第5話 西暦αωκε年 初めに言葉があった
例えばの話をしよう。
例えば、我々の暮らすこの三次元宇宙を贈答用のクッキー詰め合わせセットの箱だとする。
我々の定義する宇宙とは、複数のクッキーを種類ごとに並べるための仕切りで区切られた範囲の事を指す。
その仕切り、宇宙の壁としておこうか。これを壊して別の三次元世界へ移動することは実は意外と簡単なのだ。
空間の一転に許容できないくらいの力を詰め込むと、そこから『壁』の崩壊が始まる。『壁』は放っておくと修復されるので、別の三次元への旅行をしたいならある程度の期間、力をつぎ込む必要がある。
それに対してクッキーの箱そのもの、『三次元の壁』はどうあがいても破れない。というか我々の知覚では上位次元、四次元でいう四番目の構成要素が理解できないのだ。
そして逆に、我々は下位次元、二次元など知覚できるし、その世界を作り出すことができる。
例えばここに人物N・B・Aがいる。AをめぐってNとBが戦っている。この程度の事を考えただけで新たな下位次元が誕生したのだ。
そう、神とはつまり、より上位の次元に住む創造的思考を持つ存在のことなのだ。
こう言うとある種インテリジェントデザイン説に近いと思われるかもしれないが、最大の違いは我々を想像した神はこの世界にはいないし、次元の違う彼らを我々は認識すらできないということだ。
そして我々一人一人が世界=創作をできるように上位次元の存在もまた一人一人が下位次元を作り出せる。世界を運営できる能力をもった存在が複数いるという意味では多神教的であり、一つの世界を管理している絶対者がいるという意味では一神教的でもある。
初めに言葉があった。まさにただそれだけで世界は誕生するのだ。
であれば
我々はより上位の次元の存在が考え出した創作物にすぎず、より下位の次元の存在にとっての神である、というわけだ。
だからこそ善も悪も、神を信じるも信じないのも、当の神によってそう振る舞うように決められたことであり、神の干渉を認識できない我々が神について考えるだけ無意味極まりない事なのだろう。
では
ならば世界の終わりというのは、一つの作品が未完のまま放置されるようなものだろうか。
もし世界の最後とやらが訪れたのならばそれは万物の破壊による物質的な消滅ではなく、時間の流れ、この世を認識する意識の停止なのではないか?
こうしている今も我々の認識の外では世界の終わりは度々訪れ、続きが書かれた時だけ時間は進み、その分だけ我々は世界の存続を認識するのだとしたら?
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