第18話

 5月中旬。水曜日。

 水族館、ゴールデンウィークにすればよかったんじゃないか、なんて考えがよぎったわけだが、そんなこと考えたところで後の祭りなワケで。

 特にやることもないゴールデンウィークも過ぎ去ったその日、俺は部室を訪れていた。

 部室の扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、いつも通り窓際の席に座り、本に目を落としていた部長から声がかかる。


「あれ、田村くん。今はテスト期間なので部活動停止中ですよー?」


 なんて言いつつ、あなたもいるじゃないですか、という突っ込みは敢えてしない。


「こんにちは、部長。小日向が勉強教えてくれって泣きついてきたんで、俺もついでに勉強しようかなと思ってここに来たんですよ」

「ああ、なーるほど」


 しかし見渡したところで肝心の小日向はいない。

 いつも通り、部長と清水先輩がいるだけである。


「咲良ちゃんはまだ来てないですねー」


 部長がそう漏らしたとき、ちょうど部室の扉が開かれる。

 小日向が来たかと思って目を向けると、そこに居たのは予想だにしない人物、森崎であった。


「あれー。志穂ちゃん」

「お久しぶりです。……あの子は?」


 後半のセリフは俺に対してであった。


「あの子?」


 代名詞でその真意を伝えるには、もっと深い信頼関係が必要だろう。


「咲良。呼ばれたから来たんだけど、いないじゃない」

「え、森崎も小日向に呼ばれたのか」

「……『も』ってことは、あんたもなのね」


 二人で首を傾げていると、部室の扉が勢いよく開く。明らかに不必要な勢いを無理矢理持たされた扉は、開ききると共にバァンと大きな音をたてる。

 こんな品の無い扉の開け方をする人物を、少なくとも俺は、ひとりしか知らない。


「こんにちはー! すいません、日直で遅くなっちゃいました!」


 頭を掻きながらえへへと笑い、謝ってる感ゼロの小日向がやはりそこにはいた。


「なあ、なんで俺と森崎、二人も呼ばれてるわけ?」


 小日向が適当な席に座った瞬間に早速、俺は小日向にそのことを訊ねる。視界の隅には俺の言葉にうなずく森崎の姿も見える。


「勉強を教えてもらうためです!」

「……二人から?」

「はい!」

「必要か?」

「まあまあ、落ち着いてくださいな。先輩の言いたいことはわかります。しかし! 聞いてください。わたしは考えました。もし先輩一人に教えを乞うてしまったら、そのうち先輩はわたしの頭の悪さに嫌気がさし、二度と勉強を教えてくれなくなるんじゃないかと」

「……うん。あり得るな」

「ついでに言えば、先輩は何でも文句も言わずに教えてくれますが、教え方はそこまで上手ではないと思うんです」

「何様だ、お前は」

「あいたっ」


 生意気な後輩にチョップをお見舞いする。

 小日向はチョップを食らった頭を軽くさするがすぐにまたその口を開く。ダメージは浅いようだ。


「それでですね! そうならないように、お二方に入れ替わり立ち替わりで教えていただこうかと!」

「わあー。咲良ちゃん賢いー」


 遠くから聞いていたらしい部長が、手をパチパチと叩きながら適当に小日向を誉めている。

 全く気持ちが籠っていないわけだから、小日向はその心底誇らしげな顔をやめてくれ。


「……出来る限り自分で頑張ってみようと思いました、じゃないのがお前らしいよ」

「えへへ」


 もちろんだが、誉めてはいない。


「はあ。まあいいや。やるなら、さっさと勉強始めようぜ」

「さっすが先輩! よろしくお願いしまっす!」


 ため息ひとつ、俺は小日向のとなりに腰を下ろす。


「……え、今ので話ついたの? ……私の意見とかは全く聞かないのね……」


 そんな呟きとともに、ひとりだけ唖然としている森崎は放っておくことにした。


   ◇ ◇ ◇


「う、うっ……頭のなかをxとyが……わたしの脳みそをxとyが蹂躙してますぅ」

「お前、本当に数学苦手な……」


 すっかり暗くなった帰り道。うーうー唸る小日向を俺と森崎が挟んで、三人並んで歩く。

 狭い歩道では迷惑極まりない行動だが、ざっと見渡しても急いで歩いている人や自転車は目につかないので、どうか許してほしい。


「大体、方程式だの三角形だの、一体そんなもの学んで何の役に立つって言うんですかあ!」

「少なくとも、次の中間テストで赤点を取らないために役に立つわね」

「ふむ……それは、確かにですね」


 俺がそんなことを考えてるうちに、その横では、小日向の文句を森崎が一瞬で論破していた。さすがである。

 なんだかんだと素直に人の意見を聞き入れるバカだから、小日向は好印象なのかもしれない。


「テスト、来週の木金だろ? 今日一日で数学の試験範囲、半分も手がつかなかったけど、大丈夫なのかよ? ほかの科目とか」

「ほ、ほかの科目……ですか……。まあ、数学よりは全然大丈夫ですよ」

「数学を『ヤバ度100』とすると?」

「ほかの科目は平均80くらいですね!!」

「ヤバいわ……」


 思わず頭を抱える。


「いざとなったら、私は咲良を切り捨てる覚悟でいるわ」

「も、森崎先輩ー! 後生ですから! 後生ですから!」


 平然と言ってのける森崎に、小日向はわんわんと騒ぎながら縋っている。小型犬を空目する縋り方である。


「いやでも、森崎もありがとうな。正直今日だけでもかなり助かったよ」

「……………………どういたしまして」

「……え、なに、その間?」


 普通にお礼を言っただけなのに、なにやら意味深な間を空けられて、思わずそう訊ねる。


「いや、なんであんたがお礼を言うのかなって。なんかあんた、咲良の保護者みたいだね」

「そうなんです。先輩はわたしの保護者なんです」

「いや、違うから。……でもまあ、確かに俺がお礼を言うのはおかしいな。小日向が言うべきだ。ほら、お礼言っておけよ」

「ははー。ありがとうございまする!」


 そういって大げさに深く頭を下げる小日向。

 森崎はそんな彼女を見て軽くため息を吐くと、俺をちらと見て、


「ほら。やっぱり、保護者みたい」


 そう言って微笑む。


「…………」


 急にそんな顔を見せられると、どうしても固まってしまう。童貞。俺。

 でもきっと童貞じゃなくなっても、こういう予測不能な事態に固まってしまう気質は変わらないとも思う。でも今は、童貞のせいにしておこう。


 そんなどうでもいいことをぐるぐると考えて気を紛らわしていた俺の顔をじっと見つめている存在がいた。


「先輩方って、なんだかんだ仲がいいですよね」


 そう感想を漏らす小日向だった。


   ◇ ◇ ◇


「先輩」


 電車に乗り込んですぐ、小日向がそう声を発した。


「ん?」

「なに?」


 だが、この場に小日向の先輩は二人。「先輩」とだけ呼びかければ、そりゃこうなる。


「ああ、すいません。今呼んだ『先輩』はこっちの先輩で、森崎先輩ではないです」

「あ、そう」

「紛らわしいな。俺のことも『田村先輩』とか呼べよ」

「ええー……」

「嫌なのかよ。てか、何で俺だけ『先輩』単発呼びなんだよ?」

「なんとなくです」

「なんとなくか」


 それなら仕方がない。


「いやいや、そんな話はどうでも良くてですね! 今度、森崎先輩とお出かけするんですけど、先輩も一緒にどうですか?」

「……は? 女子二人の中に、俺一人か? 気まずすぎる。パス」

「はうぅ。一蹴されました……」

「そもそも、森崎も嫌だろ?」


 俺はまたどうせ小日向が暴走したもんだと判断して、その横で携帯をいじっている森崎に助けを求める。

 森崎のことだから、「あんたが居たら気まずい」と言ってくれると信じている。


「私は別に。どっちでも」


 だがこういうときに限って、彼女のいつもの棘は鳴りを潜めてしまう。

 いや、言外に「お前なんて居ても居なくても変わらねえよ」と伝えているわけだし、むしろ刺々しい回答なのかもしれない。


「ああ、そう……? ……まあ行くにしても行かないにしても、とりあえず日程は? いつの話よ?」

「ええと、テスト明けの土曜日です」

「えっと……ああ。その日、予定あるわ」

「嘘ですよね?」

「いや、こればかりはマジマジ」


 どうせ予定など無くても「予定ある」と答えるつもりだったし、それでダメでも「考えとくわ」という魔法の言葉でこの場を凌ぐつもりだったが、幸運にも、本当に予定があった。


「ちなみに、何の用事ですか? 『髪切る』とかだったら殴りますよ?」

「先輩を殴るとか、穏やかじゃねえな……。俺もお出かけだよ。水族館」

「ああ、あのリニューアルオープンしたとこ?」


 俺の発した「水族館」という単語に、森崎が携帯から顔をあげて反応する。

 携帯をいじりつつも、ちゃんと話は聞いていたらしい。

思わぬ位置からの返答に少し驚いた。


「リニューアルオープン? そこなのかな。ちなみに、どこの水族館の話?」

「あー。えっと、あそこだ」


 そう言って森崎はひとつの駅名を口にする。なるほど確かに。そこは俺が行く予定の水族館の最寄り駅だった。


「ああ、じゃ、そこだ」


 そう短く肯定すれば、「ふーん」というどんな気持ちが込められているのかわからない返事が来た。なんの気持ちも込められていないのかもしれない。


「まさか、デートですか?」

「それこそまさかだろ」


 自分で即答して悲しくなった。


「5人で行くんだよ。俺と妹と、恭介と拓海と琴音」

「琴音? 国分寺先輩ですか?」

「あれ、知ってんの?」

「有名人ですしねー」


 どういう意味の有名なのだろうか、などと俺が考えていると、「ほうほう……」と呟きつつ顎に手を当て、賢いひと風に何やら考えた小日向が、森崎の袖をくいくいと引く。


「なに?」

「普段は女子を苗字呼びしかしない先輩が『琴音』呼びですよ? スキャンダラスな香りがしませんか?」

「別に、興味ない」


 それに対する森崎の反応は冷たいものである。

 頬を膨らませつつ「別に、興味ないしっ!」とでも言ってくれれば、「ははあん……ツンデレ?」と喜ぶことができるのに。

 本気で心の底から言ってそうな「興味ない」って言葉はこんなに冷たいものなのですね。


「ええー……。あ、でもでも、リニューアルオープンした水族館とやらには興味あるんですよね?」

「……まあ、それは興味ある。水族館、好きだし」


 その答えを聞いた小日向は「言質は取った」とばかりにニマァといやらしい笑みを浮かべると、


「ということで先輩。わたしたちもその日、同行します!」

「何が『ということで』なのかわからん。そもそも俺らは5人までの割引券あるから割引効くけど、お前と森崎は効かないぞ」

「わたしは別にいいですよ? バイトしてますし」

「…………え? マジ?」

「マジです」


 曰く、週一の部活だけでは毎日暇で暇で仕方がない。それだったらバイトをすれば良いじゃない。ということで、最近バイトを始めたらしい。

 彼氏がいたことがある、と聞いたときと同じ感覚。敗北感。


「こ、小日向が……バイト……」

「……別に不思議なことじゃないでしょ。この子、社交性はあると思うよ。少なくともあんたよりは」

「…………」


 追加ダメージ。慈悲など無いらしい。


「その日は森崎先輩が午前中部活なので、わたしたちはそれが終わるのを待って午後から行きます。先輩方は先に行ってますか?」

「んー? いや、どうせあとで合流するなら一緒にいっても良いだろ。半日もあれば余裕でまわれるだろ。たぶん」

「んー……。まあ、そうですね! じゃあ、午後からみんなで待ち合わせして、一緒に行きましょう!」


 その後、待ち合わせは水族館の最寄りの駅に午後2時ということに決まった。


「それじゃあ、また明日も勉強教えてください! なので、また明日ー」


 という、これまで聞いたこともない、頼みと別れの挨拶を同時に行うセリフを吐いて、小日向は電車を降りていった。


「……今更だけど、本当に良いわけ?」

「何が?」

「水族館。ってか、二人の用事がみんなでお出掛けに変わったこと」

「ああ。……ほんと、今更ね」


 少し呆れたような、森崎のそんな表情。


「別に良いわよ。知らない人ばっかってワケでもないし、もともと日にちは決めてても何するか決めてたワケじゃないし」

「……ならまあ、よかったけど」


 相変わらずよく喋るのは小日向で、それに基本的な相づちを打つのは俺で。

 もしかして森崎は最初から俺らと水族館なんて行きたくなくて、でもそれを言わないだけなんじゃないかと、少し気になった。


「……別に気を遣わなくても、行きたくなけりゃ行きたくないってはっきり言うわ」


 最終的に、そんなことまで言われてしまう。

 何だろうね。俺って、そんなに分かりやすいかな。


「確かに。森崎ははっきりそう言いそう」


 そう返すと、森崎の視線はまた手元の携帯に戻った。


   ◇ ◇ ◇


 地元駅の改札をくぐり、それじゃあ、とでも声をかけようとしたとき、


「咲良はさ」


 俺よりも早く口を開いたのは、意外にも森崎だった。

 そしてこれまた意外にも、その言葉は別れの挨拶でもなさそうで。


「小日向が、何?」

「咲良は、凄いよね。怖いもの知らずって言うか、何と言うか。誰にでも恐れず関わっていく感じ。私は絶対真似できないなって」


 ……まあ、確かに。


 俺も思う。俺には絶対に真似できない。

 すでに「5人で行く」と言っている相手に、「俺も入れてくれ」なんて、恐ろしくてとても言えない。

 すでに出来上がっているグループに足を踏み入れる勇気なんて、何ヵ月何年かかっても、きっと俺は振り絞れない。


「……人を恐れる脳みそがないだけかもよ」


 でも小日向に対して、そんな一種の尊敬を抱いていることを認めたくない俺の口は、そんな酷い言葉を吐き出していた。

 その俺の返事を聞いた森崎は、少し表情を緩めて、「確かに、それはそうかも」、なんて、小さく呟く。


「……まあ、何が言いたいのかっていうとね。あの子と一緒なら、案外どこに行ってもうまくやれるのよ。全部、咲良のお陰なんだけどね」

「……?」


 つまり一体何が伝えたいのかわからず、俺の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

 森崎はそんな風に首を傾げる俺をしっかりと見据えると、


「つまり、あんたみたいな人にはオススメってこと」


 そんな、全てを見透かしたようなことを言ってのけた。


「…………」

「……まあ、人のこと言えるタチじゃないけどね。じゃ、また明日」


 俺がなにも言えずに固まっているうちに、そう言って右手をヒラヒラと揺らしながら、森崎は背中を見せて行ってしまった。

 何だかな、と思う。

 モヤモヤとした感情を抱きながら、家まで歩を進めた。

 何だか腹が立った。全てを見透かしたような彼女の態度も言動も、そして、なにも言い返せなかった自分にも。

 でも、どうしようもない。

 だって、彼女が言っていたことは、どうしようもなく本当のことなのだから。

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