第4話 オリュンポスへ

 天馬の引く馬車が降り立ったのは、まさにオリュンポス山の頂きに作られた大神殿の、真っ白な大理石が隙間なく敷き詰められた広い場所だった。

 周囲に柵らしきものがあるところを見ると、ここが馬の出入り口、いや飛び立ち下りてくる場所ということなのだろうが、これで蹄も脚の腱も傷めずに馬車ごと着地できるというのだから、さすが天馬ならではというところか。ぼくなら決して、こんな滑りやすいところでは馬を跳ねさせることすらしない。

 いや……、それはここが本当に神々だけの世界であるからかもしれない。薄い雲海のような膜によって下界と切り離されていることは、そこを通過する瞬間に確かに感じた。

 ここでは何もかもが特別で、神々によって完璧に統制されているのだろう。

「とてつもないところに来ちゃったみたいだね、お姉様」

 思わず隣の姉に声をかけたが、アテナがそれに答えるよりも早く、出迎えのものたちが押し寄せてきて、口々に言った。

「ようこそお戻りくださいました、アテナ様!」

「お帰りなさいませ、アテナ様!」

「お待ちしておりました、我らがパラス・アテネ!」

 ざっと数十人はいただろうか。このものたちも神々の血を引く半神なのだろう、だが、彼らからは、姉から感じるような輝きはうっすらとしか発せられていなかった。

 きっとこのひとたちは、純粋な神ではないが故に、神々に仕える神官としてオリュンポスに暮らすことを許されているのかもしれない。だとすると、ぼくも同じ立場になるのだろうか。

「戦の女神の凱旋です、天にも地にも海にも冥府にも、使いの者が触れ回って、それはもうたいそうなお祭り騒ぎ、いえ、ご歓迎でございますよ!」

 出迎えの中でも年かさらしい、しかし決して老け込んでいるようには見えない男が進みでて、恭しく姉の手を取って天馬の引く車から下ろし、跪いて、彼女の履いているサンダルの先にくちづけした。

「出迎えご苦労」

 姉の受け答えがあまりにも堂々としていたものだから、ぼくはつい腰が引けてしまった。

 その瞬間、ちらりとこちらを見たアテナと目が合う。

 それだけで、彼女の言いたいことは全て分かった。

 アテナお姉様の、いや、パラス・アテナの振る舞いを真似て、ふんぞり返っていればいいのだ。ここはもともと、彼女の故郷なのだから。

「こちらがアレス様ですね」

 と、その年かさの男はぼくのほうにも手を伸ばし、絹のようなきめ細やかな肌の掌でぼくの手を取ると、馬車から降りるぼくにも、地べたに両膝をついてぼくの手を押し頂くという、最敬礼を取った。さすがに履物にキスまではしてくれなかったけれど。

 姉の作戦は大成功だったようだ。実際、お姉様が間違えることなど機織りの縦糸と横糸を間違えるくらいで、あとはたいていいつでも、アテナお姉様は正しかった。

「弟君のアレス様は、アテナ様と同じく、戦の神だとお伺いしております。よくぞいらして下さりました、下界での暮らしはさぞかしご不自由だったことでございましょう。どうぞこれよりこちらでは、このじいやめに、何なりと、お気の向くままにお命じくださいませ。まずは……」

「うるさい。まず名乗れ」

 年かさの男の言葉を、姉は鋭い口調で断ち切った。

「これは失礼をば。わたくしめは、お二方様のお世話を申し付けられました、ケルサネスフォスと申します」

「長い名だな」

 姉はいかにも不機嫌そうに振る舞っていた。

 ぼくは、こういうときは……家にいる頃には、馬鹿なことを言ったりやったりして、ふたりのねえさまたちや父母を笑わせていたものだけれど。ここでは、それはしない方がいいと、どこかから誰かに耳打ちされたような気がして、ただ居住まいを正すに留めた。

「親しいものはケラと呼びますが、どうぞ、お姉弟様は、じいやとお呼び下さいませ」

「分かったわ。ではケラ、あたしとアレスの扱いを教えてもらおう」

「と、申されますと」

 世話係の言葉にさらに苛立ったように、アテナお姉様は大理石の地面を何度も軽く踏み着けて、鋭い視線のまま続けた。

「あたしたちは、気ままにできる城か神殿でも一つずつ貰えるのか、それともこのオリュンポスの狭苦しい部屋に閉じ込められるのか、でなけりゃ明日の朝には首つり台の上か、答えろと言っているのよ」

 その迫力と気品は、世話係のケラじいやどころか、出迎えの連中までも静まりかえさせるのに充分だった。

「詳しいお話は、大神ゼウス様からお聞きになるかとは存じますが、ひとまずこちらのお暮らしに慣れるまでは、このオリュンポスにお住まい下さいませ。それからは、ご活躍次第でございましょう」

 ケラじいやの額に、うっすら冷や汗が浮かんでいるのが見えて、ぼくは内心笑いを堪えるの必死だった。

「そう。しばらくは部屋住み扱いということ。あたしたち、ずいぶんと馬鹿にされたものね、アレス」

 水を向けられて、ぼくはただ軽く腕組みしたまま頷くだけにした。

 お姉様のように威厳たっぷりのお芝居などできないし、気の聞いた台詞など思いつかない。ただ堂々としていればいいのだという、さっきの不思議な声に従うことにしたのだ。その入れ知恵の主が誰だか、ぼくにもさすがに、だいたい見当はついたから。

 ぼくはまだ十四になったばかりだ。親しみやすい少年の神様より、扱いづらくて気難しい悪餓鬼の方が、アテナお姉様が引き立つし、ぼくも立ち回りが楽になる。


 そんなぼくの逡巡の間にも、姉は世話役のケラに当たり前のように命令を下そうとしていた。

「今すぐ父に、ゼウス様にお目通りをしたいわ」

「それは無理というものでございます。ただいま、ゼウス様はアフロディーテ様とご面会中で」

「ならばよけいに都合がいいじゃないの。ついでにご挨拶ができるわ。案内を」

 有無を言わさぬ態度に、ついにケルサネスフォスも折れた。

「承知致しました。ですが、まずは沐浴とお召替えを。下界のものは何一つ、ここには持ち込んではなりませぬゆえ、それだけはお聞き入れくださいませ」

「分かったわ。そういうことなら、着替えましょう。行くわよ、アレス」

「はい、お姉様」

 ケルサネスフォスが案内してくれたのは、二つの広い部屋、というより、ちょっとした屋敷が内扉でつながっているような豪華な場所で、片側の部屋には姉のためであろう、真珠のような白で統一された家具や調度品の数々が置かれ、続きになっているらしきぼくにあてがわれた部屋は、それぞれに儲けられている厠までが深みのある赤一色だった。まるで血に餓えた雄々しい男子たることを強要されているような気がして不愉快だったけれど、それまでの麦わらの寝床に比べたら、天蓋付き寝台だけでも信じられないほどの贅沢だった。

 室内には既に、神々に仕える侍女、すなわち巫女の白衣を着た女性たちが大勢控えていて、アテナお姉様の部屋の真ん中には湯気の立つ大理石の浴槽が運び込まれていた。湯に何かの香水でも混ぜているのだろうか、湯気とともに部屋がむせ返るようなバラの香りに満ちはじめている。

「なるほど、これで下界の埃の一片たりとも洗い流すつもりか」

「然様でございます」

 巫女のひとりがうっとりした目つきでアテナを見上げながら答えた。

 すると姉は、何の迷いもない様子でぼくの方へと手を伸ばした。

「そういうことなら、アレス、おいで。一緒に入るよ」

「分かった」

 ぼくが言われるがままに頷いて、姉の隣に立つと、巫女たちは一様に困惑した様子で顔を見合わせた。ひそひそと会話したり、呆然とこちらを見ているだけのものすらいた。

「早くしてよ。この風呂桶なら、あたしたち二人どころか、もう二、三人飛び込んできたって平気じゃないの」

 生まれ育った家では……もう戻れないあの懐かしい我が家では、当たり前のことだった。両親が大樽に湯を張ってくれて、姉たち二人とぼくとがまとめて押し込まれ、父がどんどん上から熱い湯を浴びせてきたり、母が海綿で体を洗ってくれたり。近所の子供らが一緒に湯を使うこともあった。

 楽しかった。思い出すだけで、それが記憶という名の過去へと、また一歩遠ざかったのを感じて、少し切なくもなった。

「で、では、失礼致します」

 巫女のうちのひとりが意を決したような形相で進み出て、はじめにぼくの、続けてアテナお姉様の衣服を脱がせた。

 それらの布は、まるで汚れ物を集めるような仕草で、別の巫女がかごに入れていく。

 確かにそれは粗末な、貫頭衣に袖を着けただけのような代物だったけれど。でも、母が一針一針縫ってくれたもの、毎日手が真っ赤になるまで革で洗っては干してくれた清潔なものだった。

 しかし、きっとここではそんなことは関係がないのだ。ゴミのように捨てられるか、いや、はるか下界のものなど、この空気に耐えられずに自然と崩壊して無に戻り、やがて消え去ってしまうのだろう。なぜか、そんなことだけははっきりと分かった。

 ぼくとアテナは素っ裸にされ、薔薇の香り高い熱い目の風呂に入れられて、巫女たちが数人がかりで、田舎から出てきた姉弟、いや、下界から戻った二人の若い神を磨き上げた。浴用海綿は、それまで使ったことがないほど上等で柔らかだったし、オリーブ油とシチリアの岩塩から作ったとかいう石鹸からは、びっくりするほどきめ細かな泡が立った。巫女たちは総掛かりだった。それぞれ右腕、左腕、背中、腹、右足に左足、髪の毛に至るまで、担当が決まっているらしかった。

 何度も、奴隷に身を落としたティタンの力自慢の若者が、大理石の浴槽を担いできては、新しい湯を張った。ここでは、風呂にゆっくり漬かるのに、わざわざ遠くの湯治場まで行く必要すらないのだ。命令一つで、部屋に湯船が運ばれ、命じなくとも次々と真新しい湯が届けられる。

 すごいところにきちゃったもんだな。

 ぼくは内心そう思いながら、大人しく巫女たちのなすがままにされていた。

 その様子を眺めていたケルサネスフォスじいやは、全く感嘆しきったようにため息をついたものだ。

「さすがはアテナ様とアレス様。お磨き上げれば上げるほどに、内側からの光が溢れ出して参ります」

 それから彼は、落ちついた表情に戻って命令した。

「おまえたち、次のおすすぎで仕舞いにせよ。これ以上磨いてもきりがない。お召替えの支度をして、お二方を神々にふさわしいお姿にお戻しするように」

「畏まりました、神官長様」

 その後すぐに、ぼくたちはティタンの奴隷が汲んできた湯を頭からぶっかけられ、体についた泡やら脱けた髪やらを洗い流された。

 巫女たちはその間も、それぞれの持ち場を忠実に守って、忙しく立ち働いた。片手片足ずつを別の者に拭かれるなど、アテナお姉様ですら初めてだったようで、いささか面食らった顔をしていた。

 床に落ちた水滴は、巫女たちの中でも身分が低いらしい、まだ子供のような女が拭き上げ、その間にティタンの奴隷たちが巨大な大理石の風呂桶を軽々と部屋から運び出していった。

 その間、ぼくとアテナは巫女たちから、体温より少しあたたかい程度に温められたオリーブ油で体じゅうを揉み解されたり、眉を形良く切られたり、手足の無駄毛を何かのどろどろした液体を使って抜かれたりした。

 後から専門職人らしい髪結いの女が入ってきて、アテナねえさま自慢の長く美しい金髪を顔の両側から編み込みにして持ち上げ、後頭部のあたりで結い上げられていた。その女はぼくのところにも来て、伸びた前髪を後ろに撫で付け、襟足のあたりの髪を綺麗にカールさせた。

 用意された衣装に着替えるのも、何もかも巫女たちがやってくれるので、ぼくはただ立っているだけで良かった。実際のところ、そんな紐ひとつくらい自分で結んだ方が早いのに、と思ったが、口には出さなかった。いつもなら、アテナは「そんなのあたしがやるわよ」とでも言っていただろうが、彼女が我慢しているのが伝わってきたのだ。

「さすが、お見違えしますぞ」

 着替えが終わると、ケラじいやが待ち構えていたかのように、満面の笑顔でアテナを褒め称えた。

 だが実際、確かに彼女は美しかった。真珠色の輝きを放つ純白のドレスに、黄金の首飾りと冠、それに戦の女神らしく装飾用の胸当てを着け、真珠と石榴石の長い首飾りを下げた姿は、まさに女神そのものだった。

「本当だ。とても綺麗だよ、お姉様」

 すぐ耳元でアラクネねえさまの声がきこえたような気がした。

 ねえ、ほんとにきれいよねえ。

 それはいつも、牧草の花やオリーブの葉を編んで作った首飾りなんかを身につけた時に、アラクネが言っていた言葉だったのだけれど。

 それを思い出したら、自然に笑えたような気がした。

 そんなぼくに、女神となった姉は、いつも通り悪戯っぽく微笑みかえす。

「あんたもとっても素敵よ、アレス。鏡をご覧なさいな」

 彼女が示した先には、大きな銀の姿見があった。

 そこに映っていたのは。

 まだ若輩ながら、立派な戦士と呼んでもいい人物だった。

 黄金細工の飾りのついた、暗い赤色の長衣に、黒革の帯をきりりと締めた凛々しい姿。髪は丁寧に撫で付けられ、ちょうど背中に羽織る略式のマントの襟元で毛先が踊るようになっている。日焼けした肌には、その金古美染めの、羽毛のように軽い山羊側のマントは素晴らしく栄えていた。

「ああ、うん、格好いいね……気に入ったよ」

 そんなようなことを口にしたのは、なんとなく覚えている。

 だが、ぼくはそのとき、必死に恐怖と戦っていた。

 恐ろしかった。恐ろしくてたまらなかった。

 血のつながっていないはずの姉・アテナに、鏡の中のぼくはそっくりだったのだ。

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