第19話
翌朝、とりあえず妹に小日向と森崎も参加すること、そのため集合が午後2時になることを伝えた。
「小日向先輩と、その、森崎先輩? は割引が効かないから、なんか申し訳ないな……」
それを聞いた妹は、そう言ってしょんぼりしていた。
◇ ◇ ◇
「私も持ってるわよ、割引券。だから、気にしなくていいって伝えておいてくれる?」
「……いや、昨日言えよ」
「どこ置いたか記憶が曖昧だったから、昨日帰ってから探したのよ。『ある』って言ってから『やっぱり無かった』より、『実はあった』の方が良いでしょ」
微妙に正論っぽいことを、森崎は言っている。
「良かったです、森崎先輩がチケット持ってて!」
「お前は問題に集中しろ」
「はいっ」
そんな森崎が座る席の、その一つ向こう。そこで学校指定の数学問題集をひたすら解いている小日向も、その名に恥じない弾けるような笑顔を咲かせている。
だが俺らを呼び出してまで勉強しているんだ。余所見せずに問題を解くよう、すぐに黙らせる。
一度しゃべるのを許したら、こいつは止まらない。中学からの付き合いで、そんなことは嫌というほど、それこそ身をもって知っている。
「水族館ですかー。いいですね、水族館。熱帯雨林コーナーが好きなんですよ、私。アリゲーターガーとか、カッコいいですよねー?」
「…………」
ふと沈黙が場を支配した頃、窓際から間延びした声が届く。
先ほどまで窓の外をじっと見ていた部長だ。ちなみに、今日の天気は雨。外を見ていても何も面白いことなど無い気がするが、人の感性など千差万別なものだ。
もしかしたら、部長は雨に安らぎを感じるような、そんな人なのかもしれない。
とにかく、そんな部長は窓から視線をはずして、完全に終わったものだと思っていた水族館の話題に加わってくる。
最後の問いは相も変わらず本に目を落とし、今日はまだ一言も声を聞けていない清水先輩に向けられていた。が、清水先輩はほんの少し眉を顰めただけで、声で返事することはなかった。
「まさか、部長たちも行く、とか言うんですか……?」
これ以上メンバーが増えたらワケがわからないほど大所帯になってしまう。
個人的に、あまり大人数での移動が好きではない俺は、思わずそんな訊き方をしてしまった。
深読みしなくても、「勘弁してくださいよ」とでも続きそうなほど、嫌悪感丸出しな言葉である。
口に出してから、やばい、と思って思わず口を手で塞ぐ。いくらなんでも、失礼がすぎるだろう。
「あはは。そんな思い切り嫌そうな顔しないでくださいよー。どっちにしろ、私たちは受験生なので、テストが終わっても勉強しなきゃいけないのです。ねー、清水くん。残念でしたねー」
「……俺はもともと、『行きたい』なんて一言も口にしてないが……」
だが、当の先輩たちは少しも不快そうな表情を見せず、どちらかと言えば困ったような表情でそう言っていた。
正直、ほっとした。
ふと横を見ると、森崎がじとっとした目で俺のことを見ていた。
当然、目が合う。
露骨にため息を吐かれた。
何だ。何なんだ。一体。
「でも、先輩方が勉強してるの見たこと無いですよ、私」
混乱する俺をよそに森崎は視線を先輩たちに移し、俺も疑問に思っていた突っ込みをする。
今だって、清水先輩が手に持っているものは書店のブックカバーがついた文庫本で、部長に至っては机の上に何も広げていない。手持ち無沙汰な様子で窓の外を眺めるだけだ。
部長は森崎の突っ込みに対し、胸をフンスと反らしてどや顔をしてから、
「努力っていうのは、人の目が無いところでするものなんですよー!」
と、それっぽい返答をしていた。
◇ ◇ ◇
帰り道は大変だった。
喋ることを禁止され、フラストレーションの溜まった小日向が喋る喋る。いつ息継ぎをしているのだろうと疑問が生じるほどには喋っていた。
段々と疲れてきた俺と森崎が「ああ、そう……」とか「ふぅん……」しか返事をしなくなっても、なお喋る。もう止めてくれと心の中で懇願するほどに喋り続ける。
そんな小日向が電車を降りる頃には、「小日向、すごかったな……」「そうね……」という応答を一度したきりで、とてもじゃないが森崎と会話をする元気はなくなっていた。
おそらく森崎も同じ気分だったのだろう。向こうから話を振ってくることもなかった。
……あれ、それはいつものことかもしれない。
もしかして彼女は俺とわざわざ自分が話題を振ってまで会話をしたくないのかもしれない。なんてこった。
……まあ、それは置いておいて。
「森崎も割引チケット持ってたんだってさ。これで全員が割り引きされるな」
「え、本当っ? よかったー」
夕食時、カレーを匙で掬って口に運びながら、妹にそう伝える。
それを聞いた妹は心底嬉しそうに笑う。よっぽど気にかかっていたのだろう。自分のことではないというに。人が好いと言うか、なんと言うか。
「そういえば、琴音お姉ちゃんには集合時間決まったこととか伝えたの?」
ふと、妹がくりくりとした瞳を俺に向けて、そんな質問をしてくる。
「んー……伝えてないな」
「え、駄目じゃん! 伝えなきゃ!」
「そんな急を要することでもないだろうに。まだ来週末のことなんだから……」
当然のことながら、シャイなあんちきしょうである俺は、教室のなかで、恭介曰く『マドンナ』……改め『女神』……である琴音に近付き、あまつさえ「やあ、この間の約束のことなんだけど、集合時間が決まったんだ」などと声をかける勇気など持ち合わせていない。
なので、昨日決まった集合時間をまだ伝えられていない。恭介と、廊下ですれ違った拓海にはすでに伝えたが。
「駄目だよ! お兄ちゃん何だかんだ最後までそう言って後回しにして、結局伝えないもん! 最終的に『勇気が出ない』とか言って私に任せるもん!」
「……ほう……よくわかってらっしゃる」
まさにぐうの音も出ない正論に、この野郎という反論より前に、感心が口を衝いて出た。
さすが我が妹。賢く、そして兄のことをよくわかっている。
「……わかりました。後でメールしておくよ」
結局俺が折れて、そう提案することで手を打ってもらおうとする。
良く考えると、『折れる』という言葉が使えるほど討論をしたわけではなく、一方的に俺が論破されただけだったりした。悲しい。
そう言えば、厳密に言えば最近の連絡手段は『メール』ではなく、無料連絡ツールであるアプリなのだが、つい癖で『メール』と口にしてしまうな、などと関係ない思いが頭に浮かんだとき、目の前に座る妹が首を傾げ、
「? ……電話すれば良いじゃん。どうせ無料なんだし」
当然かのように、そう発言する。
「あでっ、で、でで、電話?」
「何で急にそんなにどもるの……」
何を隠そう。俺は電話が苦手である。
だって相手方の顔が見えないんだぜ。おまけに電波状況が良くなくて、うまく相手の話を聞き取れなかったとき、「ごめん、もう一回」と頼まなきゃいけないし、何回もそれが続いたら申し訳ないし。
「い、いや。ほら。今テスト前じゃん。きっと向こうも忙しいだろうしさ。メッセージ送っておけば暇になったときに見てくれるじゃん? わざわざ電話するほどじゃあないんでない?」
とりあえず、電話は嫌だ。
俺はそれを『わざわざそこまですることはない』というニュアンスで妹に力説する。
我ながら完璧な言い訳である。妹はおそらくぐうの音も出せず、「それもそうだねー」と言うしかないはずだ。
「……はぁー」
あれれ。思った反応と違う。
妹は完全に呆れきった様子で露骨にため息を吐いた。最近ため息をつかれてばかりである。俺の何が周りのみんなをそんなに呆れさせるのだろう。存在自体がだろうか。やばい。被害妄想で凹んできた。
妹は凹んでいる俺を一瞥すると、ポケットから携帯を取り出して何やらいじり始める。
「こらこら。食事中に携帯をいじるんじゃありません」
「しっ」
ごく当たり前の注意をしたはずなのに、返ってきた反応は「ちょっと黙ってて」というジェスチャーだった。
どういうことだ、反抗期か。
妹はそのまま携帯をポチポチ、もちろんポチポチと音が鳴るわけでも、ボタンがあるわけでもないが、とにかくいじったあと、耳にかかる髪を退けて、携帯を直接耳に押し当てる。
おいおい、まさかだよ。
俺の不安を余所に、数秒間。妹がしている行動を考えれば、数コール、というのが正しいのかもしれない。
とにかく、そのくらいの沈黙の後、
「あ、もしもし? 琴音お姉ちゃん? 今ちょっとだけ時間大丈夫かなあ。……あ、そう? よかったー。……うん。なんかお兄ちゃんが話があるんだってさ。これからかわるねー。…………はい」
「うん。ちょっと待とうね」
そこまでいったなら自分で用件を伝えてくれても良かろうに。
「なに。文句なら後で聞くから、とりあえず、はい。お姉ちゃん待ってるから」
とりあえず言いたい文句がお手々の指じゃ数えきれないほどあるわけだが、どうやら妹は今それを言うことを許してくれないようだ。
腑に落ちない。
だが確かに、今その電話の向こうで待っているだろう琴音を、こっちの都合で振り回し、待たせてしまうのは忍びない。
「…………」
なので俺は大人しく、妹が早く取れと言わんばかりに俺に向かって突き出し、指先でフリフリと軽く振っている携帯を大人しく受け取る。
「……もしもし」
『あ、もしもし。純くん?』
「うん、そう」
『電話。話があるなら直接かけてくれてもいいのに』
「……ああ、うん。じゃあ、次からはそうする」
耳に当てた携帯電話から聞こえてきた声は、間違いなく琴音の声で。でも、携帯電話というフィルターを通し、少しくぐもった彼女の声は何だかいつもと違って新鮮で、少しの間、俺の頭は真っ白になった。
それからどれほど黙っていただろう。目の前では妹がジト目で俺を睨みつつ、カレーを食べ続け、器が空になりかけている。
『……あ。えっと……話って、何かな?』
やがて、沈黙に耐えきれなかったのか、それともこの時間は何なのかと疑問に、はたまた無駄に思ったのか。とにかく、先に静寂を破り口を開いたのは、琴音だった。
「え、あ? ああ、話か。話ね」
『…………あるんだよね?』
「うん、ある。話はある」
『なんでそんなカタコトなの』
電話の向こう側では、くすくすと琴音が堪え切れなかった様子で笑い出す。
しょうがない。だって俺は電話が苦手なんだから。
「来週の土曜日。集合は14時で、場所は水族館の最寄り駅になったから」
『……ああ、水族館の話? おっけー。了解。14時に、水族館の最寄り駅ね』
「うん。……あと、そうだ。あと二人追加になった。どっちも同中だから、もしかしたら知ってる人かも。そのうちの一人が割引券を持ってたから、その辺は気にしなくていいらしいよ」
『あ、わかったー。え、誰だろう。じゃあ、楽しみにしてるね』
「うん」
『…………』
「…………」
『……え、それだけ?』
とりあえず伝えたかったことはしっかり伝えられたと思い、向こうにはバレないよう静かに息を吐いて安心していたら、しばしの沈黙の後、琴音が素っ頓狂な声を上げた。
どうやら、まだ何か話があると勘違いしていたらしい。
「いや、うん。それだけ」
『えー。なんだあ』
「……なんだって、なんだよ」
『いやーだって。うーん……まあいいや』
「まあいいや」。使う方としてはこの上ないほど便利な言葉だが、使われる方としてこれほどしこりが残る会話の終わらせ方は無いだろう。
「なんだよ。気になるじゃん」
『いいんです。なんかやたらと溜めたり言い淀んだりしてるから、どんな話なのかと思って、身構えてたのが馬鹿みたいだなあって思っただけなんで、もういいんです』
「……ああ、それはまあ、ごめん」
結局、少し食い下がったらすぐに白状してくれた。
確かに彼女の言う通り、言ってみてしまえば何をあそこまで緊張していたのかと笑える程度の、ありふれた連絡だった。
「じゃあ、まあ、それだけ。ごめんな、テスト前に電話なんてして」
『ううん。別にテスト前だからってずーっと勉強してるわけじゃないし、気にしなくていいよ』
「へえ、意外。なんかテスト前とかめちゃくちゃ勉強してそうな印象だった」
『普段からちゃんと授業聞いて、予習復習してれば、直前になってそこまで焦る必要ないんですー。……ま、予習復習の部分は完全に予備校のおかげなんだけどね』
そう言って彼女はあははと笑う。顔は見えないはずなのに、きっと今、電波の向こうで彼女はこんな笑顔を浮かべているんだろうな、というのがなんとなくわかる、そんな笑い声だった。
「…………」
『…………』
再び、沈黙。
これだ。どう通話の終了を言い出せばいいのか、どのタイミングで言えばいいのか混乱する、この感じ。これも好きじゃないな。
「えーと。じゃあ、また明日。学校で」
『あ、うん。そうだね。じゃあ、また明日』
いつまでも沈黙しているのは馬鹿らしいので、俺から通話の終了を告げる。
彼女からそんな返事が来るのを確認してから、画面の【通話終了】という文字に指をかける。
『水族館、たのしみにし』
……なんか、通話を終了する瞬間、琴音が何かを喋った気がする。
…………まあいいや。
ふむ。やっぱり便利な言葉だ。
「はあああ~」
「お疲れさま。最初はどうなるかと思ってたけど、いつの間に普通に喋ってたじゃん」
「お前、覚えておけよ……」
そう言いながら、個人的には全力の怖い顔で妹を睨んだつもりだが、妹は全く怖がる様子もなくコロコロと笑うと、俺が差し出した携帯を受け取った。
携帯を受け取った妹はご馳走さまと一言口にして、すでに食べ終わった皿をキッチンの洗い場まで持っていった。
結局文句は聞かないのな、と思いつつ、俺はまだ器の半分ほどを占める温くなったカレーを口に運ぶ。
妹様のカレーは冷め始めてもうまかった。
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