絡まりいと

榛野初実

第1話

  俺にとって、通常よりも少しだけイレギュラーだった。

 夏も終わり、風は少し涼しくなり始めた。体を少しさすって帰路を急ぐ。今日は新入生の歓迎会だった。会場となったのは二、三年前に働いていた居酒屋だった。俺は顔なじみの元同僚にからかわれ、変に客扱いされる何とも言えない恥ずかしさを隠すように酒に没頭した。そうは言っても天井知らずの上戸で酔うことはできずに辱めはお開きになった十分前まで続いた。家に帰ったら例の元同僚にふて腐れのメールを入れようと密かに胸に決める。もう日付は変わって、帰路は暗く静か。心地よさと不気味さが一遍に襲ってくる。やっと見慣れたマンションが見えてきた。土産のものを握りなおしてマンションに入る。最上階に住んでいるのでエレベーターの中にいる時間が長い。身体が時間を急かす。

 赤い玄関の扉の向こうに、今日もヤツはいるのだろうか。笑って俺を出迎えてくれるだろうか。バッグからキーケースを取り出してカギを探し出す。カチャリ、カチャリ。カギ同士がぶつかり合って音を立てる。鍵穴に差し込もうとしたら扉が開いた。

 「おかえりなさい」

 今日も無事にヤツはいた。いつも通りの笑顔で俺のことを出迎えてくれる。黒のエプロンをしているけれど、料理中だったのか、ただ着たままでいるのか分からない。でも、それは確認することには及ばないで、俺の胸の内で疑問のまま消えていく。それでよかった。自分は少しでもヤツに干渉したいのだと自己満足をしたいだけなのだから。

 「ハイ、お土産」

 「私にですか?」

 怪訝そうに袋を受け取る。別に俺が土産を買って帰るのは珍しくない。なのに、毎回『これはこれは珍しい』みたいな反応を取る。なれたので気にも留めず、靴を脱いでズカズカと奥に入ると美味しそうな香りがする。亀のカリンとカメロに帰宅の挨拶をする。夫婦みたいに寄り添う亀たちが頭を下げた気がした。

 「ちょっと澄さん。これ、酒じゃないですか。私、十代ですけど」

 「いいじゃん。お前には法律は関係ないでしょ」

 「そういう話じゃないでしょう」

 呆れたような口調で冷蔵庫に酒を入れる。翠憐が来たのは夏の初めなのにもう秋か。七分丈を来たヤツを見て妙に時の流れに感心した。部屋ももともと、汚い部屋ではなかったのにヤツ好みに綺麗に模様替えされている。亀のカリンとカメロも心なしか最近は綺麗に見える。今もまた変な整理癖が発動して冷蔵庫の整理でも始めたのだろう。ガサガサという音が背中越しに聞こえる。

 「お風呂、用意してますよ」

 気がすんだのか近寄ってきた翠憐をゆっくりと見上げる。酒も入っていることで、こうやったのんびりしていると睡魔に襲われる。あと少しと辿々しく言うと隣に腰を掛けてきた。すると、ちょうどいいところに肩があって遠慮なく頭をのせる。優しく頭を撫でられたので、とうとう夢の世界に入りそうになる。このまま眠ってしまいたいのは山々だけど、居酒屋の酒臭さや煙草臭さをベッドに持ち込みたくない。けれど、ソファは明日の朝のことを考えると、それだけで体の節々が痛くなる。そして、何より撫でられているこの手から離れたくない。回らない頭をできるだけ回転させる。だけど、選択肢がたくさんありすぎすので、翠憐に選択肢を委ねることにした。翠憐は色々なにおいがこびりついている自分とは違っていい香りがする。自分が益々汚く感じる。

 ふと窓に視線を移す。窓に反射する自分たち二人はひどく儚げだ。確かに足をつけている床が薄氷に見えて仕方ない。数十分前は降っていなかった雨がそれを助長する。窓に映っているというのに自分の顔が歪んでいることが確認できるなんて、一体、翠憐の目にはどう映るんだ。翠憐がそれを察したかのように「風呂に入りましょう」と立ち上がって俺の腕を引っ張る。ああ、今歩いているのは薄氷の上なのかと思いながら引っ張られる。なんで、俺はこんなにマイナス思考なんだろう。翠憐がけしてプラス思考の前向きな奴だとは思っていないけれど、なんだかつらくなる。居酒屋で、友達の前で、一生懸命『俺』を演じていた気がする。なんでだろう。どうしてだろう。

 脱衣所では、必ず俺が先に脱いでしまう。一糸纏わない俺が浴室に入っていくのを確認してから翠憐は脱ぐ。どっちが決めたわけでもないルールが二人の間にはある。といって先に翠憐が入ったりしても、俺が責めることはない。所謂、規則破りになることはない。浴槽に浸かっていると翠憐も入ってきて体を流す。相変わらず、天から舞い降りてきたような妖艶さだ。俺みたいに細くはないけど、がっちりしているわけでもない。誰もが指を銜えて狡いと呟くだろう。

 「何ですか?」

 ヤツが浴槽に入ってきたので水が少し溢れる。縁に腕を置いて溜息を吐いた。

 「お前の裸を見るのは慣れないもんだなと」

 なにを今さらと言った風に鼻でヤツが笑う。俺よりも大きいヤツの上半身はどこの誰が見ても男だ。じっとヤツの顔を見る。向かい合わせに座っているもんだからヤツと目が合ってしまった。そこでヤツが何とも言えない顔で微笑むものだからやるせない。

 「奇麗でしょう」

 「うん。目が離せない」

 「この世のモノじゃないですからね」

 ヤツが俺の頭を片手で引き寄せる。肩に頭を預けるとそのまま髪を梳いてくる。髪から伝った滴がポツリポツリと浴槽のお湯に戻っていく。透明なお湯の中にある四本の足。俺の二本以外にもちゃんと華奢な真っ白い足がある。でも、ヤツはこの世のモノではない。どこから『間違い』なのか。どこまでが『正解』なのか。◎、○、△、×。どれを当てはめてもヤツは表わせられない。限りなく△に近い人間だ。あくまでも、△が中間を表すモノならばの話だけれど。

 風呂場は髪の先から落ちる滴が跳ねる音とヤツの静かな呼吸の音しかない。俺の呼吸の音は見つからない。生きているのに隠されてしまった。霧で隠されてしまった。そんな表現が一番似合う気がする。なんの根拠も理由もないけど本当に霧みたいにもくもくとした白いモノで隠された。

 ヤツの足が俺を包む。長くて雪のような色の足で今度は体を隠される。頭を肩から離して首にしがみつく。すべて隠されても繋がっていたい。でも、放されたい。なんだか吐き気が襲ってきた。白い霧が黒い霧に変わって襲ってくる。だから、目を瞑る。すごく悲しくなる前になにもかもなくなりたい。

 「ぎゅうって抱きしめて」

 なにも考えられないように。

 激しく、何もかも奪って。

 お腹がきりきりと痛む。ヤツが背中に爪を立てる。首を振る。だけど、もっと強く刻んでくる。痛いよと嘆くけどもっともっと強く刻んでくる。だから、腰を浮かせて逃げるけど許してくれない。ポロポロと泣きながら肩をギリギリと噛むヤツの頭を抱きしめる。逆上せるまで風呂の時間は続いていく。 

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