第6話 アレスの誕生
ぼくはそのまま、頭の中がぼうっとして、姉に命じられたことなど何もかも忘れて、彼女のこと以外は何も考えられなくなっていた。
そのへんにいた召使いを捕まえて自分たちにあてがわれた部屋まで戻らなくてはならなかったほどだった。
部屋に戻っても、まだアテナお姉様は帰って来ていなかった。本当に、このオリュンポスじゅうを探検して回るつもりなのかもしれない。だとしたら、初老の執事やお付きのものたちはさぞや苦労するだろう。
そう思ったら、少しだけ現実に戻れた。
そして、また、頭の中に……細いが強靭な、透明な糸がよぎるのを感じた。
ああ、そうだ。ぼくには考えなくてはならないことがある。
そう云えば……どうしてぼくは、ここに、オリュンポスに連れて来られたのだろう?
アテナはもともとがゼウス様の娘で、生まれながらの女神だ。たまたま近くにいて取り上げた父が、偶然にも自宅に乳の出る女がいることを知ったゼウス様によって、そのまま預けられただけだ。
だがぼくは、神殿の警備兵と機織り女の間に生まれた子だ。父にはティタンの血が四分の一ほど流れていたというが、もはやぼくとなってはただの人間と同じ。
そんなぼくが、なぜ……どうして今、こんなところにいるんだ。
軍神アレスとして。
血のつながった実の姉アラクネは、その身を守るため、そして僕たちを護るために、アテナの女神の力を使って蜘蛛となり、下界と天上に無数の糸を張り巡らせているけれど、そこまでする必要があったのだろうか。
確かにアラクネの助言は常に心強い。だが。アラクネお姉様の支払った代償はあまりにも大きすぎる。
人としての暮らしも、人の世も、ひとりの人間として生きること、すなわち人生さえ捨てて、アラクネは蜘蛛の女神となった。そこまでしなくてもよかったんじゃないのか。どうしてそこまでしなくちゃならなかったんだ。ぼくは知っていた。アラクネねえさまが、少し離れた粉挽き小屋の若者に恋していたことを。彼の名前は……
あれ、おかしい。どうしても思い出せない。思い出そうとすると、あの薄い幕のような雲海を突き抜けた時の感覚が戻ってきて、体が震えだす。
でも、とにかく。アラクネねえさまは、あの若者のことが好きだった。お互いの親も仲が良かったし、向こうもお姉様を悪くは思っていなかった。これから若い娘の一番しあわせな時を迎えられたはずなのに、もしかしたら本当の幸福な人生を歩めたかもしれないのに。
どうして彼女は、蜘蛛になってまで生きなくてはならなかったのだろう。
アラクネとおなじ身の上のぼくが、こうして人すら通り過ぎて、神の形で生きているというのに。
おかしい。何かが変だ。
ぼくにはそう思えてならなかった。
そういえば……
ぼくまで連れて行かれると分かった時の、母のあの嘆きように対して、父の態度は、既に覚悟が決まったもののようだった。今になって思い返してみればの話だが。
何かがおかしい……
あのとき、そういえば、お父様は何か言っていなかったっけ?
思い出せ、アレス。
お父様は何と言った?
アレス、アレス、アレス。大事なことなんだ。大事なことのはずなんだ。
それなのに、頭の中に流れ込んでくるのは、いつもと同じ、あのうっすらとした膜だ。
下界と天界を分ける、あの雲海。
それが頭と心をいっぱいにしてしまうと、ぼくはもう何もかもがどうでも良くなる。
穏やかで静かで、幸福で。まるで生まれたその日からずっとこのオリュンポスに住んでいて、ここで神々の世界しか知らずに育ったような気がすることさえある。
けれど。
その薄い膜をかいくぐるようにして、一本の銀色に輝く糸が、ぼくの脳裏、いや、目の奥を横切った。
「ねえさま」
ぼくは思わず呟いていた。
「ありがとう」
そう。ぼくの父は、剣士のアルセロス。母は機織り女のルアルエ。姉はアラクネとアテナ、あの貧しいが穏やかで、過酷な父の鍛錬と母のいっぱいの愛情を受け、ぼくは育った。
糸の主は、部屋中を見渡しても、もうどこにもいなかったけれど。
アラクネお姉様だ。いつだって優しい、穏やかだが芯の強い、ぼくたちの姉。
そしてぼくは、はっきりと思い出した。
あの別れを告げた晩、父は、確かにこう言った。
「そなたも同じく、アテナ様と血を分けた子だ。神の血統なのだ」
そのときには、意味が分からなかった。
アテナと同じ母の乳房を吸ったのは、姉のアラクネの方だったし、ぼくはアテナよりもずっと後、四年も過ぎた頃に生まれた。
アテナと同じところなど、何一つないはずなのに。
「そうか……そうだったんだ」
ぼくはなんて間抜けなんだ。こんなことにも気付かなかっただなんて。
アテナは知っていたんだ。あの、ゼウスとヘーラーとの会見の席でも、はっきりと言っていたじゃないか。
「神の王と人間の間の子であるアレス」と。
ゼウスという神は、愛しているのは母親であるガイアひとりだけ。
そのガイアに生き写しの、実の妹メティスを洞窟に監禁して昼も夜も犯し続けた。
メティスに子ができると、滅びゆくティタンの最後の呪いを恐れて、生きながらにしてそのメティスすら食い、自らの心の中に彼女を幽閉した。
そこから生まれたのがアテナだ。いや、自らこの世に産まれ出ずることを選んだのがぼくの姉だ。
ゼウスの頭の中にメティスを愛人として閉じ込めながら、正妻としてヘーラーを迎え、平然と他の女に生ませた我が子らを妻に紹介するような男だ。
自らの支配地を広げるために、白鳥にすら姿を変えて女に言い寄るようなことすら簡単にやってのける。
最低に下品で残酷で、傲慢なやつだ。
そんな彼が、美しく健やかに成長しつつあるであろう我が娘・アテナの姿を覗きにこないはずがない。
そのときに、下界の女を見たら、はたしてどうしただろうか。
それがたとえ、子供を産んで授乳期を終え、子育てと仕事と家事に追い回されている機織りの中年女だったとしても。いや、むしろ、それだからこそ。
その垂れた乳房、豊満にたるんだ腹、ふっくらと丸くなった顔、そして何よりも我が子への愛情に輝く瞳は、自らの母であるガイアを思い起こさせはしなかったか。
しかも彼は、目当ての女の夫を良く知っている。自分の衛兵長だった男だ。声音も姿形も、一瞬にして変えられたことだろう。田舎の機織りの無知な女を欺き、夫のふりをすることなどわけはない。
いや、もし姿を変えずに偉大なるゼウスとして現れたとしても、我が子同然に愛情を注いで育てているアテナの父だ、アテナを今すぐ連れて行ってもいいと脅されれば。
両親は……ああ、なんてことだ。母は兎も角として父までが、ぼくが誰より尊敬してやまない、大好きなお父様が、ぼくが自分の子ではないと知っていただなんて。
どんな思いで、父は自分を育てていたのだろう。確かに剣術の訓練は厳しかった、だが、どんなに痛めつけられようと、その後には必ず、いつでも愛で包んでくれた。
どうしてだ。調練の名の下に、打ち殺してくれれば良かったものを。せめて生まれてきたその時に、首を折ってくれれば良かったものを。
お父様。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくょう!」
自分でも、何を口走っていたのかは覚えていない。
とにかくわけのわからないことを叫びながら、目に入るもの全てを力任せにぶちこわして回った。花瓶もランプも椅子もテーブルも、特に明かりを灯して自分の影を映し出す蝋燭立てやランプの類いは徹底的に壊した。
何もかもが腑に落ちた。
なぜ、自分が今ここにいるのかも。
アラクネねえさまが、こんなにまでして自分とアテナを護ろうとしているかの理由も。
やっぱり、ぼくに向いているのは道化みたいだ。
パラス・アテネは戦の女神だが、規律正しい軍略家であり、戦争によってもたらされる安定の象徴でもある。
ならば、自分の演じるべき役割はひとつだ。
戦争の、裏側にある恐怖。
死。
破壊、略奪、殺戮、絶望、暴力、そして血の臭いに酔う最高の興奮。
ぼくはまだ神殿の中を探索しているアテナのもとへと使いを出させ、ケラじいや……執事気取りのケラスネスフォスを呼びつけて言った。
「おい、葡萄酒を二樽と、いや、ありったけの赤葡萄酒と、最高級の女を二十人ばかり連れて来い。今夜は、ギガンティス殲滅の第一歩の刻まれた夜だ。馬鹿な巨人どもは皆殺しだ。女子供も赤ん坊もな。血にふさわしいのは赤葡萄酒だ、前祝いと行くぞ」
わずかに間を置いてやってきた初老の執事の顔には、明らかな困惑の色が浮かんでいた。
「しかし若様、そのように急に申されましても……」
「アテナの命令は聞けて俺の命令は聞けないのか、老いぼれ」
ぼくはできうるかぎりの無表情を装って、ぼくたちの部屋の監視役でもある兵士のひとりに命じた。
「衛兵、この老いぼれの首を刎ねろ」
「へ、へえっ?」
素っ頓狂な声をあげたのはケラスネスフォスのほうだった。
ぼくたちの監視役のはずの兵士は、命じられるままに彼のそっ首を打ち落とした。
見事な手並みだったとは言えない。後ろからだったから、脊椎に衛兵の矛の刃が引っかかったらしい。兵士は一度それを、ケラスネスフォスの背中に片足をついて引き抜いてから、改めて彼の首を体から切り落とした。
おびただしい鮮血が部屋中に飛び散り、ぼくの顔にも生暖かい血しぶきが数滴かかった。
だが、ぼくは満足した。
この兵士が、長年オリュンポスに仕えている侍従よりも、ぼくの命令に従ったことに。
「見苦しい。片付けろ」
「畏まりました」
数名の兵士が死体と首とを運び出し、続けて入ってきた巫女たちが床に広がった血を、塩か重曹か、あるいは別の秘薬かなにかで洗って拭き取り、花の香りの液体の入った皿を部屋の四方に置いて、殺人の証拠どころか、立ちこめる血と内臓と糞尿の臭いは、びっくりするほどあっという間にかき消された。
素晴らしい手際だった、こんなことは日常茶飯事なのだろう。
ぼくは血の混ざってしまったランプの油を取り替えている巫女に、やはり無表情のまま告げた。
「お前。それが終わったら、葡萄酒の樽と女、美人を並べろ」
「はい、畏まりました」
開け放たれた扉の前には、ぼくたちを見張っていたはずの衛兵たちが十二人、ずらりと整列していた。
「以後、俺の命令に少しでも口答えするやつは首と胴がおさらばする。これは命令である」
「はい、将軍」
初老の執事の首を刎ねた兵士が、厳かな口調で答えた。
「これでいいんだよね、ねえさま」
ぼくにはちゃんと分かっていた。かれがどうしてこうなったかを。
蜘蛛の毒を流し込まれたのだ。ぼくとアテナお姉様は、少なくともいま、十二名の絶対的な命令を聞く兵士を手に入れた。
「ありがとう」
ぼくは、壁の隅に貼られた、今はもう空となった蜘蛛の巣に向かって呟き、そっとそれを両手で外して、誰にも気付かれないように飲み込んだ。
すると奇妙なことに、いや、それがまるでごく当たり前のように、自分が、自分の手を汚さずに人を殺したことに対する罪の意識が消えた。
これは、弱肉強食でも、自然の摂理でもない。
それは、アラクネの声だったのか、ぼく自身の声だったのか。
強者は弱者を支配する。支配されるものは、支配されることを喜ぶ。奴隷は、自分の脚の鎖を自慢する。
ならばぼくは、もっと強くならなくてはならない。
最強の戦士に。最強の道化師に。
でなければ、アテナお姉様の最高の引き立て役にはなれない。
ぼくははっきりと確信していた。
「酒と女はどうした、遅いぞ!」
壁越しに怒鳴ると、思いがけない声がかえってきた。
「集められた女たちは帰しました」
この声。
鈴を鳴らすなんて、生易しいものではなかった。魂の奥を揺さぶられる、ただの話し声が、まるで高らかな歌のように響く、ずっと鼓膜に残っていた声。
「お酒も、これだけにしました」
扉の向こうに立っていたのは、あの美しいひと、いや、美の女神アフロディーテだった。
彼女は小さな銀の杯に、赤葡萄酒を半分ほど注いだだけの一対を両手に持ち、そのひとつを、ぼくに渡した。
「どうしてあなたがこんなところに?」
「虫の知らせ」
その言葉が何を意味しているのかも、ぼくには分かった。
彼女には分かるのだ。ぼくの……ぼくの実の姉の言葉が。
「随分と荒れておいででしたのね」
アフロディーテはぼくの寝台の端に、軽やかに身を下ろして、優しく、あの囁くよう声で言った。
このひとに嘘はつけない。
だから、何もかもを打ち明けた。
「初めてお目にかかった時のことを思い出しましたよ。いろんな噂が流れるだろうが気にするなと、あなたは仰って下さった」
いや、誰かに気いてほしかったのだろう。
アテナお姉様にすら言えないことだ。言ったら、知りながら隠していた姉を責めてしまう。
「それが噂ではなく事実だと、噂が耳に入る前に気付いてしまったもので」
「そうでしたの。お辛かったのね。いえ……辛いというより、寂しい」
彼女の隣に腰掛けて、渡された葡萄酒を舐めた。
甘くて優しい、色だけは一人前だったが、まだ発酵も熟成も進んでいない、ほとんど酒精も感じられない、ジュースのような代物だった。
ぼくそのものといってもいいような液体だった。
「どうして、ぼくの心が分かるのです」
「あなたの目を見れば、誰にでも分かりますわ」
アフロディーテは、何もかもを見透かすような銀色の瞳で、ぼくの目をじっと見つめた。
「そんなことはありません。こんなことを聞いてくれたのがあなたで、本当によかった」
女に弱みを握られるのは恥ずべきことだ。そういう価値観の中でぼくは育った。でも、ぼくのまわりの女たちは、みんなぼくよりずっと強かった。
だから、この美しいひとに愚痴を吐いても、母も姉たちも怒らないだろう。そんな気がした。
ぼくは杯の中身を飲み干し、銀の杯を寝台横の化粧台に置いてから、もう一度、アフロディーテの目を見た。
これを最後にしようと心に決めていた。彼女は夫のある身だ。あの女神ヘーラーの息子の妻だ。この思いは、永遠の宝石として、幾重にも幾重にも蜘蛛の糸で巻いて、魂の奥底に隠そう。
「アフロディーテ様、わざわざ慰めにいらして下さってありがとう。でも今は、全て忘れたい」
「どうなさるおつもり?」
「女どもを呼び戻して、大騒ぎしますよ」
それしかない。
もう満たされないのは分かっていても。
ああ、そうか……。
父・ゼウスの気持ちが、少しだけ分かった。
永遠の、理想の恋人を得られない苦しみを和らげるには、その場限りの快楽ででも試すしかない。
そうして自分が生まれたのだから、なんて皮肉なものだ。
「ですから、どうぞお帰りを。旦那様がお待ちでしょう」
笑顔で言えたかは、自分でも分からなかった。
しかし、返ってきたのは。
「二十人の女より、わたくしの方があなたをお慰めできると思いますわ」
思いがけない言葉だった。
「何を……あなたには、ご主人が」
「そんなことも全て、忘れてしまいましょう」
アフロディーテはドレスを脱ぎ捨て、銀と真珠そのものだけでできたような体を、惜しげもなくぼくの前に晒した。
ぼくは、その姿を正視できないほど美しいと思いながら、目を反らすことすらできなかった。
何もかもが、完璧だった。細い首からなでらかにつづく肩も、すんなりとのびた四肢も、くびれた腰も。熟れる直前のような小ぶりで形のいい乳房と、柔らかそうな尻と、それから、手の指と同じように長い脚の指。
「わたしは娼婦。あなたは兵士」
「違う。そんなんじゃない」
それでもぼくは、必死に否定した。
「そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ」
初恋なんて淡いものより先に、強烈な火薬に火がついてしまった。
その火を消すために、人すら殺したのに。
「ぼくはずっと……初めてお話した時からずっと、あなたが好きだった。そんな自分が、醜くておぞましくて、ゼウスそっくりのような気がして、恐ろしかった」
「だったら、なおさらいいではありませんか。あなたは信じていたものを失ったけれど、その代わりに、わたしを得ます」
「いいのですか」
「わたしを得たら、あなたにも分かるわ」
そう言った時の彼女は、まるで少女のようだった。しおれた花の面影など、どこにもなかった。
「愛に勝る力などないということを」
そうか……。
そうだったのか。
ぼくは愛されたかったんだ。
家族と呼べる人以外に。
「アフロディーテ」
「アレス」
「愛していると、家族以外に言うのは初めてです」
「わたしは、愛していますと言うのが初めてですわ」
ぼくは、巧いやり方も知らないまま、彼女に自然とくちづけしていた。
「愛している、アフロディーテ」
「愛しています、心から。アレス」
次の戦は、派手に負けた。
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