第3話 織物

 その日も、左手に盾を、右手に剣を持って戻ってくる妹を、わたしはいつものように笑顔で出迎えました。

「大変だったでしょう、お父様の練達は厳しいから」

「あたしはいいの、楽しかったわ」

 妹も、薄紅色の唇から真珠のような歯を覗かせて笑い返したものです。

 不思議なことに、いくら真夏の太陽の下で剣術の指南を受けようと、一日中馬を乗り回していようとも、妹の肌は大理石のように白く透明でした。いまはその白皙の顔に、うっすらと赤みがさし、汗の粒が浮いていましたが、それすら朝露か夜霧に濡れた蜘蛛の巣のようにきらきら輝いていました。

 彼女は私の差し出す手拭を受け取って汗を払ってから、遅れて戻ってきた弟を見遣って、また微笑みました。

「ただちょっと、弟には早すぎたみたい」

 妹の言うとおり、弟のアレスはといえば、素肌の出ているところはほとんど、痣か打ち身の痕がついていて、何度も繰り返し転んだのでしょう、膝小僧からだけでなく、足の爪からも血が滲んでいました。

 すっかり日焼けしたとはいえ、まだまだたくましいとはとても言えない、いえ、まだ少年というより男の子と呼ぶ方がいいくらいのアレスの目は、悔しかったのか、痛いのか、それとも悲しかったのか、少し潤んで見えました。

 わたしは新しい手拭で彼の顔を拭いてやりながら、優しくその乱れた髪を撫で付けてやりました。

「あらあら、アレス。お薬をつけましょうね、美男が台無しだわ」

「お父様はひどいよ、ぜんぜん手加減なんてしてくれないんだもの!」

 ぷうっと頬を膨らませて言うと、その子供らしい顔が一段と可愛らしくて、わたしと妹は微笑みあったものです。

 そして妹は、力強い口調で弟を励ましてやりました。

「それは、お父様があんたの武芸の資質を認めていらっしゃるからよ。あんたはきっとあたしより、お父様より強くなるって思ってるんだわ」

「そうかなあ」

「もちろんよ。でなけりゃあ、あのお父様が、あんたみたいなちびっこに大人向けの武器なんて渡さないわ」

 アレスは、姉として育てられているアテナが戦の女神であることを既に知っていましたから、その言葉の重みも子供ながらに理解し、たいそう嬉しかったのでしょう。誇りというものを、アレスはこのとき学んだのだと、わたしは今でも思っています。

 それから弟はお父様への不平を一切口にせず、大人しくわたしの手当を受けました。打ち身に薄荷油を塗られるのは気持ちがよかったでしょうが、血の出ているところを酸っぱくなった葡萄酒で洗われるのはさぞや沁みたでしょうに、彼は声ひとつ出さずに耐えました。

 わたしが弟の手当をしている間に、アテナは母が沐浴をさせに奥へと連れて行きました。

 彼女がいなくなってから、弟は不意に気付いた様子で、わたしに訊ねました。

「アラクネお姉様は、剣を習わないの?」

「わたしは、お母様の跡を継いで、織物をするからよ。あなたたちがお父様から武術のご指南を受けている間、わたしはお母様から機織りを学んでいるの。縦糸を張るのが一番大変だけれど、大切な作業ね」

「そうかあ。そっちも面白そうだね、ぼくにも教えてもらえるかな」

 アレスは大きな瞳を輝かせて言ったものだから、わたしもつい、こんなふうに答えました。

「そうね、あなたも織物を学んでみるのもいいかもしれないわね。こんな日常使いの手拭なんかは女のわたしの力でも織れるけれど、大きな壁掛けや戦の旗を織るような織り機は、かなり重いし。そもそも織物職人は立派な男の仕事だわ」

「そうなんだ……あ、お父様、おかえりなさい!」

「おかえりなさいませ、お父様。お母様、アテナ、お父様がお戻りになられたわよ」

 父・アルセロスが、子供たちよりもこんなに遅れて帰宅したことは、わたしの知るかぎりこれが初めてで、また最後でした。

 何しろ、父がアテナとアレスを鍛えるために作ったのは、森を切り開いて岩場を剥き出しにし、砂を撒いたり、逆に雑草や茨をそのままに残したりと、確かにどんな戦場にでも対応できるような凝ったものでしたが、その場所はわたしたちの家のすぐ裏山で、歩いて分け入ってもすぐに帰って来れるほどの距離だったからです。

 父はその両腕に子供たちを一人ずつ抱くようにして戻ってくるのが常で、そうでないときでも、矢のように走るアテナが先に家に着いてしまう程度のことだったのですが。

 父は帰宅の挨拶ひとつせず、暗い面持ちで……わたしはそれだけで不安になり、思わず弟の小さな体を抱き寄せて、父の沈痛な姿を見上げていました。

「速駆けである」

 父の口から出たのは、血を吐くような苦痛と、それでいてどこかに、奇妙な何かを感じさせる、厳かな声でした。

 その手には、神々の間で意思を伝え合う時に用いられる特別な宝石、大粒の金剛石が、三角錐を底でつなげた、ちょうど機織りの横糸を通す杼にそっくりな形の、それでいて虹の七色に自ら光り輝く透明な結晶が、握るのもおこがましいとばかりに、捧げるように乗せられていました。

 ティタンの血を引く父には、その宝石に込められた伝言を読み取ることができました。

「明日の朝、夜明けとともにアテナとアレスをオリュンポスに迎えると、ゼウス様の仰せだ」

 思いもかけない言に、わたしは息を飲みました。

 弟も同じ気持ちだったのでしょう、わたしの腕を振り払って、父アルセロスのもとへと駆け寄りました。

「待ってよお父様! どういうことなの」

 アレスは大柄な父の腰に縋り付いて、必死に訴えました。

「いやだ、行きたくない。お父様、ぼくはずっとお父様とお母様のところにいたいんです」

「よく聞きなさい、アレス」

 その小さな肩を優しく包み、父は我が子に、彼にできうるかぎりの穏やかさを装って言い聞かせました。

「お前が姉と呼ぶアテナは、いや、アテナ様は、本当は我が実の子ではない。それはお前も知っているね。偉大なる神の中の神、ゼウス様が、頭のうちから……愛する妻のユティス様の中からお生みになったお子なのだ」

 弟には難しすぎる話かも知れません。でも、アレスはもともと姉が、わたしたちよりずっと偉大な存在なのだとは教えられていました。

 だから、そこまではまだ、この幼な子にも理解できたのでしょう。

 しかし、それに続く言葉は、弟のみならず、何もかもを聞かされていたはずのわたしですら衝撃を受けるものでした。

「アレスや。いや、これからはアレス様と呼ばねばならぬ。そなたも同じく、アテナ様と血を分けた子だ。神の血統なのだ」

「いやだ、ちがう! そんなことない。ぼくはお父様とお母様の子供だ」

 弟は悲鳴のように叫びました。

「アテナお姉様が特別なのは知ってるし、よく分かるよ。でも、ぼくはそうじゃない」

 まだ十歳にも満たない子供の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出しました。

「アラクネお姉様と同じ、ぼくはただの人間だ。神様なんかじゃない!」

 それは、わたしには……いいえ、きっと父にも、「神になどなりたくない」と聞こえたことでしょう。

 しかし、わたしはそれでも、自らの役割を知っていました。自分がどうするべきか、わたしにはなぜか、何もかもが自然に受け入れられました。

「アレス。確かにそうよ。わたしには分かる。あなたは、お母様とお父様の息子、わたしの弟だって」

 わたしは語りかけながら、そっと弟と父の体に両腕を回して、やがては抱きしめていました。

「でも、女神アテナの弟に生まれてしまったあなたを、オリュンポスに返さないわけにはいかない。わたしも、お父様も、お母様も、本当はあなたと遠く離れたくなんてないわ。でも、よく考えて。アテナお姉様の傍にいて、彼女を護れるのはあなただけなのよ」

 弟がじっとわたしの目を見つめているのが分かりました。彼の頬を流れていたのは、アレスひとりのものではなく、滴り落ちたわたしと彼の涙が混じり合ったものでした。

「だからお父様は一日でも早く、あなたを一人前の戦士にしようと厳しい鍛錬をなさったのよ。あなたがアテナを護るのだから」

「お父様はぼくがいらないんだね?」

 わたしの言葉に、彼は父の方を振り返って、痛々しくかすれた声を絞り出しました。

「お父様はぼくのことを、お姉様を護るための剣としか思ってないんだ。ぼくなんて生まれてこなけりゃよかったんだ」

「そんなことはない。決してない」

 そのときのことは……今でも信じられないくらい鮮明に蘇ります。

 大ギリシャ当代で武芸者として十指に数えられるほどの父、誇り高きオリュンポスの衛兵団長まで勤め上げた男、あのわたしたちの優しく偉大な父アルセロスが、まだ小さな我が子の肩を抱いて、声を上げて泣いたのです。

「アレス。我が愛しい倅。お前がどれだけの喜びをもたらしてくれたか。お前が生まれた時のことを、わしは忘れたことはない。アラクネがお前のへその緒を切り、いつまでも産声を上げぬお前のことを、アテナが両足を掴んでぶら下げて、背中を思い切りどやしつけてな。そうしてお前は、ようやく初めて泣いてくれたのだ。母上はうれし泣きに、お前と声を揃えるように泣いていたのだぞ。お前が無事に産まれてくれて、わしらは皆で奪い合うようにしてお前を抱いた。お前はわれらの宝だ。我が大切な倅だ」

 いつもは無口で、武人らしい厳かさと、静けさを身につけていた父でした。それでいて、いつもわたしたちを深く強い愛情で護っていてくれました。

 そんな男が我が子の前で泣くなど、きっと父にも堪え難いものがあったのでしょう。決して逆らえぬ命令を苦渋の決断で飲むしかない己への自虐の涙でもあったのかもしれません。

 ですが、そんな父の複雑な思いは、もちろんまだ子供に過ぎないアレスには伝わるわけもなくて。

「だったら、ぼくをオリュンポスになんて行かせないで。アテナお姉様も、ぼくも、ずっとここで暮らしたい。そうでしょう、お姉様?」

「ええ、そうね。アレス」

 無邪気で残酷なアレスの願いに、いつからそこに立っていたのでしょうか、アテナが頷きました。

 調練の汚れをすっかり落とし、木綿の布を部屋着代わりに体に巻き付けただけの姿だというのに、彼女は自ら光り輝いていました。それまで夕闇に覆い尽くされかけていた石段に、燃える炎が降り立ったかのごとく、何もかもがはっきりと心に焼き付きました。わたしはあまりの眩しさに、妹であったはずの少女から目を背けました。

 そのときのアテナは本当に美しくて、何の瑕疵もなく……だからこそ彼女がわたしたちちっぽけな人間とは違うのだと、わたしは確信してしまったのです。

 しかし彼女は、いつもと同じ声で、力強く、言い聞かせるように弟に向かって語りかけました。

「あたしもできるなら、そうしたい。本当にそうならよかった。あたしは剣闘士上がりの男と機織り女の娘に生まれたかった。でも、そうじゃない」

 そうです。

 彼女は自らこの世に生まれでた時から、自らが何者であるかを知っていました。むしろ、それを感じさせないほど我が家に馴染んでくれたことが奇跡だったのです。この美しい少女を、女神として崇めるのではなく、妹として、あるいは姉として、また我が子として愛させてくれたこと……それがどんなに尊い、女神アテナのお志と行いだったのかを、わたしは思い知りました。

 アテナは奥の間へと家族を集め、両親に向かって、両膝をつく最敬礼の姿勢を取って言ったものです。

「お父様、お母様。あたしを他の子たちと分け隔てなく育てて下さって、ありがとうございました」

「勿体ないお言葉でございます、女神様」

 父はまだ涙に震える声でようやくそれだけ答えました。母はただ、その場に泣き崩れただけでした。

 それから彼女はわたしの方へ向き直り、いつものように屈託のない笑顔で、それでもかすかにその瞳の奥を潤ませながら、こんな風に言ってくれたものです。

「お姉様。アラクネねえさま。今までありがとう、ずっとあたしを妹として愛してくれて」

 わたしはもともと、彼女が女神の生まれなのは分かっていました。でも、その時になってようやく、目の前にいるのが本物の女神であり、同時にこんなにもいとおしい妹だと思い知りました。

「当たり前でしょう? あなたはあたしの大事な妹よ、アテナ。かけがえのない大切な妹」

「ありがとう、ねえさま。あたし、幸せだわ。オリュンポスには、きっとあたしの姉妹たちがたくさんいるんでしょう。でも、あたしが姉と呼ぶのはあなただけよ、誓うわ」

 本当ならば、その宣誓はありえないほどの栄誉であり、同時に身の置き所がなくなるほどの重圧だったはずでした。でも、その時のわたしは、ごく当たり前に彼女の言葉を受け入れ、いつものようにその手を握って微笑み返しただけでした。

 それから最後に、彼女はがたつく椅子に背を丸めて座っている弟の方へとゆっくりと近寄り、腰を落として、目線を同じ高さにしてから語りかけはじめました。

「ごめんね、アレス。こんなことに、あんたを巻き込みたくなかった。でも、お母様のおなかの中にあんたがいる時、そしてあんたが生まれてからも、あたしはあんたが可愛くて仕方なかったの。あんたが大好きで、いつも一緒にいたかったの。そんなに近づいたら、あんたもあいつに目をつけられるって分かってたのに、やめられなかった」

 そう。アテナは弟思いの、いい姉娘でした。年上の子供について回りたがる足手まといな幼児を、疎ましがったり煩わしがったりは決してしませんでした。いつでもアレスの手を引き、ともに父から武術の教えを受け、ともに学び、時には同じ毛布にくるまって眠っていたものでした。

 その彼女が、弟のために泣きました。

「ごめんね、アレス。勝手なお願いよ。だけど、あたしと一緒に、やつらのところへ行って。あたしを助けて」

「アテナお姉様……」

 姉の涙を見ることなど、考えたことも無かったのでしょう。アレスはびっくりした顔でじっとアテナを見つめ、やがてその小さな手を、涙に震える姉の肩にそっと添えました。

「ぼくで、あなたの助けになれるの? まだ模造の剣もちゃんと振れないのに」

 その手に、自らのてのひらを重ねて、アテナが顔を上げたとき……彼女はもう泣いてはいませんでした。

「どんな剣より、どんな魔法より、あんたの強い心があたしを支えてくれる。あんたは強いわ、アレス」

 ほんの一瞬だけ、彼女は女神ではなく、ただのアルセロスとルアルエの娘、わたしの妹でありアレスの姉であるちっぽけな女の子に戻ってしまったのでしょう。

 でも、今は既に、その青い両目の奥、瞳の底の底には、あの音を立ててはじけるような炎が燃えているのが見えました。

「ねえ、考えても見て。オリュンポスには、お父様もお母様も、アラクネねえさまもいないのよ。まわりじゅう敵だらけなの。そんなところに一人で戻ったら、遅かれ早かれ、あたしは死ぬか、死をも許されずに生きたまま食われて、ゼウスの体内という牢獄に戻されてしまうでしょう。だから、あんたに一緒に来てほしい。あたしを一人にしないで」

 それは懇願ではなくて、冷静に未来を予測した上での結論のように聞こえました。

 恐ろしい未来を想像したのでしょう、かすかに弟の目がぴくぴく動きました。しかし、そんなアレスを勇気づけるように、アテナはその手をいっそう強く握りました。

「だって、あんたの心は、お父様の強さと、お母様の優しさと、アラクネねえさまの愛で満ちてる。そんな強い味方が他にいると思って?」

「わかった」

 驚くべきことに、弟は小さく頷きました。

 彼にも分かっていたのでしょう。アテナがその手を握って放さなかったのは、弟を勇気づけるためなどではなく、純粋にアレスを頼っているのだということに。

「じゃあ、支度してくる。せめて身の回りのものくらい持っていきたい」

「ごめんね、アレス」

「アテナ。二度とぼくに謝らないで。戦の女神は、相手がこの世の何者であろうが、謝罪なんてしちゃいけないんだ」

 彼はそのとき、きっぱりと言ってから、何の屈託もなくにっこり笑いました。

 わたくしはそのとき見たのです。

 ほんの数十分かそこら前には、べそをかいていた小さな男の子が、わたしの可愛い弟が、戦の神へと変わり果てた瞬間を。


 母はずっと泣いていました。

「ルアルエ。お前のせいではない」

 愛妻を慰める父の言葉が、どこか遠い、別の世界から聞こえてくるような気がしました。

 暖炉の方から、薪が燃える音だけが響きます。

 父が母を寝室に連れて行くと、わたくしとアテナは前庭を見下ろす石張りのテラスに出て、二人きりになりました。

 いつの間にか太陽は沈み、この世界は闇に覆い尽くされていました。ただ、空に一つの明るい星が輝いていたのを、わたしは今でも鮮明に覚えています。

「アラクネねえさま。あたしの大事なお姉様。よく聞いて」

 女神アテナは……いいえ、わたしの妹は、声をひそめて、それでも激しい決意の炎をその瞳の底に燃え上がらせながら言ったものでした。

「あたしも、ねえさまに比べたら愚かだけど、でもまるで馬鹿ってわけじゃないわ。自分が何者か知ってから、自分なりにいろいろ調べたし、いろいろと思い出した。ティタンの滅亡の理由も、今のこの世の成り立ちも、どうやってあいつが神の中の王になったかも、なぜあたしが生まれ、なぜ今ここにいるのかも」

 そしてアテナは、わたしが皆様に最初にお話した、いえそれ以上の、ありとあらゆる秘密を話してくれました。

 すなわち……

 ゼウスは神々の王の座を得るために、卑劣で残忍、邪悪な手段を用いて、旧い支配者であるティタンの血を根絶やしにしようとしたこと。

 ゼウスが誰よりも、いえ、ただひとりきり、女として愛したのは自らの母ガイアだったということ。

 また、妻であり恋人であり妹でもある女神メティスを見初めたのは、母であるガイアに生き写しだったからで、メティス自身も自分がガイアの代用品でしかないことを知っていたこと、知りながら抱かれ、子を孕んだこと。

 なぜなら、彼女は知恵と知識の結晶たる女神だったから。

 そのメティスが司る知恵と知識を得るために、ゼウスが生きながらに彼女を喰らい尽くしたことを。そして、メティスのその子宮の中に自分がいたことも。

「ひどい話だったわ。あんな卑怯で小心で姑息な臆病者が実の父親だなんて。おぞましいったらありゃしない。そんな男の頭をアロセウスとうさまがかち割ってくれたおかげで、あたしこの世に生まれてきたのよ。笑っちゃうわよね」

 わたしの顔は、あまりの恐ろしさに真っ青だったのでしょう。それほどまでに、いえ、ここでお話するのが憚られる程に、わたしが実際に聞いた話は惨いものでした。

「いっそその時に、お父様があいつの首をはねてくれれば良かったのにさ」

 妹は冗談めかした呟きを繰り返しながら、わたしの手をあたたかな両手で包み、わたしの肩に彼女の頭を乗せて、わたしが落ちつくまでの長い時間、そうしていてくれました。わたしがいつも、彼女や弟にそうしていたように。

 そして、わたしがどうにか理性を取り戻すと、アテナは静かに、声を低くして、わたしの耳元で囁きました。

「お姉様。あたしは決めたの。あの愚かな神々の王に復讐する。ティタンの預言通りにしてやる。自らの子に王権を剥奪されて、惨めな死を遂げさせてやる」

 そして、いつものよう真珠色の歯を見せてにっこりと笑った。

「あたしは戦の女神だから」

 こうして、わたしはふたりの、いえ二柱の神の真実の誕生に立ち会ったのです。

 戦の女神、美しいもの、清らかなるもののために戦う女神、わたしたち、か弱きものたちの守護女神アテナの生誕に。

 そのときわたしには、彼女の背中から射す銀色の月影が、まるで後光か光輪、あるいは激しく燃え輝く純白の翼が、空いっぱいに広がっているように見えたものです。

 わたしの瞳の中に崇拝の色が宿るのを、しかし妹は許しませんでした。

「やめてよ、お姉様。あたしはあんたの妹よ」

 彼女は楽しそうに笑うと、わたしがへたり込んで腰掛けていた石畳の横に座って、いつものように甘えた仕草で、またわたしの肩に頭を乗せ、腕を絡ませながら言いました。

「あたしはあんたの妹だから、必ずこの目的は成し遂げるわ。約束する。でも、あれは簡単に殺せる相手じゃない。あたしは長いこと待つでしょう」

 音楽のように美しく響くアテナの話を聞きながら、闇が静かに覆い尽くした空と、そこに瞬く無数の星たちを、わたしは眺めていました。

「その間に、あたしを育ててくれたこの家に、悪意に満ちた伝説を作るくらい、奴にはわけないわ」

 妹はわたしの手をしっかりと両のてのひらで包んだまま、絶望的な未来を笑い飛ばすかのように明るい声で言いました。

「だからね、お姉様。あたしの大事なアラクネねえさま。あなたの、そのお母様から習った織物の技術を、未来永劫に伝えましょう」

「何を言ってるの、アテナ」

 びっくりして振り返ると、そこにはいつもの、やんちゃで悪戯っぽい、それでいてひどく聡明な、妹の笑顔が待っていました。

「きっと奴らは、何かしら都合のいい理由、下らないいちゃもんをこじつけて、あなたとあたしが争って、あたしが勝ち、あんたが惨めな姿になるって噂をばらまく。神様の流す噂だもの、瞬く間に伝説になって、あなたは殺されるか、もっとひどい、考えたくもないような目に遭わされるかもしれない。だからその前に、あたしがあなたを護りたいの」

 その炎のように輝く瞳には、確固たる信念が読み取れました。

「アラクネねえさま。あなたはすべての織物を織るものたちの女神になるの。それも人間なんて愚かで馬鹿で無能な種族じゃなくて、本当のことを読み取れるものたちの女神に」

 わたしに反論の余地はありませんでした……というより、それはとても魅力的で、素晴らしい提案のように思えたのです。

「見て。蜘蛛よ」

 彼女の大理石のように白い指先が示す先には、一匹の小さな蜘蛛……青と灰色の毛をまとい、額には宝石のような複眼を王冠の飾りのように輝かせた、小さな小さな一匹の蜘蛛がいました。

 その小さな蜘蛛は、石段の間から間をぴょんぴょんと軽々と飛び越え、何カ所か見分してから、ようやく気に入った場所を見つけたのでしょう、しばらくそこにじっとして、あたりの様子を窺ってから、いつものわたしと同じことを始めました。

 そうです。

 その小さな蜘蛛は、細い糸で重要な縦糸を張り巡らせてから、綿密に計算された角度で、美しい銀色の巣を作りはじめたのでした。

 わたしはようやく、妹の言わんとしていることを理解しました。

「あたしたちの身の上に起きたことを、あたしもあなたも、オリュンポスも神々も、人間すら滅ぼうとも。この娘たちなら、後世に伝えてくれるわ。この世界中に、彼女の姉妹たち、娘たちがいる。そのすべてが、美しい巣を織って、その巣が朝露や、雨粒に触れる時、それはどんな宝石よりも美しく輝くでしょう。あなたが好きな、あの星々のように」

「わたくしたちが大好きな星のように、ね」

「ええ。そうよ。あたしも星は好き。それを教えてくれたのはお姉様よ」

 そうだったかしら。

 ええ、そう……同じこのバルコニーだった。真冬の澄んだ空に輝く星を、白い息を吐きながら眺めているわたくしの隣に、いつの間にかアテナと、彼女に手を引かれたアレスがいて。

 わたしはその懐かしい夜のことを思い出しました。

「星を読める人なら、虫たちの織物の図案も読めるでしょう。あたしたちは正しかったって、あなたは、それにあたしたちの父と母は、そしてアレスは、決して愚かじゃなかったって、いつかきっと、誰かが読み取ってくれる」

 そう言ってから、彼女ははにかんだ笑みを浮かべました。

「それが百年後か、千年後か、あたしにはわかんないけど」

「わたしも、それで構わない。百年、千年、いくらでも待つわ。もう一度、あなたに会えるその日まで」

 それは、本心からの言葉でした。

 何もかもが滅び、大地と自然そのものであるガイアすらその命を終え、この世が破滅と死と無限に覆われる、その時になれば。

 きっと彼女もその役目を終えて、ただのわたしの妹として、わたしに会いにきてくれるでしょう。

「お姉様……」

「愛してるわ、アテナ。あたしの大事な妹」

 それが、彼女の指先に乗るほどの蜘蛛の姿だとしても。

 彼女ならばきっと、わたしを見つける。

「分かった」

 いつも通りに、力強く頷く彼女を見て、わたしは心底ほっとしました。

 勿論その夜は、少しも眠れなかったけれど。

 それでも、心は穏やかでした。


 翌朝、神々のおわす御座所、オリュンポスから、黄金の馬具と蹄鉄で飾られた馬車、琥珀と金銀で彩られた乗り物が、こんなリディアの田舎の、それも山際の道の悪いところへと、颯爽とやってきました。当然でしょうね、馬車を引いているのは翼のある馬、すなわち天馬だったのですから。

「行くわよ、アレス」

「分かった」

 アテナの呼びかけに、迷うことなくアレスは答え、二人は振り返りもせずに二頭立ての天馬の引く車に乗り込み、夜が明けてすぐの清らかに澄み切った青い空の果てを目指して旅立っていきました。

「アレス……アテナ!」

 母ルアリエの悲痛な嘆きの声は、はるか崖下の村々にまで響いたと聞きます。

「わたしの子供たち、アテナとアレスはどこに連れて行かれたの?」

「神々の座するところ、オリュンポスだ」

 父の答えは、むしろ淡々としたものでした。

 全ての感情が死に絶えたかのように、父は静かで、存在そのものすら失いかけているかのように、透き通るように見えました。

「ルアルエ、辛いのは分かる。だが、最初に話して聞かせたはずだ……あの子はいつか天へと帰る」

「でも、アレスまで連れて行くなんて。あれはあたくしの子です、あたくしたちの子なのですよ。かえして、アレス、帰ってきて!」

 しかし、人々の耳には、それは狂人の叫びとしか聞き取れなかったでしょう。

「ああ、お母様、しっかりなさって」

 わたしは砂地に倒れ込んだ母を抱き起こしながら、その潤んで焦点の定まらなくなっている目を、じっと見つめました。

「お覚悟はできていたはずよ。神の子を育てると決めたその日から」

 そんなことは望んでいなかったと、きっと母は思っていたでしょう。

 けれども、一度受け入れてしまった運命ならば、それは未来でしか変えることはできないのだと、そう告げる他にはありませんでした。

「だからもう一度、覚悟を決めてほしいの。いいわね、お父様、お母様」

 わたしは母を支えて立ち上がった父、すなわち自らの実の両親に向かって、あの恐ろしい、でもとても魅力的な契約のことを告白しはじめました。

「昨日、あれから、アテナ……いえ、女神様と、よく話し合いました。これからわたしには、何年後か、何十年後か、戦いの女神アテナに挑んで敗れた不届きものの汚名が着せられるでしょう。おそらくは神々の刑罰の名で、恐ろしいことが起きるでしょう。ですからその前に、お父様とお母様は、コリントでも、いっそガグラやペルシャ領土でもいいわ。持てるものだけ持って、逃げられるだけ逃げて。二人で生き延びて」

 わたしの言葉の全てを理解していたとは思いませんが、父には何か絶望的なことが起きることだけは伝わったようでした。

「お前を捨てていけるものか」

「行くのよ」

 そのとき、わたしは生まれて初めて、父に面と向かって、堂々と歯向かったかもしれません。それまでのわたしは、父、いえ、男の言うことは絶対で、女はただそれに従っていればいいという考え方しか教えられていませんでしたから。

 父に告げることで、わたしはその重い教えから、自然と解き放たれていくような気がしていました。

「わたしはね、アテナと約束したの。この全て、今までに起きたこと、今ここで起きてしまったこと、これから起きることを、何もかも書き留める存在になるって。でも、それはもはや人間ではないわ。お父様とお母様に、お二人が本当に愛し合った結果であるわたくしが……変わってしまうのを見せたくないの」

 でも、恐らくその時には既に、父にはわたしの真意が伝わっていたのでしょう。

 変わりゆく、移り行く、わたし。

 悠久の時を経て糸を紡ぐものたちの中に溶け込み、それらのすべての中にわたしは存在し、世代が変わっても受け継がれ、わたしの魂は生き続け……同時に、わたしという存在そのものはこの世から消えていく。

「愛しております、お父様、お母様」

 わたしは両親の体に腕を回して、最後の強い抱擁をしました。

 母の体を支えている父も、父に寄り添って死か立ってもいられない母も、抱きしめ返してはくれませんでしたが、両親の体温を感じられただけで、わたしは満足でした。

「さようなら。どうか、あなたがたのこともわたくしたちのことも誰も知らない土地で、お二人で穏やかで、お達者にお暮らしください」

 それから、天馬の馬車の御者が置いていった革袋を拾って、父に手渡しました。

「ここにオリュンポスから、金銀の類が届いております。これだけあれば、残りのご寿命を全うしてもまだ余りがございましょう」

「アラクネ……これはお前に残そうと思っていたものだ」

「いりませんわ。金や銀は、わたしにはもうすぐに無意味なものになります」

 わたしは両親に向かって、自分に出来るかぎりの最高の笑顔を作って見せました。

「お父様、お母様。どうか、わたしたちのことを忘れないでね。アレスとアテナと、わたしのことを」

「アラクネ!」

 そのまま家の方を振り向かず、ただ岩山を歩いていくわたしの背後から、悲痛な両親の声が聞こえてきました。

「お願いよ、お願いだから。母さんのために戻って、アレスもアテナも奪われて、今では、あなただけがわたしたちの愛の証なのよ」

「やめなさい、ルアルエ」

 岩山から森へと続く茂みへと歩みを進めていくわたしを、父が止めないでくれたのは幸いでした。

「お前は生まれながらにひとの子だから、分からぬのかもしれぬ。だが、少しでも神々の血が流れているものは、己の行くべきところ、成すべきことを、生まれながらに知っているのだよ。かわいそうなアレスは、ただわずかな神の血によって引き戻されてしまった。そしてアラクネは……」

 父は名うての剣士です。武術にも体術にもそれなりの心得があります。父アロセウスが本気を出せば、まだ人間の形を保っているわたしを連れ戻すことなど容易かったでしょう。

 しかし、彼はそうはしませんでした。

「すべてわたしの血のせいだ」

 ただ、愛する妻の……わたしたちの優しいお母様の体を抱きしめながら、静かな声で言っているのが、梢のざわめきごしに聞こえました。

「すまなかった。お前を愛さなければ良かった」

「いいえ。あなたがわたくしを愛さなくても、わたくしはあなたを愛していました」

 なあんだ。

 それを聞いて、わたしは心から安堵したものです。

 運命の本質を一番理解していたのは、お母様だったんじゃないの。

「お前は優しいね、ルアルエ。すまない」

「本当のことですもの。あなたはわたくしの運命の方。必ず出会い、必ず結ばれる」

「そうだな」

 そうよ、お父様。

 運命には誰も逆らえない。それがたとえ神であろうとも、ね。


 きっと、父にも母にも、わたしたち姉弟の気持ちが通じていたのでしょう。

「ゼウスは預言のとおりになる。我が子に必ず殺される。それがアテナなのか、それとも他の誰かなのかは知らないが」

 ずっと後になってから、わたしは父がいまわの際に、介添えの召使いに言い残した言葉を伝え聞きました。

「必ずアラクネが見届けてくれる。わたしたちの娘が」


 はい、お父様。

 もうひとの言葉を話せなくなっていたわたしは、前脚を上下にばたつかせることで父に答えたつもりでした。

 それが父に伝わっていたかは、あれから二千年以上経った今でも、まだ分かりません。

 でも、わたしは満足です。神々の敗北を見届けられたのですから。

 夜に輝く星座程度にしか、ギリシャ神話など覚えられていない時代が来た。

 そこにいるのが、イエスだろうが仏陀だろうがアラーだろうが資本主義だろうが共産主義だろうが、わたしたちには関係がない。

 もはや彼らはひとを支配していない。


 褒めてくれますよね、アテナ。

 わたしの可愛い妹。

 あなたは勝った。わたしは生きた。


 そう、あなたがわたしをこの本当のわたしに変えてくれてから、知ったことが一つあるのですよ。

 あなたは知っていたのかしら。

 わたしたちはね、愛の営みを済ませてから、女が男を食べるのです。

 だからね、わたしは思うの。本当は、あなたのお母様もまた知っていたのではないかしら。あなたのお父様の内側で、そう、ゼウスという神の中の神の体の中から、その全てを喰らい尽くしたのは、あなたのお母様メティスなのではないかと。

 だとしたら、あなたのお母様はやはり知恵の女神ね。

 何もかも計算の上で、預言のとおりに、神の王座を失わせたのですから。


 そうして夜空を眺めながら、わたしは今夜も巣を張るのです。

 銀色の糸を編んで、愚かに飛び込んでくる餌を待ちながら。


 はい。わたしの名はアラクネ。

 蜘蛛の女神です。

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