オルタナティヴ曼荼羅イノベーション

isa

サハリン州

 学校帰りに虹を見た。とても綺麗で大きな虹だった。その根元では大きな砂埃が舞っていて、数秒遅れてから地面を大きな揺れが襲った。

「虹が着弾した」

 全身を銀色のタイツに包んだ中年オヤジがそう言って、足を震わせながらその場を去った。サンマの頭が飛び出た買い物袋を提げた主婦も手で太陽光を遮ってその方を見て、「大変、あっちのスーパーが潰れちゃったわ」などと呑気な事を言っていた。

 しばらくすると、報道のヘリや消防車が通りに殺到した。砂煙はもくもくと立ち上って、やがて黒煙も上がり始めた。

 僕はただそれを黙って見ていた。好きだったクラスメイトの女子が体育倉庫の中で一年上の先輩とセックスしていたのを目撃した事などほとんど忘れてしまっていた。少なくとも、彼女の陰部の細かいディテール等は忘れてしまった。きっとモザイクというものは人間の記憶の脆さや儚さを表したものなのだろう。よく憶えておこうと思ったものほど、自分の中の過剰な演出によって記憶が塗り替えられてしまうのだ。


 スーパー諸共商店街を一つ吹き飛ばした虹は、気付けば夕焼けに染まる空に消えていた。報道のヘリのローター音だけが響いて、立ち止っていた人々もそれぞれ進んでいた方向へ進み始めた。




「今日、虹を見たよ」

 家に帰って、僕は着替える前にダイニングの椅子に座る妹にそう言った。椅子に縛り付けられて布を噛まされ目隠しをされた妹は小さく首を横に振った。部屋は屎尿の臭いが充満している。僕が窓を開け放つと、むわっとした空気が一度に動き始めた。

 五人目の妹はなかなかにしぶとかった。一人目は一日で溶けてしまい、二人目は頭が捥げるまで首を振って死んだ。三人目は家を留守にしている間に脱走し、四人目は開いていた窓の隙間から入り込んだ野良猫に腹を食い破られて殺されていた。

 五人目の妹はまだ生きていた。六人目も七人目も待っているが、まだまだ五人目は死ぬ気配を見せない。

「綺麗な虹だった。どんな雨が降ったらあんな虹が生まれるんだろう」

 窓の外の空を見上げる。オレンジに染まった空。

 振り返ると、妹の後頭部がぱっくりと割れて、中から大きな蛾が這い出ていた。それはぷるぷると震えながら羽を伸ばし、飛び立つ前に床に落ちた。妹の屎尿の上にべちゃりと落ちて、アイスのように溶けて消えてしまった。




■  ■




 彼女は風紀委員だ。スカートの長さや頭髪など、風紀の乱れを正すのが彼女の役目だ。

 しかし、そんな彼女は体育倉庫の中で乱れていた。性の乱れだ。コンドームは使っていなかった。他の細かい事は憶えていない。ただその羨ましさと失望だけが頭の中にあった。

 授業中は彼女の背中を見つめる事になる。薄いシャツに浮き出るブラジャーのライン。長い髪から覗く白い首筋。その首筋に小さな痣を見つけて、僕はやるせない気持ちになった。

 あの男は、こんな彼女の細い体を玩んでいたのだ。胸を揉み上げ、股を合わせて絡み合っていたのだ。ふつふつと怒りや欲望が湧きあがるが、それもずずんと響く振動で霧散してしまった。

「また虹が落ちた」

 誰かがそう言って、僕も彼女も窓の外を見た。僕の家の方で砂埃が上がっていた。


 家のあった場所には大きなクレーターが生まれていた。白い防護服を着た作業員がその穴の中で五百六十八体の妹の死体をかき集めていた。手足はばらばらで、近くの電柱に腸が引っ掛かっている。綺麗な色だった。

「君、ここの人?」

 全身を銀色タイツに包んだ中年オヤジがそう訊いて、僕は頷いた。すると、彼は袖から名刺を一枚取り出して、

「私はね、あの虹を調査してるんだ」

 名刺には『シルバーリフォーム株式会社』と書かれていた。僕はそれは見なかった事にして名刺をズボンのポケットに押し込んだ。

「君の妹さんは残念だったね」

 男はそう言ってクレーターの死体の山を見た。僕もその方へ顔を向け、

「いいんです。夏になれば祖母の住む山梨にいくらでも生えてきますから」

「ご両親は頑張ってるのかな」

「ええ、とっても」

 男は煙草を取り出し、僕に一本勧めた。僕がそれを拒否すると、彼はそれを鼻に差して火を点けた。

「間違っていないよ。薬物だって鼻から吸引するのがあるだろう? それと同じだ。鼻から吸った方がね、クるんだよ。ふふ」

 彼は反対の鼻の穴から煙を吐いてそう笑った。煙草の巻紙の側面には『多い日も安心』と書かれていた。

「そう、私はあの虹の謎を追ってるんだ。あの虹がどこから生まれて何をするのか。それに興味がある」

「僕には関係ないです」

「いや、わからない。君が欲情すると、あるいは虹が落ちるのかも」

 嫌に具体的で、僕は背筋がぞっとした。男の目は笑っていなかった。

「君が彼女に欲情すると、虹が落ちる。考えてもみたまえ。あの虹が初めて落ちたのは、彼女が教室で着替えているのをドアの隙間から見てしまったあの日だろう。虹が落ちた衝撃で気が緩んだ彼女の胸を見てもう一発落ちた。あの時はひどかった。この町の五パーセントの人間が死んだ。その五パーセントの内の九十八パーセントは君の妹だったがね」

「僕の妹は何人いるんですか?」

「それは関係ない」

 夏になれば増えるだろう。そう言われ、僕は納得した。そして、この男はどこまで僕の事を知っているのだろうと、今更になって得体の知れない恐怖が湧きあがった。

「困るんだよ、実に困る。君が彼女の事を考えて自慰をする度に知らない誰かが死ぬんだ。ああやって電柱に腸や腕が引っ掛かるから、政府はついに公共事業として電柱掃除を始めた。かのメリー・ポピンズの子孫たちが、だ」

「電柱も掃除できたんですか」

 そう訊くと、男は鼻から煙草を引き抜いて、

「高い所にあって細くて長ければ、彼女らはなんでも掃除する。穴の有無は問わずにね」

 それはそうと、と彼は咳払いを一つ。僕は頭が痛くなってきた。白い防護服の作業員は、げらげら笑いながらばらばらになった妹で遊んでいる。写真を撮ったり、踏みつけたり、千切れた腰から下でラインダンスを踊らせたり。

「君を調べれば虹の正体が判るかもしれない。だから連行させてもらうよ」

 そう言った男の腕に手錠が掛かって、男は何人かの白衣の男達に拘束されて黄色い救急車に乗せられていった。




■  ■




 彼女の背中はとても煽情的だ。このシャツから見えるブラジャーも、彼女は体育倉庫の中では脱ぎ散らかしているのだと思うと、居ても立ってもいられなくなる。この小さな唇があの男のナニを咥えているかと思うと、それだけで虹が落ちそうだ。落ちた。

「あー、駅が吹き飛んだ」

 誰かがそう言った。誰が? 誰だ。

「駅が吹き飛んだよ」

 前に座る彼女がそう言って、こちらを向いた。暑い教室。彼女の額に玉のような汗が浮いている。汗でシャツが透け、ブラジャーが見える。その下は見えない。その先端が何色をしていたのか思い出せない。記憶にモザイクが掛かる。思い出そうとしても虹は落ちない。僕の記憶は劣化し、欲情もできない。

「ねぇ、この前体育倉庫で先輩とセックスしてたの、見てたでしょ」

 彼女は薄らと笑ってそう言った。僕はどきりとする。虹が落ちる。

「知ってたよ。それを見て、君もシてたんでしょ」

 虹が落ちる。誰かが口笛を吹いた。橋を砕き、高圧鉄塔を薙ぎ、川を堰き止める。

「どうだった?」

 顔が近い。虹が落ちる。落ちる。流星群のように虹が落ちる。その昔、第二次世界大戦でソビエト連邦が使用したBM-13という自走ロケット砲があった。通称を『カチューシャ』というそれはトラックの荷台にロケット発射レールを搭載しただけの簡単な構図であったが、それ故に数が多く、無数に降り注ぐロケット弾にドイツ兵は恐怖した。その独特な発射音から、カチューシャは『スターリンのオルガン』と呼ばれ畏怖されていた。

「興奮した? 興奮したでしょ? ねぇ、そうでしょ? 今もしてるんでしょ?」

 落ちる。落ちる。家を吹き飛ばす。庭に繋がれて吠える犬も足と胴体を切り離して内臓を飛び散らせる。空を見上げる子供も吹き飛ばす。瞬間的に三百気圧まで達するその衝撃波に飲まれた子供は皮膚や筋をずたずたに裂かれて骨を砕かれ内臓を破裂させ腹膜を破って死んだ。

 主婦の買い物袋に突き刺さったサンマも一瞬ですり身になる。

「全部知ってたんだ。私の事をエロい目で見てるのも。知っててやったんだ」

 虹が落ちる。校庭を穿つ。衝撃波で割れたガラスが教室の中を舞って、すぐ近くで外を見ていたクラスメイトの頭に突き刺さった。彼女の体にも突き刺さっていたが、彼女はにっこりと笑っていた。

「……こんなのって、ない」

 力なく呟いた僕の前で、彼女は変態した。毒のような色をした蛾になって、そのまま割れた窓から飛び出して行った。


 残った彼女の皮は、仮設住宅へと持って帰った。綿を詰めて抱いて寝ると、それだけで心地良かった。そしてまたどこかに虹が落ちた。






“Сахалинская область” Closed...

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る