第七話 大浴場

 フィールカとレオンはすぐに風呂の支度を整えてから、早速寮の一階にある大浴場へとやって来た。時刻は午後八時。自分たち二年生は八時から九時までの一時間だけだが、大浴場への入場が可能だ。ちなみに、一年生は二年生に進級するまで浴場の使用はできないため、一年間は部屋の浴室で我慢することになる。


 二人が一緒に入浴できるのはこれが最後かもしれないということもあり、今夜は入場可能な時間開始とともに急いで足を運んできたのだった。


 入口の受付にいるおばさんに入浴券を渡し、言うまでもなく二人は男湯の青いのれんをくぐる。


 中に入ると、広い脱衣所は珍しく無人となっており、どうやら浴場にも誰もいないらしい。


 木製のマガレコに着替えとタオルを置きながら、青年たちは嬉しそうに言う。


「まさか俺たちだけなんて、もうみんな週初のうちに入ったのか?」


「多分な。明日は卒業試験だし、みんな気合入ってるんだと思うぜ」


 普段なら大勢の生徒たちが大浴場に来るのだが、明日が卒業試験ということもあってそれに備えているせいか、今夜は自分たちだけの貸し切りということになりそうだ。


 とりあえず二人は着ている軍服を脱いでいく。ボタンを外した開襟シャツの下から、日頃の厳しい訓練で極限まで鍛えられた美しい肉体があらわになる。


 不意に、レオンがにやけた顔でフィールカの身体をじろじろと見てくる。


「な、なんだよ……」


「いやさ、お前の身体っていつ見ても優美だなと……」


「お、お前、そういう趣味があったのか!? 来るな、離れろって!」


 激しく嫌がる青年に、レオンは面白がるように笑いながら自分の顔の前で手首を振る。


「ははっ、冗談だって。ってか、お前の《属性紋様ぞくせいもんよう》って、未だに《火》と《風》の二つだけなんだな」


 そう打って変わり、金髪の青年はフィールカの右手の甲に刻まれている小さな点に注目する。


 甲を中心にして頂点に赤い点が一つ、左下に緑の点がもう一つある。


 彼が訊いているのは、全ての生物が体の奥底に秘めていると言われる魔力センス——《七属性セブンス・センス》のことだ。


 その名の通り、魔力には全部で七つの属性が存在する。


 火・水・雷・地・風・光・闇——。


 魔力は練習すれば誰でも引き出すことが可能だとわれているが、常人ならせいぜい二属性セカンド・センスくらいが限界だろう。魔導軍事学校の熟練教師でさえ四属性フォース・センスまでしか扱えないのに、七つある全ての属性を今までに引き出せた人間など歴史上本当に実在したのだろうかと非常に怪しくなってくる。


 もし全ての属性を引き出せた人間がいるならば、その人間の身体には《星型正七角形の紋様》がどこかに浮かび上がるとわれている。


 フィールカは今のところ常人クラスの二属性までしか引き出せていないので、火属性を表す赤い点と風属性の緑の点が刻まれているのみだ。ちなみに引き出せる魔力はランダムなのだが、七つある属性の中でも最も困難だと云われているのが《光》と《闇》なのだ。


 フィールカとレオンは、世界から優れた能力を持ったつわものたちが集まるこの魔導軍事学校に二年間在学しているが、光と闇の属性に関しては未だに行使できる人間を見たことがない。それらの属性の存在を隠している生徒もいるかもしれないが、この二つの属性に限ってはもはや凡人には踏み込めない天才だけの域なのかもしれない。


 そんな凡人の青年はマガレコのタオルを取りながら、露骨に不機嫌そうな顔で言い返した。


「……レオンだって、結局二属性までしか引き出せてないじゃんかよ」


 すっかり拗ねたように唇を尖らし、フィールカもお返しとばかりに相棒の左の二の腕に刻まれた小さな点を注視する。


 彼の腕に刻まれているのは、雷属性を表す黄の点と、フィールカと同じ風属性の緑の点だ。


 しかし、レオンは特に悪びれた様子もなく自虐気味に笑いながら、フィールカの首にがっちりと腕を巻いてくる。


「はっはっは! まあつまり俺とお前は、たいして秀でた能力もない普通の人間ってわけだ。ほら、さっさと風呂に入ろうぜ!」

 

 さあさあ、とフィールカの背中を無理やり押して浴場へと連れ込む。


 中に入ると誰もいない空間は広々としており、濛々もうもう立ち込めた湯煙が浴場全体を白く霞めていた。床や壁は白いタイルがびっしりと敷き詰められた造りで、シャワーや桶、石鹸なども当然しっかりと完備されている。一番奥には三十人ほど入れそうな大きな浴槽に温水が張られており、もやのような湯気を延々と立ち上らせていた。


 とりあえず二人は洗面台の前に置いてある風呂椅子に座り、石鹸で優しく身体を洗い始める。そして今日一日分の汗と汚れをさっぱりお湯で流し、あっという間に身体を洗い終えると、青年たちは互いにニヤリと顔を見合わせる。


 次の瞬間、二人は勢いよく浴槽に向かって駆け出したかと思うと、熱湯の中に足から飛び込む。


 バシャーン!! と豪快な音とともに、大量の水飛沫が盛大に舞い上がる。


「ぶはあっ、やっぱ一番風呂はこうじゃないとな!」


「そうだな!」


 誰もいない貸し切りの浴場で、フィールカとレオンは存分に盛り上がる。


 もし誰かがこの馬鹿げた光景を目にすれば、間違いなく場違いな奴らだと思われることだろう。しかし、二人はそんなことを全く気にした様子もなく、規則から解放されたようにとにかく羽目を外す。


「よーしそれじゃ恒例の、どっちが先に向こうの壁まで泳げるか勝負しようぜ」


 そう言って、フィールカは浴槽の一番端にあるタイル張りの壁を指差す。


 いつもの挑戦状に、レオンは拳を力強く握り、意気込んで堂々と応える。


「いいぜ、望むところだ! 今日こそはお前を打ち負かしてやるぜ!」


 早速二人は浴槽の縁に立つと、フィールカがどこからともなく固形石鹸を取り出す。


「いつも通り俺がこの石鹸を上に放り投げて、浴槽に落ちたらスタートだ」


 おう、とレオンは早くも水面だけをじっと見据えて短く返答する。


 フィールカも浴槽に素早く視線を戻し、空中に高々と石鹸を放り投げる。まるで二人は自分たちだけの世界に入り込んだように、極限まで目と耳に神経を研ぎ澄ます。


 ——ポチャン。


 水面に落ちた石鹸の澄んだ音が浴場の静寂を切り裂いた瞬間、二人は同時に浴槽の中に飛び込む。水飛沫を派手に舞い上げながら勢いよく泳ぎ切ると、一瞬で勝敗は決した。


 先に壁に手をついたのは、僅差でフィールカのほうだった。


「二十七勝十六敗。また今回も俺の勝ちだな!」


「くっそー! やっぱお前、運動神経だけはいいよなー」


「お前もあと十年もすれば、俺と対等に戦えるかもな。それとレオンくん、運動神経だけは余計だぞ」


 本気で悔しがる金髪の青年に、フィールカは得意げな顔で指摘する。


 確かにレオンも運動神経は良いほうなのだが、フィールカが訓練生の中でも抜群に優れているため、浴場が空いている時はいつもこうやって勝負をしてはほとんど敵わないのだった。


 すると、レオンは水を掻き分けながら黒髪の青年に近寄ってくると、彼の耳元に声を潜めて言った。


「……なあ、フィールカ。今夜の女湯はどうなんだろうな」


 それを聞いた途端、青年はすぐに呆れ果てた顔で肩をすくめる。


「どうなんだろうなって……いつものことだろう? 大浴場で女子と被ることなんて滅多にないし、現にここに入った時から女湯のほうで話し声とか全然聞こえてこなかっただろう?」


 残念なことに、魔導軍事学校は他校と比べてあまりにも女子の在校生が少ないため、一週間に一度しか入れない大浴場で入浴が重なることはほとんどないのだ。


 レオンは後ろ髪を引かれるような口調で呟く。


「はあ……やっぱそうだよな……。俺たちが入ってる時に、都合よく女の子たちが入って来るわけ——」


 そこまで口にした時だった。


『ねー、早く入ろうよー』


 不意に、女湯のほうから女子の声が聞こえてきたのだ。


 すると、また一人の声が増える。どうやら誰かが友達と一緒に浴場に入ってきたらしい。わいわいとはしゃいでいる声がこちら側まで届いてきて、如何にも楽しそうな雰囲気だ。


 願ってもない突如舞い込んできた僥倖に、レオンは欲に目が眩んだように浴槽から出る。


「おいおい、まじかよ……」


 にやけた顔でそう呟くと、金髪の青年は何かに取り憑かれたかのようにそこらじゅうの風呂椅子を掻き集め、男女の浴場を隔てる壁の前でピラミッド型に積み上げ始める。


 そんな彼の愚か極まる行動に、フィールカは不安げな口調で言う。


「おいレオン、いくら何でもそれはまずいんじゃないか……? もし女子たちにバレたらどうなるか……」


「大丈夫だって。それにもうこれはどう考えても、変態の神が俺たちに、女子たちの裸を覗けって言ってるようなもんだろうよ」


 意味不明な発言をする相棒に、フィールカは痛くなった頭を抱えて完全に諦めたように嘆息する。


 しかし、そうは言っても自分も男だ。今もこの薄い壁の向こう側では女子たちが産まれたままの姿だというのに、何も気にならないはずがない。


 風呂椅子のてっぺんに上ったレオンにくいくい手招きされると、フィールカも壁に耳を当てて女子たちの会話を盗み聞きする。


『——う〜ん、やっぱり大浴場のほうが気持ちいいわね』


『そうだねー。部屋にあるシャワーだけじゃさっぱりしないもんねー』


 すると、一人の女子がふと男湯を隔てた壁のほうを見て、訝しげな目つきで言った。


『ねえ、今日はやけに向こうは騒がしくないわね』


 それを聞いたフィールカとレオンは密かにドキッとしながらも、互いに顔を見合わせる。どこかで聞き覚えのある声だ。二人はさらに耳を澄ませる。


『うーん、明日が卒業試験だから、みんな週初のうちに入っちゃったんじゃないかなー? 色々準備とかもあるだろうし。それよりシエルちゃんって、今回は何班だったの?』


『えーっと……私はB班だけど……』


『ええっ!? B班って、確かあの最悪コンビも一緒だよね? シエルちゃんついてないね……』

 

 もう一人の女子が酷く同情するように言う。


 聞き耳を立てていた青年たちは思わずふて腐れた顔になったが、おかげでようやく声の正体は判った。どうやらシエルがいつもの友達を連れて一緒に来たらしい。これには二人も驚いた顔になる。


「まさか、学校一の美少女と最後の浴場で一緒になるとは……感謝感謝……」


 まるで神に祈る修道士のように両手を組みながら、レオンが何事かぶつぶつと呟いている。


 だが、傍らにいたフィールカは彼の何倍も酷く動揺していた。入学した当初からずっと気になっている子が、たった一枚の壁の向こう側で今も一糸まとわぬ姿になっているのだ。もはや平常心でいられるわけがなかった。


 しかし、シエルたちは二人の心情を知り得るはずもなく、さらに追い討ちをかけるように会話を続ける。


『ねーねーシエルちゃん、最近また大きくなったよね?』


『えっ?』


 同級生の少女はニヤッとした顔をシエルに近づけて、バスタオルを巻いた彼女の二つの豊かな膨らみをじーっと見てくる。


 普段の長いツインテールをほどいた少女は、艶やかな赤髪を揺らしながら慌てて否定する。


『そ、そんなことないわよ……』


『でも、やっぱり大きくなってるよー。一回触ってみてもいいかなー?』


『ええっ!? ちょ、ちょっと恥ずかしいわよ……!』


『いいからいいから! ——うわっ、何これ!? すごーい! こんなに柔らかくていいなー……』


 遠慮なく続く二人の過激な会話に、フィールカたちは思わず声を吹き出しそうになる。


「おいおいおいおい、噓だろ……。この壁の向こう側で、今まさにシエルちゃんが女の子におっぱいを揉みしだかれてるだと……。覗くぞ……俺は絶対に覗くぞ……」


 もはやおかしな使命感に駆られたように、レオンは不安定な風呂椅子の上に立ち上がると、壁と天井の隙間から必死に女湯を覗き込もうとする。


 しかし、フィールカはもうそれを止めようともせず、放心したようにただただ彼女たちの話に耳をそばだてていた。


『も、もういいかしら?』


『あっ、ごめんごめん。あまりにも柔らかかったから、ついつい……』


 名残惜しそうに同級生の少女はシエルのたわわな膨らみから手を放すと、次なる強烈な話題へと転換した。


『そういえば、シエルちゃんはお手入れとかしてるの?』


『手入れ?』


『うん。下の手入れのことだよー。真面目なシエルちゃんのことだから、ちゃんとしてるのかなーって思って』


『あー、私は——』


 そこまで口にしたところで、急に言葉が途切れる。


 突然男湯のほうから、「ぶほっ!!」という正体不明の大きな音が耳に届いてきたからだ。


 すると次の瞬間、ガランガランと壁の向こう側で何かが崩れたような盛大な音が浴場全体に響き渡ると、何やら酷く慌てた様子で男湯のほうが騒がしくなる。


『だ、誰!?』


 突然の出来事に面食らったように、シエルは思わず誰何すいかの声を上げる。


「いててて……い、いや、なんでもないんだ、シエルちゃん。俺たちは別に盗み聞きなんかしてないし、ただ普通に黙って風呂に入ってただけで——」


『……その声はレオンね。俺たち﹅﹅﹅、ってことはつまり、フィールカも一緒に今までの会話をずっと盗み聞きしてたわけね……』


 耳聡みみざとく反応したシエルは、ぴりぴりと怒気の混じった口調で言う。


 そんなフィールカとレオンはと言うと、崩れ落ちた風呂椅子の下敷き状態で倒れていた。


 原因は、黒髪の青年が先ほど声を発した張本人で、いきなり鼻血を吹き出したかと思うとその場で失神してしまったのだ。そのままレオンが乗っていた風呂椅子を巻き込むように押し倒し、現在の何とも残念な有り様になったわけである。


 すると、二人のすぐ頭上の空気中に突然、びりびりッと青い電流が走る。そこから見る見るうちに小さな黒雲が発生し、今にもまずそうな雰囲気を漂わせ始める。


 シエルが非常に怒っていることに気づいて、レオンは必死に慌てて弁解する。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、シエルちゃん! こっちは鼻血を吹き出して倒れてる怪我人もいるんだぜ!? ちゃんと話し合えばわかるって……!」


『…………』


 しかしそれ以上、彼女から言葉は返ってこなかった。


 ゴロゴロと唸っていた黒雲が青白く閃いた直後、そこから落ちてきた細い稲妻とともに悲鳴にも似た絶叫が浴場に虚しく轟いたのだった。


『……もう知らない』



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