第10話

「お兄ちゃん、起きて」

「んあっ?」


 寝ていた俺を、ゆさゆさと揺すって妹が起こす。

 一応目は覚めたわけだが、気持ちのいい微睡まどろみの世界に浸っていた俺の脳みそは、急な覚醒についていけずに全く働いてくれない。とりあえず、焦点の合わない目で起こしてくれた妹を見つめる。


「寝坊しちゃうよ」

「寝坊? あれ、今日何曜日?」

「土曜日」

「休みじゃん……」


 未だ開ききらない両目をシパシパとさせながら、妹とそんな問答をする。


「お兄ちゃん、まだ寝ぼけてるの? 今日、琴音お姉ちゃんとお出かけでしょ?」

「………………っ!?」


 しばらく妹の言葉を頭の中で反芻はんすうすることでようやく事態を飲み込み、俺の脳みそは完全に覚醒する。そして覚醒するや否や、目覚まし代わりに使っている充電コードが伸びる携帯にがばっと飛びつく。

 おかしい、だって俺は昨晩のうちにちゃんとアラームをかけたはずだ。

 11時集合だから、ある程度余裕を持つとして、限界まで寝るならと9時半に時間を設定して。

 覚束ない手つきでボタンを押して、画面を表示させる。瞬間俺の目に飛び込んできた時刻は、「9:02」。

 アラームが鳴った覚えがないのも仕方がない。なぜならセット時刻の前なのだから。


「…………はやくね?」

「そうかな?」


 どうやら、楽しみすぎた妹が張り切りすぎて、俺を早く起こしすぎただけだったようだ。

 3連すぎコンボである。なんだか技名みたいで少しかっこいい。


「まぁ、いいや。起きちゃったし、用意するよ」

「わかった。下で朝食作って待ってるね」


 完全に目が覚めてしまったので、これ以上寝るのは難しいと判断した俺は、そう言ってアラームを切る。

 妹はいそいそと俺の部屋を出ていくと、すぐに階段を下りていく足音が聞こえる。

 やはり、国分寺に会うのが待ち遠しいのだろう。少しだけ、動きがいつもより忙しなく感じる。


「…………どういう話すればいいんだろうなぁ」


 国分寺を迎えに行ったあと、いったいどんな会話が繰り広げられるのか。それが全く想像できない俺は、ため息混じりにそう独りごちるのだった。


   ◇ ◇ ◇


「お、押すぞ? いいか。インターホン押すぞ?」

「いいから、早く押して」


 国分寺の家の前で妹とそんなやり取りをすること2分。結局、痺れを切らした妹がインターホンを押した。

 メッセージの「送信」ボタンとか、電話の「発信」ボタンとか、そういう最後のボタンを押すことって、とても勇気が必要だと思う。電話やメールなんていう発明は、その人に会いに行くという手間は完全に省いてくれるくせに、インターホンを押す勇気までは肩代わりしてくれない。その辺まで完璧に気を遣ってくれる発明品は出ないものだろうか。

 ピンポーン、という気の抜ける音が、玄関の扉越しにくぐもって俺の耳まで届くのを確認しながら、俺はそんなどうでもいいことを考えて気をまぎらわす。

 心臓はけたたましく暴れている。おかしい、昔の俺はどうやってこんなプレッシャーに平然と立ち向かっていたのだろうか。教えてくれ、幼少期の俺よ。

 相変わらず現実逃避をつづける俺の耳に、「はーい」という声と、慌ただしくこっちに向かう足音が届く。

 ここまで来てしまうと、不思議なもので、俺の頭の中で荒れ狂っていた思考の波は急に静かになる。


「ごめんね。おまたせ」


 そう言って扉の向こうから現れる、私服姿の美少女。


「…………」

「わわわっ。ほ、本物の琴音お姉ちゃんだよ! お兄ちゃん! 琴音お姉ちゃんが別嬪べっぴんさんになってるよっ!」


 何も言葉を返せず固まる俺と、興奮しきって俺の袖をくいくいと引っ張りながらそんなことを言う妹。

 国分寺はいきなりそんな態度をとっている俺らに戸惑っているようだ。こっちを見ながら目をしばたたかせると、恐る恐る俺らのもとまで足を進める。


「えと、千歳ちゃん、久しぶり。千歳ちゃん、大きくなって、それに、すごいかわいくなったね」


 俺らのもとに歩み寄ってくると、妹にそう声をかける国分寺。


「はうぅ。お久しぶりです……。わ、私なんて全然! 琴音お姉ちゃんに比べたらほんとゴブリンみたいなもので、全然可愛くなんて……」

「ゴブリンて……」


 ここまでテンパる妹も珍しいもので、それを隣に見て逆に冷静になってきた俺はツッコミを入れる。

 映画館でよくある「隣の人が号泣していると、なんかこっちは冷める理論」はこういう場合でも適用されるようだった。

 国分寺は苦笑している。そりゃそうだ。


「……とりあえず、駅に向かおう。歩きながらでも話はできるし」

「う、うん」


 俺が提案すると、頷いて返す国分寺。妹は上気して赤く染まった頬を両手で押さえながら、「ひゃー」と小さく声を漏らしている。落ち着くまではもう少しの時間が必要そうだった。


「今日、なんか買いたいものでもあるの?」

「え?」

「モール行くんならさ、どうせならなんか買いたいじゃん。目的無くダラダラまわるのでも、時間は潰せるし全然いいんだけど……」

「あ、私、文房具買いたい!」


 駅まで歩きながら、そんな会話をする。ようやく復活した妹は文房具が欲しいようである。


「ううーん。私は特には……。着くまでに考えておくね」

「おう、わかった」

「お兄ちゃんは? なんか欲しいものあるの?」

「俺は、………………うーん……ないな」


 なかった。

 どうやら、結局ダラダラとまわることになりそうだ。


 駅に着いた俺は、一言断りを入れてから妹の分の切符を買いに行く。あまり家に居ない親から生活費として与えられている金のうち、食費は妹が、こういう娯楽など、その他の費用は俺が管理している。なので、妹の切符代は俺の管轄なのだ。

 電車に揺られる三人。会話らしい会話は無い。でも、思ったほどの気まずさもない。俺も、想像していたよりも全然、自然に振る舞えていると思う。そんなことを考えてる時点できっと、この関係にとても気を遣っているのだろうけど。

 でも、今はこれで良いんじゃないかな、とも思う。それはものぐさだろうか。



「次のバス、30分後だってさ。どうする? 歩いたほうが早いかも」


 駅からバス乗り場まで向かっていた俺らの目の前を、それっぽいバスが通り過ぎて行った。嫌な予感がした俺たちは、少し急いでバス乗り場まで向かう。バス乗り場に着いて時刻表を確認してみたら、やはり先ほど目の前を過ぎて行ったバスが乗りたかったものらしく、次のバスが来るまで30分かかることがわかった。

 おそらく、それを待つくらいなら、歩いて行った方が早い。きっと30分も歩けば着けるだろう。


「ううーん」


 妹はただ唸っている。確かに、今から歩くのは面倒くさい、という気持ちはすごくわかる。心が完全に「バスに乗ります」という気持ちで固まっていたからだ。


「じゃあさ、先にお昼食べてようよ。まだ12時前だし、きっと席もいてるだろうから」


 そう言った国分寺は、すぐ近くにあるファミレスを指さしている。なんというグッドアイデア。この子は天才である。

 時間も限られているので、俺らはすぐにファミレスに足を踏み入れる。少しひんやりとした空気が頬を撫でる。今日は日が出ていて暖かいので、軽く冷房を入れているようだ。


 学生御用達がくせいごようたしで有名な大手チェーンのフレンチレストラン。なぜこのお値段、この速さでこれだけの料理が提供できるのか、疑問は尽きない。きっと厨房には魔法の道具があるのだろう。具体的に言えば、マイクロ波を飛ばすような。

 俺はそんなどうでもいいことを考えながら、メニューも見ずに注文を決める。一度好みの料理に巡り合ってしまうと、それ以上の冒険はせずに、毎回同じ料理を頼んでしまう。悪い癖だと思うが、今回は役に立った。

 少しして、妹と国分寺も決まったようで、店員を呼んで注文をする。俺はドリア、妹と国分寺はカルボナーラだった。


「本当はペペロンチーノにしようかなって思ったんだけど、これからお出かけなのに、にんにくはちょっとね」


 そんなことを妹は言っていた。乙女心である。まぁ、俺も妹の立場であれば確実に気にするだろうが。


 他愛もない会話をしながら食事をする。

 その途中、国分寺が急にはっという顔になり、


「私、雑貨屋を見たい」


 と言い出す。どうやら欲しいものに思い至ったようである。



 なんとか30分以内に食べきり、バスに間に合う時間には乗り場に戻ってこれた俺たちは、そのまま来たバスに乗り込み、無事、モールへと辿り着く。


「まず、どうする?」


 早速手持ち無沙汰となった俺は、とりあえず二人に案を聞く。

 こういうときにかっこよくリードできる男に憧れる。今の俺には到底無理そうだった。


「私の文房具なんてたぶんどこにでも売ってるし、琴音お姉ちゃんの用事済ませようよ」

「なるほどね。雑貨屋だっけ?」

「う、うん……」


 なぜか、返事をする国分寺の目は少し泳いでいた。

 そこから、ひたすら雑貨屋巡りが始まった。俺もよく行くようなところから、どの層向けなのかわからないごちゃごちゃとしたところ。果てには、俺一人では入りたくても入れないだろう、とても可愛らしい雑貨屋まで行った。しかし、どこにいっても国分寺が何かを購入することはなかった。


「どう? 琴音お姉ちゃん。良いなって思うのあった?」

「う、うん。あったにはあったんだけど……」


 あらかたの店をまわり終えたあと、妹が国分寺にそう訊ねる。どうやら、目当てのものは一応あったらしい 。

 ではなぜそのときに買わなかったのかが気になったが、そもそも、俺は国分寺が何を欲しがって雑貨屋を巡ったのかを聞いていないことに、ここでようやく気付いた。


「……そもそも、何を探してるんだ?」

「…………」


 探し物を訊いたのに、国分寺から返事は来なかった。

 どうしたんだと目を向ければ、なにやら頬を染めて口を結んだまま、少々俯き加減になっている。


「…………るみ」

「え?」


 そして口を小さく開くと、ごにょごにょと何がしか言う。しかし残念ながら、俺の耳までは何を言ったのか届かなかった。思わず、俺が聞き返すと、


「ぬ、ぬいぐるみ。部屋に欲しいなって……」


 顔を真っ赤にして、もう少しで涙まで浮かんでしまいそうな顔でそう言うと、完全に俯いてしまう。

 そんな様子をじっと見ていた俺と妹。

 うむ。これはなんというか、その……


「か、かわいい……」


 妹が俺の思ったことを隣で呟く。あまりにもタイミングがよかったため、もしや思わず俺の口から出てしまったのかと少し焦った。


「お、お兄ちゃん。すごい。すごいかわいいよ。私、女なのにドキドキしちゃうよ」


 またもや俺の袖をくいくいと引きながら戦慄せんりつの表情でそんなことを言う妹。国分寺の可愛さが行き過ぎて恐怖すら感じていることを、妹の表情は物語っている。


「うん。まぁ、たしかに今のは……かわいいな」


 しかしさすがの俺も思わずそう口に出す。普段は照れ臭さからなかなか女の子を誉められない俺も、今の仕草にはかなりグッと来るものがあった。感想をこらえきれなくても、誰が責められようか。

 その間にも国分寺は熱くなった自分の頬を両手で包んで「うぅ~」と唸っている。部屋にぬいぐるみがあることを暴露するのがそんなに恥ずかしかったのだろうか。謎である。


「あ、う、そうだ。えっと、ごめんね? 私の用事でいっぱい歩かせちゃって……」

「ん? あぁいや、全然……」


 少しして、正気に戻ったらしい国分寺がそう言ってきた。まだ顔は赤いし、言葉が少したどたどしい。


「ちょっとだけ、休憩しない? その辺の椅子にでも座ってさ」


 休憩用として置いてあるベンチを指差しながら、国分寺はそう提案してくる。

 言われれば確かに、少しだけ足に怠慢感がある。あまり運動しないタイプであろう女の子二人は、もしかしたらもっと疲労が溜まってるかもしれない。言われなければ気付けなかったことが少し悔しい男の子の俺。


「はい、はい! 休憩するなら、私フードコートにあるたい焼き食べたい!」


 俺がそんなことを考えて、一人後悔の念にさいなまれていると、元気に手をあげた妹がたい焼きを食べたいと言い出す。

 確かに、少し甘味が欲しくなる疲れ具合であった。


「俺は別にいいけど、国分寺は?」

「私? 私も賛成だよ。フードコートなら遠慮なく休めるし」


 俺も甘いものが食べたい気分ではあるので、妹の提案に賛成する。もちろん、国分寺にもそれでいいかと確認をすると、彼女も笑って了承してくれる。

 それにしても、遠慮なく休みたい程度には疲れているようである。なんだか、気付けなかった自分がさらに申し訳なく感じる。


「でも、たい焼きでいいの? 洋菓子が好きならそう言っておいた方がいいかもよ」

「私、和洋どっちも好きだから! それにフードコートにはシュークリームもあった気がするから、それは着いてから考えても良いと思うしね」

「あぁ、そっか。それは確かに」

「…………『国分寺』?」

「ん?」


 俺と国分寺がそんな会話をしていると、妹の声が合間に差し込まれる。その声は、さっきまでに比べて、かなり暗いトーンであった。


「『国分寺』って、呼んでるの?」

「…………」

「……千歳ちゃん?」


 思わず目を向けた先には、手を強く握り、俺のことを少し睨みながら、そう訊いてくる妹がいた。

 妹のそんな様子に、また、なんでそんな表情をしているのかわからなくて戸惑った俺は、その言葉にうまく返事をすることができない。

 国分寺も、ただならぬ妹の様子を目にして、動揺しているようだ。


「家では、『琴音』って呼んでるのに……」

「え、そうなの?」

「…………」


 しかし、妹の次の言葉によって、今までは一緒に戸惑っていたはずの国分寺まで、俺をじっと見つめてくる。なんだ、この状況は。

 とにかく、なにかを言わなければと思った俺は、頭の中がまとまりきっていないまま、急いで口を開く。


「いや、その。なんというか……この歳になって女の子を下の名前で呼ぶのは抵抗があると言うか、なんか、恥ずかしいし、馴れ馴れしいかなって思って……」

「………………ふぅーん」


 しどろもどろになりながらも、なんとか言い訳を重ねた俺を、妹はいぶかしげに目を細めてじっと見てくる。

 気まずくて、思わず俺は目をそらす。


「まぁ、いいやっ」


 そう言うと、妹はくるっと反転して、俺に背を向ける。


「はやくフードコートいこっ! たい焼きが私を待ってる!」


 機嫌が直ったのか、それとも無理をして明るく振る舞っているのか。とにかく妹は気持ち大きめの声でそう言うと、一人歩き出す。


「……一体なんだったんだ?」


 俺もポツリとそう呟いてから、その背中を追って歩き出す。そんな俺の横に、国分寺はぴったりとついてくる。そして、


「ちなみに私は、『琴音』って呼ばれても気にしないよ?」


 と、俺のことを横目で見ながら言ってくるのだった。


「…………うん」


 どう返せば良いのかわからなくて困った俺は、短くそう返事をする。

 なんか、女の子って怖い。と、そう思った。

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