第5話

 学校からの帰り、駅までの道を、小日向と肩を並べて歩く。

 隣の小日向は何が楽しいのかニコニコとした笑顔で、鼻歌なんてものも歌っている。何の歌かは不明だが、おそらくそんなに上手じゃない。

 俺は俺で歩きながらピコピコと携帯をいじっている。


「先輩。ながら歩きは危険ですよー」


 そんな俺をちらりと見た小日向は咎めてくるが、相変わらず楽しそうな笑顔なため、いまいち責められている気はしない。


「悪い悪い。妹に連絡しとかなきゃだからさ」


 そう言って送信ボタンを押す。今頃家では「ピョロロロロ」と鳥の鳴き声が響いているのだろうか。


「……」


 携帯を定位置の胸ポケットにしまっても、しばらく沈黙が流れる。沈黙と言っても、会話がないだけで、相変わらず下手くそな鼻歌は途切れ途切れに聞こえ続けている。

 不思議と、気まずくは無い。


 そのうち、駅に着く。

 同じ中学、つまり同じ学区に住んでいる俺と小日向は、同じ方向の電車を無言で待っている。あと3分後には次の電車が来るようだ。


「……結局、先輩は何でサッカー部を辞めたんですか?」


 ホームで電車を待っていると、流石に駅に着いてから鼻歌を止めて、黙っていた小日向が意を決したように俺に訊ねてくる。


「……うーん。なんというか。喧嘩かな」

「喧嘩、ですか?」

「うん。顧問との喧嘩」


 昼休みの小日向事件からサッカー部を辞めたときのエピソードを少し思い返していた俺は、一瞬の逡巡のあと、大人しく質問に答える。

 丁度その時電車が来て、俺らは乗り込む。


 喧嘩のきっかけは、なんだったのだろうか。

 まだあまり時間は経っていないのに、いまいち思い出せない。

 ただきっと、顧問の虫の居所が悪かったのだろう。そして、俺もきっと機嫌が悪かった。

 何が原因かは覚えていないが、きっと些末なことだったろうことは、なんとなくわかる。

 ただ、売り言葉に買い言葉でどんどんヒートアップした俺と顧問の言い合いは、ついに顧問から「お前は二度とレギュラーにしない」というセリフを引き出した。

 完全にトサカに来ていた俺も、「上等だ」と啖呵を切って、「こんな部は辞めてやる」と言い残して部室を去った。それ以来、サッカー部の部室がある部室棟には近づいていない。


 もともと、サッカーにそこまで熱が入っていたかと訊かれれば、その答えは否だ。

 テレビで放送されていたプロサッカーの試合だって、気が向いたら見る程度。あとは話題合わせのために、朝のニュースでダイジェストを見るくらいだった。

 「プロになりたい」なんて想いも、一瞬だって抱いたことは無い。


 サッカー部を辞めたことを後悔しているかと訊かれても、答えは否だ。

 どっちにしろ、あの顧問と俺は相性が悪かった。

 なんでも「気合」で済まそうとする時代錯誤の教育方針に、不満を抱かない日は無かったくらいだ。

 遅かれ早かれ、俺はサッカー部を辞めただろうと、今も思う。


「……なんか、もったいないです。先輩、中学の頃ウチの部で一番上手だったのに」


 ぼうっと流れる景色を眼で追いかけていると、俯き加減の小日向がそんなことを呟く。


「……そんなこと、ないだろ」

「あるんですよ。先輩にあこがれてサッカー部に入った人だって、結構いるんですよ?」

「え……。マジ?」

「マジです」


 初耳だった。


「そういうとこ、ですよ」

「は?」


 ぱちくりと瞬きして本気で驚いている俺を見て、小日向はそんな言葉を口に出す。

 よく意味が分からない俺は、思わず聞き返す。


「そういう、自分の力を誇示しないところが、きっとみんな、かっこいいなって思ったんですよ。誰よりも上手なのに、そのことに自分が本気で気付いていないような感じが、不思議な魅力だったんです」

「いや、自分のこと一番上手いとか思ってるヤツいなくない?」

「結構いますよ。変にプライドだけ高い人」

「あー……」


 言われてみれば、結構いるかもしれない。


「……なんか、そんなに褒められると照れるな」

「本当に照れてますか?」

「照れてる照れてる」

「……」

「小日向?」


 そこまで話すと、小日向は口をきゅっと結び、少し視線を彷徨さまよわせる。

 いぶかしげにその様子を見た俺が思わず名前を呼ぶと、


「でも、その先輩の魅力は、きっと……」


 と、小さな声でつぶやいた。

 その言葉の続きは、いくら待っても小日向の口から出てきてはくれなかった。


「きっと、なんだよ?」


 ここまで出てきたら続きが気になるというのが人間だろう。俺はそう言って続きを促す。

 しかし、俺のその言葉を受けた小日向はぱっと顔を上げてニッと笑うと、


「何でもありません! 変な話してすいませんでした」


 と、今までの声量よりはるかに大きい声で、言い放つ。

 狭い電車の中に、小日向の声がこだます。


「…………はぁ?」


 気になるところで切り上げられた俺は、当然納得がいかない。


「電車の中、あっついですね。もう春なんだから、暖房付けなくてもいいのに」

「え、あ、本当に終わりなんだ? そうだね、たしかに暑い」


 本当に今までの話と180度違う話を繰り出す小日向に狼狽うろたえて、別の意味でも変な汗が流れる。

 小日向はそんな様子の俺をじっと観察すると、ニヘラと変な笑い顔をする。


「なんか、先輩の戸惑ってるとこ、初めて見ました」

「…………」


 いや、昼休みもかなり戸惑ってたから。


   ◇ ◇ ◇


 それからも、取り留めのない会話をしながら電車に揺られる俺ら。

 その後小日向は、俺の最寄駅よりも一つ手前の駅で降りて行った。

 そっちの駅の方が家に近いのだという。

 同じ中学の学区なので、当然同じ駅を使っていると考えていた俺は、少し意外に思う。


 家に着くと、もう母親も帰ってきているようで、靴が玄関に置いてあった。


「おかえり、今日は遅かったね」


 妹は、甲斐甲斐かいがいしく俺を出迎えてくれる。


「小日向が俺の部活に殴りこんできてさ」

「あー……」


 これだけの言葉でそのめんどくささが通じてしまう、悲しい存在、小日向咲良。


「おかえりー。母ちゃんも今帰ってきたとこだから、みんなで一緒にごはん食べようぜい」


 リビングまで足を運ぶと、前に妹がぐでっとしていたソファの全く同じ位置で、母親もスーツ姿でぐでっとしていた。


「ただいま。そんでおかえり。まずスーツ脱げよ。皺になんぞ」

「かったいなぁ。誰に似たんだ?」


 母親はそんなことを言ってはははと笑っている。

 スーツに皺が付いたらアイロンがけをするのは妹なので、なんだか少しイラッとする。


「ほら、お兄ちゃんもお母さんも早く着替えてきて! ごはん暖めとくから!」


 そこに登場した妹が、そう言いながら俺をぐいぐいと階段の方に押す。

 たまにこのように食卓に三人が揃うと、妹のテンションは目に見えて上がる。

 今日もどうやら例に漏れず上機嫌なようで、俺を押す顔はニコニコと笑っている。


「はいよー」

「うーい」


 俺と母親は二人して気だるげな返事をして、自室に行く。

 返事の仕方が完全に親子だった。



「今日も話せなかったよ」

「あー、やっぱり?」

「というか、小日向に振り回された一日だった」

「なになに、何の話?」


 夕食を取りながら、いつも通り国分寺と話す云々うんぬんの話を妹としていると、母親が首を突っ込んでくる。


「お兄ちゃん、琴音お姉ちゃんと同じクラスになったんだって」

「お、なーに。告んの?」

「なんでそうなるんだよ」


 意味不明な飛躍の仕方だった。


「最近疎遠だからさ、また仲良くなろうと頑張ってもらってるの」


 妹はそんな母親にもしっかりと簡潔に説明する。

 本当によくできた妹だ。惚れ惚れするね。


「へーえ。なるほどねぇ。いいねぇ、青春青春」


 それに対する母親の反応は適当だった。



 食後、皿を洗った俺はまたもやソファでぐでっとテレビを見ている母親の隣に座る。

 皿洗いは俺の仕事だった。というか、これくらいはさすがにやらせてくれと、昔、妹に頼み込んだ。

 ちなみに、妹は現在風呂に入っている。


「……」


 無言。テレビの中では一人の男を複数の女が取り囲んでいて、あろうことかその男は「やれやれ」とため息をついている。ありきたりな反吐が出るストーリーだった。


「最近は、どう?」


 番組が一区切りついた頃、母親の口から、思わずこぼれたようにそんな言葉が飛び出す。


「……どう、とは?」


 その言葉の真意が良くわからない俺は、取りあえず聞き返す。


「千歳と、うまくやれてる?」


 どうやらつまりは、そういうことだった。

 なんだかな、と思う。

 心配するんだったら、もう少し家に居る時間増やせよ、とか、妹の負担を減らせるよう、もうちょいうまく立ち回れよ、なんて不満だったら、いくらでも出てくる。

 でも、それを言ってどうなるのだろうか。実際に、母親と同じように妹の世話にあやかっている俺に、そんなことを言う資格なんてあるのだろうか。


「……うん。うまくやってるよ」


 だから結局、そう返すしかないのだ。

 ままならない。

 なんだか、もやっとする。身体の奥が。


「そか、よかった」


 それっきり、妹が風呂を上がるまで母親との会話は無かった。

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