第2話

「三國くんってさ、なんだか艶やかだよね」

最後の講義の終了後、唐突に隣に座っていた境美帆は話しかけてきた。『綺麗』とかではなくて、『艶やか』という表現は耳に慣れないものだったので少しだけ吹いた。境美帆は笑窪を作りながら、人差し指を天に向けてクルクルしている。昔から突拍子もない行動や言動が多かったけれど、今回は群を抜いて変な発言だ。でも、『艶やか』という表現は嫌いじゃない。ヤツに帰ったら話してやろう。思わぬ土産話に心を躍らせた。

「草しか食べてないイメージなのにね」

「そうそう。野菜しか喉を通らないんだ」

もぉと境美帆が笑う。大袈裟に肩を揺らして笑う。この笑い方は嫌いだ。笑いを表現できていない。ヤツの鼻で笑う偉そうな笑い方は表現できている。あれは偽りがないから安心する。笑いの表現ふその人だけにしかできないけど、境美帆の笑い方は誰でもできる。個性がないからだ。そして、そんなことを考えていることが悟られないようにニコニコする俺が今している笑い方も誰でもできる。だって、偽りだから。

「もう来ないんでしょ。鈴木くんがさみしがってたよ」

べつにさみしがってないしぃー。

 教室の後ろから辰が叫んで周りの笑いが起こった。辰は誰にでもなんでも話す。口を閉ざすということができない。別に秘密にしていたわけではないけど。さすがに朝から同じ質問をそれぞれにされると憎たらしくなってくる。いずれは誰かに伝わるのだからと、一番に教えるのが悪いのか。それだ、それがいけないんだ。

 「じゃあ、もう卒業まで会えないのか」

 ふて腐れたように頬を膨らませている。思わず鼻の抜けた声が出てしまった。

 「いいじゃない」

 バカにしている。大学で会うのは今日が初めてじゃないか。大体、専攻が違うので結局は俺がいつまで通おうがこれからも大学では会わないに等しい。

 「バカね。男の人と別れるときはこう言うのよ」

 王道よ、王道。

 彼女の王道が今まで会わなかった男に会えないことを嘆くことなのか。男のツボを勘違いしていないか。そんなことを言われても軽い女に思われるのがオチではないのか。

 「俺もさみしいよ」

 あまりよくわからないけどノッてみた。満足そうに微笑む。とんだ茶番だ。くだらない。わざわざこの茶番をするために彼女は忍び込んだというのか。思わず文房具をカバンに直しながら小首を傾げてしまう。頭の中はハテナマークで溢れる。女ってマジでたまにワケわかんない。

 俺が帰りの支度を終えた頃に境美帆が友達に呼ばれた。そちらに片手を上げてこちらを向く。せかせかと机の上のピンクのペンケースにピンクのシャーペンを入れてバッグに入れる。そして、階段を下りるとまた上ってきた。そして、ピンクのファイルを取り出してプリントを渡してくる。今度、境美帆が所属しているサークルがイベントを開くらしい。その案内のプリントだ。

 「ありがとう。美帆」

 すると、ははっと空っぽに笑う境美帆。これが彼女の本当の笑いだ。どちらにしても境美帆の笑いは嫌いだ。ピンクまみれの彼女は俺を少し睨む。そこには情けの色を含まれている。こういう視線を軽く流せるようになったのはいつからだろう。

 「結局、三國くんは最後まで私の名前を呼ばなかったね」

 境美帆というのは好きな小説の悪役の女だ。本当は化け物なのだけど、そのことを隠して主人公に親しげに近づくところがなんとなく似ていた。彼女にはもちろん、そのことを教えていない。けれど、調べたりしたのだろう。いきなり、境美帆と呼ばれ始めたら誰でも調べるか。分かったときはつらいだろうか。いや、彼女のことだ。笑って流すだろう。結局はこちらも親しみを込めたつもりだ。最期は死んでしまう境美帆を俺は嫌いじゃなかった。

 そして、俺も人生の終わりではないけど学生の最期を終えた。通っている大学では必要な単位を取ってしまったので、明日からは自由登校だ。来ても来なくても卒業できる。暇なときは来ようと思っているけれど、教授から報告を受けているので学生は卒業した気がする。仕事も決まっている。入社日までじゃ気ままに過ごそうと思っている。まずはヤツと旅行が決まっている。そのほかは決まっていない。いいんだ。気ままに過ごそうと決めたのだから。翠憐と共に年金暮らしの老人のような日々を残りの半年弱は過ごすんだ。そう思うと少しだけ気分が浮ついた。ヤツが来てからこんなに二人になれる時間が作れたことはない。構ってやりたいし、構われたい。

 「ただいま」

 玄関の扉を開けると、いつものように翠憐がにっこりと立っている。いつもはあんまりしないけど、今日は微笑み返した。スリッパを出してきたので素直に履く。中に入ると好物が並んでいた。カリンとカメロが水槽の中で頭を下げる。「ただいま」と声を弾ませる。いつもよりも何倍に家が温かい気がした。

 「今日まででしたよね。お疲れ様でした」

 なによりも数週間前に何気なく言ったことを翠憐が覚えていたことに感動した。思わず抱き着くと長身の翠憐にすっぽりと収まってしまう俺。胸にすりすりと頬擦りする。自分自身の上着から外の香りがするけれど、翠憐からは家の中の温かい香りがする。「冷めますよ」手を洗ってくるように指示をされたので大人しく従う。蟹の爪があったので、今日は念入りに手を洗うことにした。せっかくの長期休暇の初っ端から風邪をひいては台なしだ。冷たい水が手を滑る。水を冷たいと思ったのは、今年が初めてだ。自覚はなかったけど、人から見れば慌ただしかったのかもしれない。翠憐もさっき『おつかれさま』と言っていた。特別、他意はないのかもしれないが、なんだかそう思いだしたら止まらない。鏡に映る自分の目の下にも心なしか隈が見える。ふうと溜め息を吐くのさえもだいぶ、久しく思えてきた。果たして、何がそんなに忙しかったのかも定かじゃないけど、無意識になにかに夢中になっていたのだろう。

 「美味しいですか?」

 顔を上げると翠憐が微笑んでいる。口の中のものを飲み込んでから「もちろん」と言うと目じりが更に下がる。声がかかるまで蟹を黙々と口にしていたため気づかなかったけど、翠憐は卵スープしか口にしていない。俺には用意されていないそれを『欲しい』と言うと、迷わず譲ってくれるだろう。首を傾げて「具合が悪いのか」と聞くと、首を横に振るだけでなんとも言わない。何も言わないのは、何も聞かないでくれという意味なのだろうと独り合点して食べることを再開した。時には干渉し過ぎないことも大切だと思う。それでも、蟹の爪は数本残しておくことにした。卵スープだけでは成長期真っ只中の十代には足りないだろう。罰ゲームでも酷すぎる。「食べてね」とは言わなかったけど、それに気づいて優しく微笑まれたときは気恥ずかしかった。恥ずかしがっていることにも気づいているだろう翠憐はお礼は言わず「いただきます」と言った。「うん。召し上がれ」と自分が作ったわけでもないのに勧め、翠憐が上品に爪を食べる姿を見ていた。自分が食べている姿とは比べようにならないだろうな。瞳を伏せて、長いまつげが揺れているのをただ見ていた。綺麗。本当に絵画から飛び出てきたような美しさだ。数年前まで自分が着ていたセーターを見事に着こなしている。

 最近、翠憐に頼まれて図書館で料理本を借りる。それのコピーは大学でタダでできるのだけれども、あまりの使用数に一枚五円を事務員に取られている。五円は五円でも十枚コピーすれば五十円だ。小さくてかわいい出費だけど、その調子だと十日で五百円だ。二十日で千円。三十日で千五百円。タダでほかの学生はコピーしているのに俺が月に千五百円払っている。コンビニよりは全然安いけど、腑に落ちない部分があるのも事実だ。もう毎日だと分かっているので、毎日一日には千五百円を封筒に入れて事務員に渡す。どれだけ大学に貢献しているのだと呆れる。他の学生とは違うなんて優越感に浸ることは間違いなくなくて、千五百円で買っているものは事務員と仲良くなれることだった。まあ、結局は事務員と仲良くなれることよりも千五百円に値する料理を毎日食べられていることの幸せに収まった。食費代は一人の時と変わらないのに、毎日豪華な食事を口にできる。「美味しい」そう最初に告げてからは美味しいことは当たり前で翠憐に美味しいと伝えてなかったと思い出したので「美味しいね」と同意を求めた。「そうですか。作り甲斐があります」と大好きな笑顔で微笑む。機嫌がよくなったので千五百円は仕方のないことにした。まだ未練があったのと自分の事ながら思ったけど、金を大事にしないことはよくないことなのでいいことにした。誰も不満がない。これが一番いいんだ。

 「美味しいですか?」

 お返しのように聞くと、伏せていた瞳をちらりと上げて眉間に皺を寄せる。何か不満があるらしい。

 「酸味が幾分か欠けていますね。澄さん、本当に美味しかったですか?」

 「それは申し分なかったですよ。酸味も甘味も絶妙でした」

 はてと首を傾げて、また、ふぅむと考え込んでいる。翠憐はなにかと考え込む癖がある。そんなに思い悩まなくても、俺は少しも嘘を吐いていない。本当に惜しかった。ただ茹でるだけだと思っていた蟹の爪にも工夫が施されていて酸味も甘味も完璧だ。

 ごちそうさまと手を合わせて、自分の食器を流し台に置く。すると、背後から足音が聞こえてきた。首だけ後ろを向いて「ごちそうさま」と言うと、眉間の皺を少しずつ解かして「お粗末さまです」と笑う。それからしばらくはカシャカシャとか、パシャパシャという音だけがキッチンには鳴り響いた。

 風呂から上がり一息入れ、気が付くと照明が眩しい時間になっていた。それでも、まだ目が冴えている。ヤツをちらりと見たけど眠そうな気配はない。少し悩んだけど、レンタルの時間が短いのでカバンから取り出した。 

 「見ない?」

 境美帆が面白いと紹介していたのを思い出して、思い切って借りてみた。音楽には興味がなくて映画は映画館で観るタイプなので、レンタル屋に行くのは高校時代に友達の付き添いで行った以来だ。あの音楽がガンガンと遠慮なく流れているのは耐えきれないと思ったので、境美帆になるべく小さくて静かなレンタル屋を聞いて、そこで借りた。映画好きなので、普段から画面が広い機会を選ぶ。ノートパソコンさえも性能よりも画面の大きさで選んだ。そのため、幾分かは映画館で観る気分を味わえるだろう。

 翠憐の様子を窺うように控えめに聞いてみたけれど、その事を知って知らずか「是非」と笑ってくれた。それに安堵してセッティングする。二年前に捨てるのはもったいないからと友達に押し付けられたDVDプレイヤーを初めて扱う。昨日、こっそりと説明書も読んだ。全て終わってソファに座る。それに合わせて翠憐が部屋の電気を消してくれて俺の隣に座る。「字幕は大丈夫?」と聞くと「大丈夫だと思います」と返されたのでそのままの設定で再生を押す。何本かの予告が終わり本編が始まった。舞台はパリで着飾ったパリジェンヌが街を駆けているピンクのリボン、白のフリル、青の鞄、黄色の帽子、緑の背景。いろんな色が街を描く。中身は恋愛ものなので、ひと際目立つ女性と男性が出てきた。勧めてきた彼女の見所は、この男性が女性を惨殺するシーンらしい。訳の分からない締め括りをする、このあまりにも人気のない作品を薦めてくるところらへんが紛れもなく『境美帆』だ。

 翠憐を見ると画面を眺めている。なんにも瞳には映っていない。やっぱりかと人知れず溜息を吐く。予想はしていた。終わった後に感想を聞いても「くだらない」と鼻で笑うだろう。決して借りてきた俺に気を使って面白かったなんて口にしないだろうな。画面に目を戻すとくだらない恋愛がただ流れている。

 凄く時間が経った気がした。パチリと目を開けると画面が縦長に見える。ゆっくりと瞬きをしても変わらない。そこで自分がソファに横になっていることを理解した。

 「首は痛くないですか?」

 上から声が降ってくる。膝を貸してくれていて、俺の髪を梳きながら映画を見ていたみたいだ。名残惜しいので膝から頭を起こすのは止めた。「大丈夫だよ」と言いながらテーブルに手を伸ばしてリモコンで画面を消す。ブチンと音を立てて、素敵でくだらない恋愛を繰り広げていた映像が消える。 

 「あれって俺が起きていた時に流れていた場面だよね。巻き戻したの?」

 「はい。あそこの場面がイマイチ、理解できなかったので巻き戻してみました」

 何回見てもああいうのは理解できないと思うけど、それでもくだらない映画を理解しようとするあたり、律儀だなと感心する。

 「どうだった?くだらなかった?」

 「なんにも感じませんでした。何が嬉しいのかも、悲しいのかも伝わってきませんでした。誰のお薦めですか?」

 なんの感情も込められていない声とは裏腹に優しい手つきで髪を梳いてくれる。

 「化け物」

 「でしょうね」

 くだらないという感想さえも持てない映画は明日にでも散歩と称して翠憐と返しに行くことにした。感想は持ってくれなくても、途中で寝てしまっても、休暇の出だしには問題なかった。

 「寝ようよ」

 寝間着の上に羽織っておいたカーディガンを掛け布団の上に置く。翠憐にすっぽりと包まれて夢の中に向かっている。実は知っている。俺が完全に眠りにつくまで背中を撫でてくれていること。前髪をゆっくりと梳きながら額に口付けてくる日は幸せな夢を見ることができる。朝起きたら、不自然に服が捲れていて、服の下には痕が付いていることがある。どういう想いで付けたのかは分からない。それが、恋い焦がれた結果だったら嬉しい。どんなに夥しくてもいいから、翠憐の痕が欲しい。綺麗な唇でも、鋭利な刃物でもいい。でも、たまには体の他にも欲しい。

 翠憐はまだ一度も唇に口付けをしてくることがない。翠憐はキスを軽んじてするヤツではないんだと言い聞かせてはいるけど、夢見ていたりもする。背中に手を回して翠憐の鼓動を聞きながら意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絡まりいと 榛野初実 @hatsumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ