第2話 育まれる鎖

 偉大なるゼウス様は、その生まれたばかりの赤子であるアテナ様を、彼女を取り出した衛兵のアロセウスに託しました。

 アロセウスという男は、ゼウス様のお血筋にあたるポセイドン様の血が半分流れており……すなわち、ポセイドン様が海辺の娘を連れ去って孕ませた子と言うわけですが、半分神の血を、半分人間の血を受け継いでいるうえに、父であるポセイドン様に似てたいそうな美男で、また剣術の名手でした。

 ゼウス様は、ポセイドン様によくよくお口止めをなさった後、アロセウスとその妻に、この新しく生まれた女神、ゼウス様の魂の内部に息づかれているメティス様が精神のお力によってお作りだされた赤子を、女神として敬い、かつ我が子として慈しみ、また衛兵としての覚悟をもって護り通して育てるように命じられたのでございます。

「畏まりました。我が神の仰せのとおりに致します」

 何と言う偶然でしょうか。それとも全ては、運命という逃れられない流れの中にあるのでしょうか。

 衛兵アロセウスには、ルアルエという名の妻がおりました。

 彼女は、勇壮かつ有能な兵士の妻にふさわしい、賢明で、心の広い女性だったそうです。生まれながらのギリシャの女、オリュンピアコスの生まれと育ちの、生粋の神々の崇敬者でした。夫が特に愛した、ルアルエのその緩やかなカーブのある美しい赤金毛は、その子にも受け継がれました。

 そうです。

 ルアルエは先月、自らの腹を痛めて、愛する夫との子を産んだばかりでした。当たり前のことですが、アロセウスの子は四分の一だけ神の血を引いているとはいえ、その子はごく普通の赤子で、母の乳房を貪り、父の笑顔に笑い返し、すぐに癇癪を起こし、夜泣きしたり寝付きが悪かったりする、ごくありふれた、野生の獣と大して変わらない人生の始まりを迎え、それを満喫していたのです。

 そこに、彼は帰ってきました。

 愛妻ルアルエと我が子の待つ家。そこは確かにそれほど広々としたものではありませんでしたが、さすがにパンテオンの守衛を任されるほどの人物でしたから、アロセウスの自宅は衛兵としては最高級の、寝室のほかに居間と厨房、内風呂もあるような、それなりのものでした。

「帰ったよ」

「おかえりなさいませ」

 妻の何の屈託もない笑顔に、彼はどんな心持ちを味わったことでしょう。

 しかし、その両腕で大切に捧げてここまで運んできたものを隠すことなどできません。

「ルアルエ、言いづらいのだが、実は……もうひとり、子を育ててほしい」

 アロセウスは、大切に抱きかかえた、金色の布に包まれた赤子を、妻に差し出しました。悲しげな、それでいてどこか誇り高い決断が、その瞳の奥には輝いていたことでしょう。

「これは、いや、こちらのお方は、女神メティスがゼウス様の魂からお作りだされた女神であらせられる」

 彼の妻ルアルエは、青ざめた夫の顔を一目見て、愛するひとが語っていることが真実なのだと悟ったのだと思います。

「このお方の御名は」

「アテナ様だ。戦の女神」

 そのように、神々がお名付けになった。

 その名に、ルアルエは夫の腕から、驚くほど自然に赤子を受け取り、神の子にも、我が子と分け隔てのない笑みを浮かべて言ったものです。

「そう、あなたはアテナね。素晴らしいお名前ですわ」

 と、不意に何かに気付いたように、妻はアテナから絹でできた黄金色の襁褓を取り去ると、ありふれた木綿の衣装に着替えさせ始めました。

「何をしているのだ」

「当たり前でしょう、この方がわたくしたちの子だと、誰が見ても疑われないようにしているのです」

 海の王、冥府の王、あるいは巨神の生き残り、果ては、今のこの世の理不尽な生活に苦しむ人間から、ルアルエはこの赤子を隠そうとしているのだと、ついに夫も気付いたことでしょう。

 ルアルエは燃え盛る暖炉の中に黄金色の布を投げ入れ、ざくざくと音を立てて薪の中に押し込みながら、鋭いまなざしで夫に言いました。

「あなた、よろしいですね。この子はわたくしたちの双子の娘、妹です。わたくしたちの子と分け隔てなく育て、それでいて、運命の輪が回る時には女神としてふさわしいお方としてお育てせねばなりませぬ」

 金の布が灰の欠片になったのを見届けてから、ルアルエは、二人の女児、我が子と神の子をそれぞれの腕に抱いて、はっきりと言い放ったそうです。

「わたくしたちの娘アラクネは、このアテナの姉です。わたくしたちは双子の娘を持ったのです。よろしいですね」

 妻の揺るぎない確信に、アロセウスはただ頷き、妻と二人の娘を抱きしめながら言いました。

「分かった。これは、わたしたちの子だ。いつか、きっと来るであろうその時まで。その時までは、この子を手放さねばならぬその日までは。わたしたちは、ただひたすらこの子たちを愛そう。愛の全てを伝えよう、わたしたちのできる限り、たとえその対価がわが命であろうとも」

「ええ。わたくしたちは親ですもの。自らの命を捨ててでも我が子の命を守るのは、当たり前のことですわ」

 確信に満ちたルアルエの言葉は、その場にいた全てのものの心に何かを残したのかもしれません。

「お前を妻に持ったことを、心から誇りに思う」

「わたくしも、あなたを夫に迎えられて心から幸福です」

「愛しているよ、わたしのルアルエ。わたしたちの愛を、この子たちに伝えよう」

「ええ。わたくしも、心からあなたを愛しています。あなたのことも、この子たちのことも」

 夫婦は激しいくちづけの後、夢でも見ているかのようにうっとりと、二人の赤子を見つめたものです。

 無垢な、ただひたすら美しいふたりの赤ん坊は、いつの間に用意されていたのでしょう……、いえ、夫が狼狽えている間に妻が用意したのでしょう、収穫したオリーブの実を入れるための大きなかごに、綺麗な羊の毛皮を敷き、そこに並んで寝かされていました。上からふんわりと、やわらかな毛布をかけて。

 そして……どちらがアラクネでどちらがアテナか分からないほど、不思議なくらい、このふたりはそっくりでした。

「わたしたちの子だ」

「はい」

 眠る子供たちを眺めて、屈強な兵士は心から幸せそうに微笑み、愛する妻を力のかぎり抱きしめると、ふたたび熱烈な、ほとんど妻の肺に詰まっている息の全てを吸い尽くしてしまいそうな程の接吻をしました。妻のルアルエは、唇が離れた後、深く深く息をつき、それから今度は、みずから夫に寄り添い、甘くくちづけしました。

「愛しています、あなた。あなたのことも、この子たちのことも」

 彼女は、まるで夢見るように呟いたものです。

 魔法のように。何かの尊い誓いのように。

「わたしのルアルエ。お前さえいれば、わたしは他に何もいらない」

「アロセウス様。愛する旦那様。わたくしの命はあなたに捧げました。わたしはあなただけのものです」

 その後、その晩のことは、わたしはよく覚えていません。ただ、両親が心の奥まで愛し合ったであろうことは、今となっては想像がつきますが。

 弟が生まれた時には、家族皆で喜んだものです。

 そう。わたしたちには弟がいたのです。

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