第11話 使命と報酬

 ギガントマキアは、猛将率いる砦の崩壊によって、いちおうの終結を見た。

 だが、それでもギガースの一族を全滅させることは叶わなかったし、その中から更なる強い復讐心をもってゼウスに歯向かおうとするものも、当然というより、自然発生的に生まれてきた。

 そもそもギガンティスは、「我ら壮健強大な肉体を持つものたちのみが正統なティタンの唯一の後継たる一族である」と考えている連中だ。

 すなわち、大地の女神ガイア、すべての神々の母ともいうべき偉大なる存在の巨大さをもって、ギガースは自らの正当性を主張している。彼らにとって、ティタン伝来の巨躯が何よりの大義名分なのだ。

 敵の主張は単純明快で、だからこそ兵士たちを動揺させる。

 人間どもごときと変わらぬ小さな肉体を持つに至った現在のオリュンポスの神々など、いかに人間どもからの崇拝を受けようと、しょせん矮小化した劣等のティタンであり、「人の女と交わることができるほどのゼウスなど、もはや神々の王どころか、神の名を語る資格はない」と喧伝して憚らなかったものすらいる。

 その男こそが、ギガースの残党で最もオリュンポスが手を焼いていた、ミマスという名の、自称「ティタンの将軍」だった。彼は自らが率いる軍勢で、丘陵地帯に囲まれたアッティカ地方を制圧し、その中心のアクロポリスに城砦を作った。

 巨人族の中で最も若い世代に属する彼は、ヘラクレスですら倒せる相手ではなかった。古い世代と違って人間というものを理解し尽くしたミマスは、ヘラクレスが取りそうな戦略を次々と見抜いて篭城戦を乗り切り、生き残ったギガースの兵士たちを集めて新たな訓練を施し、人間が作る陣形や伏兵を予測して的確に対策を立て、これらを打ち破った。

 また、われわれ神々の戦い方も知り尽くしていた。ギガントマキアよりもはるか以前の大戦、すなわちティタノマキアにまで遡って歴史と軍略を研究したのだ。

 ミマスとの戦いは八年に及び、彼は徐々にギガースの領土を拡大していった。

 回復したギガンティスとティタンズの領土を、彼は新たに「ミマス・ティターニア」と名付けてすらいた。すなわち、まことのティタンである自らの支配する土地であるという宣言だ。


 食料となる作物が育たないとされていた荒れ地にまず豆類を植え育て、収穫後はそこに豆の茎や葉をともに耕し入れて、葉や茎は食え種からは油も取れる菜の花を植えた。麦や家畜はいまだ略奪しかなかったが、奪ったメス豚は殺さずに残し、捕らえてきた猪をあてがって子を産ませ始めた。

「こいつ、戦争は兵站が大事だって分かってる。厄介だわね」

 あたしたち姉弟に押し付けられた最後の後始末というのが、そのミマスと、彼の軍師であり妻でもあるロナキレアの攻略だった。

 どうやら、先日のギガントマキアの戦というのは、あたしたち姉弟の実力を見極めるための、ちょっとした試練だったのだろう。一切合切を聞いたヘラクレスはあたしたちの戦いぶりに太鼓判を押し、ついでに冥府からは、アレスのもとにハデス様がじきじきにお描きになったという戦勝旗まで届いたのだから、試験は合格どころか、満点以上というところかしら。

 ついでに、ゼウスとヘーラーはいつもどおりに無理難題を押し付けてきた。

「ここまで誇り高く戦った有能な将軍と軍師の顔が見てみたいものだ、できることなら生きたままオリュンポスへ連れて来い」

 髭と眉の奥の顔でゼウスが楽しげに言ったとき、あたしはあの耄碌爺の頭から産まれてきたとき同様にもう一度かち割って、今度こそ脳味噌をぶちまけてやろうかと思ったものだったわ。

 以来、あたしとアレスの会話は自然とそのミマスのことばかりになっていた。

「生きたままなんて無理よ。勝てるかどうかも分からないのに」

「いや、勝てるよ」

 あたしが不服げに言っても、アレスは当たり前のように頷いてくれた。

「いまの人間の戦い方も、神様と人の合いの子の限界も、ミマスとその軍師ってのは熟知してるね。たぶんギガントマキアの最後を見て、ぼくらの戦略も研究しているはずだ。ぼくが煽動役で、ねえさまがとどめを刺すってところは知れ渡っていることだから、そんなことはどうでもいいさ。けどね、ねえさまの軍隊の機動力が圧倒的だってところまで知られたのはちょっとしくじったかもね。速さへの対策を、今頃あのでかい連中はしっかり練っているところじゃないかな」

「あんた、ほんと戦のことになるとアタマいいわねえ」

 こういうときのアレスは、本当に楽しそうだった。子供のように目を輝かせて、とても可愛らしいのに、その輝きのときどきに暴力や破滅への冷たい刃が閃いて、姉のあたしが見ても、実にいい男だ。頼もしいというのではない。いつか破滅してしまいそうな危うさが、ひどく魅力的に感じる。アフロディーテが、あのころはまだ少年に過ぎなかった彼を愛したのは、この目を見たからだろう。

「でも、奴らにも見落としがある」

 彼は自信たっぷりに、戦争の話をしている時にだけ見せる特別な笑い……凶暴にすら見えるほど冷たい笑い方を交えて言い切った。

「というより、こっちはまだ全部手の内を見せていない。素早さ以上の切り札のことは知らないはずだよ」

「分かった。新しい技術ね?」

 あたしの答えに、弟は満足そうに頷いた。

「そう。ヘパイストスの最新の発明を試す最高の機会だ。きっと楽しいぞ」

 その様が既に見えているかのように、アレスはくすくす声をあげて笑った。

「この八年、彼が試行錯誤してくれた武器の数々だよ。早く使ってみたいと思わない、ねえさま?」

「まったく、あんたはのんきねえ」

 あたしも呆れた顔を作って笑い返した。

「これに勝ったら、あたしは神殿を貰えるんですってよ」

「そりゃおめでとう、立派な都市の女あるじになるわけだ」

 これがあたしたちにとって一世一代の仕事になることは、これでアレスにも伝わっただろう。

 自らの名を冠した神殿を中心とした都市、すなわちポリスを領土として持って初めて、神々の末席から居並ぶ柱に数えられる大舞台に出られるようになる。あたしが立派な女神として、他の神々から、そして支配するべき人間たちから認められるということだ。

「ゼウスの話じゃ、奴らが占領してるアッティカを、まるごとくれるんですって」

「へえ、そいつはすごいな」

「アッティカってのは、ほんとは、もともとポセイドン様が欲しがってた土地らしいのよ。だけど、彼は陸上の戦は強くない。あたしに譲ってくれたってわけね」

「いいじゃない。ポセイドン様にまで話が通ってるなら、ゼウスの口約束ってわけじゃないんだろう。あそこ、土地は貧しいけれど、見晴らしがいいし、オリーブと葡萄と、ちょっとした豆くらいなら育つだろう。農耕地としてより、本当の都市として栄えさせるんだね、アテネ市は」

「それがよさそうね。幸い、ポセイドン様のお陰で海運の便宜もはかって貰えそうだし」

「占領しかえしたら……ああ、ええと、こういうのは領土回復っていうんだっけ? どっちにしろ、アッティカのど真ん中にお姉様の神殿を作らせよう。ヘパイストスもやりがいがあるって気張るだろうさ、全部大理石の、光り輝く女神アテナの城を築こう」

「あんたって、ほんとにすごいこと思いつくのね」

 既にアッティカ地方全体を手に入れたかのように無邪気に空想を膨らませているアレスの、そのあまりにも純粋な夢見る目に、あたたしはなぜか、不意に不安になって呟いた。

「でも、それって本当に、あたしたちが求めるものなのかしら」

「うん?」

 弟はあたしの顔色から、すぐに内心を察してくれたらしい。すぐ隣に座って、あたしの左手を軽く握り、優しいまなざしでこちらを見つめて、あたしが内心を吐き出すのを待ってくれた。

「ねえアレス。あんたは分かってるだろうと思ってるから、ずっと言わないでいたけれど。あたしが望んでいるのは、オリュンポスの神々の一柱に列せられることではないわ」

 自分の口にしているのが、他の誰かに聞かれでもしたらすぐさま断罪の場に引き出されるような言葉なのは自覚していたが、あたしは声をひそめて、子供の頃からいつもそうしていたように、アレスとアラクネだけに聞こえる内緒話のやり方で囁いた。

「むしろ、その逆。あのゼウスが作り上げたこのオリュンポスを、内側から切って崩したいの。ちょうど、あたしがあいつの頭の中から産まれたようにね」

 そこまで言ってしまうと、胸のつかえが取れたような気がした。

 そう。あたしの、あたしたちの本当の目的は。

 自分が大神ゼウス様の娘だからではない。

 戦の女神などという尊称はいらない。

 あたしが求めているのは、あたしたち三姉妹弟が求めているのはたったひとつ。

 あたしたちから全てを奪った、ゼウスへの、オリュンポスへの復讐なのだ。


 一度、自分の剣ダコのある手に目を落としてから、勇気を振り絞って、アレスの顔を正面から見た。

「言わなくていい。分かってるよ、そんなこと」

 弟は笑っていた。無邪気な子供のように。

「ねえさまったら、ぼくがすっかりアフロディーテに骨抜きにされて、オリュンポス万歳って本気で叫んでるとでも思ってたの?」

「そんなことないわよ。ただ、アフロディーテは、ゼウスかヘーラーがあんたを懐柔しようとして近づけたんじゃないかと疑ってるのは事実だけど」

「おやおや。戦の女神にしては、色恋沙汰となると目が曇るのかな? アフロディーテとぼくは、そんなんじゃないよ」

 政治的につながっているのではない、と彼は言いたかったのだろうが、あたしにはただののろけにしか聞こえず、自然と口元に苦笑が浮かぶのを感じていた。

 確かに、アフロディーテほどの立場となれば、ゼウス派にもヘーラー派にも、あるいはどの大神の派閥に入らなくとも独立独歩でやっていけたでしょう。そもそもの夫は、世捨て人同様のヘパイストスだったわけだし。彼女ほどの英知と美貌を備えながら長年オリュンポスから無視されてきたのは、アフロディーテ自身がそれを望んでいたからだろう。

 そんなことは見て見ぬ振りをしたまま、アレスはテーブルの上の果物やオリーブをぱくつきながら、当たり前のように答える。

「そもそも彼女は、偉大なるウラノス様のお種と海水だけが混じりあってできた存在だ。ティタン、いや、神と呼ぶことすら正確ではないかもしれない。アフロディーテを見ていれば分かるだろう、ねえさま。彼女は、ティタンをすら越えた新しい何かなのかもしれない」

「そうかもしれない。でも、あんたの前ではただの女なんでしょ? アフロディーテはあなたを愛してる、ただの女」

 あたしの言葉に、ようやく弟は反応した。

 それまでの、どこか子供染みた、軽妙さを残した表情ではなくなっていた。

「ぼくも、アフロディーテを愛している」

 そんな、わざわざ高らかに宣言しなくてもいいようなことを真顔で言ってしまうあたりが、いかにもアレスらしかった。

 でなければ、すぐちかくで夫が発明に時を費やしているというのに、愛人同士で三人もの子供を設けるものか。いま、アフロディーテの腹には四人目がいるという噂までまことしやかに流れている。

「だったら、相手が何者であれ、本気で愛し尽くせばいいのよ。愛して愛して、ただそれだけでいいの」

「お互い、ちょっと難しく考えすぎていたみたいだね」

「そうね。まあ、お互い味方はここにいる姉弟だけですもの。仕方ないわ」

「そうだね」

 意外なことに、アレスは当たり前のように頷いた。

 心から愛し、信じている女がいる弟が、アフロディーテなど何ほどのこともないかのように言い放ったのだ。

 戦の上では味方だと思っているのは自分だけなのだと知って、あたしはほんとうに嬉しかった。

 それは、ただの血の絆や、共に育ったためだけではないと、あたしは確信した。アレスの目の奥には、例の昏くて激しい輝きがかすかにきらめいていた。

 すなわち、あたしたちは、姉弟である以上に、ともに剣を振るい、盾を並べた戦友なのだ。

 恋なんて、ゼウスみたいな耄碌爺にだってできるけれど。

 本当の戦友は、ともに戦わなくては得られない。

 軍神アレス。

 あたしは今の今まで、どうしてまわりのものどもが、彼を暴虐無人、極悪卑劣な、戦争の恐怖を体現したような神だと恐れるのか分からなかった。愛する女性と我が子らを大切にし、その女性の夫である男を敬いつつ立て、姉であるあたしにはいつまでも甘えん坊なこの子が。

 しかし、本来、戦争のもたらす恐怖、苦痛、絶望、それらは……あたしたち生まれながらの神、すなわち決して死なぬティタンには、本質的には理解できない感情なのだ。だがアレスの半分はルアルエかあさまの、ひとの血でできている。

 だからこそ、彼は煽動役が得意なのだ。いまこれから死ぬかもしれぬ兵士たちの前で、恐怖を、威圧を、突撃への熱狂に変える。

 それができるのは彼だけだ。もしかしたら自分も死ぬかもしれない大将アレス、それでもなお崇高さを保っている彼から熱烈な言葉を向けられたら、どんな老兵でも負傷兵でも、最後の死に花をこの男のために咲かせたいと願うだろう。

 そういう存在に、アレスはなっていた。

 あたしの知らぬうちに。

 彼が立派に独り立ちするのはいいことだ、大人としてすべきことをするのは当然だ。今や彼は三人の子供たちの父であり、ゼウスの雷の軍勢の半数近くを任されている大将軍だ。

 もちろん、よろこぶべきことだ。

 ……でも、ちょっとだけ、さびしいわよね。

 左頬をかすめるようにして、ふわりと落ちてきた一本の蜘蛛の糸を見て、あたしは苦笑いを浮かべた。

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