第7話 ギガントマキアの結末

「いい負け方だったわ、アレス」

 自軍の兵士を二百も失った。それで、砦の壁一つ壊せずにぼくの率いた軍は壊滅したのだ。

「でしょ」

 それなのに、姉の満面の笑顔の褒め言葉に、ぼくも笑顔で返した。


 敵将であるエンケラドスは、ギガース、いや、巨人たちのわずかな生き残りのギガンティス族が誇る歴戦の勇者だ。

 というより、ただひたすらに長く生き続けるギガースどもにとっては、戦争などはよくあることで、誰でもが戦術家や武術家、あるいは一流の将軍となっている。

「一戦交えたところでの分析は?」

「古き良き猛将、ってところかな。自らが前に出て士気を高揚させる種類の指揮官だね。かなり腕は立つと見たよ。自信がなければ、出撃の陣形で堂々と先頭に立ってくるはずがない」

 ぼくは率直に感想を述べた。

 ギガースを実際に見たのすら初めてだったが、エンケラドスは中でもひときわ巨大に見えた。気迫とでも言うのか、姉であるアテナが常に纏っている形のない黄金の鎧を、その戦士も身につけているようだった。

 かれの武器は巨大な、自分たちの常識では首切り役人が二人掛かりで持ち上げるような大きさの戦斧だった。重厚そうな革鎧の下に、荒削りながらしっかりした鎖帷子を着ていた。

 ただの馬では、ギガースを乗せることすらできない。彼らは巨大な牛に乗り、その角にまで青銅の覆いを被せ、蹄には長いかぎ針のついた蹄鉄を打って武器とし、あらゆる敵をなぎ倒し踏みつぶす。

 なかでもエンケラドスの乗りこなすのは青く見えるほど黒光りする猛牛で、その首のところにはギカンティスの紋章の刺繍された血濡れの旗がつき立てられていた。その髭に覆われた口からほとばしる雄叫びは開戦を告げる角笛より良く響いた。あの姿を見て熱狂しない味方はいないだろう。また、震え上がらない敵も。

「そうして、ぼくの軍は惨敗した」

 ぼくのざっとした説明に、アテナお姉様はさすがに戦の女神らしく頷いた。

「ふうん」

「次はあいつら、油断して全軍で出てくる。あのエンケラドスを先頭に、こちらを皆殺しにするつもりでね」

 ぼくの言葉に、アテナはくすくす声をあげて笑った。

「あんたが失った兵隊は老いぼれか傷病兵ばかり。そんなことにも気付かないであんたを叱り飛ばすなんて、ゼウスって目は節穴なのね」

「老眼でしょ」

「あんたも口が悪いわねえ、誰に似たのかしら」

 いけしゃあしゃあと姉が言うのを白々しく聞き流してから、ぼくは不意に思い出して、アテナ以外から唯一もらった賞賛を報告した。

「冥界の王ハデス様からは、たいそうなお褒めの言葉を頂いたよ。たくさんの死者を送ってくれてありがとう、って」

「あら、お手柄よ」

 アテナお姉様は、また嬉しそうに笑った。

 冥府の王ハデスは、大海の王ポセイドンとともに、ゼウスの兄でもあり弟でもある複雑な存在だ。彼らに名前を売っておくのは、実際そう悪いことではない。

 だが彼女の心は、すぐに目の前の戦に戻ったようだ。

「策はもうできているようね」

「もちろん」

 ぼくの答えに、姉は意外そうに、同時に感心したように目を細めた。

「後は、撒き餌に釣られて出てきた巨人どもをひとり残らず殺すだけ。女子供も容赦なく」

「あんたにできる?」

「やるよ」

 そこでぼくは説明した。自分で考えた策を、ありのまま、包み隠さず。そこに穴があれば、アテナなら躊躇なく指摘してくれるだろうと思ったからだ。

 しかし、彼女は納得した顔で頷いただけだった。

「そこで、いざの最後のそのときに、戦の女神のお出ましってわけ。いい筋書きでしょ」

 と、ぼくが得意げに締めくくろうとしたところで、アテナねえさまははいつもの意地悪な笑みを浮かべて、ぼくの鼻先に人差し指を押し付けてきた。

「あんたが考えたんじゃないわね。お姉様でしょ」

「ちぇっ、ばれてらあ」

 言ってから、ぼくとねえさまは顔を見合わせ、どちらともなく吹き出してからげらげら声を出して笑った。

 そのとおり。

 ぼくが言ったのは、アラクネお姉様の作ったお話、すなわち計算され尽くした蜘蛛の巣の罠だ。

「頭の中に、銀の糸が見えるんだ。それが、地図になり、文字になり、何をどうすべきかが分かる」

「いいなあ。あたしもお姉様と話したい。きっとあたしたちは血がつながってないから、あたしには入り込めないのね」

「ぼくは暴虐の軍神、アテナお姉様は戦のもたらす平和と秩序の女神。それで釣り合いが取れるんだってさ」

「ああ、さすがだわ。織物はそうよね。糸の釣り合いが取れないと、綺麗に仕上がらないって、ねえさまはいつも言ってた」

「そういうこと」

 冗談めかしながらアテナの肩を抱いたとき、ぼくはやっと、姉が今にも泣き出しそうなのが分かった。少し俯き、必死に涙を堪えている。

 そりゃあ、そんなの当たり前だ。アテナねえさまだって、アラクネねえさまに会いたくて仕方がないんだ。そんなことにも気がつかないなんて、ぼくはなんてばかなんだろう。

「ごめん、ねえさま。でも、これもアテナねえさまが、アラクネねえさまを蜘蛛の女神にしてくれたからなんだよ。これからは、アラクネお姉様との話は、ちゃんと話すから」

「いいのよ。でも、ありがとう。ここにお姉様がいるんだって分かってるだけで、あたしもとても心強い」

 彼女の言葉は本心に聞こえた。もしかしてアテナは、彼女がアラクネを自分と同じ立場にまで引き上げたのに、アラクネがその無数の目、建物や庭だけでなく、周囲の山々の連なりや戦場に至るまでを、この世で起きているあらゆる事象を、蜘蛛という自らの分身の目を通じて見ていることに気付いていなかったのだろうか。

「アラクネお姉様、あたしの声が聞こえるのかな」

「聞こえてるよ。今も、ちゃんと見ててくれてる」

 ぼくの言葉に、アテナは彼女らしくもなく、こころから安堵したようなため息をついた。

 それから不意にぼくのことを見上げて、その宝石のような目でじっとぼくを見つめてから訊ねた。

「あんた、急に大人になったれど、何があったの?」

「大人になったんじゃないよ。男になっただけ」

 できるだけ冗談めかして答えたつもりだったが、真意は伝わったらしい。アテナはいつもどおりの悪戯めいた笑顔に戻って、興味津々の目つきでぼくを眺めた。

「へえ。どこの美人をたらし込んだの」

「違うよ。たらし込まれたの」

「あはは、あんたやっぱりいい子ね」

 そう声を出して笑ったとき、彼女はすっかりいつものアテナお姉様に戻っていた。

 それからぼくたちは、少しばかり明日の戦略の話をしたり、巫女たちがひっきりなしに運んでくる果物だのお菓子だのうまいだのまずいだのいいながら食べたり、下らない冗談を言い合ったりした。

 そして、別れ際にこれだけ言い交わした。

「じゃあ、明日は頼むよ。最高の瞬間に現れてね」

「もちろんよ」


 そしてオリュンポス軍は完勝した。見事なまでの勝利だった。

 エンケラドス率いるギガースの兵士たちは、囮として前に出たアレスに釣られて全軍で打って出た揚句、本来ならば天然の要害のはずの砦真横の断崖絶壁、岩山の急斜面を、天馬の騎馬兵を率いて駆け下りてきたアテナの部隊の突撃によって、兵士はほぼ根絶やしにされた。

 敗北を悟った猛将エンケラドスは、オリュンポスの神々に殺されることを由とせず、最後にひとり、角も失い、後脚も折れた猛牛だけを供として、崩れ果て廃墟と化したギガースの砦の内へと戻り、生まれ故郷であるシチリア産の花崗岩から作った石斧で、戦友と自らの頭を割って死んだ。

 その躯の傍らには、自らをシチリアの地下深くに葬ってほしい旨と、降伏を申し出たものたちの命乞い、また砦のさらに奥にある洞窟に隠れている女子供への情けを請う文が、彼自身の血によって床に書き綴られていた。

 その鮮血の文字、ところどころ汗と涙でにじみ、もはや折れて動かぬ指ではなく利き手全体を使って記された、乱れた荒々しい末期の言葉を、戦の神となった姉弟は万感の思いで読んだ。一字一句漏らさず。

 お願い申し上げます。お願い申し上げます。お願い申し上げます。

 末尾には、三たび、その懇願が綴られ、「ギガンティス将軍エンケラドス」の署名の最後が大きく崩れて、彼はその血文字の傍らに横たわっていた。

 アテナはその最後の願いを聞き入れ、シチリア島で最も古いと言われているオリーブの巨木の根元に彼の亡骸と、彼が最後を共にした牛の頭蓋骨を埋葬した。

 すんでの所でアテナによって情けをかけられたものたちは、オリュンポスと、その王ゼウスへの永遠の忠誠の誓いを立てた。その誓いを破るようなことを、ただ心に思い描いただけで心臓に神の雷が突き刺さるという素晴らしい呪い付きで。


 そして、この噂はたちまち全土に広がった。

 軍神アレスは暴力を形にしたようなものだ、破壊と殺戮のかぎりを尽くし、殺しを楽しみ、大喜びで血を流す。彼が来たら死ぬ気で戦うか、逃げるしかない。

 女神アテナはその逆だ。確かに戦上手だが、無駄に兵を失うようなことも、敵に敬意を失うこともない。降伏した者には情け深く、死者を貶めることもない。

 だから、と、オリュンポスに敵対する者たちは口々に言った。

 アレスが来たら、女子供や弱い者を集めて逃げるか篭城しろ。もし戦うと決めたなら、全員死を覚悟せよ。どんなに殺されようとも、城や砦を壊されようとも退くな。

 その後にアテナが出陣するまで堪えられたら、素直に負けを認めるのだ。戦わずに降伏し、アテナの庇護の下での平和を受け入れろ。アレスの侮辱には耐えろ。

 逆の手も考えられる。先にアテナを送っておいて、和平の交渉をする。それで結論が出れば、アテナのご加護が得られる。

 だが、従属の代わりの自由を求めるならば。

 アレスが赴き、すべてを殺し尽くし、すべてが灰になるまで焼き払い、数年は草木も生えぬ焼け野原へと変える。


 この噂は、ただの噂の類で終わらせるには惜しいと、ゼウスならば考えただろう。

 そのうちゼウスの傲慢は、神々の王たる彼自身の力の故だと畏怖に変わるのだから。

 だからこそ、ぼくたち姉弟はじきじきに神々の王の謁見を受け、お褒めのお言葉まで頂戴したのだ。

「よくやった、我が娘、我が息子」

「有難きお言葉です」

「かたじけのうございます」

 恭しい態度で姉弟は口々に例を申し上げたものだが。

 とても惚けたところなど見せぬ様子で、しゃっきりと背筋を伸ばして玉座に腰を据えたまま、ゼウスはカラカラと甲高い笑い声を上げた。

「しかしお前は暴れ馬じゃのう、アレス。誰か手綱を取る者がいれば良いのだが」

 それに反論したのは、姉のアテナだった。

「暴れ馬は、暴れなくては意味がありませんわ」

 それから姉は如才なく、誰をも虜にする屈託のない笑顔で言い切ったものである。

「その暴れ馬すら、こうして御しておられるゼウス様の威厳が増すというものですもの」

 これには偉大なる神々の王も、苦笑と本心からの笑いの入り交じった表情を緩めた。

「さすがはわがメティスの娘じゃ」

 そのとき、ヘーラーが外出中だったのが良かったのかもしれない。

 ぼくは、ゼウスという男の素顔を、ほんの少しだけ見られたような気がした。




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