第9話 水晶の鎖

 ぼくは目的地から少し離れた場所で馬から下りると、手近な灌木に手綱を繋いでから、歩いてその、運命の定めた場所へと向かった。

 すでに、陽は暮れかけていた。

 夕焼けに、岩山や木々の梢、それから石畳や水路、水車など、目に入るもの全てが、夕焼けの紅に燃え尽くされて、世界が黄金でできているようにさえ見えた。

 その切り立った岩山を背にするようにして、美の女神アフロディーテの荘厳な神殿が建っている。赤と白の混ざり合った美しい大理石のところどころには、鮑の虹色の貝殻を磨いた象眼細工のモザイクがきらめいていて、夕陽に照らされたその姿を見ただけでも、ぼくは十分満足だった。

 その傍らには、いかにも重々しい蛇紋岩で組まれた、神殿と呼ぶには小さいが屋敷としては立派な館が、寄り添うように建っていた。白と緑と灰色の蛇紋岩は、ぱっと見は地味だが、よくよく眺めるとその美しさが分かる。

 何より、その小さな建物は、柱一本、窓枠の一つに至るまで完璧に隙間なく作られていた。

 やはり、ここにきてよかった。

 これだけのものを目にすることなど、下界にいたら一生なかっただろう。その方が幸せなのは分かっていたが、今はこの完璧さに純粋な賛辞を贈りたかった。

 しばらく門扉の外で待っていると、アフロディーテ神殿の方から、粗末だが清潔な麻の着物を纏った娘……巫女とは名ばかりの下女が、陶器の水鉢を抱えて出てきたので、ぼくは彼女を呼び止めて訊ねた。

「こちらが、アフロディーテ様とヘパイストス様のお住まいでお間違いありませんか」

「はい」

「では、アレスが参りましたと、ヘパイストス様にお伝えください」

 ぼくが名乗ると、まだ少女のような巫女は、アレスという名前だけで震え上がったのだろう、その場に陶器の鉢を取り落とし、そんなことにも気付かぬままに、悲鳴とも溜め息ともつかない「ひいっ」という声だけを残して、もといた神殿へと駆け戻っていった。

 見事な鉢だ。あんな高さから地べたに落ちても、ひび一つはいらない。それは卵の上を切り落としたような美しい形で、左右には湾曲した耳と、底には脚が四つついており、素焼きの上に焦げ茶色の釉薬で唐草模様を描いて二度焼きした、実に手の込んだものだ。おそらくは井戸か泉の水を汲んで、身分が上の者たちが手足を清めたりするのに使うのだろう。

 こんなのを、お母様に……ルアルエお母様に使わせてあげたかったなあ。

 ぼくがその美しい焼き物を眺めている間に、巨大な神殿の方からではなく、蛇紋岩の小さな館の方から、ひとりの男が飛び出してきた。

 いや、飛び出すと言っても、その動きは遅い。男は曲がりくねった長い杖をついて、右足を引きずりながら、時折はちょっとした段差や小石にもつまずく。

 それでも彼は、自らに出来るかぎりの速度でこちらへと詰め寄りながら叫んだものだ。

「おのれがアレスとかいう小倅か」

 手にした杖の三分の二ほどしかない背丈で、痩せぎすで頭でっかち、禿というより、毛という毛が失われ、雛鳥のようなうぶ毛がぽつりぽつりと残っているのが余計に哀れさを誘う。眉も睫毛もほとんどない、ねじくれた姿だ。

 彼はそれでも全身を怒りに震わせながら、今にも眼球がこぼれ落ちそうなほどの勢いでこちらを睨んだ。

 その瞳だけは、美しいエメラルド色をしていた。

「出て行け、ここは貴様のような下劣なものの立ち入る場所ではない、穢らわしい、目障りじゃ」

 そう叫んだ声は、ひどく甲高くかすれている。酒などのせいではなくて、生まれながらのものなのだとすぐに分かった。

 まだ何か喚き散らしながら杖を振るってこちらへと打ち掛かろうとした男のことを、音もなく近づいていた女が止めた。

「おやめくださいませ、あなた」

 彼女のことは、もうぼくは知りすぎる程よく知っていた。

 アフロディーテ。美の女神。

 この世の大地そのものであるガイアが殺させた、不死のティタンの王ウラノスが、最後の最後に自らの分身として残した娘。古き礎の神々の血を引くもの。

 そして、ぼくの魂を虜にしたひと。

 なるほど。その彼女がそう呼びかけるのならば、このねじくれた姿の男が彼がヘパイストス、女神ヘーラーが己一人の力でこの世に生み出した神ということか。

 怒りに任せて妻をも罵倒しようとした夫をかすかな笑顔だけで制して、アフロディーテは穏やかな口調で告げた。

「アレス様が追われるならば、同じ罪を犯したわたくしも、ここを出なくてはなりませぬ」

 まるで天気のことでも口にするように静かに、にこやかに、彼女はたやすく己の罪を認めた。それがどれほど重い罪科なのか知り尽くしているはずなのに、アフロディーテはまばたきひとつせずに夫を見つめていた。

「姦通は重罪です。どうぞ、お裁きを下さいませ、あなた」

 その堂々たる態度に怯んだのか、そもそも愛妻には頭が上がらぬのか、ヘパイストスはようやく振り上げていた杖を下ろし、その曲がった棒切れに体を預けて、はあはあと荒い息を漏らした。

 彼がなんとか、いくらかなりとも落ち着きを取り戻したのを確認してから、アレスは門扉の外の泥土の上に片膝をついて、目の前のふたりに最敬礼の姿勢を取った。

「いえ、奥方様をお責めにならないでください。仰るとおり、ぼくはこの庭先に身を置くことすら不敬です」

 衣装やマントが土ぼこりにまみれることなどどうでもよかった。

 ただ、自分が伝えたいと思うことを、思いつくがままに口にした。

「ヘパイストス様。いきさつはどうあれ、ぼくはあなたの奥方様と密通しております。ひどい罪科なのは承知しております。どのような罰でも責め苦でも、ぼくは喜んでお受け致しますゆえ、どうか、どうか奥方様のことをお責めになることだけはなさらないでください」

「生意気なことを言いおって!」

 息苦しそうに咳き込みながら、ヘパイストスはそれでも怒りの方が勝ったのだろう、ぼくに向かって軽蔑しきった目で言い放った。

「ならばここで死んでみせろ。そんなら許してやらんでもない」

 ぼくは俯いたままだったが、彼に見えるようにはっきりとうなずいて見せてから、腰の大剣を抜き払った。

「では、これを」

 と、言ってから、ぼくはその両刃の剣を左手で握りしめ、指の半分も切れそうなほど力いっぱい引いた。

 ぼくの剣は、これでぼくを殺せる武器となった。

 神の血をもって清められた武器は、本来不死であるはずの神々の命すら奪うことができる。それがこの世の理だ。

 ぼくはいま、自らの血、いや、大神ゼウスに認められた軍神アレスの血を用いて、神を殺すための武器を完成させたのだ。

 ぼくは、ぼく自身の真新しい血で染まり、夕闇の中でも炎のように赤く輝いている剣を両手で捧げて、愛するひとの夫へと差し出した。

「これでどうぞ、この首をお刎ねください」

「ふん、覚悟だけは一人前じゃな。よかろう、死ね」

 ヘパイストスは何の迷いもなく、ぼくの手からその大剣を受け取った。

「やめて! やめてください、あなた。わたくしが悪いの、すべてわたくしが」

 その剣の意味するところを誰よりも理解しているアフロディーテは、珍しく少し取り乱した様子で声を振るわせ、いつでも大理石細工のようだった顔をすら青ざめさせて、ぼくと夫の間に割って入った。

「あなた、お願い。アレス様ではなく、わたくしを殺して。今のその剣ならば、かつてのティタンであるわたくしも殺せます」

 こんなに必死な彼女の声を聞くのは初めてだった.

 そして、それがぼくのためだということを感じて、後ろめたさと背徳感と、どうしようもない愛情が混ざり合って、鳥肌が立った。

 嬉しかった。愛するひとから、こんなふうに思われることに。

 もういつ死んでもいい。

 いや、いま殺してくれ。

 この幸福の絶頂に。

 顔を上げたとき、ぼくの目は懇願に潤んでいただろう。


 ヘパイストスはいささか困惑したような、というより途方に暮れたような顔でぼくたちのことを眺めてから、アフロディーテの大神殿ではなく彼自身の住居である蛇紋岩作りの館の方へと、ぼくたちについてくるように促した。

「ふん。こんな夜空の下で愁嘆場では、とんだ見せ物もいいところじゃ。おぬしら、中に入れ。罰も死ぬのもそれからじゃ」

「分かりました」

 ぼくは大人しく頷き、不安げにぼくを見つめるアフロディーテの手を取って、ヘパイストスの曲がった背中の後をついていった。

 その瞬間、例の、銀色の光の糸がぼくの心を貫く。

 アテナなら、その隙をついてアフロディーテを攫って逃げるか、ヘパイストスを殺すべきだと言うと思うわよ。

 確かにそのとおりだ。だが、姉たちの言うとおりにするつもりはなかった。

「お入り」

 美しい木目が見事なオリーブの一枚板の扉から、ぼくたちはヘパイストスの神殿……いや、そう呼ぶにはあまりにも粗末な「家」へと招き入れられた。

 入り口を入ってすぐに、広い漆喰張りの床が広がっている。壁も白く、まるで雪にでも覆われたような真っ白な世界だ。そこに、自然の流木や漂流物を組み合わせて作ったらしい、しかしひどく美しい佇まいの家具がいくつか配置されている。よく見れば、立派なテーブルですらが白化した珊瑚と流木と、貝殻で作られていた。室内を照らす明かりは、巨大な海胆の殻をいくつも組み合わせて作られた吊り下げ式のランプ、いや、シャンデリアだ。

 椅子もまた見事に削られた流木の組み合わせで、ところどころに貝殻や乾いた海星など、海のものが装飾として用いられているのは、海の泡から生まれたというアフロディーテへの愛情の表現だろうか。

 どの椅子もいかにも座り心地が良さそうだったが、ぼくはとても間口から動く気にはなれず、ただじっと、アフロディーテの手を取ったまま玄関先にひれ伏していた。

「ヘパイストス様、どんな罰でもお与えください」

「そうじゃな」

 ぼくの言葉に、彼は微笑とも冷笑ともつかないような、曖昧な表情を浮かべて頷いた。

「ぼくたちのことを、いつからご存じでしたか」

「これが、お前様と交わって、戻ってきた時から」

 ヘパイストスは愛用の品らしい奥の椅子にどかりと腰を下ろして、ぶっきらぼうにさえ聞こえるような口調で言った。

「気がついたんじゃよ。あのとき、これが戻ったとき、これには長いこと失われていたはずの女神の輝きが戻っておった。あんまり幸せそうじゃったもんで、本当に幸せなことがあったんだろうと分かった」

 彼は貝殻を繋いでこしらえたらしい瓶から、二枚貝に脚をつけた珍しい形の杯に赤い葡萄酒を注いで、しゃがれた喉を湿らせてから続けた。

「それからすぐに、こんな世捨て人まがいの耳にも噂が入ってきた。美の女神と若き軍神の道ならぬ恋物語がな」

 と、ヘパイストスは不意に眉間のしわを緩めて、珊瑚のテーブルにもうひとつ、貝殻細工の杯を並べ、ぼくたちに向かって静かに告げた。

「まあ、おかけなされよ、アレス様。お前様のような軍神が床に跪いておっては、かえっておっかないわい。その椅子には何の仕掛けもしておらぬから、ご安心なされな」

「はい」

 ぼくは仕方なく、言われるがままに、勧められた椅子に腰を下ろした。

 座面となった流木の板はたいそう分厚く、さぞや立派なものだったのだろう、これならギガースが座っても壊れないほど頑丈そうだ。ところどころに虫食いの穴があったり、縁に乾いて石化したフジツボがついているのが、実に赴き深かった。

 彼はぼくのために、手ずから葡萄酒を貝殻の杯に注いだ。毒など入っていないことを証明するためにだろうか、ヘパイストスはまた自分の杯に酒を足してから、それを少しずつ、啜るように飲んだ。

「ありがとうございます、頂戴致します」

 ぼくは注がれた酒を一気に煽った。

 それがどんなに危険な行為かは分かっていたが、このヘパイストスという男の人柄が少しずつながら掴めていたのだ。わざわざ自らの居室で妻の愛人を毒殺するほど、この背の曲がった小男は愚か者ではない。やるなら誰か人を雇って、絶対に露見しない方法で暗殺したか、でなければ妻が愛した男がみっともなくのたうち回って、命乞いをしながら死ぬのを笑いながら眺めるだろう。そのどちらにも、この穏やかな部屋は不向きだ。彼には相当のこだわりがある。それがぼくの結論だった。

 だからこそ、ぼくはあまり言葉を選ばずに、率直にヘパイストスに訊ねることができたのかもしれない。

「それであなたは、ぼくたちを……その、なんていうか……どうなさろうと思っていらしたのです?」

「こうしてやろうと思っておった」

 と、ヘパイストスはのろのろとした動作で立ち上がり、部屋の隅に置かれた篭を、いかにも重たげに、ひきずるようにしながら持ってきた。

 それから、その篭におもむろに手を差し入れ、彼がひそかに作っていたものを差し出して、わざわざこちらへと見せて寄越した。

「水晶の鎖じゃ。これをお前様の寝台の柱に仕込んで、抱き合った間男と不貞の妻を雁字搦めにして、素っ裸のお前樣方をオリュンポス神殿の門前にでも晒して、見せ物にするつもりじゃった」

 ぼくはその細い透明な鎖を受け取り、ただじっと見つめた。

 どこにも継ぎ目がない。

 つまり、ヘパイストスは巨大な水晶の塊から、この細いが頑丈な、何もかも透けて見える鎖を、一コマずつ彫っては進み、長さを持たせてはまた同じ作業を繰り返し、たったひとりでこれだけの代物をこしらえたということか。

 恐ろしい腕前だ。

 同じく、獲物を捕らえるための罠が専門のアラクネが気付いたのは、これがあまりに巧妙すぎたせいかもしれない。そう思わせるほどに、その鎖は完璧な罠であり拘束具だった。こんなもの、どんな怪力の持ち主でも用意に引きちぎることはできないだろう。何しろ、すべてはひとつの水晶の塊から作られた、すべてで一体の鎖なのだ。

 これは罠ではなく、芸術品と呼ぶべきだと、ぼくは思った。

「たいへん結構なものを拝見致しました」

 両手で丁重に返却すると、ヘパイストスは意外そうにぼくの顔を眺めた。

 それから、芸術並の鎖をまるで荒縄かなにかのようにもとの篭に叩き付け、ぎろりと白目がちな目玉を動かしてぼくを睨んだ。

「アレス様。お前様は、機織り女の倅だ。わしは、神々の女王ヘーラーの息子だ。そりゃあ貴様は若い色男で、わしはこんな中年の醜男だ。だが、血筋の上でどちらがアフロディーテにふさわしいかなど、誰が考えても分かることじゃろうが!」

 最後の一言は、切実にぼくの鼓膜へと届いた。

 そしてぼくは知った。

 ヘパイストスというひとが、ぼくの愛しいひと……アフロディーテを、どれほど激しく愛しているのかを。

「仰るとおりです、ヘパイストス様。だからぼくは、今夜、あなたに謝りにきたのです」

 そう。

 そうでなければ、ここに来た意味などない。

「さっきから薄気味悪いぞ、この間男の小僧めが」

 ヘパイストスは不審そうに眉間に皺を寄せたが、ぼくにはもとから、この切り札一枚しかない。一枚しかない札なら、最初に切ってしまえばいい。

「美しさとは、外見で決まるものではない。アフロディーテはぼくに、それを教えてくれました」

 だから正直に、ただ相手の目を見つめて言った。

「ぼくはずっと、自分が綺麗だと思うものだけが美しいのだと思っていました。アテナお姉様のこと、母のこと、春に咲くスミレの花のこと。アラクネねえさまの織る布や、輝く海や流れる滝、またたく夜空の星を、そして、父の見せてくれる剣の技を、ぼくは美しいものだと思い、それ以外のものには意味がないと思っていました」

 ヘパイストスはこちらへと向き直り、体の割にはがっしりとした両手をテーブルの上で組んで、黙ってぼくの話を聞いていた。

「だけど、ぼくはそうじゃなかった。美しいところなんて、ひとつもなかった。ぼくは弱くて、何の取り柄もなくて。ずっと辛くてたまりませんでした。ぼくは何のために生まれてきたのかって」

 そのとき、テーブルの下で、ぼくの手を握るアフロディーテの力が、そっとだがはっきりと強くなったのを感じた。

 何もかをも話す勇気を、彼女はぼくに与えてくれている。

「ですが、アフロディーテ……あなたの奥方様と出会い、彼女と語り合ううちに、この世には美しくないものなどないということを思い知らされました。石畳の間から必死に芽を出そうとしている雑草のなんと健気なことか。せっせと石灰岩の壁を舐めている蝸牛のなんと無邪気なことか。神々の思惑も、人間の思索も関わりないところで世界は動いている。だからこそ、こぼれ落ちた小麦の一粒、枯れ果てた草木の乾ききった姿ですら、天に上げられ星座となって後世まで伝えられる英雄たちと同じく美しい。それが、自然と見えるようになっていたのです」

 それはすべて本当のことだった。

 彼女に恋してから、その瞬間から、無理矢理連れて来られたはずのオリュンポスが、もともと自分が暮らしていたのとそうは違わない……豪華さでは遥かに優れているが、神々の世界というにはあまりにも生々しいと知った。

「そんなことすら分からなかったなんて、ぼくは本当に愚かです」

 その視線を得たことは、ぼくの心を安堵で満たしてくれた。

 今まで暮らしてきたのと変わらない、毎日をひたすら生き抜くだけの日々が続くのだと思ったら、逆にほっとした。下界より危険が多い分、神様という猶予も貰えた。足し引きを考えたら、ぼくは損はしていない。そんなふうに、まるでこれが、姉と母の織物を街に売りにいっている時のような計算が立った。

 すべて、彼女のおかげだった。

 だからこそ、問わねばならなかった。

「あなたはこのひとを、心から愛していますか」

 ヘパイストスは答えなかった。

 ただ、じっとぼくの目を見ていた。

「愛するひとが裸で公衆の面前で笑い者にされるのを、あなたは耐えられるのですか」

 ならばぼくが話そう。

 彼が本当は言葉にしたいことが手に取るように分かるのは、同じ女を愛した男同士だからかもしれない。

「そんなはずはない。ぼくには、決してそんなことはできない。あなたも同じだ、アフロディーテに恥辱を与えるなど、あなたに耐えられるはずがない」

 ぼくにはただ、心から謝罪することしかできなかった。そんな自分のことが、情けなくて仕方がなかった。

「あなたの口から水晶の鎖の話を聞いた時、ぼくは自分の罪深さを思い知りました。あんなにも美しい芸術を、あなたは憎悪によって作り上げた。ぼくは、ぼくは……あなたにそこまでさせるほど、あなたを追いつめてしまった。こんなにもこのひとを愛しているあなたを」

 ヘパイストスの葛藤が、自分のことのように思えた。

 愛するひとが他の男と密会している。その現場も、使っている寝台や寝具さえもその目で見た。夫ならば罰するべきなのだ。だが、彼はその機会も手段も持ちながら、けっきょく何もしなかった。

 いや、できるはずがないのだ。

「どうか、このひとに、あなたの妻に罰を与えるのはやめて下さい。悪いのは全てぼくです。傍若無人で暴れ者でわがまま勝手で、父と姉の虎の威を借りているだけの愚かなアレスです」

 ぼくは、道化の役は慣れていた。

 ギガントマキアの初戦での大負けも猿芝居だ。

 ヘパイストスが何も知らないふりをし続けて、愚かな寝取られ男の汚名を甘んじて受けることにした気持ちくらい、姉たちの力を借りずとも理解できる。

 だが時として、道化は主役になり得るものだ。

 ぼくは先ほどの剣、ぼくの血にまみれた刃を指差して言った。

「ですから、これで首をお刎ねください。あなたは妻を無理矢理奪われそうになったのを、助けようとしただけだ。そのもみ合いで、思いがけずにぼくが死んでしまったことにすればいい。ゼウス様も、ぼくが残虐で無慈悲だと疎んじておられます。それ以上追求されることも、あなたが罰せられることもないでしょう。あなたがたご夫婦の名誉は守られます」

 彼が今まで抑え付けていた激しい愛を、守りたかった。

 同じひとを愛したもの同士でなければ分からないだろう。彼女がどんなに素晴らしいか、アフロディーテがどれほど愛しいか。

 彼女は美しくて、本当に可愛くて。

 このひとの傍にいながら恋い焦がれ、このひとを失うことを思い浮かべるだけで気が狂いそうになる。

 そんなことを、ヘパイストスとなら何時間でも語り合えるような気がしていた。

 だから、彼に不名誉を背負わせるわけにはいかない。

 夫の不名誉は、妻の不名誉だからだ。


「アレス、だめよ、そんなこと」

 アフロディーテがぼくを抱き寄せて、涙に震える声で言った。

 こんなときなのに、どうして彼女の声はこんなにも美しいのだろう。

「聞いて。あなた。最初に誘ったのはわたしなの。わたしが彼を好きになってしまったの。すべてわたしが悪いの。罰を受けるべきなのはわたしよ、彼じゃない」

 彼女がぼくを、幼子を守るように胸に抱きながら、必死に夫に訴えているのが、どこか遠くからのように……いや、間近で奏でられている竪琴の曲のように響いた。

 ぼくはただ、その柔らかな乳房を薄い布越しに感じながら、このまま死にたいと思った。

「わたしを打つなり殺すなり、好きにすればいい。オリュンポスに晒すならそうなさいませ、わたしはそれでいいわ。だからお願い。アレスを許して。この子は何も悪くないの。どんな罰でも、わたしは受けるから」

 彼女の訴えが音楽のごとく聞こえたのは、恐らくぼくだけではあるまい。

 そう。ヘパイストスもまた、己の妻の女神としての姿を、そしてひとりの恋する女としての姿を、うっとりと見つめていた。

 それに気付いていないのはアフロディーテだけだ。だから、ぼくは出来るかぎりゆっくり、落ちついた口調で、彼女のしなやかな体を抱きしめながら言った。

「ご覧、アフロディーテ。そんなことを、あなたになさるわけがないだろう、あなたのご主人が」

 水を向けられたヘパイストスは、不意に恥じ入るように目線を反らした。それは、思いがけず両親のくちづけを見てしまった子供のような仕草にさえ見えた。

「アフロディーテ、聞いてくれ。ヘパイストス様はあなたの夫だ。愛する妻に鎖をかけるなんて、いや、手を上げることすら、このかたは、絶対になさらない」

 ぼくには確信があった。

 ぼくにできないことは、きっと彼もできないと。

 そして不意に、なぜか自分が微笑んでいることに気付いた。

「ヘパイストス様。あなたは確かに、ヘーラー様がおひとりでお生みになろうとなさったためにそんなお姿になられた。でも、本物の天才でしょう。ぼくみたいな愚かな狼藉者とは違う、あなたは立派な方だ」

「ちょいと、そういうのはやめておくれ、アレス様」

 ヘパイストスはいささか困惑した様子ながらも、こちらの意図するところを汲んでくれたようだ。

 やれやれとばかりに寂しくなった頭を振り、ひきつれだらけの顔をいっそうひどくねじ曲げて、彼はぽつぽつと語りはじめた。

「アフロディーテがそもそもわしの妻になったのは、わしのお袋さまのいやがらせなので。わしのお袋さまは、ヘーラーって女は、自分より美しいものが許せないから、この女をわしみたいな醜い男とくっつけた」

 彼の割れた唇には、苦笑とも自虐ともつかない、ねじくれたしわが刻まれた。それがぼくには、ひどく寂しげに見えた。

「本当の美しさは外見じゃない、ってお前様はお言いなすったね。でも、そいつはもともと綺麗な人の理屈なのでございますよ。わしらみたいな、生まれつき醜いものは、誰にも愛されない、誰からも求められない。そんなこたあ、分かってたつもりだった」

 いや、それは嘆きゆえの微笑なのだと、ようやく分かった。

 彼の落ちくぼんだ眼に、輝くものが見えたから。

「なのに、アフロディーテは、こんなわしにも優しかったですよ。夫として立派に立ててくれて、こんなおぞましい姿のわしにも、妻として抱かれてくれた」

 ヘパイストスは泣きながら、曲がった笑顔を無理に作って、ぼくに言った。

「もうじゅうぶん、尽くしてくれたのに。わしはやっぱり、見た目と同じで心も醜いんですじゃ」

「そんなことはない。あなたは美しい」

 ぼくが真剣なまなざしで言うのを、彼はぎょっとしたように見つめ返した。

 だが、事実ぼくは、そのとき……涙をこらえながら笑おうとしたヘパイストスの姿を、心から美しいと思ったのだ。

「誰が何と言おうと、あなたは美しい。そして、心も同じように綺麗だ。でなければどうして、こんな鎖まで作っておきながら、ぼくたちの密会の場にまで忍び込みながら、この仕掛けを使わなかったのです?」

 ぼくは自分の血まみれの左手でアフロディーテのてのひらを握りながら、右手では彼の作り上げた水晶の鎖を掴み、ジャラジャラと音を立ててテーブルの上にぶちまけていた。

「いいや、そもそも、彼女を自分だけのものにしたいなら、とっくに殺してる。一番簡単なやり方です。でなければ、彼女の目の前で死んでみせればいい。そうすれば、彼女の心に永遠に罪として刻まれる。でも、あなたはそんなことはしない。いつでもそうできるのに、あなたはしなかった。アフロディーテを傷つけないために、あなたはただただ耐えておられた。どんな屈辱にも、どんな嫉妬にも。おん自らが傷つくことなど厭わなかった。ただ彼女を愛し続けた。崇高な行いです」

 菜種油の燃えるやわらかな明かりの中、きらめく水晶の精緻な鎖。

 そこに、ぽたりと一滴の涙が落ちた。

「やっぱり。あなたは美しい人だ」

 それは、やはりこの世で最も美しいものの一つだと思えた。


 それからしばらく、黙りこくった後……おそらく、自らの涙がおさまるのを待っていたのであろうヘパイストスが、ゆっくりとぼくの方を向き、しゃがれた声で告げた。

「アフロディーテはいま、妊っております」

「えっ……」

 ぼくはただひどく驚いただけだったが、アフロディーテはほとんど雷に打たれたように震えはじめた。

「あなた、ご存じだったのですか」

「当たり前じゃ」

 ヘパイストスは今度こそ、上手に笑った。

「ようやっと授かった我が子だと思っておった。ずっと、自分らの子じゃと思っておった。なのに」

 ぼくは急いで口を挟んだ。

「それ以上は、どうかお言葉になさらないで下さい、ヘパイストス様。尊いお口が穢れます」

 その段になって、ようやく得心がいっていた。

 さっき、葡萄酒を貝殻の杯に注いだ時、ヘパイストスはぼくと彼の分しか用意しなかった。妊婦であるアフロディーテには酒は毒だと、彼は冷静に判断していたのだ。

 そんな彼に比べたら、ぼくは……

 ああ、なんて、愚かなのだろう。

「ぼくも同じなのです。ヘパイストス様。ずっとぼくは、ぼくのとうさまの息子だと思ってた」

 このひとになら、話してもいい。いや、話すべきだと思った。

「ひどい話ですよね。ゼウス様は、ぼくの父にそっくりの姿になって、母と交わった。アテナの養母がどんな女かって、気まぐれで味見をしたんです。その時にできたのがぼく。両親は、はじめは知らなかったそうですよ。それを、ゼウス様は笑い話にして、他の衛兵たちや巫女のいるところでぼくの父に話した。それで父は衛兵をやめて隠遁しました」

 この話の顛末の下りは、天馬の引く馬車の中で、迎えにきた侍従の一人が、やはり笑い話として語ってくれたものだ。

 ぼくははらわたが煮えくり返り、そのまま空飛ぶ馬車から飛び降りようと思ったが、アテナお姉様がぼくの腕を掴んでそれを許してはくれなかった。

「皮肉なものです。ぼくは、実の親と……ゼウスと同じことをしようとしていた」

 ヘパイストスは気付いていただろう。ぼくが、実の父にあえて敬称を用いなかったことに。

 ぼくは水晶の鎖に手を伸ばし、その、女の指ほどの細さしかない、美しい刑具を一本取り上げて、ヘパイストスに向かって捧げた。

「この鎖でつながれ、晒されるべきなのはぼくだ。どうぞ、お戒めください」

 そのとき、アフロディーテが何か言いかけるのを制するように、ヘパイストスは静かな口調で言った。

「わしにはできぬ、そのようなことは」

 彼の眼窩の奥には、もはや怒りの炎はなかった。ただ穏やかで、静かで、優しげで……そして、ひどく寂しそうだった。

「お前様はわしに、ほんの一瞬でも、我が子を得た喜びをくれた。それだけで、わしには充分すぎる恩恵じゃった」

 アフロディーテの輝く両目から、ぽろぽろと真珠のような涙がこぼれた。

「むしろ、何故でしょうかなあ。胸のつかえが取れたような気がしておりますのじゃ。わしは、常々思うてはおりました。美の女神アフロディーテの生んだ子が、こんな醜いわしのにそっくりじゃったらどうしようかと。いや、生まれた時にはまともでも、後々わしに似てきたらどれほど生きづらいか分からぬ、などとな。赤子の顔を見たその場で、その子を絞め殺しておったやもしれませぬじゃ。それがその子のためじゃと、己に言い聞かせながらな」

 ヘパイストスの葛藤を思うだけで、ぼくの心は傷んだ。

 毎晩夢に見たかもしれない。目を閉じるだけでも、その有様を思い浮かべてしまったかもしない。

 取り上げられた赤子が、己が一番憎んでいる己自身であったとしたら。

 気の狂いそうなこの数週を、彼はただ何も考えないようにするためだけに、この水晶の鎖を彫り上げることに集中していただけなのかもしれなかった。

「そしてアレス様。あなた様は、わしの妻に、本当の愛をくれた。あなた様がアフロディーテを、ただの美の女神から、愛と美の女神へと押し上げなさったんじゃ」

 ひどくしゃがれて聞き取りづらいはずの声が、今は鼓膜にはっきりと響く。いや、ぼくの心に、その言葉のひとつひとつが深く刻み込まれた。

「アレス様。あなた様は、ゼウスともわしのお袋さまとも違う。あなたは、弱くて、醜くて、愛されないものの心を知っていなさる。だからこそ、本当に愛された喜びもお分かりのはずじゃ」

「はい」

「あなた様なら、アフロディーテとその子を幸せにできる。これのこと、よろしくお頼み申しますぞ」

 そう言いおえたときの彼は、本当に晴れ晴れとした、肩の荷が下りたような顔をしていた。

「わしは生まれそこないでございます。女がひとりでこさえたものじゃ、きっと、種無しじゃろうて。だからずっと子ができなかった。アフロディーテを母親にしてくれたのは、母になる喜びを与えて下さったのはお前様じゃ、詫びることなんぞないわな」

「あなた……」

 ぼくはようやく、自分の所業が許されたのだと思った。同時に……彼も許したかったのだと知った。

 ぼくとアフロディーテを許すことは、すなわち、彼が彼自身を許したということなのだ。そんな気がしてならなかった……それは、ぼくの独りよがりだったかもしれないけれど。

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