セピア色の時代

 昭和は俺にとって、一秒たりとも過ごしたことのない時代であり、その時代に生きた人の伝聞でしか知り得ないものである。


 父もまた伝聞の存在だった。母親や周りの人の身の上話でしか父を知らない。


 昭和六十四年。たった三ヶ月しかなかったこの時期に父は死んだ。俺が生まれる三ヶ月前、二月のことだったらしい。

 そんな父の話を今日は久しぶりに聞いた。年末の繁忙期を乗り越えて実家に帰った時のことだった。


「あれから二十七年になるんだ。早いねえ」


 こたつ越しの母は、そんなことを呟く。乾いた髪を後ろで結っており、五十を過ぎたのにあまり皺のない丸顔が強調されている。

 今の年月を確かめるのは、昔の思い出話に入る前の母の常套句である。そしてその話に選ばれたのが、父との馴れ初めの話だ。


「父さんと出会ったのは、高校に入ったばかりの頃だったのよ」


 母が高校に行っていたのは昭和五十年代。まさに青春と共に過ごした時代だ。その頃になれば、洗濯機、テレビ、冷蔵庫など、生活に欠かせない家電は一通り揃っていた。しかしその中で、この現代に置いてもっとも必要なものがまだ流通していない。それはパソコンと、携帯電話である。


 その時代、意中の相手に電話を掛けるときは相手方の家へ電話をするしかなかった。相手方の親が先に出てしまってはバツが悪い。だから決まった時間に電話を掛けるとか、二回鳴らしてすぐに切り、その後電話を掛けるという合図を決めておかなければならなかった。その時点でも不便だなと思うが、母を取り巻く環境はその上を行く。


「私のお父さん、つまりあなたのおじいちゃんは町内会長でさらに厳格な人でね。高校卒業までは異性交流など認めぬ、とか言われて女子高に行かせられたの。だから男の人との縁なんてなかったわ。私もそういう色恋沙汰はないだろうなと諦めてた。でも高校一年の時、近所の夏祭りに参加した時のことよ。他校の生徒さんも参加していて、そこにあなたのお父さんがいたの」


 祭りの最中、母がハンカチを落としそれを拾ったのが、妹を連れて遊びに来ていた父。そこから二人は一目惚れして恋仲へと至った。恥ずかしくなるほどのベッタベタな出会いだ。

 何回かは相互に会うことはできたらしい。しかし時を重ねるごとに、だんだんとそれが厳しくなっていった。


「どこからか噂が出てね。おじいちゃんがそれを耳にしたらひどく怒って、門限が五時になってしまったの。そして今度一緒に男といるのを聞いたら、私用の外出は禁止にすると言われちゃって」


 絵に描いたような頑固親父である。

 これで二人っきりで会うことはできなくなった。なにせ祖父は町内会長。地域の情報網は侮れない。となると、頼りになるのは電話だ。


「電話もダメだった。家に掛かった電話はまずおじいちゃんが取って相手を確認するの。時間を決めたり、合図を決めても無駄ね」

「じゃあ卒業まで待ったの?」


 母は首を横に振る。


「そんなことをしたら、確実に気持ちは冷めていったでしょうね」

「ん? てことは頻繁に会っていた?」

「いや、毎週会話をしていたのよ。電話でね」

「どうやって?」

「ふふん。どうやってでしょうね。ちなみに電話は音が鳴るから、目を盗んで会話なんてできないからね」


 母は得意げに話す。


「普通にじいちゃんがいない間に電話を掛けたんじゃないのか?」

「違うわよ。おじいちゃんが帰ってくるのは不定期で、電話は玄関にあったから鉢合わせでもしたら大変よ。もっと確実な方法があるの。むしろいた時を狙って、ね」


 むしろいる時に? 


「答えはね。あともう少し経てばわかるんじゃないかな」

「えっ?」


 その時、玄関の方から明るい声が聞こえてきた。


「きたよー」


 母親がくすりと笑った。


「あら、もう来ちゃったわ。あんたは答えをもうちょっと考えておいてね」





「へえ、朋子さんがそんなことを」


 先ほど来たのは、父の妹である朋子さんだった。


「あの頃、朋ちゃんは八歳くらいだったわよね」

「そうです。今でも覚えていますよ。兄に頼まれて、義姉さんに電話を掛けたこと」


 電話のトリックはこうだ。まず小学生だった朋子さんが、母と話がしたいという旨を祖父に伝える。相手は幼い子供だ。祖父は警戒することなく母に電話を渡し、一方の朋子さんは父に電話を渡す。たったこれだけのことだった。

 友達の妹、知り合いの子とでもいえば、祖父は警戒することはなかっただろう。聞き耳を立てるようなこともしなかった。


 なるほど。会話さえ聞こえないようにすれば、一番安全な方法なのかもしれない。


 朋子さんがいなければ、俺は生まれなかったかもしれない。しかし、どうしてもそんな実感は湧かない。それは聞いただけで、経験したことのない事柄だからである。


 制限が多い生活の中で過ごす母や朋子さんを思い浮かべれば、それはセピア色に染まる。よく映画の回想シーンなどで使われるあの色だ。


「そうそう。これ、この前の旅行の写真よ」

「松島ですよね。見せてください」


 今二人は目の前で携帯を見ながらキャッキャと騒ぐ。昭和から平成という色に変えて、二人は今を生きている。


 それからは結婚の許しを得るのが大変だったこと。早い結婚で社会人生活が大変だったこと。年末番組を見ながら、死んだ父に関する話をいろいろ聞いた。


 そして年が明けようとする時間、厳かな除夜の鐘が鳴る。霊験あらたかな音と共に、父からはまた一歩離れていった。

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