、ぼくの魂は、あの暴力と血飛沫と絶叫の中にいた。

「ヘパイストス様なら作れるでしょう? 例えばどうです、小柄で非力な人間が一人で簡単に動かせるのに、一度固定したら絶対に倒れない櫓なんてのがあったら。櫓を動かす人間が一人だけなら、的が小さいから、よっぽどいい弓使いじゃなけりゃ殺せない。火矢は怖いけど、それでも城攻めにはどんなに便利か。そんな櫓がいくつもあれば、自由自在の砦で、相手の砦を囲ってやるようなものなんですよ、必ず勝てる」

 ぼくの脳裏には、その戦場の有様が既に浮かんでいた。

「自在に動く櫓は、平地での戦でも必ず役に立つ。櫓を並べれば、一瞬にしてこちらには要塞ができる。城攻めを相手にやらせるんです。しかもこちらの城は、突然消え失せて別の場所に現れるんですよ。そうなったら、相手が騎兵だろうが重装歩兵だろうが、どんな陣形で向かってこようが、容易く潰走させられる。たとえ化け物が相手でも、時間稼ぎの役には立つ」

 偉大なヘラクレスの武勇談から、ぼくたちは既に、いまの神々や人間以外のものたち……すなわち、かつての高貴なティタンが怨嗟のあまりに生み出した恐ろしい怪物たちとの戦いのことも、よくよく知らされていた。

 そういう相手と戦ってみたいと言う欲望に、体が熱くなる。

「それから、ほら、巨人どもがよく仕掛けてくるでっかい投石、あれも人間が動かせるようにしたら面白いな。倍も大きな石を投げ返されたら、奴らびっくりするぞ。あいつら、腕力だけは自分が一番だって思ってるからね」

 メロンほどもある岩や、人間の死体から切り落とした首をそのまま投げ返してくる巨人どもの姿。口には、首を切り落とした死体の残りをくわえて、むしゃむしゃ食いながら戦っているつもりでいる。そこに、水瓶よりも、いや、ちょっとした家よりも大きな岩を雨とばかりに降らせてやったら、連中、どんな顔をするだろう。

「その石のまわりに、ほら、この包帯みたいなのを巻いて、油を染み込ませてさ。それに火をつけられたらもっと面白いね。敵陣のど真ん中に、火の玉が次々と降ってくる。そんな武器があったら最高だね、さすがのギガンティスもティタンも、火のついた石は素手では投げ返せないもんな、熱くてさ」

 ぼくは思わず夢中になって話していた。

「あんたも戦の話になると頭いいわねえ、アレス」

「ありがと、ねえさま」

 アテナお姉様は頭はいいけれど、出来るかぎり敵も味方も被害を少なくして、征服した土地の民衆の信頼を勝ち得、そこを新たな拠点として周辺地域の支配を考えるだけの余裕がある。

 だがぼくは、ただ戦って、殺して、破壊するだけだ。そのためなら、いくらでも頭が回った。

 アテナにとって戦争は版図を拡大するための手段であり、オリュンポスでの地位の向上のための必須条件だったが、ぼくはただ恐れられ、愚か者だと嗤われながらも、虐殺と混乱こそが己の本質だと割り切っていた。

 そういうふうに役割を分担することで、互いの存在意義が明確になる。……と、実はこれは、アラクネねえさまの入れ知恵なのだが。

 ぼくは夢中になったふりを半分、残りは本気で、武器や戦争の話を続けた。

「それから、弩のどでかい、連射できるのなんかがあればどう? 竜騎兵どころか、テュポンだって落とせるんじゃないかな。そう、空を握ろう。天馬に引かせるような、あんなつまらない小さな戦車じゃなくて、何百人も兵士を運べる空飛ぶ船があったらいい。そこから武器でも人でも下ろせれば、砦や陣形の意味すらなくなるよ、竜騎兵や天馬騎兵みたいな、騎手の訓練もはぶける」

「それなら兵站の心配もなくなるわ。武器でも薬でも食料でも運べる、あんたのお得意の、傷病兵や老いぼれだって、囮じゃなくて立派な戦力になるわ。腕が片方ないような兵士が、空飛ぶ舟を操るのよ」

「それで、そいつの義手がそのまま剣に付け替えられたりしたら面白いよね」

 ぼくは包帯を撒いてもらった左手を差し上げて、右手でそこに短剣を添えた。この手首から先がすべて武器になるのなら、義手も悪くないとすら思った。

「それは面白いんじゃなくて格好いいって言うのよ、アレス!」

「いいよね、シャキーン!って」

 アテナもぼくも、ゲラゲラと声をあげて、子供のように笑っていた。オリュンポスでならはしたないと叱られるだろう。だが、その未来の戦争の話は、本当に愉快でたまらなかったのだ。

 ぼくたちの下らないやり取りを聞いていたヘパイストスは、実に可笑しそうに、彼にしては珍しく声をあげて笑った。

「いやはやまったく。あんた方の方がよっぽど天才じゃわい。わしゃ、そんなことは思いもつかなんだ」

 それはそうだ。

 こんな隠遁生活では、日々の暮らしに必要なものをこしらえるくらいしかない。彼の卓越した技術では、それではあまりに物足りなかっただろう。だからこそ余計に、あんな水晶を使った魔法の罠作りに夢中になったのかもしれなかった。

 だが、これからは違う。

「あなたのお好きなものも、いくらでも作ればいいじゃあありませんか。ぼく、外で見ました。足踏みのいらない水車も、勝手に動く石臼も」

 ぼくがこの家の周囲で見たものは、何もかもが目新しかった。

 流れの強くない水路では、普通ならば人が水車の上に登って、踏み板を踏んで水車と、そこからつながっている歯車や縄を動かし、石臼を動かす。しかし、ヘパイストスの作った水車は、並んだ板の角度が独特で、僅かな水の流れを捕らえて逃がさず、つながれた歯車がその水力を共鳴するように増幅させていって、並の男なら十人がかりででも動かないような石臼を回していたのだ。そこから挽かれた粉があまりにも細やかなせいで、石臼が動いているというのに、その音はほとんど聞こえない。

「ありゃ、わしがこんな体なもんで、さすがにアフロディーテに水車を踏ませるわけにゃあいかんから、粉を挽くのに作っただけじゃが」

 ヘパイストスは、本当に、ちょっとした思いつきを形にしただけなのだろう。

 しかし、それは凡人には到底辿り着くことのできない技術の結晶だった。歯車やネジの角度ひとつひとつに至るまで計算され尽くし、部品の素材にもこだわりにこだわりを重ねた末の代物だろう。

 彼、ヘパイストスでなくてはできないことだ。

 アテナは心底感動した様子で、ヘパイストスのしわだらけの無骨な手を両手で握りしめた。

「すごい、素晴らしいわ。それってすごいことよ、気がついていないのはあんただけよ、ヘパイストス。あんたには、『自らに足らぬものを自ら作り出すもの』という称号を贈る。職人の守護神、あんたは本物の神よ。お山のてっぺんでのんきに遊んでる連中なんかとは違う」

 アテナの双眸も輝いていた。彼女が心に描いた夢は、ぼくとは真逆の、よりよい死ではなく、よりよい生への希望だったのだろうが。

 と、彼女は不意に真顔になって、ヘパイストスに訊ねた。

「この粉引きの水車って、ひとつ作るのに何日くらいかかるの?」

「わしひとりなら三日ほど。それなりに修行を積んだ職人がおりましたら、一日に二つ三つは作れましょうなあ」

「すごいわね! じゃあ、職人の集団を手配するところから始めなくちゃ」

「アテナ様、わしには何を仰っておられるのかさっぱり分からんのですが」

 ヘパイストスの困惑した顔に、アテナお姉様は彼女らしい悪戯娘の笑みを浮かべると、右手の人差し指を立てて左右に振りながら、彼女の計略を明かした。

「あのね、あたしやアレスの兵士にも、もちろん農兵が混ざってるのだけれど、麦の収穫の時期と粉挽きの時期には、一人っ子はみんな家に帰してやらなきゃいけないの。じゃないと、土地が死んでしまうから。そういう家に、みんなこれをつけてやったら、いちいちそいつらを故郷に戻さなくてもいいのよ。調練がどれだけはかどるか」

「確かに、強兵になりましょうな」

「それに、女だけや年寄りだけの家なんかにも着けてやったら、みんな喜ぶわよ。あんた、本当にみんなから尊敬されるわ」

 彼女の言うとおりだ。

 男手のない家から徴収された兵士には、繁農季には兵役を離れることが許されていた。

 もちろん、兵役を離れたからといって、体が楽になるわけではない。むしろ、軍隊の百倍も疲れるというものもいる。麦を刈り、オリーブの実を集め、粉を挽き、油を搾る。特に、父を戦争でなくした家の一人息子などは悲惨なものだ。寝る間を惜しんで農作業をこなし、重労働だというのに、食事は野菜屑の浮いたスープに堅いパンがつけば上出来だ。

 アテナとぼくの軍は、兵士には訓練中であっても十分な休息と、管理された睡眠、栄養のある朝晩の食事が用意されていた。そのくらいしなくては、新参者の戦の神々になど志願してくる兵士がいなかったというのも事実ではあるが、そのくらいの高待遇は当然でもあった。

 なぜなら、ぼくたちはまだ自分の領土を持たない。すなわち、兵役についたからと言って租税の減免があるわけではないのだ。兵士としての熟練度や階級によって、ぼくたちは彼らに給料を支払っていた。時には精製された海塩や砂糖だったり、銀だったりもしたが、ようするにぼくとアテナが抱えているのは巨大な傭兵団だ。

 その信頼を勝ち得るために、ヘパイストスの技術は非の打ち所がないほどぴったりだった.

「アレス。あたし、あんたがこのひとに謝る気になった理由がよく分かったわ」

 実に珍しいことだったが、彼女は考えを変えたようだ。

 アテナお姉様はヘパイストスの前に立つと、まるでそうするのが当たり前のように……まるでいつもそうしているかのように自然に、彼の椅子の立派な手すりに腰掛けて、いつもの悪戯者の笑顔を浮かべた。

「正直に言うわね、ヘパイストス。あたしも初めてあんたを見たときは、なんて醜いんだろうって思った。でも、今は違うわ。あんたの才能と技術は光り輝いている。ほら、自分で自分の手を良く見てご覧なさい。輝きが分かるでしょう? 神の光が」

「は……?」

 彼女はしなやかな腕を伸ばして、彼の無骨な手の甲に自分の掌を重ね、それをゆっくりと裏返した。

 右手と、左手とを、順番に。

 アテナの指に支えられて、ヘパイストスの掌は天の方を向いた。

 そこには……

 掌の中央のくぼみから、清らかな泉のように輝かしい光の流れが溢れ出で、指の間から漏れる光の滝には、左右の指を繋ぐように、無数の虹がかかっていた。

「これは……」

「なんて美しいの」

 ぼくとアフロディーテは、そのあまりに神秘的な光景に目を奪われながら、そっと寄り添い、抱き合っていた。

 ひとりでは、その場に立っていることもできなかっただろう。

 その虹は、ヘパイストスの指先や爪に吸い込まれ、光の滝は流れを止めたが、その掌のくぼみの輝きだけは、刻印のようにはっきりと残っていた。

「あんたは、本当の神になったの。自分の才能を、あんたの魂が自覚したから」

「わしが、神……」

「ええ、そうよ」

 アテナは無邪気にも悪戯らしくも見える笑みを浮かべて、ヘパイストスのことを見つめてから、突然彼の首元に抱きついた。

「あたし、あんたのこと大好きよ、ヘパイストス!」

「こりゃまた、なんと光栄な」

「光栄なのはこちらです。偉大なるヘパイストス様。これまでの非礼を、せめてもう一度だけ詫びさせて下さい」

 ぼくとアフロディーテは互いに見つめ合い、いまここで、本物の神が誕生した瞬間に立ち会ったことを確認しあった。

 だが、ヘパイストス自身は、まだ己のうちなる力に困惑を隠せない様子で、気恥ずかしそうに言ったものだ。 

「やめとくれ、アレス様。あんたは、うちの可愛いかみさんの恋人だ。そのうち生まれてくる可愛い子供の親父だ。いまは、お前様にアフロディーテが恋した理由が分かるよ。戦の話をしてる時のあんたは、子供みたいに可愛かった。目を輝かせて、にこにこ笑っててな。その前は、ひどく悲しそうな、いまにも泣き出しそうな、やっぱり子供みたいだった」

 そう。たとえ、神となったとしても。

「そういうやつを、ほっとけるような女じゃないんだよ、うちのかみさんは」

 彼は、妻への愛と献身を忘れてはいなかった。

「ヘパイストスからの頼みにござる。これからは、あなた方のことを、アテナ様、アレス様とお呼びしたい。わしのことは、今まで通りで結構」

 彼は、真実の神となってようやく、心から妻を許した。

 そして同時に、ぼくのことも、ぼくたちのしたことも許してくれた。

「分かりました」

 拒否する理由などなかった。

 今となっては、ぼくがアテナの先駆けであるように、ヘパイストスは戦の女神の職人となったのだから。

 それから彼は、念を押すように付け加えた。

「アフロディーテとあなた様のことも、もはや秘密にする理由がございませぬ。堂々となされませ。もはや密会のための場所など必要ありませぬ。このアフロディーテの神殿を訪のうてくだされ」

「しかし、それではあまりにも……」

 言いかけたぼくを、ヘパイストスは歪んだ顔をいっそうひきつらせて、意地悪に笑ったものだ。

「いやあ、そのくらいのほうが、あのお袋さまには、いい面の皮じゃよ」

 その声は少し寂しげにも聞こえた。

 ここまでしなくては通じなかった、いや、今もおそらくは伝わってすらいない母への思慕の情を、ヘパイストスは断ち切ったのだ。断腸の思い、いや、自らのへその緒を引きちぎるほどの気持ちで。

 それからかれは、まだ全く目立たないアフラディーテの腹を一瞬だけ見遣った。

「それに、生まれてくる子らには、最初からあなたが父だと教えられる。この子の父は軍神アレスじゃ。さすれば、あなたは父上と同じ轍を踏むことはない」

 ぼくは思わずため息をついた。

 なんと心の広い、いや、懐の深い男なのだろう。

 彼がどれほどまでに、どんなふうに彼女を愛しているか、改めて教えられたような気がした。

「ぼくを許して下さるのですか、ヘパイストス様」

「もちろんでございますとも」

 彼は、愛する妻を許すために、ぼくを許したのではない。

 愛する妻が愛した男だから、ぼくを許してくれたのだと。

 口には出さなかったが、ぼくは心から思った。

 ヘパイストス、あなたほど美しいひとは、この世にはいない。

「さあ、アフロディーテも寝室へお行き。アレス様とゆっくり過ごしておいで」

「よろしいのですか」

 戸惑ったような彼女の声に、ヘパイストスはそれまでの杖に支えられた生き様が嘘のようにぴんしゃんと立ち上がって、実に楽しげに語りはじめた。

「うむ。済まぬが、わしゃあしばらく、お前を構ってやる暇などない。わしはこれから徹夜で離れを造る。こんな狭苦しくない、もっと大きな作業場をな。しばらくはそこで暮らす。寝室で休んでいる暇などないぞ、いまは頭の中が、作りたいもので溢れかえっておるのじゃ。全て作り終えるまでは、食事もわしのところまで運ばせろ。頭がまずはからっぽになるまで、作って作って作りまくるぞ!」

 その声は、先ほどまでの弱々しいしゃがれ声が嘘のように明瞭で、何より力に満ちあふれていた。ヘパイストスの緑色の瞳が、みずから光を放ち、まさに宝石のように輝いている。

 彼の姿に、満足そうにアテナお姉様は微笑む。

「神の力に目覚めたのね」

「そのようじゃ。かたじけのうございました、アテナ様」

 深々と頭を垂れる姿も、しおれた風は全くなく、むしろ生気が有り余っているように見えた。

 そんなヘパイストスに、アテナねえさまはテーブルの上の水晶の鎖を見下ろして、いつもの悪戯娘らしい笑顔になった。

「ねえ、だったら……ヘパイストス、この水晶の鎖、あるだけ全部、あたしにくれないかしら」

「そりゃあ、もちろん構いやしませぬが」

「あたし、これすごく気に入ったの。あたしの寝室の天井から吊るすわ。寝台の真上のあたりから、部屋の四方八方に向けたり、ぶら下げたりしたら、きっと綺麗よ、小さな炎が、この中で反射して広がって、部屋いちめんにきらきらと輝くわ。ちょうどいい吊り下げのランプがあるのよ、そのまわりにこれがあったらと思うと、それだけでもう我慢できない。いますぐ戻って、巫女どもを叩き起こしてやらせてやるわ」

 これには、ヘパイストスも楽しげに声をあげて笑った。

「はっはっは……そいつはいい思いつきじゃ」

 さすがの造形の神ヘパイストスでも、戦の女神が弟のための罠として作られたはずの鎖を、自らの部屋の飾りにしようなどとは思いもよらなかったと見える。

「そりゃあもう、綺麗な有様になりましょうよ。でしたら、わしがご寝室までお供をして、作り付けてしまった方が早いですな」

「そうしてくれる? ありがとう! やっぱり、あたしあんたのこと大好きよ!」

 アテナは無邪気な少女そのものの様子で、ヘパイストスの血管と筋の浮いた首に抱きついた。

 彼の目には、アテナへの純粋な信頼と尊敬が、はっきりと見て取れた。おそらく、女性から、いや、誰かから力いっぱい抱きしめられることなど、彼にとっては生まれて初めてのことだったのではないだろうか。妻であるアフロディーテのことですら、彼は「優しくしてくれた」と言っていた。こんな熱烈な抱擁など、己の姿を恥じ、卑屈に甘んじてきた彼にとっては、ほとんど奇跡のような出来事だったに違いない。

 ヘパイストスは照れ隠しか、それともわき上がる感動を見せまいとしたのか、わざとらしい作り笑いを浮かべた。

「女神様の寝室に立ち入る機会など滅多にねえでごぜえますしな」

「これからどんどん呼びつけるわよ。あんた、自分の作業場を作るより先にあたしの居室を飾り付けてもらうわ」

「ここまで好かれちまったら断れませんわな」

 アテナの言葉に、じっさい彼は嬉しそうだった。

 同時に彼は、これが愛のゆえではなく、同盟なのだとはっきりと理解しているようだった。もう少し踏み込むならば、友情の芽生えとでも言うべきだろうか。

 ヘパイストスは、これから一切、アテナを裏切ったりはしないだろう。

 そんな確信を、ぼくたちは持った。


 水晶の鎖をぶら下げたり絡めたりしてはしゃいでいるアテナを、まるで幼子を眺めるように愛しげに見つめてから、ようやくアフロディーテが、ずっと閉ざしていた唇を開いた。

「旦那様、申し上げるべき言葉も浮かびません。わたくしたちのことを、いえ、アレス様のことを、お許し頂いて」

 その美しい目からは、海から生まれたという彼女にふさわしい、真珠色に輝く涙がぽろぽろとこぼれて、床へと転がった。

 彼女の白く、ほっそりとした指先だけをそっと握って、ヘパイストスも頷く。

「アフロディーテ。いままでよく連れ添ってくれた。お前にはただただ苦痛だったことじゃろう。わしも、言葉が見つからんよ」

「いいえ。苦痛でなどありませんでした。あなたといるときは、いつも穏やかで、優しい時間が流れていました」

「だが、お前は静けさの女神ではない。愛と美の女神なのだ、アフロディーテ」

 ヘパイストスの半ば潰れたような顔が、そのときは神々しく輝いていた。深く落ちくぼんでいたはずの目はしっかりと前を見据え、曲がっていた鼻筋とほとんど鼻梁がないはずの顔の中央には、深く刻まれたしわのせいで浮き出たものか、細く低いがはっきりと鼻らしきものがあった。何より、ゆがんで左右比対称に引き攣れていたはずの皮膚が、それまでただ異様にしか映らなかったのに、いまはある種独特の威厳を感じさせる風格となっている。

 神の子として生まれたことを呪い続けていた男が、自ら神たることを選んだとき。

 その場に立ち会えたことが、ぼくにはとても誇らしく感じられた。

 そんなぼくの目をふと見てから、ヘパイストスは優しく穏やかな声で告げた。

「さあ、もう行きなさい。アレス様なら、お前を幸せにできる」

「わたくしは……」

「言うな。言ってはならぬ」

 こちらに顔を背け、はっきりとした拒絶の意思を表した夫の、深い影の差した横顔に向かって。

 アフロディーテは、真珠の涙をこぼしながら、やはり静かに、穏やかに言った。

「では、これだけはお伝えさせて下さい。わたしはとてもしあわせな女です。こんなにも素晴らしいふたりのひとに、こんなにも愛されたのですから」

 ヘパイストスの肩も、わずかに震えていた。

 だが、そこで狂乱の涙を流すほどには、もはや彼は人間らしさからは離れてしまっていた。ただ淡々と、いや、むしろ勇気づけるように、愛する妻に向かい、背中越しに呟いたものだ。

「これからは、アレス様と堂々とせよ。偲び会うことはない。わしが許したのだ、誰にも文句は言わせんぞ」

 ぼくは何か言いかけたが、その思いが言葉にならないものだと知って、心に収めた。

 言わなくてもきっと、ヘパイストスならとうに分かっているだろう。

 同じ女を愛した男だ。

「では、アフロディーテ。行こうか」

「ええ、あなた」

 ぼくはアフロディーテの手を取り、ぼくたちがずっと秘密にしていた場所へと向かった。

 夜の闇の中で、彼女の存在は満月のように光り、ぼくたちの乗った馬は迷うことなくその場所へと辿り着いた。

 そこは、あのギガントマキアの最後の戦場となった、ギカースの猛将エンケラドスが守り抜かんとして死んだ、あのギガンティスの砦だった。

 猛将が死の言葉を書き残した砦の奥には、女子供を守るための洞窟が蟻の巣のように掘られていて、そこをぼくたちは、自分たちの情交のために使っていた。何しろ、ここはあのエンケラドスが挨拶と我が子を隠していた部屋だ。ここが一番安全で、誰に見つからない、誰がきても抵抗できると考えたからこそ、ぼくたちはここを密会の場に選んだのだが。

「今夜で、ここを使うのは最後だ。明日からあなたは、ぼくの部屋にお暮らしなさい。まあ、部屋住みの身だから、狭苦しいけどね」

「どんなに狭くても、たとえみすぼらしいあばら屋でも、わたしは構わない」

「ぼくもだよ」

 ヘパイストスに許されたことで、むしろぼくたちの間にある背徳感と罪の意識はいっそう強くなった。それが、愛し合う激しさにも直結した。

 狂おしい愛の中で、ぼくはこのひとを手に入れたことに感激すらしていた。

 全てが終わり、愛の嵐が一時的に過ぎ去ったとき、ぼくは訊ねた。

「ねえ、いつ妊ったの?」

「最初のとき。あなたの魂が私の心まで届いて、命が生まれたのを、ここで感じたの」

 アフロディーテは、まだ少しも膨らんではいない、むしろくびれているほど細い、大理石の彫像のような自分の下腹を、両手でそっと覆った。

 そして彼女は目を閉じた。

「必ず男の子。名前は決めてあるの」

 ぼくは、とてつもない尊いものに触れるような気持ちで、彼女のその滑らかな皮膚に触れた。

「フォボス。あなたの、素晴らしい敗走を記念して」

「いい名だね」

 あの、見事なまでの大負けを後世に伝える子だ。それこそが、翌朝の大勝利につながったのだという証拠でもある。

「敗走とはすなわち、怯え、うろたえ、混乱、恐怖だ。だが、戦略の上での敗走劇と撤退は、その正逆にある」

 ぼくは苦笑いを浮かべていただろうか。それとも、見事にアテナねえさまのための道化を演じきったことへの満足の笑みだったのか。

 とにかく、その名は心地よく耳に響いた。『恐怖』。

「ぼくの息子にふさわしいよ。戦争のもたらす暴力が、ぼくそのものだから」

「こんなに優しいのに?」

 愛の女神の蠱惑に満ちた問いに、ぼくは何の迷いもなく答えた。

「ぼくが優しいのは、ただ、あなたにだけだ」

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