第8話 警告と罠

 ゼウスの謁見の間を出てすぐ、自分たちにあてがわれた部屋に戻った途端。

「ところで、あんたの本当の手綱を握ってる女のことだけど」

 と、いきなり姉に核心を突かれて、ぼくは心臓が口から飛び出すような気がした。

 本物の殺し合いを経験した直後だというのに、いまの姉の悪戯っぽい笑顔の方が怖かった。

「まさかあのババアとは思わなかったわ。あんた年増が好きなのね」

「年増はないだろ、ねえさま。女神に年齢なんてあってないようものでしょ」

「別にそれはどうでもいいのよ。ただ、あいつ旦那持ちだって知ってて付き合ってるの? 立派な姦通よ」

「うん。知ってる。だから……」

 ぼくの声はひどく緊張していた。だが内心では、とうとう、というよりやっと、姉にこのことを打ち明けられることに、緊張よりも罪悪感が増していくような気がしていた。

「ぼくは、彼女のご亭主……正式なご主人に、謝罪して許しを請おうと思ってる」

「あんた正気?」

 当然のように、アテナは驚くよりも先に怒った。

 それでいい。もっとぼくを罵倒してくれ、この愚か者、恥知らずと糾弾してくれと、願ってすらいた。

 しかし。

「とんでもない奴よ。あんたの謝りたい相手は」

 それに続いた姉の声は、ぼくとは正反対に落ち着き払い、ついでにその頭脳の中では、最高速度で最適解を導きだそうと、あらゆる思考が飛び交っているのが分かった。

 アテナはぼくの目をじっと見つめて、例の悪戯らしい笑みすらを消し去り、静かに言った。

「そいつ、ものすごく頭がいい。あんたたちがやってること、全部しっぽを捕まえてるわ。もしかしたら、最初からあっちの仕込みの美人局かもしれないわよ」

「そんなことをするようなひとじゃないよ、彼女は」

「そう……」

 ぼくの本心からの擁護に、お姉様は小さく息をついた。

 それが、恋に目がくらんだぼくへの軽蔑のため息ではなく、抜け目ない戦略家が、想定していた最悪の事態が当たっていたことに対する逡巡の吐息なのだと、ぼくもすぐに気付いた。

 続けられたアテナの言葉が、思いがけないほど詳細なものだったからだ。

「なら、もっと悪いわね。あんたの彼女の旦那は、ものすごくどころかとてつもなく頭がいい。あんたたちが密会に使ってる場所に、あんたたちがいない間に出入りして、何か仕掛けをしてた」

「調べたの?」

「あたしたちのお姉様は何でもお見通し」

 と、そのときになってようやく彼女は笑顔を取り戻し、大理石の壁と天上の間に張られている銀色の糸と、その上でゆらゆらと遊ぶように揺れている小さな影を横目で見遣った。

 ああ、そうか。アラクネならどこにでもいるし、その八つの目は何も見逃さない。ぼくたちは最高の諜者を味方につけているのだと、改めて思い知った。

 だが、ぼくはそんなことよりも、アテナが彼女と互いの意思を伝え合えるようになったことの方がずっと驚きだったし、同時に、一瞬何もかもを忘れるくらい嬉しかった。

 また姉妹弟が揃った。そんな気がして、思わず声が弾んだ。

「アテナねえさまもアラクネねえさまと話せるようになったの! よかったね!」

「うん。ほら、糸で字を書いてくれるの。水で濡らすと、結び目が光るようにしてくれた」

「うわ、すげえ」

 ぼくは思わず目を見張った。

 アテナが両手をゆっくりと広げると、その両の薬指同士をつないで、空中に光の珠がいくつも浮かび上がった。

 いや、それはよく見れば、ごく細い一本の糸のところどころに、小さな水滴が輝いているだけだと分かる。ただ、その水滴の大きさがそれぞれ微妙に違い、間隔も不揃いだ。

「編み目文字だ……」

 球形の水滴がレンズの役割をして、その水滴の内側に封じ込められているのが、細い糸で結われた大小さまざまな、複雑な形の結び目なのだと、ぼくはようやく理解した。

 そのころのギリシャでは、高等なギリシャ文字を読めるのはごく限られた神々か人間だけで、普通の人間や無能な神は粘土に絵や模様を描いて記録するしかなかった。

 ただ、一部の商人たちは、長い紐に結び目を作り、その結び目の形それぞれに一定の形式と意味を持たせ、それらの数や間隔や大きさで、遠方にいる仲間と情法を交換したり、商いの儲けや損の記録を残すという方法を、文字通り「編み出して」いた。

 アラクネお姉様は、織物の商いの方の手伝いもしていたから、糸で意思を伝えるという方法を思いついたのだろう。

「さすがお姉様よね、綺麗な結び目」

 そう微笑むアテナは、誇らしげにすら見えた。

 ぼくとは違って、アテナお姉様は彼女と心で会話することができない。そのための策としての「編み目文字」だが、それを簡単に理解したアテナもさすがだった。

 実際、彼女は鼻高々といった様子で、広げていた両手を突然打ち鳴らすかのように組み合わせた。

「で、こうして丸めてしまえば、ただの埃の塊しか残らない」

 次の瞬間にはもう、そこにあるのはただの湿った埃屑にしか見えない代物だった。

 ぼくはそれを手に取って広げてみようとしたが、全くの無駄だった。だが、その原理だけは分かった。アラクネの蜘蛛の糸は、どういうわけだか、結び目のところだけべたべたの、例の虫取りの糊がついていて、それが水につけると読めるようになる仕組みらしい。

 そういえば、まだ幼かった頃、父から教えてもらった覚えがある。蜘蛛は粘り気のある糸で網を張るが、獲物を捕まえるためにべたべたしているのは巣の横糸だけで、縦糸は蜘蛛自身が自由に巣の中を歩き回るために、滑らかなままにしてあるのだと。その頃には、たかが虫ごときにそんな能力があるなんて信じなかったけれど、今ならば父が正しかったのだと分かる。

 なんて素晴らしいんだろう、ぼくの父と姉たちは。

「それで、アラクネねえさまはなんて?」

 ぼくの問いに、アテナは苦笑いで答えた。

「結び目だけじゃ、暗号みたいなものよ。『アレスの秘密、寝台に仕掛け、水晶の蜘蛛の巣、注意』ですってよ。それくらいの文章しか紡げないのよ」

「だったら、どうしてアラクネねえさまは、ぼくに直接言わずに、アテナお姉様に伝えようとしたんだろう」

「あんたが一度言い出したら聞かないって知ってるからよ。あたしも知ってるから、いまさらあんたの彼女に会うなとは言わないわ。ただ、今夜は密会の場所は変えなさい」

 アテナは今度こそあきれ果てた時のため息をついて、いつもの悪戯らしい笑顔を浮かべた。

「分かった。まったく、お姉様たちには敵いっこないや。今夜は、密会はやめるよ」

「あんたにしちゃ物わかりがいいわね」

「その『水晶の蜘蛛の巣』っていうのが、やけにひっかかるし。だから」

 糸ではなく巣という単語を使ったのには、必ず意味があるはずだ。

 すなわち罠。獲物を捕らえたら逃がさない蜘蛛の巣を、彼女の夫はぼくたちの隠れ家に既に仕組んでいる。

 ならばなおさら、これしか道はないように思えた。

「今夜、彼女のご亭主に謝罪に言ってくる」

「もう一度訊くけど、あんた正気?」

 なかば開き睨めた様子で、訊ねるというより確認する調子で言った。

「うん。じゃあ、ちょっと出かけるよ」

「あんた殺されるわよ」

「それならそれで、いいじゃない。ハデス様とお話したかぎりじゃ、冥府もそう悪いところじゃないよ」

 ぼくが外出用のマントに手を伸ばしながら笑いかけると、アテナお姉様は「好きにしろ」とでも言いたげに軽く肩をすくめた。

 その姿は、確かに容貌こそ違ったが、仕草といい表情といい、ぼくたちのお父様にそっくりだった。ぼくたち三人の父、アルセロスに。

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