女神の復讐
猫屋梵天堂本舗
第1話 「戦の女神」の誕生
ある美しい夜明けのことでした。
我らがあるじ、神の中の王であり、また神の中の神でもある偉大なるゼウス様は、オリュンポスの白亜の宮殿の、大理石と水晶でできた広いバルコニーから、はるか遠くまでを見通せるその目で、世界を眺めておられました。
暗い夜の世界……とはいえ、陽光の中では過ごせない種族のものたち、さまざまな美しいものたちが舞い踊る時刻は終わりを告げ、地平からゆっくりと、明るい光の珠が世界を照らしていきます。
その美しい天体に、ゼウス様は「太陽」という名をつけることにお決めになられました。
ティタンとの長い戦いの後、そして、母なるガイアがこの世界を支える大地そのものとなってしまった今では、きっとゼウス様は、そのように美しい光が、母上様の上をゆっくりと照らし、さまざまな影を作り、きらめきや輝きを与えられたものたちを眺めることでしか、お心の慰めを得られなかったのかもしれません。
申し遅れました、わたくしの名はアラクネと申します。リュディアという辺境の、そのまた小さな村に住んでいた、ただの機織りの女で、このお話をするにはわたくしが一番ふさわしい、というより、わたくしならば本当のことをお話しできると思ったからです。世には様々な流説が流れていますが、それはみな嘘や欺瞞にまみれたものばかりで、真実のあのお方の魂を伝えるものではありませんでしたから。
わたくしがこれを書き残して、どなたが目にして下さるか分かりません。信じて下さるかも分かりません。でも、わたくしは何百年後でも、何千年後でも、いつまででも待ちましょう。あの美しい方がいかにして生きたか、いかに戦ったかを後世に残せるのはわたくしひとりだと思ったからです。
わたくしは歴史家ではありません、学者でも、書記でもありません。ましてや、偉大なる神々の系譜を受け継ぐ尊い勇者様や賢人の皆様でもありません。
ほんとうにただの、ちっぽけな機織りの娘です。
でも、わたくしだからこそできることが、ひとつだけありました。
今までに起きた出来事を記録するため、あなたは立派な神殿に壁画を描けばいいとお思いですか? わたくしどもには、そんなお金も力もありません。
それとも丈夫な石の板に書き残せばいいとお思いですか? そんなものは割れてしまいます。木の板などすぐに灰になってしまう。獣の皮に文字を書いても、それはやがては消えてしまうでしょう。
でもわたくしは、いいえ、わたくしにこの力を授けて下さったあの方のお力添えによって、こうして、今わたくしが機織りの糸を紡いでおります。織物として残せば、細い糸を縒り合わせて丁寧に作られた縦糸と横糸の中にその物語を残したならば、たとえこのわたくしが死のうと、わたくしの家族が死のうと、土に埋もれようと、いつか誰かが見つけ出して読んで下さるはずです。糸には、そういう強い力があります。
あなたがいま、これを読んで下さっているのは。
見つけて下さったのですね。わたくしが伝えたかった、この物語を。
それだけでも、心からお礼を言います。ありがとうございます、あなた。名も知らぬ、どこか遠いところか遠い世界にいる、わたくしのともだち。
もしできることなら、この結末を、わたくしの目で見たとおりのことを、どうかあなたは信じて下さい。
いかにしてオリュンポスの神々の栄光の時代が始まり、それが次第に腐敗したのか。
いかにしてあの方が、その腐敗の根源と戦い、この美しいガイア様そのものである世界を守ろうとなさったか。
ですからわたくしは、あの方と出会った時のことからお話を始めたいと思います。
そのためにはまず、偉大なるゼウス様が世界を眺めている間に、ゼウス様の体のなかで何が起きていたのかを語らなくてはなりません。
恐ろしい、みにくい、とても信じられないようなことを。
その美しい夜明け、全能の神にしてオリュンポスの王であるゼウス様は、自らの母であり導き手でもあったガイア様が横たわられている姿、すなわちこの広い広い地平線、高く連なる山並み、生い茂る深い森、またその向こうの海を眺めておられました。
ゼウス様ご自身が「太陽」と名付けられたその美しい光の珠が、さまざまに色と影を変えながら世界を彩り、ゼウス様の目に移る世界を朝へと導いたことに、ゼウス様はさぞやご満足なさっていたことでしょう。
なぜならば、ゼウス様は全てを手に入れなさったからです。父であるウラノス様は神の王である地位を失い、育ての母であるガイア様と産みの母であるレイア様の全てはゼウス様のものとなり、海は兄上様のポセイドン様、冥府は弟君のハデス様に支配権をお譲りになりました。
しかし、それがなんだったでしょう。海など、魚と貝とウミヘビと人魚が住んでいるだけの、だだっ広いだけで実りのない場所です。ましてや冥府など、死者しかおとなわない。
そんなところよりも、ゼウス様はずっとお母様を見つめていられるオリュンポスをお選びになられました。
この美しい世界は、ガイア様そのものでした。恐ろしい実の父から自らを守り、実の母以上に母としての愛を与え続けて下さったガイア様のことを、ゼウス様も心から愛し、尊敬し、恋い慕われていたのでございます。
ですが、運命の輪とはめぐるもので、「自らの血を分けた息子に王位を奪われる」という神々とティタンとの間の預言は消え失せてはいませんでした。いえ、ティタンが放逐された時に、その呪いは効力を失っていたのかもしれません。しかしそんなことを確かめる術は、そのころ誰にもありませんでした。
ですから、ゼウス様は……実の父からガイア様がゼウス様をお守りしたのと同じ方法で、自らの身を守ろうとお考えになられたのでございます。
ゼウス様はその頃、とても美しいお妃様を娶っておいででした。知恵の女神で、メティス様という御名の、実のところはクロノス様とレイア様のお子の一人、すなわちゼウス様の妹でした。
わたくしはメティス様にお目通りしたことはございません。お目にかかったことがあるお方の方が少ないでしょう。ゼウス様はメティス様をたいそう深く愛し、恋いこがれ、兄上様たちの目にも触れないようにオリンポスの山の一番の奥の、水晶でできた洞窟に隠しておいでだったそうです。
というのも、母体から産まれてきたのはメティス様が最後だったので妹ということになってはおりましたが、一番最初にクロノス様とレイア様の間に授かったお子はメティス様で、そのような意味では全ての神々の姉君と申し上げることもできます。そのあたりはティタンやサイクロプスとの戦いの最中であり、事情もとても複雑で、うまく説明できないのでございます。
ですが、ひとつだけはっきりと申し上げられるのは、メティス様が叔母であり、なおかつ育てのお母様に生き写し……まるでガイア様を乙女に戻したような、お美しい方だったということです。
ゼウス様は、何もかもを忘れてしまわれたかのように、オリュンポスの天空からすらしばしば身を隠して、毎夜どころか一日中ずっとメティス様と過ごされることもありました。その口からは愛の言葉しか出なかったそうでございます。メティス様の知恵を、心の優しさを、姿の美しさを、何より母君にそっくりであらせられることを、ゼウス様は繰り返し繰り返し仰り、メティス様はそれを嬉しそうにお聞きになっていたのだと言います。
メティス様もまた、夫であるゼウス様を心から愛していらっしゃいました。兄であるのか弟であるのか、そんなことは神々の間では大した問題では無かったのでしょう。白くきらめく水晶の洞窟の中で、おふたりはポセイドン様やハデス様の目を逃れて、ただ愛を交わし、くちづけを重ね、睦言を繰り返しておられたそうでございます。
そのような有様を薄々ご存じでしたから、海や冥府と言った領地にも、兄上様たちはご満足なさったのかもしれません。しょせん地上など、わらわらと増えてきた人間どもが独壇場となっていた世界に過ぎませんでした。それが聡明な種族ならまだしも、互いに殺し合い、領地と穀物と肉と女を奪い合うばかりの、けだものとたいして変わらない連中でしたから、ポセイドン様もハデス様もご不満はおっしゃいませんでした。人魚をはじめとする海の民は高い文化文明を誇り、泳ぐ魚たちも珊瑚礁も美しく、また冥府に来たものたちはそのころはほとんどがティタンや神々で、ハデス様と良き話し相手というより、友となってしまうほどの方々ばかりでしたから。
ですが、あるとき。
メティス様が思いがけないことを告白なさったというのです。
「あなたの子を宿しました」
そのとき、ゼウス様とメティス様の脳裏には、ティタンの呪いのことが重苦しい闇のようにたれ込めていたことでございましょう。
「しかし、あんなものはもはや迷信だ」
「いいえ。わたしが産む子が男ならば、あなたの王位を必ず奪います」
ゼウス様の言葉に、メティス様は迷わず答え、その逞しい体を抱きしめて、あたたかな胸に頬を押し付け、彼の心臓までを熱い涙で濡らしたことでしょう。
「同じことを。どうぞ、同じことを」
「できない。そんなことはできない」
「わたくしを食べて。この子ごと」
メティス様の言葉は、一切の迷いのないものでした。
「それであなたのオリュンポス、あなたの収める大地は護られます。それしかないのです、あなたが兄弟であるかぎり、ポセイドンもハデスも地上に手は伸ばさないでしょう。でも、それがあなたの子だとしたら、話は違います。支配権を求めて、また神々の戦争が始まります。ようやくあなたが作り上げかけた、人間という種族の営みが、ほんの一瞬で塵になってしまう」
メティス様のお言葉は正しかったのです。知恵の女神は、ゼウス様が猿から進化した人類がいかにして知性を勝ち取り、文明を築くか、愛と信頼の絆を繋ぐかを見届けようとなさっておられるのを、どなたよりもよく分かっておられました。
「あなたは神なのです。人を護る神々の王なのです。ですから、わたくしを食べて」
笑顔で言う彼女から、ゼウス様は視線をそらして、呻くように仰ったことでしょう。
「できない」
しかしメティス様は、その頬を両手で包んで、まっすぐにその瞳を見つめながら、ただ愛の言葉だけを告げられたそうです。
「あなた。あなたには分かるはずよ。愛するあなたに食べられることが、あなたの一部になることが、あなたにわたしの全てを捧げ、わたしの全てを支配されることが、わたしにとってどんなに幸せか」
「メティス」
「ゼウス。わたしのゼウス。かわいいわたしのゼウス。そんな悲しそうな顔なんてしないで。わたしはただ、あなたと永遠に一つになるの。あなたの中にわたしがあり、わたしの中にあなたがいる。正直に打ち明けます。人の世などどうでもいい。わたしは、ただあなたと一つになりたい。今までは、我が身で抱き合っている時にしかなれなかったものに、わたしたちはなるのよ」
なんという恐ろしい、それでいて魅惑的な、愛の告白であったか。神の中の神ではなく、ただのひとりの男として、これほどまでに強く支配を求められた者が、かつて、いえ、今までもこれからも、存在したでしょうか。
「さあ。今すぐに。わたしをあなただけのものにして」
ふたりは静かにくちづけを交わし、互いの手を取り合って、永遠の約束を交わしたのです。
「我が愛するひと。わたしたちは、一つになるのだね」
「そう。いつもと同じに、永遠に」
ゼウス様は黙って頷くと、最後に愛するメティス様と交わった後、彼女を食べたのだそうです。神様のやり方は、わたくしどもには分かりません。ただそれが、ひどく残酷な現場であったと同時に、一瞬で終わったであろうことは想像できます。
ゼウス様はメティス様を飲み込んだのです。
彼女が宿していた胎児とともに、その体内に。
そのあと、彼は世界を眺めていました。
愛するひとが永遠に失われた、同時に永遠に自分の中にある、喪失感と満足感を味わいながら。
そうして眺める母なるガイアの大地は、どれほどまでに美しかったことでしょう。
そのときでした。
「痛っ……」
ゼウス様はバルコニーの大理石の床に片手をつき、もう片方の手で、御自らの頭を押さえました。
今まで感じたことのないほどの頭痛、サイクロプスの矢を受けたときより、父ウラノスに殴打されたときより、はるかに激しい痛みでした。
それは体の内側から泡立つようにわき上がり、頭へと向かって集まり、堪え難いほど激しい痛みとなって彼を襲ったのです。
「たれぞ……たれぞおらぬか」
かろうじて声を出すと、近くの部屋にいた侍従の少年が駆けつけて、ゼウスをなんとかして神殿の中に戻そうとしました。
しかし、ゼウス様は言ったのです。
「誰でも良い、いや、お前で良い。私の頭を裂け」
命じられた少年は震え上がりました。
そもそも、そのような刃物の類いは一切持ってはおりません。
そこで彼は、一番近くの扉を護っていた衛兵の、半分人間で半分神々の血を引く男、アルセロスを呼びました。
アルセロスは剣術の達人で、偉大なるゼウス神の頭痛の理由も一瞬にして看過しました。
「ゼウス様、あたまに大きなこぶができております。今すぐ切り落としますが、薬の手配はどうなさいますか」
それには、さすがの威厳を示して、ゼウス様は堂々と答えたものです。
「医師はいらぬ。切り裂いて、必要な者を取り出せ」
「畏まりました」
衛兵アルセロスは、神々の聖なる呪文のかかった守護兵士の短剣を迷わず抜き、ゼウス様の頭の、奇妙にふくれあがった部分に、切っ先を突き刺しました。
ゼウス様の頭に生えたそれは、もはや、大人が両腕で抱えられるほどの大きさになっていました。
衛兵の若者はその巨大なできものを縦に切り裂くと、そこから血まみれの何かを取り出してから、伸び切ってたるんだゼウス様の頭皮をほどよいところからすっぱりと切り落としました。
「縫合は医者に」
「いや、こんなものはすぐに治る」
衛兵の言葉に、ゼウス様は言うと、侍従の少年が渡された血まみれのものを高々と抱き上げて、御自らの苦痛も流血も忘れたかのように叫びました。
「女神じゃ。女神の生まれじゃ」
そして、その赤子を抱きしめてほおずりしました。
「メティスとわたしの娘だ。知恵にも愛にも戦にも、全てに優れた女神となるであろう」
「はっ」
若い衛兵は深々とその場に跪き、新しく産まれた女神に最敬礼の姿勢を取ったそうです。それとは反対に、侍従の少年はまだぼんやりと、ただ我が子を抱いて喜ぶ父親にしか見えない最高神を見つめているばかりだったとか。
そのとき。
「アテナ」
不意にゼウス様が、聞き慣れない名を口にしたそうです。
彼は、端正な顔にまだ血が滴っているのを気にも止めずに、満面の笑顔で言ったそうです。
「この娘の名はアテナじゃ。メティスとゼウスの子、アテナ。いま、メティスがそう名付けてくれた」
ゼウス様は心から嬉しそうに、娘の名を告げました。目の前には、たった二人の忠臣しかいないというのに。
黄金の武具と剣に身を固めたわけでも、生まれながらに大人の姿をしていたわけでも、父の頭から想像のように産まれたわけでも、なかったといいます。ただ、その産声は、勇ましい閧の声に聞こえたのかもしれません。
彼女の歩む闘争の人生の、最初の雄叫び。
それがアテナ様の産声でした。
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