第四話
同じ森を見ながら、遡った先が同じ過去ではなかったからなのか、あるいは他人事のように淡々としていたからなのか分からない。しかし、コントラルトはオイセルストの思わぬ一言に、ただ驚いて彼を見返すことしかできなかった。
「コントラルト。あなたは信じないかもしれませんが」
何か言うべきかどうか迷いあぐねていると、オイセルストが彼にしては珍しく気弱とも思える言葉を口にした。
「俺は、本当にあなたに救われたんです」
それは時折、オイセルストが冗談とも本気ともつかない態度で口にしていたことだった。自信過剰すぎるオイセルストが「救われた」と言うこと自体が嘘くさく思え、口説き文句のひとつとしてしか聞いていなかったが、この時ばかりは違うのだと、コントラルトにも分かった。
オイセルストはコントラルトの方は見ず、森をじっと見つめたままだった。
「あなたが《沈黙の森》を訪れなければ、俺は今頃生きていなかったかもしれませんから」
「……貴様が?」
《沈黙の森》が死に場所になるはずだったという一言といい、信じられない。驚いた顔でオイセルストを見ていると、オイセルストは森からコントラルトに視線を移し、そしてかすかに笑った。
「俺は、物心ついた時から強くなりたいと思っていました。そのため、早くから剣を振るようになり、長男ではなかったことが幸いして、わりあい簡単に修行と称して家を出ることができました。家を出てからは、高名な剣士に師事したり、あるいは決闘を持ち掛けたりして、とにかく腕を上げることだけを考えていました」
オイセルストは、フローセンから更に東の土地の名家シュナウツ家の次男である。腕を上げたい、強くなりたいならば騎士団に入れば良さそうなものだが、人に指図されるのは性分に合わないという男だから、旅をして腕を磨くことを選んだのだろう。オイセルストらしい選択だ。
「けれど、強くなることを求めるだけ求め、強くなるだけ強くなっても、何故強くなりたかったのか、俺はその理由を自分の中に見つけることができないということに、ある日突然、気が付きました。それから、強くなること自体が無意味なことに思えて仕方なく、自分の腕を磨くことに興味がなくなってしまいました」
オイセルストは、普段の自信過剰な物言いからは信じられないほど静かで淡々とした口調だった。コントラルトの知らない過去を語るオイセルストの横顔は、まるで別人のようだった。
「その頃には、俺を倒して名を上げようと挑みかかってくる人が少なくありませんでした。そんな彼らの相手をするのも煩わしくて、《沈黙の森》に住むことを決めました。けれど、人を避けたいと思う一方で、俺は期待していたんです――魔物が多く棲む森にいれば、いずれ俺を喰らうくらいに強い魔物に出会すのではないかと」
コントラルトは相づちを打つこともできなかった。
目の前で今、まるで他人事のように自分の過去を語る男は一体誰なのだろう。自分の強さは国で一番だと公言してはばからない男とは思えないほど、今の姿はもろく危うげに見えた。
「生きることさえ嫌になっていました。なのに、己の命を絶つ度胸はなく、いつか自分を倒せるような強い存在が現れることを待つことしかできませんでした。待つつもりだったんです――あなたが俺の前に現れるまでは」
オイセルストの澄んだ青い瞳が、まっすぐにコントラルトを見つめた。さっきコントラルトが感じた危うさが、消えてなくなっている。
「俺はあの時、《戦乙女》であるあなたと共に戦い、生きたいと思いました。それまで死にたいと思っていた俺を、あなたという存在が変えた……だから、俺はあなたに救われたんです、コントラルト」
にわかには信じられない話だと思った。オイセルストは容姿に優れ、更に騎士団有数の実力を持っている。自信過剰な性格はともかく、頭の回転が速く、先頭を切って戦う姿についていく部下も少なくない。望めば地位も名誉も、あっという間に手に入れることのできる男だ。
そんな男が語った意外すぎる一面。賞金首にされるほど一時は危険視された男が、死にたいと願っていたなんて、思いもしなかった。
オイセルストの過去をほとんど知らないコントラルトには、死さえ望んだオイセルストの心の闇が見えない。二年間、おざなりな会話も多かったけれど、オイセルストとは多くの言葉を交わしたつもりでいた。オイセルストの性格を把握するには十分なほどの付き合いはあったはずだ。それなのに、オイセルストの抱えていた闇を知らなかった自分に腹が立つし、オイセルストがかつてそんなことを考えていたということが悲しかった。だから、胸が痛い。
そんな自分が、本当にオイセルストを救えたのだろうか。
「今はもう、死にたいとは思いません。コントラルト、あなたのおかげですね」
微笑を浮かべ、オイセルストが言った。自信満々で不敵ですらあるいつもの笑みとは違う、本当にただ笑っただけの顔だった。
救うどころか、倒すつもりでコントラルトは《沈黙の森》に入ったのだ。救われたと言われ、笑顔を向けられる資格が自分にあるとは思えなかった。
「わたしは、何もしていない。そんなたいそうなこと」
「いいえ。あなたは確かに、俺を救いました」
コントラルトの言葉を遮り、オイセルストが断言する。
そのオイセルストの手が、コントラルトに伸びる。
腕をやんわりと掴まれて引き寄せられ、オイセルストの広い胸に顔を埋めて――
書斎の扉を叩く音が、コントラルトを正気に戻す。その次の瞬間には、コントラルトは戦場でも見せたことがないような勢いで、オイセルストの手が届かない距離まで飛び退いていた。触れる直前でコントラルトに逃げられたオイセルストは、虚しく宙を掴んでいる。そして、コントラルトのあまりの素早さに呆気にとられていた。
「コントラルト様。こちらにおいででしょうか――」
「そうかそれは大変だな。それならばすぐに行かねばなるまい。行くぞ、今すぐ行くぞ」
コントラルトは、扉を開けて顔をのぞかせた部下の言葉をろくに聞きもせず、さっさと歩いて書斎の扉へ向かう。部下が慌てて扉を全開にすると、そこからそそくさと出て行った。しかも、ほとんど駆け足のような歩調で。
「え、ええ? あの、ちょっとお待ちください、コントラルト様」
あっという間に置いて行かれた部下は、慌ててコントラルトの後を追いかけて行った。
○ ● ○ ● ○
オイセルストに対する認識が幾分か変化したのは、フローセンでの一件があってからだ。自信過剰気味の、しかし最強という称号を持つにふさわしい男が垣間見せた、その称号にまったく似合わない一面。普段が普段であるだけに、それはコントラルトの心にいやでも深く刻み付けられた。
あれ以来、だろう。オイセルストの所属する《蒼の冬月》が北の要塞へ遠征へ行く時、オイセルストが無事に、生きることを投げ打つことなく帰ってくるだろうかと気にかけるようになったのは。もちろん、それまでもそれなりに気にかけていた。オイセルストが元・賞金首でコントラルトにしつこいくらいに求愛してくるのを別にしても、同じ騎士であり仲間なのだから。
しかし、フローセンでの一件以来、単なる知人で仲間の騎士以上の心配をするようになっていた。
コントラルトに救われたと言っていたが、《沈黙の森》でのやりとりを何度思い返してみても、とても救ったとは思えない。だから余計に心配するようになった。本当は救われてなどいなくて、今でも戦場に立てばオイセルストは、自分を討ち滅ぼすような敵と相対することを望んでいるのではないかと。そしてそんな敵と遭遇した時、オイセルストは刺し違えるつもりで戦うのではないかと――
遠征を終えて凱旋してきた《蒼の冬月》の中にオイセルストの姿を最初に捜し、見つけてから無事であることを知ると、ようやく安心する。
そんな自分の感情や行動に名前があるとすれば、オイセルストが抱いているものと似ているのかもしれない。
似ているのかもしれないが。
「――今更、言えるものか」
「何が?」
思わず声になって出ていて、イルゼイに聞き返されてしまい、コントラルトは慌ててなんでもないと言い張った。
「まあ、とにかく意地なんか張らず、素直になれよ」
イルゼイは激励に来たのかなんなのかよく分からない言葉を残し、さっさとどこかへ行ってしまった。コントラルトはしばらくの間その後ろ姿を見送りながら、イルゼイの言葉を反芻していた。
オイセルストに抱いている感情を素直に認めるには、彼との出会いから時間が経ちすぎているように思う。今までのオイセルストとのやりとりを思い返せば、なおさら素直になることなどできない。
それでもイルゼイや周囲の者は遅くないと言うかもしれないが、コントラルトはもう手遅れだと思っている。よほどのきっかけ――それこそ今回の決闘のようなこと――でもない限り、オイセルストに対する態度を変えることはできないそうもない。
とことん素直になれそうにない自分に改めて気付き、コントラルトは一人密かに溜息をついた。
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