第5話 ゼウスの謁見
空中馬車の離着陸場のお祭り騒ぎは、すぐにオリュンポスのあるじであるゼウスの耳にも届いたらしい。
「何事じゃ」
そう訊ねた時の彼は、一昨日前にアテナを呼び戻すための連絡を送ったことすら忘れていたようで、傍らで女王の玉座とでもいうべき片肘掛け付きの寝椅子から、妃・ヘーラーに笑いながら告げられた。
「あなたがお呼び戻しになったアテナとアレスが到着したようでございますわよ。それで、あの出迎え」
彼は、それでようやく思い出したようだったという。
「ああ、そういえば、そんなこともあったか」
「今頃は下界の垢を洗い落としているでしょうから、身支度の一つも済んだら、お顔を見ておやりなさいな。あなたの、その頭を子袋代わりにして生まれてきたとか言う娘でしょう、あたくしも見てみたいわ」
それはまるで珍しい動物でも見るような言い方だったらしい。
確かに、珍しいことは事実だから、ゼウスですら苦笑いを浮かべるにとどめただけだったそうだが。
すぐに拝謁の場は支度された。
ぼくたちはケルサネスフォスの案内で、その広間へと通された。
美しい模様の花崗岩細工の、かなり重いであろう扉を軽々と彼が開いたとき、ぼくは思わずその眩しさに目がくらんだ。
いままでに経験したことのない光、いや、輝きが、広間を満たしていた。光の海に投げ込まれたような錯覚すら覚えた。
太陽の真っ白な光とも、黄金の放つ眩さとも違う、虹の七色が混ざり合ったような光で、目が慣れてくるとようやく、ぼくは理解した。
これがオリュンポスなのだ。神々の世界は、この輝きによって構成されているのだと。
同時に、神々しさという言葉の本当の意味を、ぼくは初めて知った。
大いなる神の王ゼウスと、その正式な妃であるヘーラーは三段ほど段差のある高みから、赤白緑の色鮮やかな大理石で作られたモザイク模様の床を見下ろしていた。
ゼウスとヘーラーは、確かに威厳と、おかしがたい気品、威風堂々たる雰囲気を身に纏っていた。
しかし。
「お久しぶりでございます、偉大なる神々の王ゼウス様、我が父上。アテナでございます」
そんなふたりに対して、姉のアテナは、最高に美しい笑みを浮かべて、何の躊躇もなく挨拶したのだ。
「これは弟のアレス。どうぞお見知りおきを」
と、こちらを振り向いた時の姉の顔を、ぼくは一生忘れないだろう。
これが神……戦の女神アテナなのだ。
黄金の鎧を身に着けて生まれてきたという伝説が生まれたことも、なぜかぼくは知っていた。いや、突然その瞬間に、思い出しただけかもしれない。
だが、ぼくがもしアテナお姉様を知らなかったとしたら、その噂を信じただろう。
彼女の白皙の顔の美しさも、見事に結い上げられた金髪も、すらりとした立ち姿も、そんなものはただの形でしかなかった。そこにいるのは、限りなく人間の形に近いが、人間ではないもの。
すなわち、女神そのものだった。
彼女の皮膚は、うっすらと、きらめく黄金の輝きに包まれていた。周囲の光とは明らかに違う、透き通った黄金の光。彼女はこれを纏って生まれてきたのだ。
その金色の光に、ゼウスはようやく、あの日、あの十六年前の誕生の瞬間を思い出したのかもしれない。無意識にか、それとも演技なのか、自分の頭にできた巨大なできもの……脳に閉じ込めたメティスが彼の中に作り上げた子宮のあったあたりを指先で振れた。無論、そこにはもはや何の傷跡も残ってはおらず、銀と金と灰色と白の混じり合った長い髪がゆったりと、老いた顔の両側に垂れ下がっているだけだったが。
ゼウスは老人特有の長く垂れ下がった眉の間から、アテナの略式の一礼を眺め下ろして、満足げに頷いた。
「うむ。苦しゅうない」
そう呟くと、彼はこちらへと目玉だけを動かして、ぼくのことを見た。
すっかりぼくの存在など忘れたものだと思っていたが、視線があった瞬間、雷に打たれたような衝撃が、ぼくの背筋から頭の一番奥にかけてを駆け上がった。
「そちがアレスか。さすがアテナの弟じゃのう、よう似ておるわい」
「ええ、まだ幼子の面影が残っておりますわね。とても初々しいわ」
ゼウスとヘーラーが楽しげに何か語り合っていたが、ぼくは緊張のあまり、そのほとんどを聞いてはいなかった。
「アレスでございます。お二人からお言葉を頂戴し、有難き幸せにございます」
そう喉から絞り出すのが精一杯だった。
ケルサネスフォスは挨拶が終わるのを見届けてから、あくまで執事的な立場と格式を守って、柱の間から厳かにゼウスを拝礼してから、その扉を音もなく閉め、控えの間へと下がった。
「これこれ、アテナもアレスも、そう堅くなることはありません。そなたらは、故郷に戻っただけなのですから。いまこの時からは、ゼウス様を父君と慕うだけでなく、このあたくしのことも母と思っておくれ」
ヘーラーは嫉妬深い女神としても有名だった。その彼女を持ってしても、生きたまま食らうことで永遠にゼウスの中に閉じ込められた最初の妻・メティスには対抗心は抱いていないということだろうか。
「勿体なきお言葉でございます。ヘーラー様」
たったそれだけの言葉さえ、うまく言えた自信が無かった。そんなぼくに比べたら、さすがにアテナお姉様は堂々としたものだ。
「ではお言葉に甘えて、これからは、身内だけの席ではヘーラーお母様とお呼びいたしますわ。こんなにお美しくて若々しくて高貴なお方をお母様とお呼びするなんて、あたしは名誉を通り越して、幸福の極みですわ。お姉様とお呼びした方がいいんじゃないかと思うほどです」
「まあ、なんて嬉しいこと」
姉の言葉に、あからさまな媚びは感じられなかった。純粋に相手を褒め称えて、本心を口に出しているように見えた。もちろんそれが、アテナの心からの微笑みではないことは、ぼくにだけは分かったが。
さすがはお姉様、女神ヘーラーを喜ばせるには、言葉と笑顔だけでじゅうぶんだった。
将を射落とすには、まず馬を射よ。
ぼくたちの父が……衛兵団長であり武術家でもあった父・アルセロスが教えてくれた戦の基本を、アテナはやってみせただけなのだ。
ぼくがそれに気付いたのを察したように、アテナと目が合い、彼女はいつもどおりに悪戯娘らしく意地悪そうな笑みを浮かべた。
彼女はこの戦の最初の第一歩を着実にものにしたのだ。大神ゼウスと、その正妻であるヘーラーのお気に入りになる。
それは、普通ならばさぞや難関として立ちふさがるはずの問題だろうが、姉にとっては容易かった。
「おお、そうじゃ、そうじゃ、もうひとりな、ついでじゃからな、挨拶しておくと良い」
急に思い立ったかのようにゼウスが玉座から身を乗り出すと、ヘーラーはそれを制するように長い腕を伸ばして夫を深く腰掛けさせ、鈴の音がなるというより角笛の音のような声で命令を下した。
「アフロディーテをこれへ」
ほとんど間を置かずに、自分たちが入ってきたのと同じ大扉が開き、侍女であろう巫女に手を引かれた女性、いや、女神が現れた。
彼女は月光のような色の薄い金髪をきちんと後ろでまとめ、既婚者らしく、たいそう精緻な細工の額飾りと指輪を着けていた。腕輪も足輪も全て銀で、暗い灰色のドレスは長く床を引きずっている。
「我が息子・技術と創作の神ヘパイストスの妻の、アフロディーテよ。美と愛の女神です」
ヘーラーがそう紹介しても、ぼくにはにわかにはその言葉は信じられなかった。
「初めまして。アフロディーテと申します」
そう名乗る彼女は、愛と美というより、絶望と死を司る女神のように見えた。
大広間を満たしている虹色の光が、彼女が通る場所だけは、まるで道を譲るように割れていく。かわりに、彼女から放たれる深い陰翳が、大理石の床のモザイク模様に染み込むように影となって残る。
彼女は伏し目がちで、ただ屍衣のように薄暗い灰色のドレスの裾を、軽く持ち上げてお辞儀しただけだった。
常に俯き加減で、ほとんど表情も読めない。老女のように背を丸め、痩せているというよりやつれ果てているように見えた。この世の誰にも興味を持っていないかのようにすら見える。ただ、いまここにいるのも、ただゼウスとヘーラーから登城の命令があったから、それだけだとでも言いたげだった。
そして、ヘーラーが彼女をここに連れてきた理由は、すぐに分かった。
「かつてはね、オリュンポスどころか、天も地も海も冥府も、このアフロディーテへの熱烈な求婚者が列をなしたものですよ。しかし、美しい花というのも、しおれてしまえばこんなものね」
勝ち誇ったような笑いが響く。
実際、このふたりを見比べると、よくも悪くも生気に満ちたヘーラーとしおれたどころか枯れた花のようなアフロディーテでは、お世辞抜きにしてヘーラーの方が若々しく思えた。
自らの美貌を誇るために、衰えた美の女神を引きずり出してまでさらし者にしてみせる。ヘーラーがそう言う気性の持ち主だと言うことは、女の事には疎いぼくにもさすがに分かったほどだ。
それでもアフロディーテは、ただ身を折るようにして、無言のまま同意を示しただけだった。
それでも、アテナお姉様は、この先輩格の美の女神へ、例の輝くような笑顔で名乗ったものだ。
「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。あたくしはアテナ、こちらは弟のアレスです」
姉はむしろ親しげな口調で、この目新しい女神に向かって話しかけた。
「急な勢いでオリュンポスに呼び戻されたものでございますから、何か大事かと思いまして。慌ててお邪魔をしてしまい、このたびはお待たせして誠に申し訳ございませぬ。御用のお話があってこちらへおいでになったのでしょう?」
「いえ、構いませぬ。こちらは夫の都合を合わせに参上しただけでございますゆえ、お二方とも、お父上様お母上様とごゆるりとなされませ。さいわい夫は明日にゼウス様のお時間を割いて頂けることになりましたので、わたくしはご挨拶だけで失礼させて頂きます」
「然様でしたか。では、お気をつけてお戻りを!」
アテナはまるで衛兵のように元気良く、ことさら明るい声で言う。
これにはアフロディーテもかすかに口元に笑みを刻んで、静かな声で答えた。
「アテナ様、アレス様、お目にかかれてようございました。では、御機嫌よう」
彼女が扉から出て行くと、ヘーラーはいかにも嬉しそうに笑った。
「あれは、わたくしの息子のヘパイストスの嫁なのです。ヘバイストスには、すぐに会わせてあげられるでしょう。ご覧なさいな、アテナ、アレス。ゼウス様とわたくしの座っているこの玉座も、わたくしたちの使っている家具は全て息子の手作りなのよ。見て、ここの彫刻のアザミなんて、まるで本物みたいでしょう」
「あ、は、はい」
ぼくはどう答えていいか分からず、ただ頷いただけだったが、ヘーラーにとってはヘパイストスはよほど自慢の息子であるようだ。
と、そのとき不意に。
ゼウスが黄金の玉座からよろよろと立ち上がり、思っていたよりもずっとしっかりした足取りで姉のところへと段差を乗り越えて下りてくると、感極まったような大声を上げた。
「アテナ! よくぞ戻った、まるで生まれた時と変わらぬ! なんと美しい娘じゃ!」
いままで近くに人がいたのを憚っていたのか、それとも耄碌して、本当にたった今その瞬間アテナがここに出現したように感じたのかは分からない。ただ、その叫びは割れ鐘のように、いや、雷鳴のようにオリュンポス山に轟いた。
「かたじけのうございます」
「これはわしの妃のヘーラーじゃ。おぬしらの母君じゃ、よく孝行せよ」
「畏まりましてございます」
おぼろげな意識の海から突如浮かび上がったかに見えるゼウスに深々とお辞儀しながら、お姉様はいっしゅん、こちらに鋭い目配せをした。
それだけで、ぼくには伝わった。
こいつ、耄碌爺を演じているだけの可能性もある。
ゼウスには油断するな。
「こちらは我が弟のアレスでございます」
「アレスと申します、どうぞお見知りおきを」
と、ぼくが紹介されると、おぼろげな記憶の糸をなんとか釣り針に着けているかのような老人は、不意にぽんと手を叩いて頷いた。
「そうかそうか。これが、あのときの農奴の娘が生んだ子か」
これにも失礼にならない程度に穏やかに、アテナは訂正を入れてくれた。
「アレスの母は機織りの職人で、奴婢ではございませぬ」
「同じようなものじゃあありませんか。まったく」
しかしヘーラーは、下賎な人間どもの事情など知ったことではないという風情で吐き捨ててから、仮面でも付け替えたように速やかににっこり笑って、老いた夫の白髪を優しく撫でながら言った。
「まあ、母親の血など些細なこと。父がゼウス様であることが大切なのですもの。そうよね、あなた」
「うむ」
夫である大神ゼウスが頷くと、また仮面を付け替えて、女神ヘーラーは威厳に満ちた命令を下した。
「挨拶が済んだなら、二人ともお下がり」
これには、わざとらしく意外そうな表情を作って、アテナが驚いた様子で答える。
「えっ、何やら御用の向きがあったから、我らをお呼びになられたのではありませぬか」
不服そうに何かを言いかけたヘーラーの口を閉ざさせたのは、白髪に髭の老爺にしか見えない、しかしいまだに神の中の王であるゼウスであった。
「うむ。アテナの言うとおりじゃ」
と、彼は言葉を切ると、眉間に深いしわを寄せ、ためつすがめつような目つきになって、アテナとぼくのことを代わる代わる観察した。
やはり、さきほどの惚けた様子は芝居か。
それから、仰々しい口調で問いかけてくる。
「おぬしゃら、ギガントマキアのことは知っとるか」
「巨人族の生き残りとの戦いでございますか。確か、ヘラクレスとかいう混血の勇士がほぼ勝利を決したとか」
「然様」
ギカントマキア、それはギガンテス、神々はそれらを蔑んでギカースどもと呼ぶ、その巨人族たちの一派と神々の長きに渡る戦いだったが、「人間と神の王の両方の血を持つ勇者によって戦は終わる」という預言を受けたゼウスは、そもそも浮気性のところを堂々と人間の女と楽しめるとあって、大喜びで美女として名高いミュケナイの王女を選んでこの娘と交情し、ヘラクレスという名の男児を設けた。
その活躍はいまでも、誰もが知るところだろうが、当時としては大変な騒ぎだった。まだ子供だったぼくたち三姉妹弟の住んでいる、山の方へ少し引っ込んだところにまで歌唄いや語り部たちがやってきて、ヘラクレスの活躍を事細かに伝えてくれた。ところどころではもちろん脚色もあっただろうが、物語以上に生々しい描写もあって、その大部分が実際に起きた出来事なのだとぼくたちは知ったものだった。
この英雄の活躍によって、勝敗はほぼ決したはずだが。
「後始末が、何かと面倒くさいのでな。ヘラクレスひとりではさすがに手が回らぬ。おぬしら二人で、ちょっと片付けてきてくれ」
「そのためのお呼びだったのでございますか?」
「不満か?」
「滅相もございません。さいわいなことに、弟も神の王と人間の両方の血を持ちます。混血の勇士の後始末にはよろしいご人選かと感嘆しておりました」
アテナお姉様は、わざとらしくぼくを立てるような言い方をしてから、いかにも戦の女神らしくきりりとした表情で言い放った。
「では、ギガースどもを根絶やしにして参ります」
「うむ」
「お目にかかれて恐悦至極でございました。誠に有難き幸せでございます。次にお目にかかる時は、ギガースどもの殲滅のご報告になりましょう」
「よかろう」
アテナの堂々とした宣言に、ゼウスは満足げに頷くと、軽く片手を振った。
「下がれ」
言われるがまま、アテナが跪いたものだから、慌ててぼくはそれに従って、神々の王と妃を拝礼してから、謁見の間を退出した。
広く長い廊下を少し歩くと、すぐ後ろに、いつの間にかケラスネスフォスが、生まれた時から世話をしているようなほど自然に付き従っていた。
これでは、秘密の会話はなかなかできないな。
そう思ったが、やはりいささかの不満は口から出てしまった。
「お姉様、もう勝負のついた事柄の後始末だなんて。戦の女神が、あんな扱いでいいのですか」
「構わないわ。最初は軽く見られている方が、戦果が大きいのが見栄えがするもの」
アテナお姉様はいつもの、ぼくたち家族にだけ見せる悪戯っ子らしい表情に戻っていた。むしろ、お姉様はこの状況を楽しんでいるようだった。
いまアテナねえさまは、きっと、いろんな悪戯を考えているんだ。あの井戸に桶の中に大きな蛙を入れていたときや、竃の中に爆竹を入れたときみたいな、かあさまが腰を抜かしたりとうさまが本気で叱ったりするような、そして横でアラクネお姉様が大笑いしたような悪戯を。
そう気がついて、ぼくもようやく気持ちがほぐれた。
「ぼくは、お姉様の命令にだけ従います」
「それでいいわ」
姉はにっこり笑うと、目玉だけを動かして、周囲を軽く観察しながら言った。
「まずは、そうね。あたしは、このオリュンポス神殿がどうなっているのかを知りたい。ちょっと探検してみたいじゃない、こんな山のてっぺんにこんな神殿なんて」
と、無邪気な子供みたいに目を輝かせてから、すぐ後ろにいるケラスネスフォスにも聞こえないように、ついでにそれが不自然に見えないように、わざとらしくぼくの耳に両手を被せて、いかにも楽しげに耳打ちしてきた。
「何か変なのよ。あたしは中を見て回ってみる」
その堪えきれないようなくすくす笑いやちょっとした仕草は、間近にいても、姉弟だけの内緒話が楽しくて仕方がないようにしか見えないだろう。そうして屈託ない笑いのふりをしながら、アテナはぼくに重大な役目を与えた。
「あんたは庭でもぶらつくふりをして、外の様子と、あとはそうね、外から見た時、建物に奇妙に思えるところはないかを探ってみて。壁の厚さや、柱の配置、あんたがおかしいと思ったところはところは全部、ありったけ記憶して」
「ぼくにできるでしょうか」
「大丈夫よ、あんたは賢いから。でも、深追いはしなくていいわ。誰かに会ったら、適当に受け流して、部屋に戻る道でも訊いて、そのまま部屋の方で待っていて」
「うん、分かったよ。もう、お姉様ったら、そんなこと考えてたんだ」
ぼくはとうとう堪えきれずに笑い出したようなふりをして声に出しながら、横目でケラスネスフォスを盗み見たが、彼はぼくたちを疑っている様子はなかった。
「じゃあ、ぼくはお庭を見てくる。花壇の花、ちゃんと見られなかったもの」
「好きにしなさい。えーと、侍従長、ケラだっけ? 晩餐の時間って決まっているの?」
「いえ、お命じくださればいつでも、何なりとご用意致します」
すっかり執事気取りの初老の男に、アテナお姉様は笑顔で頷いてから、ぼくたちに背を向けてさっさと廊下を歩き出しながら言った。
「だってさ。じゃあ、お散歩してらっしゃい。あたしはちょっとそのへん探検して、疲れたら昼寝でもするから」
「うん、じゃあ後でね」
ぼくは彼女に軽く手を振る。あんのじょう、ケラスネスフォスは「ご案内」の名目で姉の方へと付き従っていった。
なるほど、ぼくへの監視は、老獪な執事からは解放されたわけだ。そこまで計算済みとは、さすがはアテネお姉様。
だけどケラ、油断するなよ。うちのねえさまは、悪戯じゃあそんじょそこらの神様になんて負けてないぞ。
意外なことに、ぼくには付き従うものは一人もいなかった。農奴の子と軽んじられているのか、それとも姉の威光だけが頼りの取るに足らない存在だと思われているのか。あるいは、アテナが周囲の注意を全て惹き付けてくれているだけかもしれないが。
いずれにしろ、ぼくにとっては好都合だ。
ひとりで、こんな場所を歩く機会が与えられただけでも、姉についてきてよかったと思えるほど。
実際それほどまでに、神々のおわす聖地オリュンポスは美しいところだった。
ぼくに与えられた時間はそう長くない。だから、姉の言うとおり、庭を散歩するふり程度のことしかできそうもなかったが、入り込んだ中庭だけですらちょっとした野菜畑のように広く、そのすべてが宝石や大理石や金銀でできていて、建造物との違和感を観察するよりも前に、その豪華さに圧倒されてしまった。
花壇に植えられた花々は、名前すら知らない大輪の、色鮮やかなものばかりで、そこを輝くような翼を持つ蝶や、本物の宝石でできているようにしか見えない玉虫が飛び回ったり、休んだりしている。
だが、そんな花壇の一画の、小さな角に。
ぼくは彼女を見つけた。
小さな銀色の巣を張った彼女の姉妹、いや、もはや蜘蛛はぼくたちのお姉様そのもの。
「やっぱり、さっきのあれ、アラクネねえさまだったんだね」
ねえ、ほんとにきれいよ。
そう、ぼくにささやいて自信をつけてくれたのは、壁の隙間にでもいた彼女だったのだろう。
「ぼく、うまくできたかな?」
蜘蛛のきらきらする八つの目は、お祝い事のときなんかに瑪瑙の髪飾りを着けた時の、アラクネお姉様そっくりだった。
「いつもちゃんと見守ってくれてるんだね、そうやって」
そうか。ぼくは、ぼくたちは、こんな神々の世界の中にあっても、彼女の糸に守られている。
「ありがとう。すごく、すごく嬉しいよ」
思わず涙ぐみそうになった。
そのときだった。
「散策でございますか」
不意に声をかけられて、ぼくは咄嗟に目元を拭ってから顔を上げた。
「ああ……その、はい。まだオリュンポスは不案内で、迷ってしまいました」
「先ほどお目にかかりましたね。アレス様」
声の主は女性だった。
それも、光り輝く銀色の滝のような髪を顔の両側から背中まで垂らし、その銀髪に縁取られた顔は抜けるように白い、いや真珠のような肌に、銀の瞳と薔薇色の唇が完璧な配置で浮かんでいた……一目見るだけで虜になるような、美しい女性、いや、女神だった。
「わたくし、アフロディーテです」
思わず、驚愕の声を漏らしそうになるのを必死に堪えた。
「これは、申し訳ございません。先ほどとは、なんていうか、雰囲気が違って」
それほどに違った。
謁見の間でまみえた時には、しおれ果てた花、もはや枯れる寸前の風情だったというのに。
今のアフロディーテは、「美の女神」の尊称にふさわしい女性だった。
「これが普段のわたくしですのよ」
やつれ疲れて、青ざめた中年女の面影などかけらもなかった。うつむいても、猫背でもなかった。同じドレスを纏っているはずなのに、さっきは暗い灰色の重苦しい衣装だったものが、今は銀か白金の糸で薄く織られたもののように見える。
彼女は薔薇色の唇でかすかに笑うと、その長い睫毛を何度かまたたかせながら、囁くように言った。
「父上……ゼウス様の前でおしとやかに振る舞うのは、むしろ母上ヘーラー様のご機嫌を損ねないようにしているのです。あまり目立つと、実の娘であろうが、ゼウス様は平気で色目を使うお方ですから。ヘーラー様はかなりの悋気持ちだから、あなたもお振る舞いにはお気をつけられた方がよろしいわ、アレス様」
「ぼくなんて」
「ゼウス様はあなたみたいに可愛い男の子も大好きですのよ」
聞かされた瞬間、ぎょっとした。
だが、そう言えば大神ゼウスが美しい酒酌だの楽師だのの稚児を何人も抱えているとか、そんな噂を耳にしたことはたびたびある。
「でも、今はまだこちらにいらしたばかりですものね。あまり堅苦しくお考えにならない方がよろしいわ。あなたにも様々なお噂が立っています。でも、そんなものはお聞き流しなさいな」
「はい、そうします」
アフロディーテの言葉は、純粋に善意からだったのだろう。微笑みかえして素直に頷くと、彼女も貴婦人らしく軽く一礼して挨拶してくれた。
「では、御機嫌よう」
その優しげな声は、いつまでも耳に残った。
立ち去っていく彼女の後ろ姿を、ぼくは長いこと、アフロディーテの残した影が石柱の向こうに消えてもまだ、その場に棒立ちになって、ひたすらに見つめていた。
今までは、姉アテナこそがこの世で最も美しい存在なのだと信じて疑わなかった。比較になるほどのものなど、下界には存在しなかった。
だが、ここでは。
あれほどの美貌を誇るものばかりが集っているのだ。
ゼウスの寵愛を受けて栄華を得るかわりに、お妃ヘーラーの嫉妬の炎がついて回る。不遇の身に甘んじれば安全ではあるかもしれない。だが……
必ず、抜け道はある。それを、ぼくはアラクネねえさまから教えられていた。
「うまくやるよ。大丈夫」
アレスは花壇の隅に向かって微笑んだ。
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